卒業式が近づいていた。
学校は、もうほとんど終わりの空気になっている。
三年生の教室には、以前のような賑やかさはない。
机の中を片づける者。
卒業式の連絡を確認する者。
進路の話をする者。
何となく教室を眺めている者。
授業らしい授業は、もうほとんど残っていなかった。
高瀬悠人も、自分の机に座っていた。
机の木目を見ていると、この教室で過ごした時間が少しずつ遠くなるような気がした。
もうすぐ卒業する。
その事実は、以前からわかっていた。
けれど今は、それとは別の言葉が頭の中に残っている。
記憶処理。
忘れる選択肢。
強制ではございません。
本人の意思を確認する形になります。
倉橋の声が、何度も思い返された。
あの日、伊集院邸の応接室で聞かされた話は、まだ現実味が薄い。
忘れる。
自分が。
伊集院レイの秘密を。
伊集院家の事情を。
これまでの確認を。
そう言われても、すぐに理解できるものではなかった。
悠人は、普段通りに過ごそうとした。
友人と話す。
卒業式の予定を確認する。
進路の話をする。
家に帰る。
部屋を片づける。
けれど、ふとした瞬間に考えてしまう。
もし忘れたら、どうなるのか。
伊集院と会っても、何も感じなくなるのか。
旧校舎の資料室を見ても、ただの古い部屋だと思うのか。
水族館の半券を見ても、なぜ持っているのかわからなくなるのか。
伊集院からもらったペンを見ても、ただのペンになるのか。
考えようとすると、うまく言葉にならない。
けれど、胸の奥がざわついた。
その夜、悠人は自分の部屋で机に向かっていた。
参考書は片づけた。
入試は終わった。
まだ結果待ちの部分はあるが、受験生としての大きな山は越えた。
机の上には、伊集院からもらったペンケースが置かれている。
悠人は、それを開けた。
中には、去年のクリスマスに伊集院からもらったペンが入っている。
進路希望調査を書いたペン。
受験会場へ持っていったペン。
試験で使ったペン。
ただの文房具ではない。
そう思ってしまう。
悠人はペンを取り出し、手の中で少し回した。
伊集院は言った。
受験期における筆記具管理の補助だ。
記念品だ。
ペンケースを渡した時も、そう言い張っていた。
それでも、悠人にはわかっていた。
伊集院は、自分が去年のペンを使っていることを覚えていた。
それを入れるものを選んだ。
受験の時に使えるように。
不器用で、遠回しで、言い訳だらけだった。
でも、気遣いだった。
悠人は引き出しを開けた。
中から、薄い紙を一枚取り出す。
水族館の半券。
いつか財布から出して、そのまま捨てずに入れていたものだった。
青い水槽。
クラゲ。
限定のゼリー。
伊集院が「確認として有意義だった」と言い張った日。
あの日の伊集院は、学校の伊集院くんではなかった。
伊集院家の者でもなかった。
ただ、水槽の青い光を見ている少女だった。
悠人はその光景を覚えている。
なぜ、半券を捨てなかったのか。
その時は、自分でもよくわからなかった。
今なら少しわかる。
捨てたくなかったのだ。
忘れたくなかったのだ。
引き出しの奥には、他にも小さなものが残っている。
クリスマスにブックカバーを買った時の包装の控え。
ホワイトデーの焼き菓子を選んだ店の小さな紙袋。
伊集院からもらったチョコの個包装の一つ。
残す必要などないものばかりだった。
それでも、残っている。
悠人は椅子にもたれた。
最初は、面倒だった。
本当にそうだった。
伊集院の秘密を知ってしまった。
資料室に呼び出された。
確認だと言われた。
秘密保持だと言われた。
退学という言葉まで出された。
何で自分が、と思った。
巻き込まれただけだった。
それは間違いない。
けれど、今になって高校生活を思い返すと、妙に伊集院との記憶ばかりが残っている。
旧校舎の資料室。
最初は冷たく感じた場所。
でもいつの間にか、紅茶が出るようになった。
菓子が置かれるようになった。
伊集院が「お茶会ではない」と言い張る場所になった。
喫茶店。
伊集院が紅茶を飲んでいたことを覚えている。
本屋。
伊集院が本を選ぶ姿を覚えている。
夏祭り。
ラムネに少し戸惑った顔。
射的の景品。
花火。
来年も確認できるな、と言えた夏。
水族館。
水槽の青。
クラゲ。
伊集院が少しだけ役割から降りていた時間。
雨の日の傘。
確認対象が濡れると困る、と言われた。
花火。
今年は遠くから見た。
忘れるほど前じゃないだろ、と言った。
伊集院は少し黙った。
クリスマス。
去年のペン。
今年のペンケース。
ブックカバー。
バルコニーの冬の空気。
バレンタイン。
去年のチョコ。
今年の個包装のチョコ。
糖分補給だと言い張る伊集院。
ホワイトデー。
去年の焼き菓子。
今年の焼き菓子。
嬉しかったから返したかった、と言った時の伊集院の顔。
受験前の確認。
普段通りに解答すればよい。
頑張れとは言わなかった。
でも、確かに応援だった。
悠人は思う。
自分はいつから、嫌々ではなくなったのだろう。
いつから、資料室へ向かうのを面倒だと思わなくなったのだろう。
いつから、机の中にカードがないことを少し寂しいと思うようになったのだろう。
はっきりした境目はない。
でも、途中から違っていた。
巻き込まれただけではなくなっていた。
自分で行っていた。
自分で覚えていた。
自分で返していた。
だから、今ここに小物が残っている。
だから、こんなにも思い出せる。
忘れれば楽かもしれない。
悠人は、あえてそう考えた。
伊集院家の秘密を抱えなくて済む。
卒業後、普通に大学へ進める。
伊集院が渡米しても、苦しくないかもしれない。
伊集院家の人間に見られることもない。
秘密を守る必要もない。
外部者として扱われることもない。
ただの高校生活として終わる。
それは、たぶん楽だ。
伊集院家が提示している選択肢は、脅しではない。
倉橋の言葉も、冷たかったわけではない。
高瀬の人生を守る。
その理屈はわかる。
知らなくていいことを知ったせいで、普通の卒業後に影が落ちるなら、忘れるという選択肢もあるのかもしれない。
それは間違っていない。
でも。
それは本当に、自分が望む普通なのか。
伊集院の秘密だけを忘れられるのか。
伊集院家の事情だけを消せるのか。
もし消したとして、資料室で過ごした時間の意味はどうなる。
水族館の青は。
夏祭りの花火は。
クリスマスのペンは。
受験の日に持っていったペンケースは。
ホワイトデーに返した焼き菓子は。
それらは、都合よく分けられるものなのか。
伊集院の秘密は、確かに負担かもしれない。
けれど、伊集院との記憶は、ただの負担ではない。
自分の高校生活の一部だ。
高瀬悠人自身の時間だ。
誰かに消してもらって、楽になるものではない。
悠人は、ペンをペンケースに戻した。
水族館の半券を引き出しにしまい直す。
そして、しばらく机の前で座っていた。
答えは、まだ怖かった。
忘れないと言えば、これからも秘密を抱えることになる。
伊集院家との関わりが残る。
卒業後の距離も、渡米も、何も解決しない。
それでも。
忘れたくない。
その言葉が、ようやく自分の中ではっきりした。
伊集院のためだけではない。
伊集院が悲しむからではない。
伊集院を守りたいから、というだけでもない。
これは、自分の記憶でもある。
自分が過ごした高校生活でもある。
だから、忘れない。
数日後。
合格通知が届いていた。
近隣大学への進学が決まり、高瀬家は少しだけ明るくなった。
だが悠人の中には、別の選択が残っていた。
悠人は倉橋に連絡を入れ、伊集院邸を訪れた。
門をくぐる時、前回よりも足取りは重くなかった。
軽いわけではない。
けれど、答えは決めていた。
案内されたのは、前と同じ応接室だった。
紅茶が用意されている。
窓の外には、三月の薄い光。
伊集院の姿はない。
予想していた。
それでも、部屋の中に彼女がいないことを確認すると、少しだけ胸が痛んだ。
倉橋が向かいに座る。
「高瀬様。本日はお越しいただき、ありがとうございます」
「いえ」
倉橋は静かに頭を下げた。
「ご意思をお聞かせいただけますか」
悠人は、一度だけ息を吸った。
そして、まっすぐに答えた。
「記憶処理は受けません」
部屋の空気が、静かに止まった。
倉橋は表情を変えなかった。
ただ、いつもより少し深く悠人を見る。
「よろしいのですか」
「はい」
「秘密を抱え続けることになります」
「承知しています」
「伊集院家との関わりが、今後も負担になる可能性がございます」
「それも、わかっています」
「レイ様は卒業後、渡米される予定です。距離も生じます」
「はい」
「高瀬様ご自身の大学生活にも、影響が及ぶ可能性がございます」
悠人は、そこで少しだけ目を伏せた。
全部わかっている、とは言えない。
これから何が起こるのか、本当にはわからない。
伊集院家の事情も、すべて理解しているわけではない。
だが、それでも答えは変わらなかった。
「それでも、自分で覚えていたいと思いました」
倉橋は黙って聞いていた。
悠人は続ける。
「最初は、巻き込まれただけでした」
自分で言いながら、少し苦笑する。
「正直、面倒だと思ってました。何で自分が、って」
倉橋は何も言わない。
「でも、途中からは違いました」
悠人は、手元の膝の上で指を少し握った。
「資料室に行ったのも、伊集院と話したのも、色々覚えていたのも、バレンタインに受け取って、ホワイトデーに返したのも」
一つずつ、言葉にする。
「途中からは、俺がそうしたかったからです」
言葉にした瞬間、胸の中が少しだけ軽くなった。
それは、ずっと考えていた答えだった。
「だから、都合の悪いところだけ忘れるのは違うと思いました」
「都合の悪いところだけ、でございますか」
「はい」
悠人は倉橋を見た。
「伊集院の秘密とか、伊集院家の事情とか、確かに重い話だと思います。知らなければ楽だったかもしれません」
「……はい」
「でも、それだけじゃないんです」
資料室の空気が、頭に浮かぶ。
遅い。
時間通りだ。
私より後に来た。
紅茶。
菓子。
確認用の紙。
伊集院の不器用な気遣い。
「伊集院との記憶は、伊集院だけのものじゃないです」
悠人は静かに言った。
「俺の記憶でもあるので」
倉橋の表情が、ほんの少しだけ動いた。
「高瀬様」
「はい」
「それは、レイ様のために、ということでしょうか」
悠人は首を横に振った。
「伊集院のためだけじゃないです」
すぐに答えた。
そこだけは、はっきりさせておきたかった。
「伊集院がどう思ってるかは、まだ聞いてません。忘れてほしいのか、忘れないでほしいのかも、本当のところはわかりません」
本当は、聞きたい。
けれど、今はそれを理由にしたくなかった。
「でも、俺は忘れたくないと思いました」
伊集院が望むからではない。
伊集院が悲しむからではない。
自分がそう思ったから。
「だから、記憶処理は受けません」
応接室に沈黙が落ちた。
倉橋はしばらく悠人を見ていた。
やがて、ゆっくりと頭を下げた。
「承知いたしました」
その声は、いつも通り丁寧だった。
だが、どこか深いものがあった。
「高瀬様のご意思として、確かに承りました」
「はい」
「このご回答は、伊集院家へ正式に伝えられます」
「わかりました」
「レイ様にも」
悠人は少しだけ息を止めた。
倉橋は続けた。
「伝わることになります」
「……はい」
伊集院が知る。
自分が忘れないことを選んだと。
その時、彼女がどう思うのかはわからない。
怒るかもしれない。
呆れるかもしれない。
確認対象として不適切だと言うかもしれない。
それでも、答えは変わらない。
倉橋は、さらに深く頭を下げた。
「高瀬様」
「はい」
「レイ様をお救いください、とは以前申し上げませんでした」
「はい」
「今も、その言葉を申し上げるつもりはございません」
倉橋は静かに言った。
「ですが、高瀬様がご自身の意思で覚えていることを選ばれた。そのことは、きっとレイ様にとって、大きな意味を持つと存じます」
悠人は、すぐには返せなかった。
救う。
そんな大きなことは、自分にはできない。
でも、覚えていることは選べる。
自分の記憶として。
「俺は、伊集院に忘れろって言われたら、どうするかも考えました」
倉橋が目を上げる。
「でも、それでも一度はちゃんと話したいと思っています」
「左様でございますか」
「はい。忘れるかどうかを決める前に、ちゃんと自分で決めたことを伝えたい」
倉橋は小さく頷いた。
「承知いたしました」
その後、形式的な確認が少しだけ続いた。
記憶処理を受けない意思。
今後の秘密保持。
卒業後の接触については別途確認。
伊集院家からの連絡。
悠人は一つずつ頷いた。
難しい話だった。
すべてを理解したわけではない。
けれど、逃げなかった。
応接室を出る時、倉橋が玄関まで見送った。
「高瀬様」
「はい」
「本日は、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「どうか、お気をつけてお帰りください」
「はい」
悠人は伊集院邸を出た。
門をくぐる。
外の空気は、前回来た時より少しだけ柔らかかった。
三月の夕方。
空は薄く、春が近づいている。
忘れないと決めたからといって、何かがすぐに解決するわけではない。
伊集院家の事情は残っている。
卒業後の距離も残っている。
伊集院が渡米することも変わらない。
自分の大学生活も始まる。
秘密を抱えることの重さも、これから知るのかもしれない。
それでも、高瀬悠人は選んだ。
あの資料室から始まった日々を、誰かに処理されるものにはしない。
最初は巻き込まれただけだった。
面倒だと思っていた。
でも、途中からは自分で行っていた。
自分で覚えていた。
自分で返していた。
だから、忘れない。
それは伊集院レイだけの記憶ではない。
高瀬悠人自身の高校生活でもあった。
悠人は、鞄の中のペンケースに手を触れた。
その感触を確かめながら、駅へ向かって歩き出した。