伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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伊集院レイは、忘れてほしくなかった

 倉橋が最初に告げたのは、高瀬悠人の進路だった。

 

 「レイ様。高瀬様より、進路についてご報告がございました」

 

 伊集院レイは、机の上の資料から顔を上げた。

 

 卒業後移行準備資料。

 外部関係整理に関する確認事項。

 

 ここ最近、見慣れてしまった書類だった。

 

 「……結果は」

 

 「近隣大学への合格が決まられたとのことです」

 

 レイは、一瞬だけ言葉を失った。

 

 近隣大学。

 

 以前、高瀬が進路希望に書いていた場所。

 家から通える範囲。

 学費も現実的。

 地元で学びながら将来を考えたい。

 

 高瀬らしい、堅実な選択。

 

 彼自身が決めた進路。

 

 その先へ、高瀬は進む。

 

 「そうか」

 

 レイは言った。

 

 「はい」

 

 「ならよい」

 

 その言葉は、以前と同じだった。

 

 高瀬から受験が終わったと電話で聞いた時も、レイは同じように言った。

 

 ならよい。

 

 短く、そっけない言葉。

 

 だが今回は、その奥に確かな安堵があった。

 

 高瀬は、自分で選んだ進路へ進む。

 それだけは、まず守られた。

 

 伊集院家の事情とは別に。

 レイの秘密とは別に。

 高瀬悠人自身の未来が、一つ決まった。

 

 それは、嬉しいことだった。

 

 本当なら、おめでとうと言えばよいのだろう。

 

 普通の同級生なら、そうする。

 

 けれど、レイの口からはその言葉が出てこなかった。

 

 倉橋が静かに言う。

 

 「お喜びになられてもよろしいかと存じます」

 

 レイは眉を寄せた。

 

 「……報告を確認しただけだ」

 

 「左様でございますか」

 

 倉橋はそれ以上言わなかった。

 

 だが、その声にはわずかな含みがある。

 

 見透かされている。

 

 そう感じて、レイは資料へ視線を戻そうとした。

 

 しかし、倉橋はまだ下がらなかった。

 

 「もう一点、ご報告がございます」

 

 レイの指が止まった。

 

 机の上のペン。

 紅茶のカップ。

 読みかけの資料。

 

 そのすべてが、急に遠くなったように感じた。

 

 「何だ」

 

 「記憶処理について、高瀬様よりご回答をいただきました」

 

 その言葉を聞いた瞬間、レイの胸が強く締めつけられた。

 

 高瀬は、選んだ。

 

 もう、選んだのだ。

 

 「……そうか」

 

 声は、自分でも硬かった。

 

 「高瀬様は、記憶処理を受けないとお答えになりました」

 

 部屋の中が、静まり返った。

 

 レイはすぐには動けなかった。

 

 喜びではなかった。

 

 最初に来たのは、混乱だった。

 

 次に来たのは、怒りに近い何かだった。

 

 なぜ。

 

 なぜ、そうした。

 

 忘れればよかったのではないか。

 

 忘れれば、伊集院家の事情から離れられたかもしれない。

 

 自分の秘密を抱えずに済んだかもしれない。

 

 普通の大学生活へ進めたかもしれない。

 

 高瀬は、近隣大学に合格した。

 

 自分で選んだ進路へ進める。

 

 その彼が、なぜわざわざ重いものを残す道を選ぶのか。

 

 「……なぜだ」

 

 レイは、ようやくそう言った。

 

 倉橋は静かに答える。

 

 「高瀬様は、ご自身の記憶でもあると仰いました」

 

 「自分の、記憶」

 

 「はい」

 

 倉橋は一拍置いて続けた。

 

 「伊集院様との日々は、レイ様だけの記憶ではない、と」

 

 その言葉は、鋭く胸に刺さった。

 

 レイ様だけの記憶ではない。

 

 高瀬は、そう言ったのか。

 

 自分がずっと胸の奥に押し込めていた願い。

 

 忘れてほしくない。

 

 けれど、言えなかった願い。

 

 それを、高瀬は自分の意思で選んだ。

 

 伊集院のためだけではなく。

 

 自分の記憶でもあるから。

 

 レイは、何も言えなかった。

 

 倉橋は深く頭を下げる。

 

 「高瀬様のご意思は、伊集院家へ正式に伝えられます」

 

 「……わかった」

 

 「レイ様」

 

 「何だ」

 

 「高瀬様は、軽いご様子ではございませんでした」

 

 倉橋の声は静かだった。

 

 「十分に考えた上で、お答えになったものと存じます」

 

 「……そうだろうな」

 

 それは、わかっていた。

 

 高瀬は軽く「忘れない」と言う人間ではない。

 

 きっと考えた。

 

 自分の進路。

 伊集院家の事情。

 秘密を抱えること。

 卒業後の距離。

 自分の未来。

 

 それでも、選んだ。

 

 だからこそ、苦しかった。

 

 倉橋が下がった後、レイは一人になった。

 

 机の上には資料が残っている。

 

 卒業後移行準備資料。

 

 外部関係整理に関する確認事項。

 

 高瀬悠人という名前を、そこに書類上の分類として置こうとするもの。

 

 その横には、別のものがあった。

 

 高瀬からもらった焼き菓子の包み。

 

 ホワイトデーに返されたもの。

 

 まだ全部は食べていない。

 

 本棚には、去年高瀬からもらった栞を挟んだ文庫がある。

 

 その文庫には、今年高瀬からもらったブックカバーをかけている。

 

 栞。

 

 ブックカバー。

 

 焼き菓子。

 

 確認記録。

 

 資料室の記憶。

 

 どれも、高瀬が忘れないと選んだものにつながっている。

 

 レイは本棚へ向かい、文庫を手に取った。

 

 本の中には栞がある。

 

 本の外にはブックカバーがある。

 

 内側と外側。

 

 どちらにも、高瀬がいる。

 

 そのことに気づいた時、胸が苦しくなった。

 

 高瀬は合格した。

 

 自分の進路へ進む。

 

 普通の大学生活へ向かう。

 

 その彼が、忘れないことを選んだ。

 

 忘れれば楽だったかもしれない。

 

 伊集院家の事情から離れられたかもしれない。

 

 レイの秘密を抱えずに済んだかもしれない。

 

 それなのに、高瀬は拒否した。

 

 伊集院のためだけではない。

 

 自分の記憶でもあるから。

 

 レイは文庫を握る手に力を込めた。

 

 嬉しい。

 

 そう思ってしまった。

 

 そのことが、さらに苦しかった。

 

 高瀬の未来を思えば、忘れた方がよかったのかもしれない。

 

 そう考えなければならないはずなのに。

 

 忘れないと選んでくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。

 

 「……馬鹿な」

 

 誰に向けるでもなく呟く。

 

 だが、否定できなかった。

 

 忘れてほしくなかった。

 

 その願いは、もう胸の中でははっきりしている。

 

 けれど、高瀬に言えなかった。

 

 言えば縛るから。

 

 高瀬の選択を、自分の願いで歪めるから。

 

 だから黙っていた。

 

 それなのに、高瀬は自分で選んだ。

 

 忘れないと。

 

 自分の記憶でもあると。

 

 レイは文庫を本棚へ戻した。

 

 そして、机の上の電話を見た。

 

 会わなければならない。

 

 高瀬と。

 

 確認ではない。

 

 いや、まだそこまでは言えない。

 

 けれど、このまま何も言わずにはいられなかった。

 

 レイは受話器を取った。

 

 番号は、もう覚えている。

 

 何度もかけた。

 

 水族館の前。

 年明け。

 確認。

 所在確認。

 行動確認。

 

 すべて確認と呼んできた。

 

 呼び出し音が数回続いた後、電話がつながった。

 

 「はい、高瀬です」

 

 「高瀬か」

 

 「伊集院?」

 

 「そうだ」

 

 電話の向こうで、少しだけ驚いた気配がした。

 

 「どうした?」

 

 レイは一瞬だけ言葉に詰まった。

 

 どうした。

 

 そんな普通の問いにすら、答えるのが難しかった。

 

 「明日、資料室へ来い」

 

 「確認か?」

 

 その言葉に、胸が小さく痛んだ。

 

 確認。

 

 ずっと使ってきた言葉。

 

 逃げ場にしてきた言葉。

 

 「……確認に近い」

 

 「近い?」

 

 「来ればわかる」

 

 高瀬は少しだけ黙った。

 

 それから、静かに言った。

 

 「わかった」

 

 それだけで電話は終わった。

 

 翌日。

 

 旧校舎の資料室は、三月の光の中に沈んでいた。

 

 窓から入る光は柔らかい。

 

 けれど部屋の空気は、いつもより少し重かった。

 

 レイは、いつもの席に座っていた。

 

 机の上には確認用の紙は置いていない。

 

 紅茶もない。

 

 小さな菓子もない。

 

 ただ、向かいの椅子だけがある。

 

 扉が叩かれた。

 

 「入れ」

 

 扉が開く。

 

 高瀬悠人が立っていた。

 

 いつものように、少しだけ鞄を肩にかけている。

 

 資料室に入ってくる姿は、もう何度も見た。

 

 だが、今日はいつもと違って見えた。

 

 高瀬は椅子の前まで来る。

 

 レイは、反射のように口を開いた。

 

 「遅い」

 

 「時間通りだ」

 

 「私より後に来た」

 

 高瀬は少しだけ笑った。

 

 「……それ、まだ言うんだな」

 

 「当然だ」

 

 そう言ったものの、声は少し硬かった。

 

 高瀬も、それに気づいたのだろう。

 

 椅子に座ると、すぐには冗談を続けなかった。

 

 「倉橋さんから聞いた?」

 

 レイは頷いた。

 

 「記憶処理のこと?」

 

 「そうだ」

 

 資料室に、沈黙が落ちる。

 

 レイは、高瀬を見た。

 

 前と同じ顔だった。

 

 秘密を知った日。

 資料室に呼び出した日。

 何度も確認に付き合わせた日。

 

 その積み重ねの先にいる高瀬。

 

 「なぜ受けなかった」

 

 レイは言った。

 

 思っていたより、責めるような声になった。

 

 高瀬は少しだけ目を伏せ、それから答えた。

 

 「考えて決めた」

 

 「忘れた方が楽だったかもしれない」

 

 「そうかもしれない」

 

 「伊集院家の事情に、君が付き合う必要はない」

 

 「必要があるかどうかは、俺が決めることだろ」

 

 その返答に、レイは言葉を失った。

 

 高瀬の声は静かだった。

 

 強く押し返すわけではない。

 

 だが、揺らがない。

 

 以前の高瀬なら、レイの言葉に少し困ったように笑い、引いていたかもしれない。

 

 でも今は違う。

 

 これは、高瀬が自分で選んだことなのだ。

 

 「君は、わかっていない」

 

 レイは言った。

 

 「わかってないこともあると思う」

 

 高瀬はすぐに認めた。

 

 「伊集院家のことも、全部知ってるわけじゃない。卒業後がどうなるかも、ちゃんとはわかってない」

 

 「なら、なぜ」

 

 「でも、忘れたくないことくらいはわかる」

 

 その言葉に、レイの呼吸が止まった。

 

 忘れたくないことくらいはわかる。

 

 高瀬は、静かに続けた。

 

 「最初は、巻き込まれただけだった」

 

 レイは黙る。

 

 「正直、面倒だと思ってた。何で自分が、って思った」

 

 「……当然だな」

 

 「うん」

 

 高瀬は頷いた。

 

 「でも、途中から違った」

 

 資料室の空気が、少しだけ震えたような気がした。

 

 「資料室に行ったのも、伊集院と話したのも、覚えてたのも、返したのも」

 

 高瀬は、一つずつ言葉を選んでいるようだった。

 

 「俺がそうしたかったからだ」

 

 レイは何も言えなかった。

 

 「伊集院のためだけじゃない」

 

 高瀬は、まっすぐにこちらを見る。

 

 「俺の記憶でもある」

 

 胸の奥が、強く揺れた。

 

 「だから、忘れない」

 

 その言葉は、倉橋から聞いたものよりも強く届いた。

 

 高瀬本人の声で聞くと、逃げ場がなかった。

 

 忘れない。

 

 伊集院のためだけではない。

 

 自分の記憶でもあるから。

 

 レイは、視線を落とした。

 

 机の上には何もない。

 

 確認記録もない。

 

 紅茶もない。

 

 それが、今の自分の逃げ場のなさを示しているようだった。

 

 「君は、本当に……」

 

 言葉が続かない。

 

 怒りたいのか。

 

 責めたいのか。

 

 礼を言いたいのか。

 

 泣きたいのか。

 

 わからなかった。

 

 ただ、胸の中にあった言葉が、もう抑えきれなくなっていた。

 

 「忘れた方がよかったかもしれない」

 

 レイは言った。

 

 「そうかもしれない」

 

 高瀬は否定しなかった。

 

 「伊集院家の事情を抱えずに済んだ」

 

 「うん」

 

 「私の秘密も、君の中から消せた」

 

 「うん」

 

 「卒業後、普通に進めた」

 

 「そうかもしれない」

 

 「それなのに、君は」

 

 声が震えた。

 

 それが悔しくて、レイは唇を噛む。

 

 「君は、どうして」

 

 高瀬は静かに答えた。

 

 「普通に進むことと、忘れることが同じだとは思えなかった」

 

 「……」

 

 「忘れないままでも、俺は俺の進路に進む。近くの大学に行く。自分の生活も始まる」

 

 「それは」

 

 「でも、その中に伊集院との記憶があってもいいと思った」

 

 レイは顔を上げた。

 

 高瀬は、少しだけ困ったように笑った。

 

 「うまく言えないけど。伊集院とのことを全部消して、それで普通ですって言われても、それは俺の普通じゃない気がした」

 

 その言葉は、あまりに高瀬らしかった。

 

 大げさではない。

 

 劇的でもない。

 

 けれど、芯がある。

 

 高瀬は、自分の記憶として選んでいる。

 

 レイを救うためではなく。

 同情でもなく。

 義務でもなく。

 

 自分の高校生活として。

 

 レイは、もう「確認対象」とは呼べなかった。

 

 少なくとも、今この瞬間は。

 

 「忘れろとは」

 

 声が小さくなる。

 

 「もう、言えない」

 

 高瀬は黙っていた。

 

 急かさない。

 

 いつものように、待っている。

 

 だから、レイは続けてしまった。

 

 「……言えなかったのは、忘れてほしくなかったからだ」

 

 言ってしまった。

 

 資料室の空気が、静かに変わる。

 

 レイは、自分の言葉を聞いてから、ようやくそれが本音だったのだと知る。

 

 忘れてほしくなかった。

 

 資料室も。

 

 夏祭りも。

 

 クリスマスも。

 

 バレンタインも。

 

 ホワイトデーも。

 

 水族館も。

 

 花火も。

 

 お茶会ではない確認も。

 

 ペンも。

 

 栞も。

 

 ブックカバーも。

 

 ペンケースも。

 

 全部。

 

 高瀬に覚えていてほしかった。

 

 だが、それを言えなかった。

 

 高瀬の選択を縛りたくなかったから。

 

 自分の願いで、彼の人生を重くしたくなかったから。

 

 レイは、目を伏せる。

 

 「卑怯だな」

 

 「何が?」

 

 「忘れてほしくないと思いながら、言わなかった」

 

 「うん」

 

 「そして君が選んだ後で、今さら言っている」

 

 「うん」

 

 「責めないのか」

 

 高瀬は少し考えるように間を置いた。

 

 それから言った。

 

 「責めることじゃないだろ」

 

 「なぜだ」

 

 「伊集院が言わなかった理由も、何となくわかるから」

 

 「わかったふりをするな」

 

 「してない」

 

 高瀬はまっすぐに返した。

 

 「全部はわからない。でも、俺の選択を縛りたくなかったんだろ」

 

 レイは答えられなかった。

 

 高瀬は続ける。

 

 「だから、俺も自分で決めた」

 

 「……」

 

 「忘れないって決めたから、ちゃんと聞ける」

 

 レイは高瀬を見た。

 

 高瀬は、いつものようにそこにいた。

 

 資料室の椅子に座り、逃げずにこちらを見ている。

 

 秘密を知った日から、ずっと。

 

 巻き込まれたと言いながら。

 面倒だと思いながら。

 それでも来てくれた。

 

 そして今、忘れないことを選んだ。

 

 「そっか」

 

 高瀬はそう言った。

 

 レイは眉を寄せた。

 

 「軽い返事をするな」

 

 「軽くない」

 

 「……」

 

 「ちゃんと聞いた」

 

 その言い方が、あまりに高瀬らしくて、レイはもう何も言えなかった。

 

 しばらく、二人は黙っていた。

 

 窓の外から、三月の薄い光が入っている。

 

 資料室の埃っぽい空気。

 古い机。

 向かい合う椅子。

 

 ここから始まった。

 

 正確には、秘密を知られた日から。

 

 だが、二人の関係が形を持ったのは、この資料室だった。

 

 確認という名の生活。

 

 それが、こんなところまで来てしまった。

 

 レイは、静かに口を開いた。

 

 「卒業式の日に、もう一度話す」

 

 高瀬が顔を上げる。

 

 「資料室で?」

 

 レイはすぐには答えなかった。

 

 資料室。

 

 ここは始まりの場所だ。

 

 だが、終わりの場所ではないのかもしれない。

 

 「……まだ決めていない」

 

 「そっか」

 

 「逃げるな」

 

 「逃げないよ」

 

 高瀬は静かに言った。

 

 その言葉に、レイは少しだけ救われた気がした。

 

 逃げない。

 

 高瀬は、そう言う。

 

 忘れないと選んだ人間の言葉だった。

 

 レイは立ち上がり、窓の外を見た。

 

 卒業式まで、あと少し。

 

 伊集院くんとしての時間も、あと少し。

 

 確認という言葉で隠してきた時間も、あと少し。

 

 次に話す時は。

 

 もう、確認では済ませられない。

 

 レイはまだ、その言葉を口にしなかった。

 

 だが、胸の中ではもう決まっていた。

 

 高瀬悠人に、もう一度話す。

 

 今度は、確認としてではなく。

 

 伊集院レイとして。

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