伊集院レイは、伝説の木の下で少女になる   作:エーアイ

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伊集院レイは、確認ではないと言う

 三月の学校は、もう終わりの空気をしていた。

 

 三年生の教室は、以前よりもずっと広く見える。

 

 机の中はほとんど空になっていた。

 ロッカーも、もう必要なものだけが残されている。

 黒板の端には、卒業式当日の集合時間と注意事項が書かれていた。

 

 それを見るだけで、卒業が本当に近いのだとわかる。

 

 高瀬悠人は、自分の席に座ったまま、教室を見回した。

 

 この教室に来るのも、あと数えるほどしかない。

 

 入試は終わった。

 近隣大学への進学も決まった。

 記憶処理についても、自分の答えは出した。

 

 忘れない。

 

 そう決めた。

 

 それでも、すべてが片づいたわけではない。

 

 伊集院家の事情は残っている。

 伊集院レイの卒業後のことも残っている。

 渡米のことも、連絡のことも、まだはっきりとは見えていない。

 

 そして、伊集院が言った言葉も残っている。

 

 卒業式の日に、もう一度話す。

 

 逃げるな。

 

 逃げないよ。

 

 その会話を思い出すたびに、悠人の胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。

 

 伊集院が何を話すつもりなのかはわからない。

 

 ただ、今までの確認とは違う気がしていた。

 

 だから、逃げない。

 

 そう決めている。

 

 放課後が近づいた頃、悠人は机の中を何気なく確認した。

 

 そこに、白いカードがあった。

 

 見慣れたカード。

 

 けれど、文面はいつもと違っていた。

 

 放課後、資料室へ。

 話がある。

 伊集院レイ

 

 それだけだった。

 

 悠人は、しばらくカードを見つめた。

 

 確認事項あり、ではない。

 

 受験終了確認でもない。

 卒業前確認でもない。

 体調管理でも、行動予定でも、糖分補給でもない。

 

 話がある。

 

 伊集院にしては、あまりにも直接的だった。

 

 「確認じゃないのか」

 

 小さく呟く。

 

 その言葉は、教室のざわめきに紛れた。

 

 けれど悠人には、その文面だけで何かが変わったことがわかった。

 

 放課後、旧校舎へ向かった。

 

 廊下は静かだった。

 

 三年生の登校日が少なくなったせいか、校舎全体が少し空いているように感じる。

 

 旧校舎へ続く廊下に入ると、空気が少し冷える。

 

 何度も歩いた道だった。

 

 最初に呼び出された時のことを思い出す。

 

 あの時は、面倒なことになったと思った。

 

 伊集院の秘密を知ってしまった。

 資料室に呼び出された。

 退学という言葉まで出された。

 

 正直、怖かった。

 

 それから何度もここへ来た。

 

 本当に確認のために。

 秘密保持のために。

 行動予定の確認のために。

 

 いつしか、紅茶が出るようになった。

 菓子が置かれるようになった。

 伊集院が「お茶会ではない」と全力で否定するようになった。

 

 進路の話もした。

 卒業後の話もした。

 記憶処理のことをめぐって向き合った。

 

 この場所は、最初は面倒な場所だった。

 

 でも今は違う。

 

 高瀬悠人にとっても、この資料室は高校生活の一部になっている。

 

 ここに来るのも、あと何回あるのだろう。

 

 いや、もう最後かもしれない。

 

 そう思うと、扉の前で少しだけ足が止まった。

 

 悠人は息を整え、扉を叩いた。

 

 「入れ」

 

 いつもの声だった。

 

 悠人は扉を開けた。

 

 伊集院は、いつもの席に座っていた。

 

 机の上には、確認用の紙がない。

 

 紅茶もない。

 小さな菓子もない。

 

 ただ、向かいの椅子だけが用意されている。

 

 それだけで、今日がいつもと違うのだとわかった。

 

 悠人が席に近づくと、伊集院は口を開いた。

 

 「遅い」

 

 「時間通りだ」

 

 「私より後に来た」

 

 いつものやり取り。

 

 けれど、悠人は少しだけ笑った。

 

 「そのやり取りも、今日で最後かもしれないな」

 

 伊集院の表情が、わずかに動いた。

 

 「最後と決まったわけではない」

 

 「でも、卒業するだろ」

 

 「……そうだな」

 

 その一言で、空気が変わった。

 

 伊集院は、いつものように強く否定しなかった。

 

 卒業。

 

 その言葉からは、もう逃げられない。

 

 悠人は椅子に座った。

 

 カードを机の上に置く。

 

 「今日は、確認事項あり、じゃなかったな」

 

 伊集院は少し黙った。

 

 視線が、カードへ落ちる。

 

 いつもの彼女なら、そこで「確認だ」と言ったかもしれない。

 

 確認対象の状況把握。

 卒業前の行動予定確認。

 秘密保持に関する最終確認。

 

 いくらでも言い換えられる。

 

 けれど、伊集院はそうしなかった。

 

 小さく息を吸う。

 

 そして言った。

 

 「今日は、確認ではない」

 

 悠人は、少しだけ目を見開いた。

 

 「伊集院がそれ言うのか」

 

 「私も、言う時は言う」

 

 「かなり大事な時だけだろ」

 

 伊集院は一瞬だけ視線を逸らした。

 

 「……そうだ」

 

 その「そうだ」は、今までのどの「当然だ」よりも重く聞こえた。

 

 伊集院自身が、今日の話を大事だと認めている。

 

 悠人は、静かに待った。

 

 伊集院は、机の上に置かれたカードを見つめながら言った。

 

 「最初は、本当に確認のためだった」

 

 悠人は何も言わない。

 

 「君が秘密を漏らさないか。余計なことをしないか。それだけを確認するつもりだった」

 

 「かなり怖かった」

 

 「必要な措置だった」

 

 「今でも言うんだな」

 

 伊集院は少しだけ黙った。

 

 それから、低く言う。

 

 「……半分はな」

 

 悠人は、その返答に少し驚いた。

 

 以前の伊集院なら、全部必要だったと即答したはずだ。

 

 今は、半分。

 

 残り半分を、伊集院は何と呼ぶのだろう。

 

 伊集院は続けた。

 

 「だが、途中から違っていた」

 

 資料室の空気が静かに揺れた。

 

 「確認という言葉で済ませていただけだ」

 

 その言葉は、重かった。

 

 この場所で過ごした時間。

 

 何度も確認と呼ばれてきた時間。

 

 それを伊集院自身が、確認だけではなかったと認めた。

 

 悠人は黙って聞いていた。

 

 伊集院は、まっすぐこちらを見る。

 

 「君が忘れないと選んだことを、私はまだ完全には受理できていない」

 

 「受理って」

 

 「言葉の選択を間違えた」

 

 「珍しいな」

 

 「余計な指摘だ」

 

 少しだけ、いつもの空気が戻る。

 

 けれど、伊集院の表情はすぐに真剣なものへ戻った。

 

 「だが、受け止めるしかない」

 

 悠人は、静かに頷いた。

 

 伊集院は言う。

 

 「君が、自分の記憶だと言ったからだ」

 

 その言葉を聞いて、悠人は自分が応接室で倉橋に言ったことを思い出した。

 

 伊集院との記憶は、伊集院だけのものではない。

 

 自分の記憶でもある。

 

 だから忘れない。

 

 「うん」

 

 悠人は言った。

 

 「俺も、軽く決めたわけじゃない」

 

 「わかっている」

 

 伊集院は、すぐに答えた。

 

 「君は、そういうことを軽く決める人間ではない」

 

 「評価?」

 

 「評価だ」

 

 「褒めてる?」

 

 「……少しはな」

 

 悠人は、返す言葉を失った。

 

 伊集院が少しだけ視線を落とす。

 

 「何だ」

 

 「いや。珍しいと思って」

 

 「余計な観察だ」

 

 そのやり取りさえ、今日で最後かもしれない。

 

 そう思うと、少しだけ胸が痛んだ。

 

 伊集院は、そこで姿勢を正した。

 

 「高瀬」

 

 「何だ?」

 

 「卒業式の日、来てほしい場所がある」

 

 悠人は少しだけ緊張した。

 

 「資料室じゃなくて?」

 

 「違う」

 

 短い答えだった。

 

 伊集院は、少し間を置いた。

 

 言葉を選んでいるようだった。

 

 「どこ?」

 

 悠人が聞くと、伊集院は静かに告げた。

 

 「伝説の木の下だ」

 

 その言葉に、悠人は反射的に顔を上げた。

 

 伝説の木。

 

 きらめき高校に通う生徒なら、知らない者はほとんどいない。

 

 卒業式の日。

 その木の下で告白すると、結ばれる。 

 

 そんな噂。

 

 何度も聞いたことがある。

 

 軽い冗談として話す生徒もいた。

 本気で気にしている生徒もいた。

 卒業が近づくにつれ、その話題は少しずつ現実味を帯びていった。

 

 その場所に、伊集院が呼ぶ。

 

 「それ、結構大事な場所じゃないのか」

 

 悠人は言った。

 

 伊集院はまっすぐに答える。

 

 「だから呼ぶ」

 

 悠人は、胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。

 

 「確認じゃないんだな」

 

 「違う」

 

 二度目の「違う」は、迷いがなかった。

 

 確認ではない。

 

 伊集院は、そう言った。

 

 「そこで何を話すんだ?」

 

 悠人が聞くと、伊集院はすぐには答えなかった。

 

 以前なら、その時に確認する、と言ったかもしれない。

 

 だが、今回の伊集院はそう言わなかった。

 

 「その時に言う」

 

 その言葉は、いつもの逃げとは違っていた。

 

 確認する、ではない。

 

 言う。

 

 伊集院が、自分の言葉で何かを伝えようとしている。

 

 悠人には、それがわかった。

 

 「わかった。行く」

 

 悠人は答えた。

 

 伊集院は、確認するように見つめる。

 

 「逃げるなと言った」

 

 「逃げないって言っただろ」

 

 「忘れるな」

 

 「忘れないって決めた」

 

 その言葉に、伊集院は少しだけ目を伏せた。

 

 忘れない。

 

 その言葉は、まだ伊集院に強く響くのだろう。

 

 悠人は、それ以上何も言わなかった。

 

 ただ、向かいに座っていた。

 

 しばらく、二人は黙っていた。

 

 窓から入る三月の光が、資料室の机に落ちている。

 

 古い本棚。

 使い込まれた机。

 向かい合う椅子。

 紅茶を置いたことのある場所。

 伊集院が確認用の紙を並べていた場所。

 

 全部、見覚えがある。

 

 悠人は部屋をゆっくり見回した。

 

 「ここ、最初は嫌な場所だったんだけどな」

 

 伊集院は少しだけ目を細めた。

 

 「そうだろうな」

 

 「今は、そうでもない」

 

 伊集院はすぐには答えなかった。

 

 そして、小さく言った。

 

 「……そうか」

 

 その「そうか」には、いろいろなものが含まれている気がした。

 

 安堵。

 寂しさ。

 照れ。

 後悔。

 それから、少しの嬉しさ。

 

 悠人は立ち上がった。

 

 「じゃあ、卒業式の日に」

 

 「遅れるな」

 

 「時間通りに行く」

 

 「私より後に来るな」

 

 「それは無理かもしれないな」

 

 「努力しろ」

 

 「わかった」

 

 いつものやり取り。

 

 けれど、もう完全にいつも通りではない。

 

 悠人は扉へ向かった。

 

 出る直前、振り返る。

 

 伊集院は、まだ席に座っていた。

 

 資料室の中で、まっすぐこちらを見ている。

 

 「伊集院」

 

 「何だ」

 

 「行くよ。ちゃんと」

 

 伊集院は小さく頷いた。

 

 「……ならよい」

 

 悠人は扉を開けた。

 

 廊下へ出る。

 

 静かに扉が閉まる。

 

 資料室には、伊集院レイが一人残った。

 

 扉が閉まった後も、レイはしばらくその場に座っていた。

 

 高瀬が座っていた椅子を見る。

 

 机を見る。

 

 窓を見る。

 

 本棚を見る。

 

 ここで始まった。

 

 秘密を知られ、確認を始めた。

 

 最初は、本当に管理のためだった。

 

 だが、途中から違っていた。

 

 確認という言葉で済ませていただけだった。

 

 高瀬は、忘れないと選んだ。

 

 自分の記憶でもあると言った。

 

 そして、卒業式の日、伝説の木の下へ来ると言った。

 

 レイは、ゆっくりと目を閉じた。

 

 次に会う時は、確認ではない。

 

 伊集院くんとしてでもない。

 

 伊集院家の者としてでもない。

 

 伊集院レイとして。

 

 高瀬悠人に会う。

 

 そのために、もう一つだけ、選ばなければならないことがあった。

 

 レイは静かに立ち上がる。

 

 資料室の机に触れる。

 

 冷たい木の感触。

 

 この場所は、もう十分に役目を果たした。

 

 次は、伝説の木の下だ。

 

 確認ではない言葉を、そこで言う。

 

 伊集院レイは、そう決めた。

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