卒業式の朝は、思っていたよりも静かだった。
高瀬悠人は、いつもより少し早く学校へ着いた。
三月の空気は、まだ春になりきっていない。
桜には少し早く、風には冬の名残があった。
それでも、校門の前にはいつもと違う空気がある。
卒業式。
その言葉が、校舎のあちこちに染み込んでいるようだった。
体育館へ向かう途中、悠人は見慣れた廊下を歩いた。
掲示板。
階段。
教室の扉。
ロッカー。
旧校舎へ続く廊下。
どれも、今日で少し遠くなる。
体育館には、卒業生たちが並んでいた。
校長の式辞。
卒業証書の授与。
来賓の言葉。
在校生の送辞。
卒業生の答辞。
式は、決められた順序で進んでいく。
悠人は、壇上を見ながら、ときどき視線を動かした。
伊集院くんがいた。
最後まで、完璧だった。
背筋。
礼。
歩き方。
教師に向ける表情。
周囲への対応。
女子生徒たちから向けられる視線。
後輩たちの憧れ。
教師からの信頼。
何も崩れていない。
卒業式という場でも、伊集院くんは伊集院くんだった。
誰も疑わない。
誰も、その内側にいる少女のことを知らない。
悠人は、式の最中にふと思った。
最後まで、伊集院くんだった。
それは、少し悲しいことのようにも思えた。
けれど同時に、伊集院レイが三年間、役割を果たし続けた証でもあった。
高校を卒業するまでは、家の外では男子として振る舞う。
伊集院家のしきたり。
体面。
後継者としての印象。
外部への見せ方。
悠人が知っているのは、その一端だけだ。
それでも、今壇上へ向かう伊集院くんの姿を見ていると、その重さが少しだけわかる気がした。
式が終わる。
体育館を出る時、あちこちから声が上がった。
写真を撮る者。
友人と笑う者。
泣いている者。
後輩に囲まれている者。
教室へ戻り、最後のホームルームが行われた。
担任の話は、いつもより少しだけ長かった。
それでも、終わってしまえばあっけない。
拍手。
挨拶。
椅子を引く音。
机の中を最後に確認する音。
「高瀬、大学決まってよかったな」
友人が声をかけてきた。
「ああ」
「近場だっけ?」
「まあな」
「家から通えるんだろ。現実的だよな、お前らしい」
「らしいって何だよ」
「無茶しない感じ」
悠人は少し笑った。
以前も、似たようなことを言われた気がする。
家から通える。
学費が現実的。
地元で学びながら将来を考える。
自分で選んだ進路だ。
伊集院のためだけに選んだものではない。
自分の未来。
自分の生活。
その先へ進むことは、もう決まっている。
「卒業か。早かったな」
友人が言った。
「そうだな」
悠人は教室を見回した。
この教室にも、もう来なくなる。
この机も、この黒板も、この窓から見える景色も。
そう思うと、今さらのように卒業の実感が来た。
だが、悠人にはまだ向かう場所があった。
卒業式の日、伝説の木の下へ来い。
確認ではない。
伊集院はそう言った。
悠人は鞄を持ち直した。
中には、伊集院からもらったペンケースが入っている。
去年のペンも入っている。
受験の日に使ったペン。
進路希望調査を書いたペン。
忘れないことを選ぶ時、手元にあったもの。
悠人は鞄の上から、その感触を確かめた。
伝説の木へ行く時に、それを持っていく必要はないのかもしれない。
大事なのは、物ではなく、覚えていることだから。
けれど、鞄の中にそれがあるだけで、少しだけ落ち着いた。
教室を出る。
廊下は騒がしかった。
告白するらしい生徒の噂。
友人同士の写真。
部活の後輩に囲まれる卒業生。
泣きながら笑う声。
卒業証書の筒を叩く音。
その中を、悠人は歩いた。
逃げない。
忘れない。
そう決めた。
伝説の木へ向かう道は、いつもより少し長く感じた。
その頃。
伊集院レイは、伊集院邸の一室にいた。
卒業式には、伊集院くんとして出席した。
それは最後まで必要だった。
高校を卒業するまでは、家の外では男子として振る舞う。
そのしきたりは、卒業式が終わる瞬間まで続いていた。
体育館で証書を受け取る時も。
教師に挨拶をする時も。
女子生徒たちに囲まれる時も。
後輩たちから言葉をかけられる時も。
伊集院くんとして応えた。
最後まで。
崩さなかった。
そして、式が終わった。
高校卒業までの役割は、終わった。
部屋の扉が静かに叩かれる。
「入れ」
倉橋が入ってきた。
手には、丁寧に整えられた制服がある。
きらめき高校の女子制服。
レイは、それを見た瞬間、言葉を失った。
「倉橋」
「はい」
「それは」
倉橋は、静かに一礼した。
「本来であれば、三年前に袖を通されるはずだったものです」
三年前。
入学の時。
用意されていた制服。
けれど、一度も着ることのなかった制服。
レイは、しばらくそれを見つめた。
「余計なことを」
「差し出がましいことをいたしました」
倉橋は、いつものように丁寧に答えた。
だが、その声にはわずかな情があった。
長年、伊集院家に仕えてきた男。
レイを幼い頃から見てきた男。
家の命令を知り、しきたりを知り、それでもレイ個人を見ていた人。
「……保管していたのか」
「はい」
「必要ないものだった」
「そうでございますね」
倉橋は否定しなかった。
「ですが、いつか必要になる日が来るかもしれないと存じました」
レイは、制服へ手を伸ばしかけて、止めた。
三年間、着なかった制服。
着られなかった制服。
自分が、きらめき高校の女子生徒として過ごすはずだった可能性。
廊下を歩き、教室に座り、友人と笑い、行事を過ごす。
そういう高校生活は、自分にはなかった。
だが、レイは思う。
これは、失った三年間を取り戻すための服ではない。
取り戻せない。
三年間はもう終わった。
伊集院くんとして過ごした時間も、確認という名で高瀬と過ごした時間も、全部が今の自分を作っている。
だから、やり直すためではない。
今日、自分の意思で、高瀬悠人の前に伊集院レイとして立つため。
これから自分の言葉で立つための服だ。
レイは、静かに制服を受け取った。
「倉橋」
「はい」
「誰も通すな」
「承知しております」
「これは、伊集院家の行事ではない」
「はい」
「確認でもない」
倉橋の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
「承知しております」
レイは着替えた。
鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、伊集院くんではなかった。
きらめき高校の女子制服を着た、一人の少女。
けれど、知らない誰かではない。
伊集院レイ。
本来そこにいるはずだったかもしれない自分。
そして、今この瞬間、自分の意思でそこに立つ自分。
しばらく鏡を見つめていると、倉橋が静かに一礼した。
「よくお似合いでございます」
レイは顔をそむけた。
「余計なことを言うな」
「失礼いたしました」
「謝る気がないだろう」
「差し出がましいことをいたしました」
倉橋は、また同じ言葉を返した。
レイは小さく息を吐く。
倉橋は、少しだけ声を低くした。
「本日は、伊集院家の者としてではなく、レイ様ご自身のお言葉を」
レイは黙った。
伊集院家の者としてではなく。
伊集院くんとしてでもなく。
確認を命じる者としてでもなく。
伊集院レイとして。
「わかっている」
レイは答えた。
倉橋は深く一礼する。
「行ってらっしゃいませ、レイ様」
その言葉を背に、レイは歩き出した。
校内の喧騒は、まだ続いていた。
高瀬悠人は、人の流れから少し外れるようにして、伝説の木へ向かった。
木の周囲には、いつもより人の気配が少ない。
卒業式の日、そこへ向かうことの意味を、誰もが知っているからかもしれない。
悠人は、ゆっくり歩いた。
逃げない。
忘れない。
そう決めた。
伊集院が何を言うのかはわからない。
だが、聞く。
ちゃんと。
忘れないことを選んだから。
覚えていたいと思ったから。
そして、伝説の木の前に着いた。
そこに、彼女はいた。
高瀬悠人は、足を止めた。
伊集院くんではなかった。
きらめき高校の女子制服。
いつもの伊集院くんとは違う髪。
柔らかく整えられた姿。
少女として立つ伊集院レイ。
だが、知らない誰かではなかった。
瞳の強さ。
少しだけ緊張した表情。
言葉を選ぶ時の硬さ。
背筋を伸ばして立つ姿。
それは、ずっと見てきた伊集院だった。
資料室で、確認と言い張っていた伊集院。
水族館で、青い水槽を見ていた伊集院。
花火を遠くから見た伊集院。
チョコを糖分補給だと言った伊集院。
忘れてほしくなかったと言った伊集院。
そこにいたのは、伊集院くんではなかった。
けれど、知らない誰かでもなかった。
高瀬悠人が、ずっと確認と呼ばれる時間の中で見てきた、伊集院レイだった。
レイが口を開いた。
「遅い」
悠人は少しだけ息を吐いて、答えた。
「時間通りだ」
「私より後に来た」
いつもの言葉。
けれど、今までとは違う場所。
違う姿。
高瀬は少し笑った。
「その格好でも、それなんだな」
レイは、わずかに頬を赤くしたように見えた。
だが、すぐに顔を上げる。
「当然だ」
その一言で、悠人は少し安心した。
姿は変わった。
でも、積み重ねてきた時間は消えていない。
「その制服……」
悠人が言うと、レイは少しだけ視線を落とした。
「高校を卒業するまでは、今の形を維持する必要があった」
「うん」
「だから、今日で終わりだ」
レイは制服の袖に触れた。
「これは、私が着られなかった高校生活だ」
その声は静かだった。
「だが、取り戻すために着たわけではない」
悠人は黙って聞いていた。
「三年間は戻らない。伊集院くんとして過ごした時間も、消えるわけではない」
レイは、まっすぐに悠人を見る。
「今日、君の前に伊集院レイとして立つために着た」
その言葉を、悠人は受け止めた。
伊集院レイとして。
確認ではなく。
役割でもなく。
しきたりでもなく。
高瀬悠人の前に立つため。
レイは、少しだけ息を吸った。
「高瀬。最後に一つだけ言っておく」
「何だ?」
「これは確認ではない」
その言葉は、資料室で聞いた時よりも、さらに強く響いた。
「秘密保持でもない」
レイは言う。
「行動予定でもない」
いつものような逃げ道を、一つずつ自分で閉じていく。
「体調管理でもない」
悠人は黙って聞く。
「糖分補給でもない」
少しだけ、二人の間に過去のバレンタインがよぎる。
「卒業後の確認でもない」
レイは、そこで一度だけ目を伏せた。
そして、顔を上げる。
「私の言葉だ」
悠人は、静かに頷いた。
「うん」
レイは、手を握りしめた。
「君に、覚えていてほしかった」
声は、少し震えていた。
「忘れてほしくなかった」
悠人の胸に、その言葉が届く。
けれど今は、伝説の木の下で、伊集院レイとして言っている。
「資料室も、夏祭りも、クリスマスも、バレンタインも、ホワイトデーも、水族館も、花火も」
レイは一つずつ言った。
「全部、君に覚えていてほしかった」
「覚えてるよ」
悠人は静かに言った。
「忘れないって決めた」
レイの瞳が揺れる。
「そして」
レイは、もう一度息を吸った。
「これからも、私を見てほしい」
風が少しだけ吹いた。
伝説の木の枝が揺れる。
レイは、逃げなかった。
「確認ではない。命令でもない。伊集院家の判断でもない」
言葉を一つずつ置いていく。
「伊集院レイとして、君に言う」
悠人は、まっすぐに彼女を見た。
「私は、高瀬悠人が好きだ」
その言葉は、不器用だった。
けれど、はっきりしていた。
伊集院レイが、自分の意思で言った言葉だった。
高瀬悠人は、しばらく何も言わなかった。
レイは、その沈黙に耐えるように、まっすぐ立っている。
悠人は、ゆっくり口を開いた。
「忘れないことを選んだから、ここにいる」
レイが息を呑む。
「伊集院との記憶を、俺の高校生活だと思ったから」
悠人は続けた。
「最初は巻き込まれただけだった。面倒だと思ってた」
レイの眉が少し動く。
「でも、途中からは違った。資料室に行ったのも、覚えてたのも、返したのも、俺がそうしたかったからだ」
伊集院邸で倉橋に言ったこと。
資料室で伊集院に伝えたこと。
その全部を、ここでもう一度、自分の言葉として置く。
「だから、ここに来た」
悠人は、少しだけ笑った。
「俺も、伊集院のことが好きだ」
レイは、ほんの少しだけ目を伏せた。
「……今の私は、伊集院くんではない」
悠人は、その意味をすぐに理解した。
「じゃあ、レイ」
レイの肩がわずかに揺れる。
「何だ」
「俺も、レイが好きだ」
今度こそ、レイは何も返せなかった。
言葉を探しているのがわかった。
いつものように、確認だとか、評価だとか、適切だとか、そういう言葉に逃げようとしている。
けれど、今日は逃げない。
逃げられない。
ようやくレイは言った。
「返答としては、概ね適切だ」
悠人は思わず笑った。
「そこは普通に嬉しいでいいだろ」
レイは、少しだけ唇を結ぶ。
そして、小さな声で言った。
「……嬉しい」
その一言は、これまでのどんな確認よりもまっすぐだった。
悠人は、その言葉を聞いて、胸が温かくなるのを感じた。
伝説の木の下で、二人はしばらく立っていた。
卒業式の日の校内のざわめきは、少し遠くに聞こえる。
ここだけが、静かだった。
悠人は、ふと思い出して言った。
「卒業後も、連絡くらいは取れるんだろ」
以前、資料室で同じようなことを聞いた。
その時、レイは答えられなかった。
今は。
レイは、少しも迷わずに言った。
「取る」
短い答えだった。
けれど、それだけで十分だった。
悠人は少しだけ笑う。
「必要があれば、じゃなくて?」
レイは視線を逸らしかけた。
だが、すぐに戻す。
「必要がなくても、取る」
その言葉に、悠人は頷いた。
「そっか」
「軽い返事をするな」
「軽くない」
「……」
「ちゃんと聞いた」
資料室で聞いたのと同じ言葉。
今度は、少しだけ柔らかかった。
レイは、小さく息を吐いた。
「高瀬」
「何だ?」
「これからも、君は扱いづらそうだ」
「それ、今言うのか」
「事実だ」
「評価?」
レイは、少しだけ考えた。
「評価ではない」
「じゃあ?」
「……感想だ」
悠人は笑った。
レイも、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
伝説の木の下で、伊集院レイはもう伊集院くんではなかった。
伊集院家の者としてでもなかった。
確認を命じる誰かでもなかった。
高瀬悠人の前に立つ、一人の少女だった。
そして高瀬は、その姿を忘れない。
忘れないことを選んだから。
これからも、覚えていたいと思ったから。
卒業式の日。
三月のまだ少し冷たい風の中。
伊集院レイは、伝説の木の下で少女になった。