四月になった。
高瀬悠人の部屋には、高校生だった頃とは少し違うものが増えていた。
大学から届いた書類。
履修案内。
通学定期の申込用紙。
新しいノート。
まだ使い慣れていない鞄。
机の上に並べてみると、本当に大学生になるのだと、少し遅れて実感する。
高校は卒業した。
きらめき高校の教室も、旧校舎も、資料室も、もう毎日行く場所ではない。
机の中を確認しても、白いカードは入っていない。
放課後、資料室へ。
確認事項あり。
伊集院レイ。
そんな文面を見ることも、もうない。
悠人は、机の端に置いていたペンケースを手に取った。
伊集院レイから、クリスマスにもらったものだった。
中には、去年のクリスマスにもらったペンが入っている。
進路希望調査を書いたペン。
受験の日に持っていったペン。
記憶処理を受けないと決める前に、机の上で見ていたペン。
悠人は、それを自然に大学用の鞄へ入れた。
高校生活のものを、大学生活へ持っていく。
それが、少し不思議で、少し当然のようにも思えた。
卒業した。
資料室はもうない。
でも、覚えているものは残っている。
そして今日は、駅前へ向かう予定があった。
前日の夜、電話があった。
相手はレイだった。
「高瀬か」
「レイ?」
名前で呼んだ瞬間、電話の向こうが少しだけ静かになった。
まだ慣れない。
けれど、伝説の木の下で彼女は言った。
今の私は、伊集院くんではない。
だから悠人は、少しずつ呼び方を変えようとしている。
「明日、駅前の喫茶店」
「急だな」
「時間は午後二時」
「確認か?」
電話の向こうで、少しだけ間が空いた。
いつものように「当然だ」と返ってくる気がしていた。
けれど、レイはそう言わなかった。
「確認ではない」
「じゃあ?」
「会う約束だ」
その言葉に、悠人は少しだけ笑った。
「わかった。行く」
「遅れるな」
「時間通りに行く」
「私より後に来るな」
「そこは卒業しても変わらないんだな」
「当然だ」
電話はそこで終わった。
呼び出されたわけではない。
確認対象として行くわけでもない。
資料室へ向かうわけでもない。
ただ、会う約束をした。
それだけのことが、以前とはまるで違っていた。
午後、悠人は駅前へ向かった。
春の空気は、卒業式の日より少しだけ柔らかい。
駅前には新生活らしい人の流れがあった。
新しい鞄を持った学生。
スーツ姿の若い人。
買い物帰りの家族。
喫茶店へ入っていく客。
悠人は約束の店に少し早く着いた。
時計を見る。
午後一時五十五分。
五分前。
窓際の席へ案内され、悠人は座った。
店の中は落ち着いていた。
以前、レイと入った喫茶店を思い出す。
あの時は、まだ確認の延長だった。
外部行動確認。
行動観察。
秘密保持に関する何か。
レイならいくらでも言い訳しただろう。
でも今日は違う。
机の中にカードはない。
固定電話で命じられたわけでもない。
資料室へ向かう道でもない。
高瀬悠人は、ただ会いに来た。
それを自覚した時、店の扉が開いた。
レイが入ってきた。
私服だった。
卒業式の日の女子制服ではない。
あの制服姿は、伝説の木の下での特別な姿だった。
今日のレイは、もっと日常に近い。
落ち着いた色の服。
派手ではないが、よく似合っている。
伊集院くんではなく、一人の少女として街にいる姿。
悠人は少しだけ見慣れないと思った。
でも、もう驚きすぎることはなかった。
彼は、伊集院レイを知っている。
資料室で確認と言い張っていた彼女も。
水族館で水槽の青を見ていた彼女も。
伝説の木の下で好きだと言った彼女も。
全部、同じレイだった。
レイは席の前に立つと、少しだけ不満そうに言った。
「早い」
悠人は時計を見る。
「五分前だぞ」
「私より先に来るな」
「卒業しても難しいこと言うな」
「当然だ」
悠人は笑った。
関係は変わった。
でも、二人らしさは消えていない。
レイは向かいに座る。
注文を終えると、少しだけ落ち着かないように視線を動かした。
悠人はわざと軽く言う。
「で、今日は何の確認?」
レイはすぐに眉を寄せた。
「確認ではないと言ったはずだ」
「わかってる。言ってみただけ」
「性質が悪い」
「伊集院ほどじゃない」
レイの目が細くなる。
「高瀬」
「何?」
「今、名前で呼ばなかったな」
悠人は一瞬だけ黙った。
「……癖で」
「伝説の木の下で何と言った」
「レイって呼んだ」
「では、訂正しろ」
ずいぶん真面目な顔で言う。
悠人は少し笑いそうになるのをこらえた。
「レイほどじゃない」
レイは、少しだけ満足したように見えた。
「よろしい」
「そこは確認するんだな」
「確認ではない。訂正だ」
「細かいな」
「重要事項だ」
いつもの言い方だった。
でも、そこに以前のような逃げはあまりない。
レイは紅茶が運ばれてくるのを待ちながら、少しだけ視線を落とした。
「今日は、卒業後における連絡体制の――」
「確認?」
悠人が言うと、レイは口を止めた。
数秒、沈黙する。
そして、言い直した。
「……違う」
「じゃあ?」
「会う約束だ」
悠人は頷いた。
「そうだったな」
レイは小さく息を吐く。
「会いたかった、という表現を否定はしない」
それは、彼女にしてはかなり素直な言い方だった。
悠人はすぐには茶化さなかった。
「そっか」
「軽い返事をするな」
「軽くない」
「……」
「俺も、会いたかった」
レイは紅茶のカップに手を伸ばそうとして、止まった。
「そういうことを、すぐ言うな」
「言った方がいいと思った」
「扱いづらい」
「感想?」
「感想だ」
レイは小さくそう言った。
その表情は、少しだけ照れているように見えた。
喫茶店の中は静かだった。
高校の資料室とは違う。
古い本棚もない。
確認用の紙もない。
紅茶を言い訳に出す必要もない。
けれど、向かいにレイがいる。
それだけで、どこか続いているような気がした。
レイは鞄から一冊の本を取り出した。
悠人はすぐに気づいた。
ブックカバー。
去年のクリスマスに、悠人が渡したものだった。
「それ、使ってるんだな」
レイは本を少しだけ伏せた。
「使えるものだから使っている」
「中の栞も?」
レイの指が止まる。
本の間から、少しだけ栞が見えた。
その栞も、去年のクリスマスに悠人が渡したものだ。
「……使えるものだからな」
「そっか」
悠人はそれ以上言わなかった。
レイがそれを使っている。
それだけで十分だった。
レイは少しだけ不満そうに言う。
「何だ」
「いや、ちゃんと使ってくれてるんだなと思って」
「贈られたものを死蔵する趣味はない」
「そういうことにしておく」
「その言い方はやめろ」
悠人は鞄からペンケースを取り出した。
「俺も使ってる」
レイの視線がペンケースに向く。
「当然だ。筆記具管理は重要だ」
「大学でも?」
「当然だ」
「そこはレイが決めるのか?」
「高瀬が忘れ物をしない保証がない」
「俺、そこまで信用ない?」
「確認対象としては改善傾向にある」
「確認対象じゃないんだろ」
レイは一瞬だけ詰まった。
そして、少しだけ目を逸らす。
「……高瀬としては、改善傾向にある」
「それ、褒めてる?」
「評価だ」
「懐かしいな」
「今後も必要に応じて評価する」
「確認じゃなくて?」
「評価だ」
二人は少しだけ笑った。
互いの贈り物が、日常の中に残っている。
高校の思い出としてしまい込まれるのではなく、これからの生活に続いている。
それが、悠人には嬉しかった。
紅茶とコーヒーが運ばれてきた。
しばらく、二人は近況の話をした。
大学の準備。
通学時間。
新しい授業。
必要な書類。
その流れで、悠人は聞いた。
「渡米、いつ頃?」
レイはカップを置く。
「準備が整い次第だ。長期になる可能性もある」
「そっか」
「帝王学に関する面談もある。現地法人の関係者とも会う予定だ」
「忙しそうだな」
「忙しい」
レイは素直にそう言った。
それが少し珍しくて、悠人は静かに聞いた。
「大丈夫か?」
レイは少しだけ目を伏せた。
「大丈夫だ、と言い切るのは正確ではない」
「うん」
「だが、行く必要はある」
「そっか」
高瀬は、それ以上無理に聞かなかった。
以前なら、レイは「今は話す必要がない」と言ったかもしれない。
でも今は、必要なことも、不安があることも、少しだけ言葉にしている。
それだけで十分だった。
悠人は、あの時の言葉を思い出す。
卒業後も、連絡くらいは取れるんじゃないのか。
レイはあの時、答えられなかった。
今は違う。
「卒業後も、連絡くらいは取れるんだろ」
悠人が言うと、レイはすぐに答えた。
「取ると言った」
「必要があれば?」
レイは、まっすぐ悠人を見る。
「必要がなくても、取る」
その答えは、伝説の木の下で聞いた時と同じだった。
けれど、喫茶店で日常の会話として聞くと、また違う意味を持つ。
これは特別な告白の場だけの言葉ではない。
これからの約束なのだ。
悠人は頷いた。
「わかった」
「軽い」
「軽くない」
「……」
「ちゃんと覚えてる」
レイは少しだけ目を伏せた。
忘れない。
その言葉は、今でも二人の間に残っている。
だが、もう痛みだけではなかった。
悠人は自分の大学の話もした。
「俺も来週から大学だ」
「遅刻するな」
「そこも確認するのか」
レイは口を開きかけて、止めた。
そして、少しだけ言葉を変える。
「……心配くらいはする」
悠人は、思わず黙った。
レイは不満そうに眉を寄せる。
「何だ」
「いや、今、確認って言わなかったな」
「何でも確認にすればよいというものではない」
「昔のレイに聞かせたい」
「余計なことを言うな」
「でも、ありがとう」
レイは紅茶を一口飲んだ。
「礼を言われる内容ではない」
「心配してくれたんだろ」
「……そうだ」
悠人は、その短い肯定を静かに受け取った。
喫茶店を出る頃には、夕方に近くなっていた。
駅前の人通りは少し増えている。
春の風が、まだ少し冷たい。
二人は店の前で立ち止まった。
この後、レイは迎えの車が来るらしい。
悠人は駅へ向かう。
以前なら、ここでレイは言ったかもしれない。
必要があれば連絡する。
確認が必要になれば呼ぶ。
そういう言葉で、全部を包んだかもしれない。
レイは少しだけ迷うように視線を落とした。
それから、顔を上げる。
「高瀬」
「何だ?」
「必要がなくても、連絡する」
悠人は笑った。
「それ、かなり進歩だな」
「余計な評価だ」
「評価じゃなくて感想」
レイは少しだけ考えた。
そして、静かに言う。
「……なら、受理する」
「受理するんだ」
「却下する理由がない」
「そっか」
悠人は頷いた。
「俺も連絡するよ。必要がなくても」
レイは少しだけ目を見開いた。
それから、小さく頷いた。
「ならよい」
いつもの言葉。
でも、今はもう確認の終わりを示すものではない。
約束を受け取る言葉だった。
迎えの車が来る。
レイは一歩そちらへ向かい、そこで振り返った。
「高瀬」
「何?」
「次は、遅れるな」
「時間通りに行く」
「私より後に来るな」
「それは努力する」
「努力では足りない」
「じゃあ、善処する」
「余計に信用できない」
悠人は笑った。
レイも、少しだけ笑った。
車に乗る直前、彼女はもう一度だけこちらを見た。
伊集院くんではない。
確認を命じる誰かでもない。
日常の中にいる、伊集院レイだった。
車が走り出す。
悠人は、駅前の人混みの中でその背中を見送った。
資料室はもうない。
机の中のカードもない。
放課後の確認もない。
けれど、約束はできる。
連絡もできる。
必要がなくても、会いたいと思うことができる。
高瀬悠人は、鞄の中のペンケースに手を触れた。
そこには、まだ高校から続いているものがある。
けれど、それは過去に閉じ込められたものではない。
これからも使うものだ。
これからも覚えていくものだ。
確認は終わった。
けれど、二人の時間は終わっていない。
悠人は駅へ向かって歩き出した。
春の人混みの中で、少しだけ軽い足取りで。