扉が閉まった。
旧校舎三階の資料室に、静けさが戻る。
高瀬悠人が出ていった後、伊集院レイはしばらくその扉を見つめていた。
夕陽はもう傾きかけている。
窓から差し込む赤い光が、古い机と資料棚の影を長く伸ばしていた。
放課後の学校の音が、遠くから聞こえる。
部活動の掛け声。
吹奏楽部の音階練習。
誰かの笑い声。
そのすべてが、この資料室の中では別の世界のもののように聞こえた。
レイは腕を組んだまま、扉から視線を外さなかった。
そして、小さく呟いた。
「親戚、などと……」
ひどい嘘だった。
あまりにも雑だ。
昨日、駅前で一緒にいた相手を聞かれて、とっさに親戚と答える。
一見、無難なようでいて、実際には非常に危うい。
親戚なら、どこの親戚なのかと聞かれる可能性がある。
年齢差をどう説明するのか。
なぜ駅前で会っていたのか。
どういう用事だったのか。
なぜあの喫茶店にいたのか。
今後また会うのか。
説明すべき項目が多すぎる。
少しでも突っ込まれれば、すぐに綻びが出る。
高瀬悠人は、嘘が下手だ。
レイはそう結論づけた。
いや、下手というより、備えがない。
秘密を抱える者としての危機管理が甘い。
状況に応じた回答の準備もない。
曖昧に流す技術も足りない。
相手の興味を逸らす言葉の選び方も未熟だ。
まったく、秘密保持者としての自覚が足りない。
そこまで考えて、レイは眉をひそめた。
いつの間にか、自分は高瀬を秘密保持者として採点している。
それが、少しだけおかしかった。
彼は、望んで秘密を知ったわけではない。
偶然、見てしまっただけだ。
事故だった。
もちろん、それで許されるわけではない。
だが、彼はその後、誰にも言わないと言った。
そして今日、実際に嘘をついた。
伊集院レイの秘密を守るために。
「……」
レイは、机の縁に指を置いた。
親戚という嘘の出来は悪い。
それは間違いない。
だが、問題はそこではなかった。
なぜ、高瀬悠人はとっさに嘘をついたのか。
その問いが、レイの中に残っていた。
退学が怖かったから。
そう考えれば説明はつく。
レイは彼を脅した。
秘密を漏らせば、君の高校生活は終わる、と。
伊集院家にとって、それは難しいことではない、と。
高瀬がその言葉を恐れていたとしても、不思議ではない。
いや、恐れるべきだ。
伊集院家の力を知らないほど、彼も愚かではないだろう。
だから、高瀬は自分の身を守るために嘘をついた。
それなら、筋は通る。
秘密を漏らせば退学になる。
だから漏らさない。
昨日の外出を見られた。
だから親戚とごまかした。
自分の立場を守るための行動。
それだけだ。
レイはそう結論づけようとした。
けれど、その結論はなぜかうまく収まらなかった。
――秘密を守るための嘘だ。
高瀬は、そう言った。
退学が怖いから、とは言わなかった。
自分が困るから、とも言わなかった。
秘密を守るため。
それが当然だと言うように。
さらに、彼はこうも言った。
――俺も、もう関係者だろ。
レイは、無意識に唇を引き結んだ。
関係者。
その言葉が気に入らなかった。
これは自分の秘密だ。
伊集院レイの秘密。
伊集院家の事情。
学校で男として振る舞う理由。
誰にも知られてはならない、自分の内側にあるもの。
高瀬悠人は、ただ偶然それを見てしまっただけだ。
巻き込まれたわけではない。
関わる資格があるわけでもない。
自分の秘密に踏み込む権利など、当然ない。
だから、関係者などではない。
そう思う。
思うのに。
高瀬はもう知っている。
知っただけではない。
守った。
今日、あの女子生徒に尋ねられた時、彼はとっさに嘘をついた。
しかも、彼は一瞬こちらを見た。
レイがその場にいることに気づいていた。
自分が聞いていることを知った上で、嘘をついた。
それは、ただの保身だったのか。
退学が怖かっただけなら、もっと雑に逃げてもよかったはずだ。
知らないと言ってもよかった。
適当にごまかして、後でこちらに報告すればよかった。
けれど高瀬は、その場で言葉を選んだ。
下手ではあった。
親戚という選択は、相変わらず悪手だ。
しかし、彼は考えた。
誰かに伊集院レイの秘密が近づく前に、遮ろうとした。
それは。
「……守った、などと」
レイは、その言葉を途中で切った。
認める必要はない。
守られたわけではない。
彼は自分の立場を守っただけだ。
退学を避けるために、当然のことをしただけだ。
伊集院家を敵に回したくなかっただけだ。
そう考えればいい。
それで十分だ。
だが、その理屈は完全には通らなかった。
高瀬は、秘密を武器にしなかった。
秘密を知ったことで優位に立とうともしなかった。
こちらをからかわなかった。
女子生徒に見られたことを面白がらなかった。
むしろ、面倒な立場になったにもかかわらず、秘密を守る側へ回った。
それが、レイには扱いづらかった。
命令すれば従う人間なら、わかりやすい。
脅せば黙る人間なら、管理しやすい。
伊集院家の力を恐れる人間なら、距離を測りやすい。
だが、高瀬悠人は違う。
彼は怖がっていないわけではない。
むしろ、怖がっているはずだ。
それでも、自分で決めたように秘密を守る。
それが、どうにも理解しづらい。
「……理解する必要などない」
レイは小さく言った。
そう。
理解する必要はない。
高瀬悠人は危険人物だ。
秘密を知った者だ。
監視対象だ。
その認識を変える必要はない。
ただ、少しだけ使い方を考える必要がある。
今日の件で、それは明らかになった。
外で誰かに見られた時、どう答えるか。
昨日のような外出をする場合、どの時間帯を選ぶか。
どの道を通るか。
誰に見られる可能性があるか。
もし聞かれた時、何を言うべきか。
そうしたことを、高瀬一人の判断に任せるのは危険だ。
彼の嘘は、あまりにも雑だ。
親戚。
レイは再び眉をひそめる。
やはり、駄目だ。
あの嘘は駄目だ。
嘘をつくなら、もっと余白を残すべきだった。
たとえば、知人。
あるいは、家の用事で会った人。
それ以上は言わない。
曖昧に流す。
相手に追及する隙を与えない。
高瀬にはその訓練が必要だ。
いや、訓練ではない。
確認だ。
対策だ。
監視の一部だ。
そう考えたところで、別の言葉が胸に引っかかった。
――じゃあ相談しろよ。
高瀬の声が、妙にはっきりと思い出された。
相談。
レイは、その言葉が気に入らなかった。
命令ならできる。
指示もできる。
監視もできる。
確認もできる。
必要な情報を与え、不要な行動を禁じることもできる。
だが、相談は違う。
相談とは、自分一人では決められないと認めることだ。
相手の意見を聞くことだ。
判断を共有することだ。
自分の領域へ、他人を入れることだ。
伊集院レイが、そんなことをする必要はない。
ましてや、相手は高瀬悠人だ。
先日まで、ただの同級生だった少年。
秘密を知られた危険人物。
嘘の下手な秘密保持者。
そんな相手に相談するなど、あり得ない。
だからレイは、あの時こう答えた。
必要があればな。
それが限界だった。
相談するとは言っていない。
信用したとも言っていない。
関係者と認めたわけでもない。
守られたと感じたわけでもない。
ただ、必要があれば、情報を与える。
それだけだ。
合理的な判断。
そう考えればいい。
だが、レイの中にはまだ高瀬の言葉が残っていた。
――俺も、もう関係者だろ。
関係者。
勝手な言葉だ。
図々しい。
しかし、完全に間違いとも言い切れない。
彼は秘密を知った。
秘密を守った。
そして、これからも守ると言った。
その時点で、彼はもうこの秘密の外側にはいないのかもしれない。
それを認めるのは、不愉快だった。
同時に、少しだけ。
ほんの少しだけ。
肩の荷が軽くなったような感覚があったことも、否定しきれなかった。
一人で抱えていた秘密に、初めて他人の行動が加わった。
伊集院レイだけが守らなければならなかったものを、高瀬悠人が一瞬だけ支えた。
それを、守られたなどとは呼びたくない。
呼びたくないが。
それでも、彼は嘘をついた。
自分のために。
「……不出来な嘘だった」
レイはそう呟いた。
そこだけは譲らない。
親戚などという嘘は、やはり悪手だ。
高瀬悠人は、秘密保持者として未熟である。
だから、今後も監視が必要だ。
次に同じようなことが起きた時、彼がまた雑な嘘をつかないように。
無駄に相手の興味を引かないように。
こちらの事情を危うくしないように。
少しだけ、事前に話しておく。
それは相談ではない。
確認だ。
対策だ。
監視の一部だ。
高瀬を信用したわけではない。
彼を関係者と認めたわけでもない。
守られたと感じたわけでもない。
ただ、合理的に考えれば、その方が安全だ。
レイはそう結論づけた。
いつものように、冷静で、正しく、隙のない結論。
そのはずだった。
けれど、資料室の扉を見つめたまま、彼女はもう一度だけ高瀬の言葉を思い出していた。
――俺も、もう関係者だろ。
その言葉は、不思議なほど消えなかった。
まるで、閉じたはずの扉の向こう側から、まだこちらを見ているように。
伊集院レイは、小さく息を吐いた。
「必要があれば、だ」
誰に向けるでもなく、そう言った。
相談ではない。
確認だ。
そう自分に言い聞かせながらも、彼女の胸の奥には、自分以外の誰かが秘密のそばに立っている感覚が、いつまでも残っていた。