それから、高瀬悠人の放課後は少しずつ変わっていった。
以前なら、授業が終われば友人と帰るか、気が向けば購買に寄るか、たまに図書室で課題を片づける程度だった。
けれど今は違う。
机の中。
下駄箱。
教科書の間。
時には、昼休みの廊下ですれ違いざまに渡される小さなカード。
そこには、いつも整った字で短く書かれていた。
放課後、資料室へ来い。
遅れるな。
伊集院レイ
最初の頃、悠人はそのたびにため息をついていた。
またか、と。
けれど数週間も続けば、人間は慣れる。
旧校舎三階の資料室へ向かう道順も、階段の軋む場所も、放課後のどの時間なら人に会いにくいかも、いつの間にか覚えてしまった。
もっとも、それが良いことなのかは、悠人にはよくわからなかった。
「遅い」
その日も、資料室に入るなり伊集院レイはそう言った。
悠人は時計を見る。
「時間通りだ」
「私より後に来た」
「先に来る気ないだろ」
「当然だ。私が待つ側になる理由がない」
「じゃあ毎回俺は遅刻扱いなのか」
「理解が早いな」
「理不尽に慣れてきただけだ」
伊集院は、窓際の机に座っていた。
制服姿。
背筋を伸ばし、脚を組み、いかにも当然のようにそこにいる。
だが、学校の廊下で女子たちに囲まれている時とは、少し違う。
学校での伊集院レイは、どこまでも隙がない。
誰に見られてもいいように整えられた笑み。
声の高さ。
視線の配り方。
歩く速度まで計算されているように見える。
けれど資料室では、少しだけ違った。
命令口調なのは変わらない。
高圧的なのも変わらない。
すぐに「余計なことを言うな」と言うのも変わらない。
それでも、ここにいる伊集院は、ほんの少しだけ呼吸をしているように見えた。
「今日は何の監視だ?」
悠人が聞くと、伊集院は眉をひそめた。
「監視ではない」
「え?」
「確認だ」
「……今までは監視って言ってなかったか?」
「状況が変わった」
「便利だな、その言葉」
「必要に応じて正確な表現を選んでいるだけだ」
悠人は鞄を近くの椅子に置いた。
「で、その確認って何をするんだ」
伊集院は机の上に一枚の紙を置いた。
そこには、いくつかの項目が整った字で書かれていた。
駅前で誰かに見られた場合。
学校内で悠人が質問された場合。
伊集院の外出を誰かに問われた場合。
女子生徒から具体的な人物像を聞かれた場合。
悠人は思わず目を細めた。
「マニュアルか?」
「想定問答だ」
「やっぱりマニュアルじゃないか」
「親戚などという低品質な回答を防ぐためのものだ」
「まだ根に持ってるのか」
「当然だ」
伊集院は、当然のように言った。
「君のあの嘘は、追及された場合に破綻しやすい。関係性の説明が必要になる。親戚なら家族構成にもつながる。会った目的も問われる。あまりに危険だ」
「そこまで追及するかな」
「可能性を軽視するな」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「はい」
いつものやり取りだった。
だが、その紙を見て、悠人は少しだけ驚いていた。
伊集院は、情報を渡している。
以前なら、ただ命令していただけだった。
黙っていろ。
忘れろ。
余計なことを言うな。
呼び出したら来い。
それだけだった。
しかし今は違う。
どう答えるべきか。
どこまで話してよいか。
どの言葉を避けるべきか。
伊集院は最低限ではあるが、悠人に共有し始めている。
それは大きな変化だった。
「これ、相談して作った方が早かったんじゃないか?」
悠人が言うと、伊集院は即座に答えた。
「相談ではない」
「まだ何も言ってないだろ」
「君がそう言う気配がした」
「気配で先回りするな」
「これは確認だ。君が不要な混乱を招かないよう、私が事前に必要事項を伝達している」
「それを普通は相談って言うんじゃないか?」
「言わない」
「確認?」
「確認だ」
悠人は少し笑った。
伊集院は不満そうに目を細めたが、それ以上は言わなかった。
その日、二人は資料室で三十分ほど想定問答を確認した。
女子生徒に昨日の外出を聞かれた場合。
伊集院に似た人物を見たと言われた場合。
悠人が放課後に旧校舎へ行っていることを怪しまれた場合。
そのたびに伊集院は、厳しく指摘した。
「その答えは情報が多すぎる」
「これは?」
「曖昧すぎる。逆に怪しまれる」
「じゃあどうすればいいんだよ」
「質問に答えすぎるな。相手の興味を別へ向けろ」
「難しいな」
「だから確認している」
「相談じゃなくて?」
「確認だ」
数週間の間、そんな放課後が何度も続いた。
時には、資料室で言葉の確認だけをした。
時には、駅前まで歩いて、どの道が人目につきにくいかを確かめた。
時には、本屋や喫茶店へ行った。
ただし、伊集院はそれを決して「出かける」とは言わなかった。
「外部環境での対応確認だ」
と言った。
悠人が、
「普通に外出って言えばいいだろ」
と言うと、
「君の語彙は雑だ」
と返された。
それでも、伊集院は少しずつ変わっていた。
たとえば、呼び出しのカード。
最初は命令だけだった。
放課後、資料室へ来い。
遅れるな。
それが、ある日から少し変わった。
放課後、資料室へ来い。
確認事項がある。
さらに別の日には、
放課後、時間はあるか。
資料室で確認したいことがある。
悠人はそのカードを見た時、思わず声に出してしまった。
「……疑問形になってる」
近くにいた友人に、
「何が?」
と聞かれて、慌ててカードを隠したこともある。
資料室でそれを伊集院に言うと、彼女は涼しい顔で言った。
「君が無駄に反発するから、表現を調整しただけだ」
「それ、かなり進歩だと思うぞ」
「何がだ」
「いや、なんでもない」
「言いかけてやめるな。不快だ」
「言ったら怒るだろ」
「内容による」
「たぶん怒る」
「なら言うな」
「だから言わなかったんだろ」
伊集院は、ため息をついた。
そのため息も、学校では見せないものだった。
学校での伊集院レイは、ため息すら優雅に見せる。
だが資料室での伊集院は、時々本当に呆れたように息を吐く。
悠人は、その違いを少しずつ覚えていった。
廊下で女子たちに囲まれる伊集院。
「伊集院様、今度の期末も一位なんでしょうね」
「結果は努力次第だ」
穏やかに微笑む伊集院。
男子たちが遠巻きに見て、
「また伊集院かよ」
と小さく言う。
それを気にしていないように通り過ぎる伊集院。
その姿は、完璧だった。
完璧すぎるほど、伊集院くんだった。
だが放課後、資料室で二人きりになると、伊集院は少し違った。
「高瀬、この回答は論外だ」
「何が駄目なんだよ」
「君は『たまたま』という言葉を使いすぎる。たまたまは便利だが、多用すると不自然になる」
「嘘の添削が細かい」
「必要な指導だ」
「秘密保持者養成講座みたいになってるな」
「君の水準が低いからだ」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
こういうやり取りを、悠人はいつの間にか当たり前のように受け入れていた。
もちろん、普通ではない。
男として学校に通う伊集院レイの秘密を知り、その本人に呼び出され、資料室で嘘の練習をしている。
普通であるはずがない。
だが、その普通ではない時間が、悠人の日常の一部になり始めていた。
それは、伊集院も同じなのかもしれなかった。
ある日の放課後。
資料室に入ると、伊集院は窓際で本を読んでいた。
悠人に気づいても、すぐには顔を上げなかった。
「来たか」
「呼んだのは伊集院だろ」
「今日は確認事項が少ない」
「じゃあ帰っていいか?」
「まだ早い」
「確認事項少ないんじゃなかったのか?」
「少ないだけで、ないとは言っていない」
「相変わらずだな」
伊集院は本を閉じた。
その表紙に見覚えがあった。
以前、駅前の本屋で買っていた外国文学の文庫だ。
「読んでたのか」
「本は読むために買うものだ」
「それはそうだけど」
「何だ」
「いや、前に買った時、あんまり読めてなさそうだったから」
伊集院の目がわずかに細くなる。
「なぜそれを知っている」
「なんとなく」
「君は時々、余計なところを見るな」
「伊集院も人の嘘に細かすぎるだろ」
「それとこれは違う」
伊集院は本を机の上に置いた。
そして、少しだけ視線を逸らした。
「……今日は、駅前へは行かない」
「そうなのか?」
「必要がない」
「確認は?」
「ここで済む」
「了解」
悠人は椅子に座った。
伊集院は、少しの間だけ黙っていた。
そして、何でもないことのように言った。
「あの女子生徒だが」
「あの女子生徒?」
「君に駅前の件を尋ねた者だ」
「ああ、親戚の」
「その言い方はやめろ」
「はい」
「彼女は、それ以降特に何も話していないようだ」
「確認したのか?」
「聞こえただけだ」
「またそれか」
「必要な情報は自然に集まる」
「便利な立場だな」
「伊集院だからな」
いつものように言ったが、その声には少しだけ違う響きがあった。
悠人は、その違いに気づいた。
今の言葉は、誇りというより、どこか諦めに近い。
伊集院だから。
女子に見られる。
男子に煙たがられる。
教師に特別扱いされる。
家の名前が先に立つ。
そして、秘密を隠し続ける。
それを全部まとめて、伊集院だから、と言ったように聞こえた。
悠人は何か言おうとした。
だが、うまい言葉が出てこなかった。
伊集院はすぐに表情を戻した。
「高瀬」
「何だ?」
「余計な顔をするな」
「どんな顔だよ」
「何か言いたそうな顔だ」
「言っていいのか?」
「内容による」
「じゃあやめておく」
「それも不快だ」
「どっちだよ」
伊集院はわずかに口元を動かした。
笑った、というほどではない。
けれど、以前なら絶対に見せなかったような、ほんの小さな緩みだった。
悠人はそれを見なかったふりをした。
少しずつ、そういうことも覚えてきた。
見たことを全部言わない。
気づいたことを全部指摘しない。
踏み込む時と、踏み込まない時を考える。
伊集院と接するには、それが必要だった。
そして、伊集院も少しずつ覚えてきたようだった。
命令だけでは、悠人は動かない。
脅しだけでは、信頼は得られない。
秘密を守らせるには、最低限の情報を共有しなければならない。
もっとも、彼女はそれを絶対に「信頼」とは呼ばなかった。
「高瀬」
「今度は何だ?」
「来週から期末試験期間に入る」
「ああ、そうだな」
「放課後の確認は、一時的に頻度を下げる」
「お、解放されるのか」
「勘違いするな。試験期間中に君の成績が落ちれば、行動が不自然になる」
「俺の成績まで管理されるのか」
「秘密保持者の学業不振はリスクだ」
「なんでもリスクにするな」
「事実だ」
伊集院は、机の上に一枚の紙を置いた。
今度は想定問答ではなかった。
試験範囲のまとめだった。
悠人は思わずそれを見た。
「これ、何?」
「試験範囲だ」
「それは見ればわかる」
「君の成績低下を防ぐための確認資料だ」
「普通に勉強用のまとめじゃないか」
「確認資料だ」
「伊集院、もしかして俺の勉強を見てくれるのか?」
伊集院は、すぐには答えなかった。
そして、少しだけ不機嫌そうに言った。
「君の成績が落ちると、こちらが困る」
「理由は?」
「秘密保持者の行動が不安定になるからだ」
「そういうことにしておく」
「その言い方はやめろ」
悠人は紙を受け取った。
きれいに整理されたまとめだった。
重要事項。
出題されやすい範囲。
覚えるべき用語。
注意点。
字は整っていて、見やすい。
伊集院らしい。
「助かる」
悠人が言うと、伊集院は目を逸らした。
「感謝は不要だ」
「でも助かるから」
「不要だと言っている」
「じゃあ言わない」
「……」
「でも、助かる」
「高瀬」
「はい」
「君は時々、わざと私を困らせているのか?」
「たまに」
「退学させるぞ」
「最近それ言わなくなったな」
言った瞬間、伊集院が黙った。
悠人も、少しだけしまったと思った。
最初の頃、伊集院は何かにつけて退学をちらつかせていた。
けれど最近は、あまり言わない。
言うとしても、どこか形だけになっている。
伊集院自身も、それに気づいているのだろう。
「……必要がないだけだ」
伊集院は短く言った。
「君が今のところ、秘密保持者として最低限の機能を果たしているからな」
「褒めてるのか?」
「評価している」
「それは褒めてるんじゃないのか?」
「違う」
「確認?」
「確認だ」
悠人は笑った。
伊集院は、わずかに視線を逸らした。
季節は、少しずつ春から初夏へ移っていた。
教室の窓から入る風が、暖かさを帯びるようになった。
制服の袖を少し捲る生徒が増えた。
昼休みには、夏休みの予定を話す声が教室のあちこちから聞こえるようになった。
海に行く。
親戚の家に行く。
部活の合宿がある。
受験を考えて塾に行く。
そんな話が増えていく中で、悠人はふと思った。
夏休みに入れば、伊集院との資料室通いもなくなるのだろうか。
学校が休みになれば、旧校舎の資料室へ来る理由もない。
伊集院くんとしての学校生活も、一時的に止まる。
そうなれば、秘密保持者としての役目も少しは減るのかもしれない。
そんなことを考えていた、夏休み前の放課後。
悠人はまた資料室に呼び出された。
カードには、いつもより短く書かれていた。
放課後、資料室へ。
確認事項あり。
伊集院レイ
資料室に入ると、伊集院はすでに待っていた。
窓の外は、夕方とは思えないほど明るかった。
夏が近い。
そう感じる光だった。
「高瀬」
「何だ?」
「夏休みに入っても、確認は継続する」
悠人は一瞬、意味がわからなかった。
「……学校ないのに?」
「学校がないからこそだ」
伊集院は当然のように言った。
「長期休暇中は、生徒の行動範囲が広がる。駅前、商店街、図書館、映画館、喫茶店。どこで誰に会うかわからない。君が不用意な行動を取らないよう、定期的な確認が必要だ」
「それ、かなり苦しくないか?」
「何がだ」
「理屈が」
「合理的だ」
「本当に?」
「当然だ」
伊集院は、少しだけ視線を逸らした。
ほんの一瞬。
しかし、悠人は気づいた。
これは、いつものように完全な命令ではない。
監視の名目ではある。
確認の名目でもある。
だが、その下に別のものがある。
夏休みにも会う理由が欲しい。
そう見えてしまったのは、悠人の思い込みだろうか。
「高瀬」
伊集院が言った。
「休み中も、必要があれば呼ぶ」
「確認か?」
「確認だ」
「相談ではなく?」
「相談ではない」
「監視でもなく?」
「必要に応じて監視も含む」
「便利だな」
「遅れるな」
いつもの言葉。
しかし、その声は以前より少しだけ柔らかかった。
悠人は、少しだけ笑った。
「わかった。夏休み中も、呼ばれたら行く」
「呼ばれたら、ではない。呼んだら来い」
「はいはい」
「返事は一回」
「はい」
伊集院は満足したように頷いた。
けれど、その表情はどこか落ち着かなかった。
まるで、自分でも少し苦しい理屈を並べていることに気づいているようだった。
悠人は、それを指摘しなかった。
指摘すれば、きっと伊集院はすぐに伊集院くんの顔に戻る。
だから、言わなかった。
夏休み。
学校が休みになる季節。
伊集院レイが、少しだけ伊集院くんでいなくてもいい時間。
そして高瀬悠人にとっても、秘密保持者としてではなく、別の何かとして彼女と会うことになるかもしれない時間。
その予感だけが、資料室の夕陽の中に静かに残っていた。