夏休み初日。
高瀬悠人は、朝から少しだけ気が抜けていた。
学校がない。
授業もない。
旧校舎の資料室へ向かう必要もない。
机の中に伊集院レイからの呼び出しカードが入っていることもない。
伊集院くんとしての学校生活も、一時停止している。
つまり、少なくとも夏休みの間は、悠人もあの奇妙な確認作業から少しは解放されるのではないか。
そんなことを考えていた。
もちろん、伊集院レイの秘密そのものが消えるわけではない。
悠人が秘密保持者であることも変わらない。
けれど、学校という場所がなければ、あの資料室に呼び出されることもない。
廊下で伊集院と目が合い、鋭い視線を向けられることもない。
女子生徒に囲まれる伊集院くんを見て、昨日までとは違うものを感じることもない。
少しだけ、普通の夏休みになる。
そう思っていた。
昼過ぎ、家の電話が鳴った。
悠人は自分の部屋で雑誌をめくっていた。
階下から、母親が電話に出る声が聞こえる。
「はい、高瀬です」
少し間が空いた。
それから、母親の声が少しだけ改まった。
「……はい。少々お待ちください」
嫌な予感がした。
すぐに階段の下から声が飛んでくる。
「悠人、あなたに電話よ」
「誰から?」
「伊集院さんって方」
悠人は雑誌を閉じた。
夏休みの解放感は、予想より早く終わった。
受話器を取る。
「……もしもし」
聞き慣れた声がした。
「高瀬か」
「家に電話してくるなよ」
「夏休みに入った以上、学校で連絡することができない。合理的な手段だ」
「合理的かもしれないけど、家族に怪しまれるだろ」
「ならば、怪しまれない言い訳を考えておけ」
「また俺の課題なのか」
「当然だ」
電話越しでも、伊集院レイは伊集院レイだった。
命令口調。
無駄のない言葉。
こちらの都合を確認する前に用件へ進むところまで、いつも通りだった。
「明日、午前十時に駅前へ来い」
「夏休み初日から?」
「明日は二日目だ」
「そういう問題じゃない」
「長期休暇中の確認を行う」
「電話で済まないのか?」
「済まない」
「何を確認するんだよ」
「君の夏休み中の行動範囲だ」
「俺の?」
「そうだ」
当然のように言われて、悠人は少し黙った。
「俺、そんなに信用ないのか」
「ない」
「即答するな」
「事実だ」
伊集院の声は平然としていた。
しかし、悠人は受話器を持ったまま、ふと考えた。
学校がない。
資料室も使えない。
伊集院くんとしての学校生活も止まっている。
それでも伊集院は、わざわざ固定電話で悠人の家へ連絡してきた。
確認。
そう言い張るつもりなのだろう。
けれど、そこまでして会う必要が本当にあるのか。
「高瀬」
「何だ?」
「返事は」
「……わかった。明日十時、駅前だな」
「遅れるな」
「はいはい」
「返事は一回でいい」
「はい」
電話はそこで切れた。
悠人は受話器を置き、しばらく電話の前に立っていた。
母親が台所から顔を出す。
「伊集院さんって、学校のお友達?」
「……まあ、そんな感じ」
「ずいぶん丁寧な電話だったわね」
「ああ、まあ」
悠人は曖昧に答えた。
親戚という嘘を叱られたばかりなのに、今度は「学校の友達」という別の曖昧な説明をしている。
伊集院が聞いていたら、また採点されそうだと思った。
翌日。
駅前は、夏休みらしい空気に包まれていた。
制服姿の生徒は少なく、私服の学生や親子連れが多い。
日差しは強く、歩道の白さが少し眩しい。
遠くで蝉の声が聞こえ、駅前のロータリーにはバスを待つ人たちが並んでいた。
悠人は約束の五分前に着いた。
さすがに遅いと言われたくなかった。
しかし、伊集院はすでにそこにいた。
駅前の時計台の下。
制服ではない。
白いシャツに、薄い色のカーディガン。
下は落ち着いた色のキュロットで、遠目にはスカートにも見える。
以前の外出の時より、少しだけ柔らかい印象だった。
けれど、完全に少女らしい服装というわけではない。
どこか中性的で、伊集院らしい防御の線はまだ残っている。
それでも、悠人には前より少しだけ普通の女の子に近く見えた。
伊集院は、悠人に気づくといつものように顎を上げた。
「遅い」
「時間ぴったりだ」
「私より後に来た」
「夏休みでもそれなんだな」
「当然だ」
平然としている。
けれど悠人は、以前より伊集院の様子が硬くないことに気づいた。
前に駅前へ来た時は、周囲を見る目に少し緊張があった。
どこか、自分の姿を確認されることを警戒しているようだった。
今日は違う。
周囲への注意はある。
けれど、足元が少し落ち着いている。
会話が始まる前から、伊集院は以前ほど身構えてはいなかった。
「何を見ている」
「いや」
「余計な感想は不要だ」
「まだ何も言ってないだろ」
「言う前に止めた」
「前より少し慣れてきたな」
伊集院の眉が動く。
「何がだ」
「こういう外出」
「確認だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
いつものやり取りだった。
しかし、そのやり取りすら、以前より自然にできるようになっていることを、悠人は感じていた。
「それで、今日はどこへ?」
「市立図書館だ」
「図書館?」
「長期休暇中の行動範囲を確認する。図書館は学生が利用する可能性が高い場所だ」
「本当に確認なんだな」
「当然だ」
「喫茶店とか本屋じゃないのか」
「必要があれば行く」
「必要があれば、ね」
「その言い方はやめろ」
二人は駅前から少し歩いて、市立図書館へ向かった。
夏の日差しは強かったが、図書館の中は涼しかった。
自動ドアを抜けると、冷房の空気が肌に触れる。
外では蝉が鳴いているのに、中は驚くほど静かだった。
本棚の間を歩く音。
ページをめくる音。
受付で小さく交わされる声。
それだけが聞こえる。
伊集院は、こういう場所では自然だった。
学校ほど目立たない。
街中ほど人目を警戒しない。
本棚の間を歩く姿は、落ち着いていた。
悠人は少し後ろを歩きながら、その横顔を見ていた。
学校で女子に囲まれている伊集院くんでもない。
駅前で緊張していた伊集院でもない。
図書館の静けさの中にいる伊集院は、少しだけ自然に見えた。
「何を見ている」
「いや、図書館似合うなと思って」
「また曖昧な感想だな」
「褒めてるつもりなんだけど」
「不要だ」
「そうか」
伊集院は、自然科学、歴史、外国文学の棚を見ていく。
選ぶ本は相変わらず堅い。
悠人が手に取ったら途中で眠くなりそうな本を、伊集院は何でもない顔で開いている。
「夏休みに読む本がそれなのか」
「何か問題が?」
「いや、伊集院らしいなって」
「君の中の私の認識は偏っている」
「でも合ってるだろ」
「否定はしない」
しばらく歩いていると、伊集院の視線がふと別の棚へ向いた。
旅行雑誌のコーナーだった。
夏の観光地。
花火大会特集。
浴衣の写真。
屋台の並ぶ夜の通り。
その中に、地元の夏祭りの記事が載った雑誌があった。
伊集院の目が、ほんの少しだけ止まった。
悠人はそれに気づいた。
「夏祭り、行きたいのか?」
伊集院は即座に顔を戻した。
「見ていない」
「いや、見てた」
「視界に入っただけだ」
「その言い方、前も聞いたな」
「君は余計なところを覚えている」
「伊集院も余計なところを見てるだろ」
「見ていない」
伊集院は、少し強めにそう言った。
そのわりに、雑誌の表紙をもう一度だけ見ていた。
悠人は、それ以上何も言わなかった。
図書館を歩いている途中、悠人は知った顔を見つけた。
同じクラスの男子だった。
少し離れた雑誌棚の前で、友人らしき人物と話している。
相手はこちらに気づいていない。
だが、このまま進めば鉢合わせするかもしれない。
悠人は自然に一歩、伊集院の横へ出た。
「こっちの棚、見てもいいか?」
「君が?」
「悪いか」
「珍しいと思っただけだ」
「たまには読むんだよ」
悠人はそう言って、伊集院を人の少ない奥の棚へ誘導した。
伊集院は一瞬だけ不審そうにしたが、すぐに状況に気づいたようだった。
少し離れたところにいる悠人の友人。
こちらに背を向けているが、気づかれれば面倒になる相手。
伊集院は黙って、悠人の誘導に従った。
人目の少ない棚の奥へ入る。
しばらくしてから、伊集院が小さく言った。
「今のは、私を隠したのか」
「見られたら面倒だろ」
「……判断としては悪くない」
「褒めてる?」
「評価しているだけだ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
伊集院の声はいつも通りだった。
だが、そこには以前より少しだけ柔らかいものがあった。
悠人は思った。
以前駅前の件で女子生徒に聞かれた時、自分はとっさに嘘をついた。
その嘘は伊集院に散々批評された。
でも今日は、少しだけ先に動けた。
秘密を守ることに、少しずつ慣れてきている。
それが良いことなのかどうかは、まだわからない。
図書館を出る頃には、日差しは少しだけ傾いていた。
それでも外は暑い。
駅前へ戻る道を歩いていると、伊集院が言った。
「喫茶店へ行く」
「今日の確認、もう終わったんじゃないのか?」
「休憩も確認の一部だ」
「どんな理屈だ」
「長期行動における休憩時の対応確認だ」
「本当に何でも確認になるんだな」
「当然だ」
駅前の喫茶店に入る。
最初に伊集院と入った店と同じだった。
店員に案内され、二人は向かい合って座る。
以前は、店員の「お連れ様」という言葉に伊集院が少し反応していた。
今日は、その反応が少しだけ薄い。
完全に慣れたわけではない。
けれど前ほど固まってはいなかった。
悠人はそれにも気づいた。
気づいたが、言わなかった。
メニューを開く。
伊集院の視線が、自然にケーキの欄へ向かった。
前よりも、ほんの少しだけ迷いが少ない。
ただし、まだ自分からは言わない。
悠人は少しだけ笑いそうになった。
「今日は自分で頼んだら?」
「私は別に」
「前もそう言って食べてただろ」
「味を確認しただけだ」
「じゃあ今日は自分で確認すればいい」
伊集院は、じっと悠人を見た。
「君は最近、言葉を悪用するようになったな」
「伊集院から学んだ」
「不本意だ」
店員が注文を取りに来る。
悠人はコーヒーを頼んだ。
伊集院は少しだけ沈黙した。
そして、視線を逸らしながら言った。
「紅茶と……季節のケーキを」
悠人は何も言わなかった。
言えば、たぶん伊集院は不機嫌になる。
店員が去った後、伊集院はすぐに言った。
「確認だ」
「何も言ってないだろ」
「言いそうな顔をしていた」
「便利だな、その判断」
「君は顔に出る」
「伊集院も最近、少し出るようになってる」
伊集院の目が鋭くなる。
「何がだ」
「いや、何でもない」
「言いかけてやめるな。不快だ」
「言ったら怒るだろ」
「内容による」
「たぶん怒る」
「なら言うな」
以前も同じような会話をした気がする。
それが少しだけおかしくて、悠人は笑いをこらえた。
ケーキが運ばれてくる。
伊集院は、以前より自然にフォークを取った。
まだ少しだけ気取っている。
だが、前のように「少しだけもらう」と言い張る必要はもうなかった。
自分で選び、自分で頼み、自分で食べている。
それだけのことなのに、悠人には少し大きな変化に見えた。
喫茶店の窓の外では、夏休みの学生たちが楽しそうに歩いている。
学校はない。
資料室もない。
誰にも見られないように少し気をつけながら、駅前で会って、図書館へ行き、喫茶店にいる。
これを監視と言うには、少し無理がある。
悠人は、そんなことを思った。
もしかして、伊集院はただ外に出たかったのだろうか。
いや、それだけではなく。
自分を呼ぶ理由が欲しかったのだろうか。
そこまで考えて、悠人はすぐに打ち消した。
自意識過剰だ。
伊集院がそんなことを考えるわけがない。
少なくとも、本人は絶対に認めない。
「何を考えている」
伊集院が言った。
「別に」
「嘘が下手だ」
「嘘の採点、まだ続いてるのか」
「必要だからだ」
「じゃあ、今のは何点?」
「二十点」
「低いな」
「顔に出すぎだ」
「厳しいな」
伊集院は紅茶を飲み、何でもないようにケーキを一口食べた。
そして、ほんの少しだけ目を細めた。
「どうだ?」
悠人が聞く。
「普通だ」
「その普通、気に入ってる時の普通だろ」
「違う」
「でももう一口食べるんだな」
「確認が不十分だからだ」
「便利だな、確認」
「君ほどではない」
帰り道。
駅前の広場には、夏祭りのポスターが貼られていた。
図書館で見た雑誌にも載っていた祭りだ。
来週末。
商店街から神社まで屋台が並び、夜には小さな花火も上がるらしい。
悠人は何気なく言った。
「そういえば、来週夏祭りあるんだな」
伊集院の歩みが、ほんの少しだけ遅くなった。
「興味はない」
即答だった。
だが、視線はポスターに向いていた。
屋台の写真。
提灯。
金魚すくい。
夜空に開く花火。
伊集院は、少しだけそれを見ていた。
悠人は気づいた。
「行ってみるか?」
伊集院がこちらを見る。
「なぜ私が」
「確認の一環で」
その言葉に、伊集院は一瞬だけ詰まった。
いつもならすぐに返してくるはずの伊集院が、わずかに遅れた。
悠人は少しだけ笑った。
「人混みでの秘密保持対応確認とか、そういうやつ」
「……」
「伊集院が言いそうだろ」
伊集院は、少しだけ不満そうに目を細めた。
それから、ポスターへ視線を戻す。
「……必要があれば、検討する」
「検討するんだ」
「必要があれば、だ」
「はいはい」
「その返事はやめろ」
伊集院は、いつものようにそう言った。
けれど、その声は少しだけ柔らかかった。
夏休み。
学校のない季節。
伊集院くんでいなくてもいい時間が、少しだけ増える季節。
悠人は、駅前のポスターをもう一度見た。
来週の夏祭り。
確認の一環。
そう言えば、伊集院は来るのかもしれない。
いや、きっと来る。
本人は絶対に認めないだろうけれど。
「高瀬」
「何だ?」
「今日のことも、誰にも言うな」
「言わない」
「当然だ」
「ケーキのことも?」
「確認だ」
「夏祭りのことも?」
「まだ行くとは言っていない」
「必要があれば、だろ」
「わかっているなら余計なことを言うな」
悠人は笑った。
伊集院は少しだけ不満そうにしたが、それ以上は何も言わなかった。
二人は駅前で別れた。
伊集院は人混みの中へ歩いていく。
前より少しだけ自然な足取りで。
悠人はその背中を見送りながら、思った。
今日の確認は、たぶん終わっている。
けれど、夏休みの確認はまだ続くらしい。
そして次は、きっと夏祭りだ。
監視でも、確認でも、相談でもない何かに少しずつ近づいている気がした。
それでも、伊集院レイはきっと言うのだろう。
必要があれば。
確認のために。
そう言い張りながら。