元勇者の俺は、魔王になった教え子を救いたい 作:ななひゃく2802
静かだった。
昨日まで、ずっと頭の奥で響いていた声が。
今は、聞こえない。
「……あれ」
エリシアは、ゆっくりと目を開けた。
暗い部屋。
砕けた床。
崩れた壁。
昨夜の痕跡が、そのまま残っている。
それでも。
身体を蝕んでいた痛みが、ほんの少しだけ薄れていた。
震える手で、自分の腕へ触れる。
黒い紋様は消えていない。
だが。
昨日より、侵食が止まっていた。
「どうして……」
掠れた声。
その時だった。
胸の奥へ、微かな温もりが残っていることに気づく。
まるで。
誰かに抱き締められた後みたいな。
安心する熱だった。
理由は分からない。
でも。
怖かったはずなのに。
今は少しだけ、息ができる。
「……カイ先生?」
小さな呟きが、暗い部屋へ溶けていった。
◇
医務棟。
治療を終えたレオンは、ベッドへ腰掛けていた。
腕には包帯。
肩にも浅い裂傷がある。
だが。
痛みより、昨夜の光景の方が頭から離れなかった。
黒い怪物。
圧倒的な恐怖。
そして。
一歩も引かず立っていた男。
「……なんなんだよ、あの人」
小さく呟く。
結局、昨日も助けられた。
自分は、また守られる側だった。
悔しさが残る。
でも同時に。
怪物へ向かっていった瞬間。
カイトは、自分を止めなかった。
あの一瞬だけ。
灰色の瞳が、こちらを見ていた。
――行くのか。
まるで、そう問われた気がした。
「……くそ」
拳を握る。
怖かった。
本当に。
それでも。
逃げたくなかった。
逃げたら、たぶん一生後悔すると思った。
その時。
医務室の扉が開く。
ルーメリアだった。
「怪我は」
「軽傷」
レオンは短く答える。
ルーメリアは、小さく息を吐いた。
「そうですか」
それだけ言って。
窓の外を見る。
東区画。
まだ黒煙が上がっていた。
「……なぁ」
レオンが口を開く。
「お前、怖くなかったのかよ」
沈黙。
数秒。
ルーメリアは静かに答えた。
「怖かったですよ」
「……見えなかったけどな」
「見せる必要がありませんから」
淡々とした声。
でも。
その横顔は、少しだけ疲れて見えた。
「でも」
ルーメリアは、小さく続ける。
「あなたは、怖いのに前へ出た」
レオンが顔を上げる。
銀色の瞳が、真っ直ぐこちらを見ていた。
「普通は、止まります」
「……馬鹿なだけだろ」
レオンが視線を逸らす。
ルーメリアは、少しだけ黙ったあと。
「似たような人が」
小さく呟く。
「昔、居た気がします」
その声は。
誰へ向けたものでもなかった。
◇
学園の廊下。
カイトは、一人で歩いていた。
昨夜の戦闘跡が、まだ至るところに残っている。
砕けた壁。
黒く焼けた床。
漂う瘴気。
その景色が。
嫌でも、昔を思い出させた。
燃える街。
崩れていく防壁。
黒い魔力。
泣き叫ぶ声。
『助けて!!』
伸ばされた手。
届かなかった声。
助けられなかった人間の顔。
「……っ」
カイトは足を止める。
無意識に、拳を握っていた。
昨夜の怪物。
あれは、昔見たものに似ていた。
終わったと思っていた。
全部、終わらせたはずだった。
なのに。
「……またか」
掠れた声が落ちる。
「レイヴン教官」
声。
振り向く。
グランベルが立っていた。
白い法衣。
穏やかな笑み。
だが。
その目だけが、妙に静かだった。
「昨夜は、ご苦労様でした」
「……別に」
短く返す。
グランベルは気にした様子もなく続けた。
「浸食獣を討伐したそうですね」
その瞬間。
カイトの目が、僅かに細まる。
「……浸食獣?」
「教会側の呼称です」
穏やかな声。
「魔力汚染によって発生した異常個体ですよ」
「……そうか」
短い返事。
だが。
カイトは、グランベルから視線を外さなかった。
「何か、気になることでも?」
「いや」
沈黙。
数秒。
先に口を開いたのは、グランベルだった。
「核を破壊したそうですね」
その声だけ。
ほんの少し低かった。
「……偶然だ」
「それにしては、随分早い」
穏やかな笑み。
なのに。
空気だけが、冷たかった。
数秒。
沈黙。
やがてカイトは、小さく踵を返す。
「……失礼する」
「ええ。お疲れでしょうし」
グランベルは柔らかく微笑んだ。
カイトの姿が、廊下の奥へ消えていく。
その笑みが。
ふっと薄れた。
◇
静かな礼拝堂。
誰もいないはずの暗闇へ向け。
グランベルは、静かに頭を下げる。
「……想定より、早く破壊されました」
沈黙。
やがて。
『誤差の範囲だ』
低い声が落ちた。
感情の薄い声。
「ですが、レイヴン教官は――」
『問題ない』
短い声。
暗闇の奥。
気配だけが、静かに笑った気がした。
グランベルは、何も答えない。
ただ静かに、頭を垂れていた。
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