元勇者の俺は、魔王になった教え子を救いたい 作:ななひゃく2802
森の奥。
朝靄が、低く漂っていた。
湿った土を踏みながら、カイトは足を止める。
「……少し休む」
低い声。
エリシアは、
小さく頷いた。
「……はい」
もう、限界が近かった。
呼吸が浅い。
身体も重い。
黒い紋様は、頬の半分近くまで侵食している。
それでも。
まだ、意識だけは保てていた。
カイトは周囲を見渡す。
崩れた石壁。
半分埋もれた古い遺跡。
人の気配はない。
「ここなら、少しは隠れられる」
エリシアは、壁際へ座り込んだ。
「……っ」
その瞬間。
全身から力が抜ける。
視界が揺れた。
「エリシア」
低い声。
気づけば、カイトがすぐ隣にいた。
「大丈夫か」
「……だい、じょうぶ……です」
「大丈夫な顔してない」
即答だった。
エリシアは、少しだけ苦笑する。
「……最近、厳しくないですか」
「前からだ」
「昔は、もう少し優しかったです」
「気のせいだ」
短いやり取り。
でも。
それだけで、少しだけ苦しさが薄れた。
『殺せ』
頭の奥で、黒い声が響く。
『勇者を』
『全部壊せ』
「っ……!」
黒い魔力が、一気に溢れ出す。
空気が軋む。
遺跡の石壁へ、黒い亀裂が走った。
「エリシア」
低い声。
カイトの手が、そっと頬へ触れる。
「こっちを見ろ」
「……っ」
灰色の瞳。
静かな声。
「聞くな」
「でも……!」
「聞けば、飲まれる」
エリシアの肩が震える。
怖かった。
もう、限界だった。
「……カイ先生」
掠れた声。
「私、本当に戻れるんでしょうか……」
沈黙。
森の風だけが吹く。
カイトは、数秒だけ黙っていた。
そして。
「戻す」
短い声。
「必ず」
エリシアの目に、涙が滲む。
「……どうして、そんな事言えるんですか」
「決めた」
「それだけで……?」
「ああ」
迷いのない返答。
その声を聞いた瞬間。
胸の奥が、ぐちゃぐちゃになった。
嬉しくて。
苦しくて。
怖かった。
「……ずるいです」
「何がだ」
「そうやって、簡単に希望持たせるところです」
カイトは答えない。
ただ。
静かに、エリシアの肩へ手を置いていた。
その手は僅かに震えていた。
◇
崩れた礼拝堂。
朝の光が、静かに差し込んでいた。
「北側の包囲班より連絡です」
騎士が頭を下げる。
「魔力痕跡を確認。
対象は現在、森林区域へ移動中」
「……そうですか」
グランベルは、静かに目を閉じた。
脳裏へ浮かぶ。
灰色の瞳。
魔王を庇うように、前へ立った姿。
「グランベル様」
騎士が、僅かに躊躇う。
「本当に、討伐命令を?」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて。
グランベルは静かに口を開く。
「……被害を出す前に、止めなければなりません」
「ですが」
「彼は、止まりません」
穏やかな声。
だが。
表情は曇っていた。
「昔から、そういう人です」
◇
ふと、カイトの目が細くなった。
「……誰か来る」
「……ぇ」
空気が張り詰める。
次の瞬間。
「教官!!」
聞き覚えのある声が、
森へ響いた。
レオンだった。
枝を掻き分けるように、こちらへ駆けてくる。
その後ろから。
ルーメリアも姿を見せた。
白い外套は泥で汚れ、金色の髪も少し乱れている。
「……やっと見つけました」
静かな声。
カイトは、静かに二人を見据える。
「……何しに来た」
低い声。
警戒している。
当然だった。
だが。
レオンは、悔しそうに顔を歪めた。
「何しにって……そんなの決まってるだろ」
一歩、前へ出る。
「迎えに来たんですよ」
空気が止まる。
エリシアが、小さく息を呑んだ。
カイトは何も言わない。
灰色の瞳だけが、静かに揺れている。
レオンは続けた。
「教官、全部一人で抱え込む気だろ」
「……関係ない」
「関係あります」
即答だった。
震えている。
怖いのだ。
それでも、レオンは目を逸らさない。
「俺、まだ弱いです」
「教官みたいに戦えない」
「何も知らないし、
何も出来ない」
拳を握る。
「でも」
息を吸う。
「それでも、教官を一人で行かせたくない」
静寂。
風だけが吹く。
「……非合理的です」
ルーメリアが、静かに口を開いた。
全員の視線が向く。
ルーメリアは、真っ直ぐカイトを見ていた。
「追われながら、一人で魔王侵食を抑え続けるなど」
翡翠色の瞳が細められる。
「どう考えても、壊れる方が先です」
カイトは答えない。
ルーメリアは続けた。
「あなたは、誰かを助ける時だけ」
少しだけ、苦しそうに目を伏せる。
「自分を消耗しすぎます」
空気が静まる。
エリシアの胸が痛んだ。
その通りだった。
この人は。
ずっと、自分を削っている。
「……教会の封印区画には、歴代勇者の記録があります」
ルーメリアが静かに口を開く。
「侵食に関する資料も、残されているかもしれません」
「……期待はするな」
カイトの低い声。
「分かっています」
それでも。
ルーメリアは視線を逸らさなかった。
数秒の沈黙。
カイトの視線が、一瞬だけエリシアへ向く。
黒い紋様。
粗い呼吸。
「……帰れ」
低い声。
でも。
少しだけ掠れていた。
「教会には俺たちだけで行く」
「お前たちまで、敵になる必要はない」
「もうなってますよ」
レオンが即答する。
「教官の味方した時点で」
カイトの目が、僅かに細くなった。
レオンは笑う。
少しだけ、無理に作ったような笑顔だった。
「だから」
一歩。
さらに前へ出る。
「今さら、教官だけ置いて帰れないんですよ」
その瞬間。
カイトの呼吸が、ほんの僅かだけ止まった。
まるで。
昔、誰かに同じ事を言われたみたいに。
だが。
次の瞬間には、いつもの無表情へ戻っていた。
「……馬鹿ばっかりだな」
小さな呟き。
それが、ほんの少しだけ、
優しく聞こえた。
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