元勇者の俺は、魔王になった教え子を救いたい 作:ななひゃく2802
レオンは走る。
黒い悪意の海を。
泣き声。
怒号。
憎悪。
絶望。
無数の感情が、全身へ絡み付いてくる。
『どうして』
『助けて』
『苦しい』
『死にたくない』
足が止まりそうになる。
怖い。
苦しい。
胸の奥へ、黒い泥が流れ込んでくる。
それでも。
「っ……!!」
レオンは剣を握り直した。
後ろには、もう誰も居ない。
一人で背負わされたんじゃない。
託された。
だから、止まれない。
黒い楔が見える。
イシュタルの核。
勇者と魔王を繋ぎ続けてきた、古い循環の中心。
その前に、アルディウスが立っていた。
黒い鎖に縫い付けられながら。
静かに。
「……来たね」
穏やかな声だった。
レオンは剣を構える。
息が荒い。
腕も痛い。
でも。
前を見る。
「止める」
短い声。
「もう、誰に背負わせるのは終わりだ」
アルディウスは、静かに目を細めた。
「君は、優しいね」
「違ぇよ」
レオンは即座に返す。
「そんな立派なもんじゃねぇ」
剣を握る手へ、力を込める。
「ただ」
「教官が、苦しそうだった」
アルディウスの瞳が、レオンを見つめている。
「エリシアさんも」
「ルーメリアも」
「ずっと、苦しそうだった」
黒い悪意が、荒れ狂う。
でも。
レオンは、もう逸らさなかった。
「だから」
「そんな世界、もう嫌なんだよ……!!」
踏み込む。
誰か一人へ、背負わせない。
それが。
今の答えだった。
アルディウスは、静かにその光景を見ていた。
「……眩しいな」
小さな声。
「本当に」
黒い鎖が、さらに激しく脈動する。
悪意が、アルディウスの身体を侵食していく。
黒い亀裂が、その頬へ走った。
「アルディウス!!」
レオンが叫ぶ。
だが。
アルディウスは、穏やかに笑っていた。
「これでいい」
掠れた声。
「僕は、止まれなかった」
「アステリアを、失いたくなかった」
震える声。
「消えて欲しくなかったんだ」
黒い悪意が、さらに溢れる。
世界が軋む。
レオンは、歯を食いしばった。
もう少し。
あと少しで届く。
その時だった。
ふわりと。
白青の光が舞った。
暖かい光。
優しい光。
光の中。
一人の少女が立っていた。
白と青の外套。
青色の髪。
太陽みたいな笑顔。
アステリア。
アルディウスの呼吸が止まる。
「……ぁ」
声にならない。
アステリアは、少し困ったみたいに笑った。
「アル」
優しい声。
遥か昔と同じ声だった。
「私は勇者だったことを、後悔したことは一度もないよ」
アルディウスの瞳が揺れる。
震える。
アステリアは、静かに続けた。
「大事なものを、守れたから」
その瞬間。
アルディウスの目から、一筋の涙が零れ落ちた。
「……っ」
声にならない。
ずっと。
ずっと。
怖かった。
アステリアの人生が。
犠牲だけで終わってしまった事が。
自分のせいで、消えてしまった事が。
でも。
アステリアは笑っていた。
苦しかったはずなのに。
痛かったはずなのに。
それでも。
優しく笑っていた。
「だから」
アステリアは、泣きそうな顔で笑う。
「もう、一人で抱えなくていいよ」
黒い鎖が、軋んだ。
アルディウスの指先が震える。
何かを掴み続けていた手が。
ゆっくり。
ゆっくりと、ほどけていく。
「……ああ」
掠れた声。
涙が零れる。
「そうか」
黒い悪意が、静かに揺れた。
まるで。
長い夢から覚めていくみたいに。
アルディウスは、レオンを見る。
ただの人間。
勇者でも。
魔王でもない少年。
「……託すよ」
小さな声だった。
レオンは、強く頷く。
「――はい!!」
踏み込む。
剣を握る。
怖い。
でも。
もう迷わない。
レオンは、歯を食いしばり走る。
一閃。
剣が、黒い楔へ届いた。
瞬間。
世界を覆っていた黒い鎖が、一斉に砕け散る。
黒い悪意が、空へ溶けていく。
勇者と魔王を繋いでいた循環が、音を立てて崩壊した。
ルーメリアが、聖剣を握り締める。
エリシアは、胸元を押さえた。
黒い紋様が、少しずつ消えていく。
カイトは、静かに空を見上げる。
灰色の瞳へ。
白青の光が映っていた。
アステリアは、最後に小さく笑う。
『きっと、なんとかなるから』
その声は。
今度こそ、優しく消えていった。
アルディウスの身体から、黒い鎖が崩れ落ちる。
その身体が、ゆっくり後ろへ倒れた。
カイトが近づく。
アルディウスは、かすかに笑った。
「……負けたよ」
「救われてしまった」
カイトは、静かに目を伏せる。
「そうか」
短い声。
アルディウスは、ゆっくり目を閉じた。
その表情は。
ようやく。
何百年かぶりに安らかだった。
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