その日はとても暑い日で、ウチはあの子と海に来た。
少し早い海を、あの子はとても嬉しがって。

あぁ、それがあまりに苦しく、腹立たしかったのだ。

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第1話

「お待たせしました、茜さん」

「ん、お疲れさん。もう済ますこと終わったンか?」

「えぇ、ずん子さん達にも挨拶は済ませてきました。悟られちゃう前にはやいとこ行きましょう」

「さよか。ほんなら行こうか」

 

 その日は雲ひとつない快晴で、事務所前を歩くサラリーマン達はその暑さに死んだような表情を浮かべて道を急ぐ。

 そんな険しい顔をしたスーツ姿の大人たちを尻目に、二人はラフで動き易い私服を身に纏い駅への道をダラダラと歩く。今日は二人とも完全オフ、周りの視線さえ気にしなければもうただの楽しい時間なのだ。そうに違いない。

 

『ふ~ん。で、何処か行きたいところはあるん?』

『そうですね…、海がいいです』

『了解。じゃあ適当にいいとこ探しとくわ』

 

 昨日のラインのやり取りを思い出しながら改札を抜ければ、丁度客入りもまばらな電車が出迎えてくれる。適当な席に並んで座れば、ゆかりは茜の肩に頭を預けてきた。

 

「なんや、まだ眠たいんか?」

「そう、ですね…。ちょっとです」

「ええよ、着いたら起こしたるからそれまで寝とき?」

「ありがとうございます…」

 

 そう呟いて意識を飛ばした彼女の体温は、夏である筈なのに嫌に冷たく感じられた。それがまるで、この後の自分達の行為の果てを表しているように思えて消少々気が滅入る。

 そうして電車に揺られて一時間半程。終点に着くころにはもう電車に乗っているのは自分達だけ。それも仕方ない、夏休みには少し早い時期の平日なんてそんなものだろう。

 

「ゆかりちゃん、着いたで」

「ん…、ありがとうございます」

「ええて、ほんなら行こうか」

「はい」

 

 そう言って二人は、事務所から出たままの碌に荷物も持たない状態で電車から飛び降りた。駅のホームからでさえ潮風の香りと波の音が聞こえる。きっと、これ以上ないほどに望ましい場所だとゆかりは感じていることだろう。希望的観測も交えながら、茜はそう考える。

 駅員に切符を見せて改札をくぐる。其処から十分ほど歩けばすぐに浜辺へと辿り着いた。案の定、というかまだ海の家も開いていない夕暮れ間際のビーチからは人の気配は感じられない。元々お疲れ気味の海水浴場を選んだのだから当然だ。

 

「…流石、茜さんですね。こういうところに詳しい辺りが」

「…ウチ、ゆかりちゃんの中でどういう扱いなん?まぁ、遊び慣れてるのは認めるけど」

「あぁ、まさにそんな感じですね。『仕事なんか知らんわー』みたいな感じの」

「流石にそれはひどない!?」

 

 そう、いつものように笑うゆかりの姿に、やはり茜は心底呆れずにはいられない。――何故、今から死のうという人間がこう気楽な調子で話すのだろう。

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

『…茜さん。もしよろしければ私の最期、見届けてくれませんか?』

 

 そう濁った眼で言われたのはどれほど前だっただろうか。もとより浮世離れした雰囲気を纏う彼女の危うさを知ったのはどれほど前だっただろうか。

 

 彼女は生に対して執着することをあまりしない、というよりも死に対して並々ならぬ関心を持つ人物であった。手首には生々しいラインが刻まれていてそれを隠すようにどれ程暑くてもパーカーを着ていた。また、睡眠作用のある海外製の薬を大量に所持していて明らかに異常な量を摂取していた。一度それで病院へ搬送されたのを茜は見たことがあった。

 それだけならまだいい、最悪だったのは文字通り自らの首を差し出した時だ。

 

『どのタイミングで辞めても構いませんから、この縄で私の首を絞めつけてくれませんか?代わりに出来る範囲でなら何かお返ししますから』

 

 マキさんやずん子さんに頼んでも聞いてもらえなかったので。そんな言葉を付けたされた時は、一体どう断ってやろうかと考えて諦めた。このまま自分まで断ったら葵やそれこそきりたんの様な子供にまで頼みかねない空気を纏っていたから。

 観念して首を絞めてやった、するとどうだろう。明らかに苦悶の表情を浮かべている筈なのに、眉間に皺を寄せ口からは絶え絶えの息が漏れている筈なのに、何故その口角は上がっているのだろうか。何故時折満足そうな表情を見せるのだろうか。

 

『けほ、か、はぁ…。どうしたんですか、私まだ全然余裕だったんですけど…』

 

 最早、異常な性癖に恐怖を感じて手放してみればこの返事、流石に怒りが限界を迎えて『もう二度と、誰にもこういうこと頼んだりすんなや!痛めつけるんなら自分でやれ!』と怒鳴り付けた。

 それを渋々という様子で受け入れた、かの様に思えたが何故か茜にはこうしたお願いを何度か頼んできた。当然断ったが、マキやずん子に確認してみるとそういった依頼はあの縄の件以降何故か自分にだけ持ちかけてきたらしい。

 それを知って以来、茜は自分が許容できる範囲の他の身であれば嫌々ながらも引き受けるようになった。茜はただ、ゆかりの真意が知りたかった。

 

 

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

「おー、冷たいですね。さすが海」

「いや、当たり前やろ」

「むぅ……、えいっ!」

「うおっ!何やねん、自分!」

 

 ゆかりは靴を脱いで浅いところを相も変わらず飄々とした様子で水をちゃぷちゃぷと蹴飛ばしながら歩く。それを興味なさげに見ていた茜の様子が不満だったのか、少し勢いを付けて茜の方に海水を飛ばしてやった。そうしてやれば、茜は怒った様子でゆかりへと迫っていくのであるが、ゆかりは楽しそうに茜から逃げ回る、その様子はさながら青春映画のワンシーンのようで、自分達には酷く似合わないと茜は内心思った。恐らくゆかりも全く同じ考えだろう、そう茜は考える。

 

「こんの、ちょこまか、とぉ!」

「うひゃあ!」

 

 痺れを切らし飛びかかるようにしてゆかりを取り押さえる。そんなことをしてしまえば当然であろう、ゆかりは勿論茜もまた飛び跳ねた海水でぐしょぐしょに濡れてしまった。それの何が面白いのだろう、ゆかりは満足そうに、本当に楽しそうに笑うのだ。反対に、結果として戦犯になってしまった茜は苦虫を噛み潰したような不快そうな表情を浮かべた。

 

「はは、何でしょう。子供の頃に戻ったみたいです」

「…はぁ、最期の思い出くらいにはなったやろ?」

「えぇ、申し分ないです」

 

 その発言と表情のギャップに溜息を付かずにはいられない。茜はさっさと立ち上がり、服の端を軽く絞る。それでも完全に水気は落ちてくれない。靴や裾に纏わりつく砂に茜の表情が更に険しくなる。

 一方のゆかりは仰向けの状態から砂浜に軽く肘を付いて上半身を起こしただけで、未だに笑いながら海水に浸かっている。その表情が、どこかとても痛々しく思えた。

 

「んじゃあ、そろそろ行ってきますね。…助けないでくださいよ?」

「…分かっとるわ」

 

 それだけ確認して、ゆかりは立ち上がった。顔は砂浜に佇む茜に向いてこそいるが身体はもう水平線に向けられている。

 

「ありがとうございました、それじゃあ」

「あ、その前にひとつ、ええか?」

「…なんです?」

 

 今日初めて不機嫌そうな顔でゆかりは茜の方へ振り向いた。今からお望みの自殺行為を、というタイミングでわざとらしく水を差されたのだから当然と言えば当然であるが。

 

「…なんでウチに頼ったん?」

「なんで、とは?」

「こんなとこ、ウチに調べさせんでも自分でぱぱっと見つけられるやろ、お前なら尚更な。それだけやない、なんでウチより付き合い長いマキさんやらずん子に言わんでウチにこんなん頼んだんや?なんでわざわざお前の自殺にウチが何度も――」

「え、当然でしょう?好きだからです」

「―――は?」

 

 何を言っているんだ、と言いたげに茜は眉根を寄せた。ゆかりはゆかりで、どうして今更こんなことを聞くのか、と言いたげな表情で茜を見ている。そうして暫く見つめ合い、あるいは睨み合い、ゆかりは溜息をついた。

 

「…私、小さい頃からの夢だったんです。自分が人生で一番好きになった人に殺してもらいたい、そうじゃないならせめて自分の最期を見届けてもらいたいって。…気付いてもらわなくてもいい、なんて思ってましたけど本当に気付かれないと少し傷つきますね」

 

 そう言って苦笑する様子は、普段の飄々とした様子からは中々想像できない憂いに満ちたものだった。茜はただ黙ってゆかりの言葉に耳を傾けている、というよりもまだ理解が追い付いていない様子だった。

 

「だって、最高じゃないですか。私の最期の姿を他の誰でもない、世界で一番好きな茜さんに見てもらえる、私の人生の最期を差し上げられるなんて!私は、これ以上に私の想いを伝える方法を思い付けませんでした!私の最期は絶対に茜さんに捧げたくて――っ!」

 

 ――――気付けば、茜は衝動のまま沖へ駆け出し、ゆかりのところまで辿り着けばそこにいる彼女を仰向けに押し倒していた。先程より潮の満ちたそこは人の頭部を丸々沈ませるには十分な深さで。嗚呼、何故自分はこんな馬鹿なことをやっているのだろう、自覚しながらもそれを止めることが出来なかった。

 

 水面のその下で潮の動きとは違う水泡が立つ。その水泡は徐々に小さく、感覚も長くなっていく。弱々しく散っていく。それなのに、何故、彼女は、これまで見たこともない様な穏やかな表情をしていられるのだろうか。何故、きっと恐ろしく酷い顔をしている自分の愚行をそんな笑顔で許容できるのだろうか。

 ――――何故、こんな形で終わってしまうまで、彼女は自分に何も言わなかったのだろうか。

その全ての思いが、重さとなってゆかりの首に押し付けられる。その重さをどれ程求めていたのだろう、その苦しさにどれ程恋焦がれていたのだろう、結月ゆかりは海水と幸せの絶頂に沈みながら、世界から消えていった。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 茜が妹からの不在着信に気付いたのは、もう息絶えたゆかりを砂浜へと運んだ頃だった。だけどもう、掛け直す必要もないだろう。そんな無責任な思考に陥るのはどうしてか、ゆかりの魂が一部でも乗り移ったのか、そうであれば少し面白いかもしれない。ぼんやりとそんなことを思いながら茜はスマホを鞄の中へと入れ直し、

 

「えい、やぁ」

 

 ぽちゃん、海へと放り投げた。何故だろう、それがこの場で何より価値のある行為に思えてしまった。それが、結月ゆかりという人間の見ていた世界を共有できているようでどうも嬉しかった。

 だが、茜はそれだけでは満足できそうになかった。死に化粧は出来なくとも死ぬならもう少しましな格好の方が彼女も浮かばれよう。タオルで濡れた顔を拭い乱れた化粧を拭きとってやれば、そのままでも腹立たしい位に綺麗な顔が現れる。

 

「…それじゃあ、行こうな。ゆかりちゃん」

 

 そう呟くと、茜は既に返事もできないゆかりを横抱きにして、水平線のその先を目指すようにゆっくりと歩を進めた。その向こうに辿り着くことが出来るなら、二人はもっと同じ世界を共有できるだろう。一部などではない、全くそっくり同じ魂を持つことが出来るだろう。言葉など要らずに、彼女の全てを好きになれるのだろう。


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