最強皇帝と無力聖女   作:yr

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皇帝、聖女を観察する

 

 聖女というものは、もっと分かりやすく輝いているのだと思っていた。

 

 たとえば、愚かな民衆が見上げれば勝手に涙を流すくらいには清らかで、聖職者どもが跪けば自分の価値を信じ込めるくらいには尊大で、王侯貴族に差し出されれば少しは怯えるくらいには人間らしい。

 

 少なくとも、ルシェリア・ヴァルクレアはそう思っていた。

 

 だから、玉座の間に連れてこられた少女を見た瞬間、まず退屈した。

 

 白い髪。白い肌。淡い色の瞳。

 

 聖王国が好みそうな、清廉で、壊れやすく、民衆が勝手にありがたがりそうな容姿。

 

 なるほど、飾り物としては悪くない。

 

 そう評価して、ルシェリアは玉座の肘掛けに頬杖をついた。

 

「君が、セレフィア聖王国から献上された聖女?」

 

 軽い声だった。

 

 十五歳の少女にして帝国の頂点に立つ皇帝は、金の髪を指先で弄びながら、目の前の聖女を見下ろしていた。

 

 見下ろすことに慣れた目だった。

 

「エリシア・セレフィアと申します」

 

 聖女は静かに答えた。

 

 声は小さくない。震えてもいない。

 

 恐怖も、媚びも、怒りも、恥も、誇りも、ほとんど乗っていない。

 

 ルシェリアは、そこで初めて少しだけ眉を動かした。

 

「ふうん」

 

 つまらない返事をしながら、ルシェリアはいつものように、少女の内側へ指を伸ばした。

 

 もちろん、本当に手を伸ばしたわけではない。

 

 心。魂。死の近さ。嘘の濁り。欲望の熱。恐怖の震え。

 

 普通の魔法使いには触れられないもの。

 

 それを、ルシェリアだけは外側から薄く撫でられる。

 

 完全に読めるわけではない。

 

 相手が何を考えているか、文章のように覗けるわけでもない。

 

 ただ、人間なら必ず持っている気配がある。

 

 怯えた者は震える。媚びる者はまとわりつく。欲深い者は熱を帯びる。嘘をつく者は輪郭が歪む。

 

 人間の内側は、いつも騒がしい。

 

 だからルシェリアは人間が嫌いだった。

 

 だが。

 

「……?」

 

 何も、指にかからなかった。

 

 ルシェリアは頬杖をついたまま、もう一度探った。

 

 死んでいるわけではない。

 

 目の前の少女は呼吸している。瞬きもしている。声も出した。

 

 人形ではない。魂の気配も、死の気配も、完全に空白ではない。

 

 なのに、心の輪郭だけが異様に薄かった。

 

 水面に浮かんだ霧を掴もうとしているようだった。

 

 ある。

 

 確かにあるはずなのに、指を入れた瞬間、形が崩れて消える。

 

「……へえ」

 

 ルシェリアは笑った。

 

 笑ったつもりだった。

 

 けれど、その声は自分で思ったよりも少し低かった。

 

「顔を上げなよ、聖女」

 

 エリシアは言われた通りに顔を上げた。

 

 淡い瞳が、まっすぐルシェリアを見る。

 

 そこにも、やはり何もない。

 

 正確には、何もないように見えるほど薄い。

 

 皇帝を前にした人間は、必ず何かを滲ませる。

 

 恐怖。敬意。欲。打算。憧れ。憎しみ。

 

 なのに、この聖女の視線には、ほとんど何も混ざっていなかった。

 

「僕が怖くないの?」

 

「怖がるべきでしょうか」

 

 問い返された。

 

 ルシェリアは一瞬、黙った。

 

 玉座の間の空気が少しだけ硬くなる。

 

 控えていた近衛たちが、わずかに息を呑んだ。

 

 皇帝の問いに問いで返すなど、無礼にもほどがある。

 

 だが、エリシアの声には反抗がなかった。

 

 挑発でもない。

 

 本当に、必要ならそうする、とでも言うような平坦さだった。

 

 ルシェリアは口角を上げた。

 

「いいよ。無礼だけど、面白いから許してあげる」

 

「ありがとうございます」

 

「感謝も薄いね」

 

「申し訳ありません」

 

「謝罪も薄い」

 

「そう、なのですね」

 

 近衛の一人が、露骨に眉をひそめた。

 

 ルシェリアはそれを横目で見て、ひらりと手を振る。

 

「下がっていいよ。ああ、レナートは残って」

 

 名を呼ばれた黒髪の側近だけが、その場に残った。

 

 彼は一礼し、皇帝の右斜め後ろに控える。

 

 ルシェリアはエリシアを見たまま言った。

 

「この子の経歴、軽く調べさせたんだっけ」

 

「はい。聖王国では、神に近い魂を持つ聖女として扱われていたようです。幼少の頃より欲が薄く、金品を与えられても他者へ譲ることが多かったと」

 

「慈悲深い聖女、ってわけだ」

 

「聖王国側の記録では、そのように」

 

「記録では、ね」

 

 ルシェリアは鼻で笑った。

 

 慈悲。

 

 無欲。

 

 神に近い魂。

 

 人間は、自分に都合のいい名前をつけるのが本当に好きだ。

 

 欲が薄い人間を見れば聖女と呼び、欲が強い人間を見れば俗物と呼ぶ。

 

 どちらも人間であることには変わらないのに。

 

「エリシア」

 

「はい」

 

「君、自分が慈悲深いと思う?」

 

「分かりません」

 

「じゃあ、人に物をあげるのは好き?」

 

「欲しい方がいるなら、渡します」

 

「それは好きだから?」

 

「持っていても、渡しても、あまり変わりませんので」

 

 ルシェリアは笑みを深めた。

 

 面白い。

 

 いや、違う。

 

 気持ちが悪い。

 

 好きでも嫌いでもない。

 

 惜しくもない。

 

 自分のものだという感覚も薄い。

 

 だから渡す。

 

 それを周囲が勝手に、慈悲と呼んだ。

 

「試してみようか」

 

 ルシェリアが指を鳴らすと、控えていた侍女たちが銀の盆を運んできた。

 

 深い青の宝石が載っている。

 

 夜空を固めたような石だった。

 

 帝国北方の鉱山で、数年に一度しか採れない希少なものだ。

 

 貴族の娘なら息を呑む。商人なら値を計算する。聖職者でも、献上品としての価値くらいは理解する。

 

 ルシェリアはそれを手に取り、無造作にエリシアへ差し出した。

 

「これ、あげる」

 

 侍女の指が一瞬だけ震えた。

 

 レナートも、かすかに目を細める。

 

 だがエリシアだけは、差し出された宝石を見て、静かに両手で受け取った。

 

「綺麗ですね」

 

「欲しい?」

 

「陛下が私に持っていてほしいのでしたら、持っています」

 

「君が欲しいかどうかを聞いてるんだけど」

 

 エリシアは少しだけ宝石を見下ろした。

 

 青い光が、白い指先に映る。

 

「必要な方がいるなら、その方に渡します」

 

「必要な方、ね」

 

「はい」

 

「君には必要ない?」

 

「分かりません。ですが、なくても困らないと思います」

 

 ルシェリアは宝石ではなく、エリシアの指先を見ていた。

 

 高価なものを持たされた緊張がない。

 

 失うことへの不安がない。

 

 与えられたことへの喜びもない。

 

 ただ、落とさないように持っている。

 

 その程度だった。

 

「つまらないね」

 

「申し訳ありません」

 

「謝らなくていいよ。謝られるほど期待してなかったし」

 

 ルシェリアは宝石を侍女に戻させた。

 

 次に、二人の兵が大きな額縁を運び込んできた。

 

 布が取り払われると、玉座の間の空気がわずかに変わる。

 

 現れたのは、帝国の初代皇帝が黒い竜を踏みつける姿を描いた大作だった。

 

 力。勝利。支配。

 

 ヴァルクレア帝国そのものを象徴する絵だった。

 

 普通なら、それを前にした者は圧倒される。

 

 帝国の者なら誇りを覚え、敵国の者なら威圧を感じる。

 

 聖王国の聖女なら、野蛮と嫌悪してもおかしくない。

 

 ルシェリアは玉座から降り、エリシアの横に立った。

 

「どう?」

 

 エリシアは絵を見た。

 

 しばらく見ていた。

 

 見てはいた。

 

 だが、そこに感動の波はない。

 

「大きいですね」

 

「感想が子供」

 

「申し訳ありません」

 

「他には?」

 

「価値のあるものなのだと思います」

 

「君はどう思うの?」

 

「見てほしいのでしたら、見ます」

 

 ルシェリアは小さく息を吐いた。

 

 違う。

 

 美しいと思うか。恐ろしいと思うか。くだらないと思うか。欲しいと思うか。嫌いだと思うか。

 

 そういうものが見たいのだ。

 

 なのに、エリシアは求められた動作だけを返してくる。

 

 人形のように。

 

 だが人形ではない。

 

 そこが、いちばん気に入らない。

 

「この絵、聖王国では嫌われそうだよね。竜を踏む皇帝なんて、信仰心の強い連中には野蛮に見えるんじゃない?」

 

「そうかもしれません」

 

「君は聖王国の人間でしょ。嫌じゃないの?」

 

「私が嫌がる必要はありますか」

 

 その返答に、ルシェリアは目を細めた。

 

「必要がなければ、嫌がらないんだ?」

 

「嫌かどうかが、あまり分かりません」

 

 静かな声だった。

 

 悲しんでもいない。

 

 困ってもいない。

 

 ただ事実を置いただけの声。

 

 ルシェリアは、胸の奥に細い棘を刺されたような不快感を覚えた。

 

 人間は、自分の好き嫌いにうるさい。

 

 嫌だ。欲しい。怖い。認めてほしい。愛されたい。勝ちたい。奪いたい。救われたい。

 

 そうやって心の中で騒ぎ続ける。

 

 だから理解できる。

 

 だから支配できる。

 

 なのに、この聖女は。

 

「食事を出して」

 

 次の試験は、さらに分かりやすかった。

 

 皇帝の客に出すには明らかに質素な食事。

 

 硬い黒パン。薄い野菜のスープ。塩気の少ない豆。果実も肉もない。

 

 侍女たちは気まずそうにしていた。

 

 聖王国から献上された聖女への扱いとしては、あまりに雑だ。

 

 それでも、皇帝の命令である。

 

 エリシアの前に皿が置かれた。

 

 ルシェリアは向かいに座り、頬杖をつく。

 

「食べなよ」

 

「はい」

 

 エリシアは匙を取り、薄いスープを口に運んだ。

 

 顔色は変わらない。

 

 眉も動かない。

 

 不満も、屈辱も、困惑もない。

 

「美味しい?」

 

「食べられます」

 

「それだけ?」

 

「はい」

 

「君、自分が雑に扱われてるって分かってる?」

 

 エリシアは匙を止めた。

 

 ようやく何か反応が出るかと思った。

 

 怒りか。

 

 悲しみか。

 

 聖女としての誇りか。

 

 しかしエリシアは、少し考えてから言った。

 

「食事をいただいています」

 

「豪華な食事じゃない」

 

「はい」

 

「侮辱かもしれないよ」

 

「そうなのですか」

 

「……君ね」

 

 ルシェリアは笑った。

 

 声だけは軽かった。

 

 けれど、肘掛けを叩く指先に、少しだけ力が入る。

 

「普通は怒るんだよ。聖女としての扱いが悪いって。もしくは悲しむ。怖がる。媚びる。せめて、なぜこんな食事なのか聞く」

 

「必要でしたか」

 

「必要かどうかじゃない」

 

 言ってから、ルシェリアは口を閉じた。

 

 必要かどうかではない。

 

 そう。

 

 人間の心は、必要かどうかだけで動かない。

 

 欲しいから欲しがる。

 

 嫌だから拒む。

 

 怖いから震える。

 

 屈辱だから怒る。

 

 ルシェリアは、そういうものをずっと見てきた。

 

 見すぎて、嫌になった。

 

 なのに。

 

 目の前の聖女は、そのうるささを持っていない。

 

 静かだった。

 

 あまりにも静かだった。

 

 その静けさは、安らぎではなかった。

 

 少なくとも、まだ。

 

 今はただ、底の見えない水面を覗き込んでいるようで、不快だった。

 

「エリシア」

 

「はい」

 

「君、何なら欲しいの?」

 

 エリシアはすぐには答えなかった。

 

 困っているようには見えない。

 

 ただ、該当するものを探しているように見えた。

 

「今は、特には」

 

「命は?」

 

「あります」

 

「そうじゃなくて。生きていたい?」

 

 侍女が小さく息を呑んだ。

 

 その問いは、食事の席で投げるにはあまりにも不穏だった。

 

 エリシアは、ルシェリアを見た。

 

 淡い瞳。

 

 薄い心。

 

 掴めない輪郭。

 

「死ぬ必要がなければ、生きています」

 

 ルシェリアは黙った。

 

 死にたいわけではない。

 

 生きたいわけでもない。

 

 命にすら、強くしがみついていない。

 

 普通なら、ここで寒気を覚えるのだろう。

 

 実際、部屋の空気は冷えていた。

 

 けれどルシェリアは笑った。

 

 笑うしかなかった。

 

「君、やっぱり気持ち悪いね」

 

「申し訳ありません」

 

「謝らないでよ。褒めてるんだから」

 

「そうなのですか」

 

「嘘。褒めてない」

 

「はい」

 

 会話が終わる。

 

 あまりにも簡単に。

 

 ルシェリアは苛立った。

 

 何を投げても、沈まない。

 

 何を与えても、跳ねない。

 

 何を奪っても、たぶん叫ばない。

 

 まるで、心という水面に石を投げているのに、波紋だけが立たない。

 

 ありえない。

 

 人間なら、何かが動くはずだ。

 

 ルシェリアは立ち上がった。

 

 椅子の脚が床を擦る音に、侍女たちが肩を震わせる。

 

 エリシアだけは、匙を置いて静かにルシェリアを見上げた。

 

「宝石でも動かない」

 

 ルシェリアは歩きながら言った。

 

「絵でも動かない」

 

 窓の外では、夕暮れの光が帝都の屋根を赤く染めている。

 

「粗末な食事でも動かない」

 

 ルシェリアは足を止め、振り返った。

 

 その顔には笑みがあった。

 

 美しく、軽く、ひどく意地の悪い笑み。

 

「じゃあ明日は、もっと分かりやすいものを見せてあげる」

 

 エリシアは小さく首を傾げた。

 

「分かりやすいもの、ですか」

 

「そう。人間がいちばん分かりやすくなる場所」

 

 欲望。

 

 恐怖。

 

 痛み。

 

 命。

 

 人間は、命を削られるときに本性を出す。

 

 それでもこの聖女が動かないのなら。

 

 その時は。

 

 ルシェリアは、胸の奥に生まれた冷たいものを、興味という名前で塗りつぶした。

 

「楽しみにしてなよ、聖女」

 

「はい」

 

「……本当に、つまらない返事」

 

 そう言いながら、ルシェリアはなぜか、すぐに目を逸らせなかった。

 

 エリシアは何も欲しがらない。

 

 何も恐れない。

 

 何も拒まない。

 

 だからこそ、ルシェリアには分からなかった。

 

 分からないものは嫌いだった。

 

 分からないものは、支配できないから。

 

 けれど同時に、分からないものから目を離すことも、ルシェリアにはできなかった。

 

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