最強皇帝と無力聖女   作:yr

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皇帝、聖女が光るのを見る

 人間がいちばん分かりやすくなる場所は、だいたい決まっている。

 

 祈りの場ではない。

 

 寝台の上でもない。

 

 金貨の山の前でも、王冠の下でも、恋文の返事を待つ夜でもない。

 

 ルシェリア・ヴァルクレアに言わせれば、それは命が削れる場所だった。

 

 痛みがあり、勝敗があり、歓声があり、次の一手を間違えれば息が止まる場所。

 

 人間は、そういう場所でよく喋る。

 

 口ではなく、心が。

 

「今日は昨日より退屈しないと思うよ」

 

 皇帝専用の観覧席。

 

 高く張り出した石造りの席からは、円形の闘技場がよく見えた。

 

 砂を敷き詰めた地面には、古い血の跡が黒く沈んでいる。観客席はすでに人で埋まり、熱気と歓声が渦のように回っていた。

 

 鉄の柵の向こうでは、剣闘士たちが入場を待っている。

 

 罪人。貧民。敗残兵。借金を背負った者。名を上げたい者。

 

 出自はばらばらだが、ここではひとつだけ共通している。

 

 勝てば進める。

 

 負ければ、そこで終わる。

 

 エリシアは、ルシェリアの隣に立っていた。

 

 白い髪は風に少し揺れている。淡い瞳は闘技場を見下ろしていた。

 

 怖がっているようには見えない。

 

 興奮しているようにも見えない。

 

 昨日と同じだった。

 

 宝石を見たときも、絵を見たときも、硬い黒パンを食べたときも、彼女の顔は大きく変わらなかった。

 

 ルシェリアは肘掛けに頬杖をつき、わざと軽く言った。

 

「ここが何をする場所か分かる?」

 

「人が戦う場所でしょうか」

 

「うん。正解。半分だけ」

 

 ルシェリアは、闘技場の中央を指差した。

 

 砂の上に、二人の男が引き出されてくる。

 

 一人は大柄な剣闘士だった。筋肉のついた腕に古傷がいくつも走っている。観客の歓声に応えるように剣を掲げると、場内がどっと沸いた。

 

 もう一人は、それより細い男だった。鎧は古く、足運びにも硬さがある。だが目だけは死んでいない。

 

「大きい方は常連。元は敗残兵だけど、ここで勝ち続けて今じゃ貴族に雇われる寸前。小さい方は罪人。三勝すれば減刑。五勝すれば労役からも外れる」

 

「そうなのですか」

 

「帝国は優しいでしょ?」

 

 言いながら、ルシェリアは笑った。

 

「弱い者をただ踏むわけじゃない。這い上がる場所くらいは用意してあげる。勝てば認める。負ければ、それまで。分かりやすいと思わない?」

 

「分かりやすい、のかもしれません」

 

「聖王国なら、祈れば救われるって言うんだろうね。でも帝国では違う」

 

 ルシェリアの視線が細くなる。

 

「救われたいなら、勝つんだよ」

 

 その瞬間、銅鑼が鳴った。

 

 重い音が闘技場の空気を震わせる。

 

 剣闘士たちが動いた。

 

 大柄な男が踏み込む。剣が振り下ろされ、細い男が横に転がってかわす。砂が跳ねた。観客が歓声を上げる。

 

 鉄と鉄がぶつかる音。

 

 足音。

 

 叫び。

 

 野次。

 

 期待。

 

 恐怖。

 

 欲。

 

 観客席から、無数の心のざわめきがルシェリアに流れ込んでくる。

 

 殺せ。

 

 勝て。

 

 立て。

 

 負けるな。

 

 当てろ。

 

 賭けた金を返せ。

 

 生き残れ。

 

 そういう人間らしい熱が、闘技場には満ちていた。

 

 汚くて、単純で、分かりやすい。

 

 ルシェリアはそれに少しだけうんざりしながら、隣を見た。

 

 エリシアは、戦いを見ていた。

 

 ただ見ていた。

 

 剣が肩をかすめても。

 

 血が砂に散っても。

 

 観客が叫んでも。

 

 細い男が転び、かろうじて剣を盾にして次の一撃を受け止めても。

 

 エリシアの心は、やはり薄いままだった。

 

 恐怖の震えがない。

 

 嫌悪の濁りもない。

 

 憐れみの熱もない。

 

 ルシェリアは唇の端を上げた。

 

「これでも動かないんだ」

 

 声は笑っていた。

 

 けれど、胸の奥には昨日と同じ棘があった。

 

 宝石でもない。

 

 美でもない。

 

 粗末な扱いでもない。

 

 では、命ならどうだ。

 

 そう思って連れてきた。

 

 なのに、エリシアは変わらない。

 

 何もないわけではない。

 

 見ている。聞いている。呼吸している。

 

 しかし、そこに強い揺れがない。

 

「聖女って、もっと人の死に顔を嫌がるものだと思ってた」

 

「まだ、死んでいません」

 

「そういう問題?」

 

「分かりません」

 

「じゃあ、死んだら何か変わる?」

 

 エリシアは少しだけ沈黙した。

 

 答えを探しているのだろう。

 

 感情を探しているのではなく、正しい返答の場所を探している。

 

「死ぬことは、終わることだと思います」

 

「うん」

 

「終わったものに、私はあまり触れられません」

 

 ルシェリアは目を細めた。

 

「触れられない?」

 

「はい」

 

 その声に悲しみはない。

 

 ただ、そういうものだと告げる平坦さだけがあった。

 

 ルシェリアは返事をしなかった。

 

 闘技場では、戦いが一気に動いていた。

 

 細い男が、無理に踏み込んだ。

 

 勝機を見たのだろう。

 

 大柄な男の剣が大きく流れた一瞬、懐へ入ろうとした。

 

 だが、浅かった。

 

 大柄な男の膝が、細い男の腹を打つ。

 

 息が潰れる音がした。

 

 次の瞬間、剣の柄が顔に叩き込まれた。

 

 細い男は砂の上に倒れた。

 

 歓声が爆発する。

 

 殺せ、という声。

 

 立て、という声。

 

 もう駄目だ、という笑い。

 

 細い男は死んでいなかった。

 

 だが、立てない。

 

 喉の奥で、空気を掻くような音を立てている。

 

 息を吸おうとして、吸えない。

 

 腹を押さえ、砂を掴み、顔を歪めている。

 

 血はそれほど派手ではない。

 

 致命傷でもない。

 

 ただ、苦しんでいた。

 

 その瞬間だった。

 

 エリシアの指先に、小さな光が灯った。

 

 ルシェリアは、瞬きも忘れてそれを見た。

 

 光は弱かった。

 

 聖王国の神殿で語られる奇跡のような輝きではない。

 

 傷を塞ぐほどの力もない。

 

 闘技場全体を包むような神々しさもない。

 

 ただ、朝の窓辺に落ちる陽だまりのように、細く、あたたかい光だった。

 

 それは観覧席から落ちるにはあまりにも頼りなく、けれど確かに砂の上まで届いた。

 

 倒れた男の傷は治らない。

 

 折れたかもしれない肋骨も、そのままだ。

 

 血も止まらない。

 

 けれど、男の喉から漏れていた音が、ほんの少しだけ変わった。

 

 乱れていた呼吸が、一拍だけ整う。

 

 恐怖に見開かれていた目が、わずかに緩む。

 

 痛みが消えたわけではない。

 

 助かったわけでもない。

 

 ただ、苦しみの角が少しだけ丸くなった。

 

 それだけだった。

 

 ルシェリアは、ゆっくりとエリシアを見た。

 

 エリシアは闘技場を見下ろしている。

 

 涙はない。

 

 怒りもない。

 

 祈りの言葉もない。

 

 自分が何か尊いことをしているという顔でもない。

 

 指先に灯った光を、当然のようにそのままにしている。

 

「今の、何?」

 

 ルシェリアが尋ねる。

 

「光です」

 

「それは見れば分かるよ」

 

「苦しそうでしたので」

 

「だから助けた?」

 

「助けた、のでしょうか」

 

 エリシアは少しだけ首を傾げた。

 

「傷は治っていません」

 

「うん。治ってないね」

 

「死ぬかもしれません」

 

「そうだね」

 

「でも、少し息がしやすくなったように見えました」

 

 ルシェリアは笑った。

 

 昨日よりも、少しだけ本当に。

 

「君、自分のしたこともよく分かってないの?」

 

「光を出すと、苦しそうな方が少し楽になることがあります」

 

「それを慈悲って呼ぶんじゃないの? 聖王国では」

 

「そう呼ばれていました」

 

「君は?」

 

「呼び方は、あまり分かりません」

 

 ルシェリアは闘技場に視線を戻した。

 

 大柄な剣闘士は勝者として剣を掲げている。

 

 細い男は兵に引きずられていく。まだ生きている。死ななかった。だが負けた。

 

 観客は次の試合を待っている。

 

 誰も、エリシアの小さな光には気づいていない。

 

 気づいたとしても、奇跡とは呼ばないだろう。

 

 あまりに弱い。

 

 あまりに頼りない。

 

 けれどルシェリアだけは、見逃さなかった。

 

 死ではない。

 

 血ではない。

 

 敗北でもない。

 

 命が終わる瞬間でもない。

 

 この聖女は、苦しみに反応した。

 

 ほんのわずかに。

 

 心の底が見えたわけではない。

 

 相変わらず、エリシアの内側は薄く、掴めず、気味が悪いほど静かだった。

 

 それでも。

 

 一箇所だけ、触れた。

 

 指先に、引っかかった。

 

「へえ」

 

 ルシェリアは小さく呟いた。

 

 エリシアがこちらを見る。

 

「何でしょうか」

 

「いや」

 

 ルシェリアは頬杖をつき直し、口元に笑みを浮かべた。

 

「君、死じゃなくて苦しみに反応するんだ」

 

 エリシアは否定しなかった。

 

 肯定もしなかった。

 

 ただ、まだ引きずられていく敗者の方を見ていた。

 

「そう、なのかもしれません」

 

「自分のことなのに?」

 

「はい」

 

「本当に、君はつまらない返事ばかりするね」

 

「申し訳ありません」

 

「謝罪も昨日と同じ。成長がない」

 

「努力します」

 

「そこは努力するんだ」

 

 ルシェリアは笑った。

 

 観客の歓声が、次の試合の始まりを告げる。

 

 鉄の門が開き、新しい剣闘士が砂の上へ出てくる。

 

 熱狂。

 

 欲望。

 

 恐怖。

 

 願い。

 

 命を削る音。

 

 いつもならただ騒がしいだけの場所が、その日は少し違って見えた。

 

 ルシェリアは隣の聖女を見た。

 

 白い横顔。

 

 薄い心。

 

 何も欲しがらず、何も恐れず、それでも苦しみだけには指先を動かす少女。

 

 理解できない。

 

 だから気持ちが悪い。

 

 気持ちが悪いから、もっと見たい。

 

「次も、ちゃんと見ててね」

 

「はい」

 

「何に反応するのか、僕に分かるように」

 

「私にも、分かるでしょうか」

 

「さあ」

 

 ルシェリアは、ひどく楽しそうに目を細めた。

 

「それを調べるんだよ。君で」

 

 エリシアは瞬きをした。

 

 拒絶はない。

 

 怒りもない。

 

 恐怖もない。

 

 ただ、静かに闘技場へ視線を戻す。

 

 ルシェリアはその横顔から目を離さなかった。

 

 昨日よりも、ほんの少しだけ。

 

 この聖女のことが分かった。

 

 心は読めない。

 

 理由も分からない。

 

 けれど、条件は一つ見えた。

 

 苦しみ。

 

 この何も持たない聖女は、苦しみだけを少し拾う。

 

 なら、次は。

 

 ルシェリアはその先を考えかけて、喉の奥で笑った。

 

 怖い、とは思わなかった。

 

 そんな弱い言葉を、自分に許す気はなかった。

 

 ただ、胸の奥の冷たさは、昨日よりもはっきり形を持っていた。

 

 それをルシェリアは、興味と呼ぶことにした。

 

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