最強皇帝と無力聖女 作:yr
聖王国の手紙は、いつも香りが強い。
白い封蝋。
金糸で飾られた羊皮紙。
神聖さを押しつけるような香油の匂い。
紙一枚でさえ、自分たちは清いのだと言いたがっている。
ルシェリア・ヴァルクレアは、その手紙を読み終える前に笑った。
「すごいね。紙からでも媚びって滲むんだ」
執務室には、側近のレナートと数名の文官が控えていた。
机の上には、朝から届いた書簡が積まれている。
内政の報告。軍部からの要請。辺境貴族の揉め事。鉱山収益の確認。コロシアムの収支。
その一番上に、聖王国からの抗議文が置かれていた。
「聖女エリシア・セレフィアは、神に最も近き魂を持つ尊き乙女であり、いかなる地にあっても聖女として相応の敬意を払われるべきである……だって」
ルシェリアは、声に出して読み上げた。
軽い口調だった。
けれど、文官たちは誰も笑わなかった。
「敬意ね。便利な言葉だよね。自分たちの手から差し出したくせに、まだ首輪の端だけ握っていたいらしい」
封書の向こうにいる聖職者たちの気配が、薄く残っている。
恐怖。
打算。
信仰という名前を被せた支配欲。
聖女を帝国へ献上した。
けれど完全には手放したくない。
帝国が聖女を粗末に扱えば、それを責められる。
帝国が聖女を丁重に扱えば、それを利用できる。
どちらに転んでも、聖王国は聖女の名で口を出せる。
そういう考えが、紙面の丁寧な言葉の裏に貼りついていた。
粘つく。
薄く、白く、清らかなふりをした泥のように。
「陛下、返信はいかがいたしますか」
レナートが静かに尋ねる。
ルシェリアは羊皮紙をひらひらと振った。
「聖女様は昨日、帝国の食事を召し上がりました。今日は帝国の文化も見学なさいました。丁重だね。実に丁重」
「聖王国側は、コロシアムへの同行を問題視する可能性があります」
「問題視? おかしいな。弱者が強者に挑む場所を見せただけだよ。聖女なら喜ぶべきじゃない? 迷える民に救いの光を向ける機会があったんだから」
ルシェリアはにこりと笑った。
「まあ、光はだいぶ弱かったけど」
文官の一人が、視線を伏せた。
それを見て、ルシェリアはますます笑みを深める。
怖がっている。
怒らせたくない。
余計なことを言いたくない。
けれど聖王国との関係も壊したくない。
そういう小さな感情が、部屋の隅々からざわざわと流れ込んでくる。
文官の慎重さ。
使者の怯え。
レナートの警戒。
書簡にこびりついた聖職者たちの打算。
全部が、細い糸のようにルシェリアの内側へ絡んでくる。
いつものことだ。
人間の心は、いつも騒がしい。
ただ、今日はそれが少し多かった。
「聖王国の使者は?」
「控えの間で返答を待っております」
「ふうん。待たせておけば」
「すでに二刻ほど」
「足りないね。神に近い人たちなら、待つのも修行でしょ」
文官たちの緊張が、また一段濃くなった。
ルシェリアはそれを感じ取り、頬杖をついた。
「冗談だよ。そんな顔をしなくてもいいじゃない」
冗談ではなかった。
少なくとも、半分は。
レナートが一歩前に出る。
「陛下。使者を不用意に刺激すると、聖王国側に口実を与えます」
「その口実を欲しがっているのは向こうでしょ。だったら、こっちが丁寧にしても雑にしても同じだよ」
「同じではありません」
「へえ。僕に意見?」
「帝国のためです」
レナートの声は揺れなかった。
忠誠。
警戒。
それから、ほんの少しの心配。
ルシェリアはその最後のものに気づいて、気に入らなかった。
「帝国のため、ね」
指先で机を叩く。
一度。
二度。
三度。
乾いた音が、執務室に落ちた。
「じゃあ、帝国のために返してあげて。聖女エリシア・セレフィアは、皇帝直属の管理下において安全に保護している。帝国の法と礼に基づき、必要な待遇は与えている。今後の具体的な扱いについては、帝国の主権に属するため聖王国の指図を受けない」
「その文面では強すぎます」
「じゃあ柔らかく包んで。中身は変えないでね」
「承知しました」
レナートが一礼する。
文官たちが慌ただしく書き取りを始めた。
紙が擦れる音。
羽ペンの音。
息を殺す音。
失敗したくない。
責任を負いたくない。
皇帝の機嫌を損ねたくない。
聖王国を怒らせたくない。
その全部が、声にならないまま部屋の中で増えていく。
ルシェリアは、目を細めた。
いつもなら、もっと簡単に切り捨てられる。
媚びる心も、怯える心も、欲しがる心も、帝国の駒として見ればいい。
使えるものは使う。
邪魔なものは折る。
それだけだ。
なのに今日は、妙に近い。
人間の内側が、耳元で囁いてくるみたいだった。
いや、違う。
昨日からだ。
あの聖女の薄い心を見た後から、周囲の心の騒がしさが余計に目立つ。
比較対象ができてしまった。
そう考えて、ルシェリアは苛立った。
あの聖女のせいだ。
そう思えば分かりやすい。
「陛下」
レナートの声で、ルシェリアは顔を上げた。
「何?」
「少し、お休みになられては」
室内の空気が、さらに固まった。
皇帝に休めと言うなど、近い側近でなければ許されない。
ルシェリアは笑った。
軽く。
いつも通りに。
「僕が疲れて見える?」
「いいえ」
「嘘が下手だね、レナート」
「陛下に嘘が通じるとは思っておりません」
「じゃあ聞くけど、疲れてる皇帝に休めって言うのは、帝国のため?」
「はい」
「便利だね、その言葉」
ルシェリアは立ち上がった。
椅子の背が、わずかに鳴る。
文官の一人が肩を震わせた。
その震えまで感じ取れてしまう。
鬱陶しい。
「休むわけじゃないよ」
ルシェリアは机の上の書簡を一枚取り、適当に折りたたんだ。
「例外の観察に行くだけ」
「聖女のもとへ?」
「そう。昨日、少しだけ条件が見えたからね。死じゃなくて苦しみ。そこをもう少し検証する必要がある」
「今でなければなりませんか」
「今じゃないと、僕がつまらない」
それは答えになっていない。
レナートはそう思っただろう。
実際、その気配が薄く伝わった。
けれど彼は口にしなかった。
ルシェリアはそれを無視して、執務室を出た。
廊下を歩く。
背後には護衛と侍女の気配がついてくる。
彼らの心も、やはりうるさい。
皇帝が急に動いた理由。
聖女への関心。
聖王国への警戒。
失言への恐れ。
全部が薄く混ざり、空気の中で濁る。
ルシェリアは歩きながら、こめかみに触れた。
頭痛ではない。
もっと内側が擦れるような感覚だった。
人間の心に触れられることは、力だ。
圧倒的な力だ。
嘘を見抜ける。
恐怖を掴める。
欲望の方向が分かる。
魂にも、死にも、記憶の縁にも手をかけられる。
だからルシェリアは皇帝でいられる。
だから誰も逆らえない。
けれど、力はいつも都合よく働くわけではない。
見えるものは、見えてしまう。
聞こえるものは、聞こえてしまう。
人間は、誰も彼も、内側で何かを欲しがっている。
欲しい。怖い。認めてほしい。逃げたい。奪いたい。守りたい。隠したい。
そのざわめきが、薄い膜のように肌に張りつく。
「……本当に、嫌になるね」
小さく呟いた声は、誰にも向けたものではなかった。
やがて、奥宮の一室に着いた。
エリシアは、そこで窓辺に立っていた。
豪華すぎない客室。
聖女を粗末には扱っていないと示せる程度には整っていて、しかし自由に動き回れるほど開かれてはいない部屋。
白いカーテンが風に揺れている。
エリシアは窓の外を見ていた。
庭の隅で、侍女が洗濯物を干している。
その向こうでは、兵が訓練場へ向かって歩いていた。
珍しいものを見るようでもなく、退屈そうでもなく、ただ見ていた。
ルシェリアが入っても、エリシアは驚かなかった。
振り返り、静かに頭を下げる。
「陛下」
「退屈してる?」
「分かりません」
「その返事、便利だよね」
「そうでしょうか」
「うん。何も言ってないのと同じだから」
「申し訳ありません」
「謝罪も便利」
ルシェリアは部屋の中央まで歩いた。
護衛と侍女を扉の外に下がらせる。
扉が閉まった瞬間、空気が変わった。
いや。
空気ではない。
ルシェリアの内側にまとわりついていたものが、少し薄くなった。
文官の恐れも。
使者の打算も。
レナートの心配も。
廊下にいた者たちの緊張も。
扉一枚で完全に消えるわけではない。
けれど、目の前の聖女から流れてくるものがあまりに少ないせいで、部屋の中心だけぽっかりと穴が空いたようだった。
静かだった。
あまりにも。
ルシェリアは、その静けさに一瞬だけ息を忘れた。
次に吸った息は、思ったより深かった。
気づいて、すぐに腹が立った。
何を楽になっている。
これは安らぎではない。
これは、異能が通じない例外を観察するための好条件だ。
余計なノイズが少ないだけ。
検証環境として都合がいいだけ。
それ以上ではない。
「どうかされましたか」
エリシアが尋ねた。
心配の声ではない。
ただ、動作の違いに気づいたから確認した。
そういう声だった。
「別に」
「先ほどより、呼吸が深いように見えました」
ルシェリアは笑った。
「君、目は悪くないんだね」
「見えたので」
「それで、僕が疲れているとでも?」
「疲れているようには見えます」
真っ直ぐだった。
慰めも、遠慮も、恐れもない。
ルシェリアは、少しだけ目を細める。
「皇帝に向かって失礼だと思わない?」
「失礼でしたか」
「普通はね」
「では、申し訳ありません」
「謝ればいいと思ってる?」
「違うのでしょうか」
会話がそこで止まる。
止まっても、気まずさがなかった。
相手が何かを欲しがっていないからだ。
機嫌を取りたいわけでもない。
近づきたいわけでもない。
離れたいわけでもない。
ただそこにいる。
ルシェリアは窓辺の椅子に腰を下ろした。
「聖王国がうるさいんだよ」
言ってから、ルシェリアは少しだけ眉を動かした。
弱音ではない。
これは説明だ。
観察対象に関係する情報共有だ。
「私のことでしょうか」
「そう。君のことで」
「私は、何かしましたか」
「してないよ。何もしてない。だから便利なんだろうね」
「便利」
「君は黙って立っているだけで、聖王国にとっては旗になる。神に近い魂。慈悲深い聖女。欲望から解放された存在。そういう札を掲げれば、帝国に口を出す理由になる」
エリシアは、静かに聞いていた。
自分の名前が政治の道具として扱われている。
普通なら、怒るか、悲しむか、戸惑うかもしれない。
エリシアは、どれもしなかった。
「そうなのですね」
「嫌じゃないの?」
「私が嫌がると、何か変わりますか」
「変わらないね」
「では、あまり」
「本当に、君は期待を裏切らないね。悪い意味で」
ルシェリアは笑う。
笑いながら、椅子の肘掛けを指で叩いた。
さっきより音は小さい。
自分でも、それに気づく。
嫌になる。
ここは静かだ。
エリシアの近くは、腹が立つほど静かだ。
空白ではない。
死でもない。
ただ、他人に必ずあるはずの濁った熱が薄い。
だから、周囲のざわめきが遠のく。
「陛下は、なぜこちらへ?」
エリシアが言った。
その問いに、ルシェリアはすぐ答えた。
「観察」
「私の、ですか」
「他に誰がいるの?」
「そうですね」
「昨日の光。あれがどういう条件で出るのか、確認する必要がある。聖王国の連中が君をどう利用したいのかも、見極めないといけない。あと、君みたいに僕の異能が通じにくい存在が他にもいるかもしれないからね」
並べれば、理由はいくらでもあった。
どれも嘘ではない。
嘘ではないが、全部でもない。
ルシェリアはそれが気に入らなかった。
「つまり、君はちょうどいいんだよ」
「ちょうどいい」
「心が薄い。反応も薄い。逃げない。騒がない。聖王国への牽制にもなる。検証対象としては悪くない」
「そうなのですね」
「そう。だから勘違いしないでね。君に会いに来たくて来たわけじゃない」
「はい」
「はい、なんだ」
「はい」
あまりに簡単に受け取られて、ルシェリアは少し苛立った。
普通なら、そこで傷つく。
あるいは、否定する。
もしくは媚びる。
だがエリシアは、与えられた説明をそのまま棚に置くように受け入れるだけだった。
そのくせ、視線だけはルシェリアに向いている。
淡く、薄く、静かな視線。
「……君のそばは、静かで」
言葉が、口から滑った。
ルシェリアはそこで止めた。
エリシアが瞬きをする。
部屋の外では、遠くで侍女たちの足音がした。
廊下の向こうの気配。
宮殿のざわめき。
それらが、この部屋の中だけ少し遠い。
ルシェリアは、口角を上げた。
「いや、何でもない」
「静か、ですか」
「何でもないって言ったよね」
「はい」
「覚えなくていい」
「覚えない方がよいのですか」
「君、そういうところ本当に面倒だね」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいよ。面倒なのは事実だし」
ルシェリアは立ち上がった。
もう十分だ。
これ以上ここにいると、自分が何のために来たのか分からなくなる。
観察。
監視。
検証。
そのどれかでなければならない。
間違っても、休むためではない。
静かだから来たのではない。
「今日は終わり」
「はい」
「また来るかもしれないけど、勘違いしないでね。君が例外だから確認してるだけ」
「分かりました」
「本当に分かってる?」
「確認されるために、ここにいます」
ルシェリアは一瞬、言葉を失った。
その返答は正しい。
ひどく正しい。
正しいからこそ、胸の奥に妙な引っかかりが残った。
「……そう。なら、そうしてて」
扉へ向かう。
部屋を出る直前、ルシェリアは振り返らなかった。
振り返らないまま言った。
「君は、何も考えなくていいよ」
「はい」
返事はいつも通り薄かった。
なのに、なぜか耳に残った。
扉が閉まる。
廊下のざわめきが戻ってくる。
護衛の緊張。
侍女の好奇心。
遠くの文官の焦り。
宮殿の中に満ちる、人間の心の音。
ルシェリアは歩き出した。
少し前より、呼吸が浅くなっている。
それに気づいて、舌打ちしたくなった。
扉の向こう。
白い聖女は、きっとまた窓辺に立つのだろう。
何を欲しがるでもなく。
何を恐れるでもなく。
ただ静かに、そこにいる。
ルシェリアは、その静けさを安らぎとは呼ばなかった。
呼ぶつもりもなかった。
ただ。
エリシア・セレフィアは、閉じた扉をしばらく見ていた。
皇帝は忙しい。
聖王国のことで疲れていた。
それでも、ここへ来た。
観察のため。
監視のため。
検証のため。
ルシェリアはそう言った。
けれど、途中で別のことも言いかけた。
君のそばは、静かで。
エリシアは、その言葉を胸のどこかに置いた。
大切に、ではない。
ただ、捨てる理由がなかったから。
窓の外で、風が白いカーテンを揺らす。
エリシアはもう一度、閉じた扉を見た。
なぜ、あの人はここへ来るのだろう。
疑問は、まだ小さかった。
けれど確かに、そこに残った。