最強皇帝と無力聖女 作:yr
皇帝は、忙しい。
エリシア・セレフィアは、この数日でそれを知った。
朝には文官が書類を運び、昼には軍人が報告に訪れ、夕刻には聖王国からの使者が控えの間で待たされている。
廊下を歩けば、侍女たちが声を潜めて言う。
陛下はまだお休みになっていない。
聖王国がまた抗議を寄越した。
辺境の貴族が命令に不服を唱えた。
それでも皇帝は笑っていた。
傲慢に、軽く、誰よりも高い場所から人を見下ろすように。
けれど、エリシアには少しだけ分かる。
ルシェリア・ヴァルクレアは、疲れている。
目の下に隈があるわけではない。
倒れそうなほど弱っているわけでもない。
ただ、声が時々低くなる。
沈黙が少し増える。
肘掛けを叩く指先が、いつもより細かく動く。
それから、エリシアの部屋に入ってきた時だけ、最初の一息が少し深い。
エリシアは、それを覚えていた。
大切だからではない。
ただ、捨てる理由がなかったからだ。
「また見てる」
その日の夕刻、ルシェリアはそう言って部屋に入ってきた。
返事を待たずに扉を閉める。
後ろにいた侍女も護衛も、今日は部屋の外に残された。
エリシアは窓辺に立っていた。
庭では、訓練を終えた兵士たちが列を崩している。空は赤く、宮殿の白い壁を淡く染めていた。
「庭を、ですか」
「僕を」
ルシェリアは軽く笑った。
金の髪が夕陽を受けて、炎のように光る。
「まあ、君に見られたところで何も感じないけどね。君の視線、軽いし。普通の人間みたいに欲も恐れもまとわりついてこない」
「そうなのですね」
「またそれ」
ルシェリアは部屋の中央まで歩き、置かれていた椅子に腰を下ろした。
自分の部屋のような自然さだった。
実際、この宮殿のすべては彼女のものなのだろう。
椅子も、机も、壁にかけられた小さな絵も、窓の外の庭も、エリシアが今いるこの部屋も。
ルシェリアは脚を組み、頬杖をつく。
余裕のある姿だった。
少なくとも、そう見せていた。
「今日は何を確認するのですか」
エリシアが尋ねる。
「何でも」
「何でも、ですか」
「君みたいな例外は、何をしても観察になるからね。便利だよ」
「私は、便利なのですか」
「うん。とても」
ルシェリアは笑った。
意地悪く、綺麗に。
「宝石にも動かない。絵にも動かない。粗末な食事にも怒らない。死にも血にもほとんど反応しない。そのくせ、苦しみには指先が光る。意味が分からない」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいよ。分からないものは嫌いだけど、退屈よりはましだから」
ルシェリアはそう言って、机の上に置かれていた小さな花瓶へ目を向けた。
白い花が二輪、活けられている。
侍女が飾ったものだろう。
聖女の部屋には清らかな花が似合う、とでも思ったのかもしれない。
ルシェリアはその花を指先でつついた。
「この花、欲しい?」
「必要でしたら」
「そういう話じゃないって、何度言えば分かるんだろうね」
「申し訳ありません」
「謝罪の練習はもういいよ」
ルシェリアは花から手を離した。
沈黙が落ちる。
短い沈黙だった。
けれど、エリシアはそこにいつもの違いを見た。
ルシェリアはすぐに次の言葉を出さなかった。
頬杖をついたまま、窓の外を見る。
夕陽のせいで、その瞳の色は少し暗く見えた。
「陛下」
「何?」
「今日は、聖王国の使者と話していたのですか」
ルシェリアの視線が、ゆっくりとエリシアに戻る。
「誰から聞いたの?」
「廊下で、侍女の方が話していました」
「盗み聞き?」
「聞こえました」
「便利な耳だね」
「そうでしょうか」
「嫌味だよ」
「そうなのですね」
ルシェリアは、わずかに笑った。
いつもならそこで相手をもう少し刺す。
だが今日は、それ以上続けなかった。
エリシアは、少しだけ首を傾ける。
ルシェリアは忙しい。
疲れている。
それなのに、ここへ来ている。
昨日も。
その前も。
その前は、コロシアムだった。
理由は聞いた。
観察。
監視。
検証。
異能が通じない例外。
どれも分かる。
分かる、ような気はする。
けれど、少しだけ合わない。
エリシアは、疑問をそのまま言葉にした。
「聖王国にいた時と違って、私はここでは役に立ちません」
ルシェリアの指が止まった。
花瓶をつついていた指が、空中でほんの少しだけ固まる。
エリシアは続けた。
「強い回復もできません。帝国の方々のように戦うこともできません。聖王国との交渉もできません」
「それで?」
「忙しいあなたが、なぜ私にここまで構うのですか」
静かだった。
責めるための声ではない。
慰めるためでもない。
ただ、分からないものを分からないと言っただけ。
けれど、その言葉を聞いた瞬間、ルシェリアの表情から笑みが一枚だけ剥がれた。
一瞬。
本当に一瞬だけ。
ルシェリアは何も言わなかった。
部屋の外から、遠くの足音が聞こえた。
誰かが廊下を通り過ぎる。
それが消えてから、ルシェリアは口角を上げた。
「役に立たないから構ってるんだよ」
軽い声だった。
少しだけ、軽すぎた。
「役に立つものなら、僕の周りにいくらでもある。剣を振る兵士。数字を並べる文官。黙って従う侍女。僕の望みを先回りしようとする側近。見飽きるくらいね」
「はい」
「君は違う。役に立たない。だから面白い」
「役に立たないものは、面白いのですか」
「全部が全部じゃないよ。大半は邪魔。君は例外」
「例外」
「そう。僕の異能が通じない例外。心が薄くて、読めなくて、気持ち悪くて、でも死んでるわけでも人形でもない。放っておく方が気分が悪い」
ルシェリアは立ち上がった。
歩きながら、エリシアの周りをゆっくり回る。
まるで檻の中の珍しい獣を見るように。
あるいは、自分の檻の形を確かめるように。
「君みたいなものが他にもいるかもしれない。僕の力に引っかからない人間が、帝国のどこかにいるかもしれない。そう考えたら、確認しない方が危険でしょ?」
「危険だから、私のところへ来るのですか」
「そうだよ」
「忙しい時にも?」
「忙しい時ほど、危険の確認は必要なんだよ。皇帝ってそういうものだから」
説明は通っている。
言葉だけなら。
エリシアはそう思った。
だが、ルシェリアが部屋に来た時、最初に深く息を吸うこと。
椅子に座る時間が、少しずつ長くなっていること。
何かを確認すると言いながら、何も確認しない時間があること。
それらは、今の説明だけでは少し余る。
「分かりました」
エリシアは言った。
ルシェリアが足を止める。
「本当に?」
「説明は、分かりました」
「じゃあ納得した?」
「分かりません」
「面倒な返事」
「申し訳ありません」
「謝罪も面倒」
ルシェリアは笑っていた。
笑っていたが、視線は笑っていなかった。
エリシアはその目を見た。
人の心が分かる皇帝。
心、魂、死、記憶。
他人の内側に、外から触れられる人。
それなのに、自分のことは分かっていないように見える。
少なくとも、言葉と動きが同じではない。
「陛下」
「今度は何?」
「あなたは、言っていることと、していることが少し違うように見えます」
空気が止まった。
ルシェリアは、ゆっくりと瞬きをした。
「……君が、それを言うんだ」
「私が言うと、おかしいですか」
「かなりね。自分の欲しいものも嫌なものも分からないような聖女が、僕の矛盾を見つけたつもり?」
「見つけたつもりではありません」
「じゃあ何?」
「違うように見えました」
エリシアの声は変わらない。
責めない。
誇らない。
ただ、見えたものを言う。
それが、ルシェリアにはひどく落ち着かなかった。
怒鳴られた方がいい。
怯えられた方がいい。
泣かれた方がいい。
憐れまれたら殺したくなるかもしれないが、まだ分かりやすい。
なのに、この聖女はただ見ている。
恐れず、媚びず、求めず、何かを暴こうとする熱もなく。
ただ、見ている。
「君ね」
ルシェリアはエリシアの前に立った。
距離は近い。
近いのに、そこから何も流れてこない。
欲も。
恐怖も。
勝ちたいという意志も。
ルシェリアは、その静けさに腹が立った。
「僕の行動を評価する立場にいると思ってるの?」
「思っていません」
「じゃあ黙っていればいい」
「はい」
あまりにも簡単に頷かれて、また苛立つ。
「……本当に黙るんだ」
「黙るように言われましたので」
「君、嫌がらせの才能あるよ」
「そうなのですか」
「褒めてない」
「はい」
いつものやり取り。
いつもの薄い返事。
それなのに、ルシェリアの胸の奥には、小さな引っかかりが残っていた。
言っていることと、していることが違う。
そんなことはない。
あるはずがない。
自分は皇帝だ。
欲しいものは奪う。
邪魔なものは壊す。
必要なものは使う。
エリシアは例外だから確認している。
危険だから監視している。
それだけだ。
それだけのはずだ。
「もういい」
ルシェリアは背を向けた。
少し早かった。
自分でも分かるくらいには。
「今日は終わり。君と話してると、余計に疲れる」
「私は、何かしましたか」
「したよ。何もしないっていう、一番面倒なことをずっとしてる」
「申し訳ありません」
「謝るなって言ってるでしょ」
「はい」
ルシェリアは扉へ向かう。
その手が取っ手に触れたところで、エリシアはもう一度だけ声をかけた。
「陛下」
「まだ何かあるの?」
「私は、ここでは役に立ちません」
「さっき聞いた」
「それでも、あなたは来ます」
ルシェリアは振り返らなかった。
扉の前で立ち止まったまま、少しだけ黙る。
「観察だって言ったよね」
「はい」
「監視。検証。危険管理。皇帝の仕事。以上」
「分かりました」
「その分かりました、信用できない」
「私も、少し分かりません」
ルシェリアは、そこでようやく振り返った。
エリシアは窓辺に立っていた。
夕陽が白い髪を赤く染めている。
その姿は聖女らしく見えた。
清らかで、儚く、絵画のように。
だが、ルシェリアはもう知っている。
その内側は、聖なる光で満ちているわけではない。
ただ薄い。
欲も、執着も、自己への愛着も、恐ろしく薄い。
だからこそ、どんな聖女像より気味が悪い。
そして、目が離せない。
「勝手に分からなくなってなよ」
ルシェリアは笑った。
今度は、ちゃんと意地悪く。
「君の小さな頭で僕を理解しようなんて、百年早い」
「私は十六歳です」
「じゃあ百十六歳になってから考えなよ」
「分かりました」
「そこは分かるんだ」
ルシェリアは扉を開けた。
廊下の気配が流れ込んでくる。
侍女の緊張。
護衛の忠誠。
遠くの文官の焦り。
聖王国の使者をどう扱うかという、宮殿全体のざわめき。
その全部が、急に戻ってきた。
ルシェリアの眉が、ほんのわずかに動く。
エリシアは、それを見ていた。
ルシェリアは何も言わずに部屋を出る。
扉が閉まった。
白い部屋に、静けさが戻る。
エリシアはしばらく扉を見ていた。
恋ではない。
好意でもない。
心配でも、たぶんない。
ただ、分からないものが残った。
ルシェリアは忙しい。
疲れている。
エリシアは役に立たない。
それでも来る。
観察。
監視。
検証。
言葉は並んだ。
でも、それだけでは少し足りないように見えた。
エリシアは、自分の胸に手を当てた。
そこには相変わらず、強い欲しいも、知りたいも、どうしても、もなかった。
ただ、小さな空白のような疑問が残っている。
あの人は、何を見ているのだろう。
そして。
あの人は、自分の何を見ていないのだろう。
窓の外で、夕陽が沈んでいく。
エリシアは静かに目を伏せた。
もう少しだけ、見てみたい。
それが何なのか、彼女自身にもまだ分からなかった。