最強皇帝と無力聖女   作:yr

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ばなな

 

 ばなな。

 

 むかしむかし、異世界から召喚された勇者が、最後の戦いの前に口にした言葉だという。

 

 聖王国では、それは神への祈りだと教えられている。

 

 神に己の命を捧げ、世界の救済を願うための、古い異世界の聖句。

 

 幼い頃、神官はそう説明した。

 

 けれど、書物によって解釈は少しずつ違っていた。

 

 ある学者は、勇者が故郷に残した大切な人の名だと言った。

 

 ある司祭は、自らの恐怖を鎮めるための戒めだと説いた。

 

 ある古い注釈書では、すでに失われた異世界の魔法語だとされていた。

 

 別の本には、勇者が最後まで忘れなかった食べ物の名だと書かれていた。

 

 その説は、聖王国ではあまり好まれていない。

 

 神に選ばれた勇者が、世界の命運を前にして食べ物の名を呟いたなど、あまりにも俗っぽいからだろう。

 

 けれどエリシアには、それが一番遠くないように思えた。

 

 勇者はたぶん、何も考えずにその言葉を口にしたのだと思う。

 

 意味があったから残ったのではなく。

 

 残ったから、後の人々が意味を与えた。

 

 その方が、エリシアには納得できた。

 

 人は、意味の分からないものをそのまま置いておくのが苦手なのだと思う。

 

 分からない言葉には、祈りという名前をつける。

 

 理解できない沈黙には、覚悟という名前をつける。

 

 欲しがらない人間には、無欲という名前をつける。

 

 何も拒まない人間には、慈悲という名前をつける。

 

 そして、自分でも自分を大切にできない少女には、神に近い魂という名前をつける。

 

 エリシア・セレフィアは、聖女と呼ばれていた。

 

 けれどエリシアには、その言葉が自分のどこを指しているのか、あまり分からなかった。

 

 困っている人に金を渡したことがある。

 

 欲しがられたから渡した。

 

 大事なものではなかった。

 

 持っていても、渡しても、あまり変わらなかった。

 

 すると人は、慈悲深いと言った。

 

 怪我人の前で光を灯したことがある。

 

 苦しそうだったから、そうした。

 

 傷は治らなかった。

 

 死ぬ人は死んだ。

 

 ただ、ほんの少しだけ呼吸が楽になったように見えた。

 

 すると人は、聖なる奇跡と言った。

 

 エリシアには、どれも少し遠かった。

 

 自分は優しいのだろうか。

 

 慈悲深いのだろうか。

 

 神に近いのだろうか。

 

 たぶん、違う。

 

 大切なものを大切にできない。

 

 欲しいものを欲しいと思えない。

 

 怖がるべきものを、うまく怖がれない。

 

 自分の身体も、命も、立場も、他人が言うほど重く持てない。

 

 それは聖性ではない。

 

 たぶん、欠けているだけだ。

 

 おとぎ話の勇者は、どれほどつらい目に遭っても、最後まで世界を救うことをやめなかったという。

 

 聖王国では、それを勇気と呼ぶ。

 

 信仰と呼ぶ。

 

 愛と呼ぶ。

 

 けれどエリシアは、少しだけ違うことを考える。

 

 勇者は、強かったから最後まで進めたのだろうか。

 

 清かったから、正しかったから、誰よりも世界を愛していたから、救いの道を選べたのだろうか。

 

 あるいは。

 

 壊れている場所が、普通の人と少し違っていたのではないか。

 

 痛みに耐えられたのではなく、痛みの受け取り方が違っていた。

 

 恐怖を乗り越えたのではなく、恐怖の形が人と違っていた。

 

 世界を愛していたのではなく、途中でやめる理由を見つけられなかった。

 

 そういうことも、あるのではないか。

 

 エリシアは、そう考えることがある。

 

 だから、自分が勇者と同じだとは思わない。

 

 同じだと言えるほど、エリシアは勇者を知らない。

 

 ただ、少しだけ似ているのかもしれないとは思う。

 

 何かを強く望んだから進むのではなく。

 

 何かを強く恐れることができないから、止まらない。

 

 それは美しいことではない。

 

 きっと、褒められることでもない。

 

 けれど人は、そういうものにも名前をつける。

 

 勇気。

 

 献身。

 

 慈悲。

 

 聖性。

 

 名前をつければ、それが本当の理由のように見える。

 

 けれど、本当にそうなのだろうか。

 

 皇帝ルシェリア・ヴァルクレアは、エリシアを観察していると言った。

 

 危険だから監視していると言った。

 

 異能が通じない例外だから検証していると言った。

 

 たぶん、それは嘘ではない。

 

 ルシェリアは嘘を嫌う。

 

 他人の嘘も、自分に向けられる嘘も、きっと嫌いなのだろう。

 

 けれど、嘘ではないことと、それがすべてであることは、同じではない。

 

 観察。

 

 監視。

 

 検証。

 

 危険管理。

 

 言葉は並んでいた。

 

 どれも正しいように聞こえた。

 

 けれどエリシアには、少しだけ余っているように見えた。

 

 忙しい皇帝が、疲れた顔を隠してまで自分の部屋へ来る理由。

 

 役に立たない聖女の前で、少しだけ呼吸を深くする理由。

 

 もう終わりだと言いながら、扉の前で立ち止まる理由。

 

 それらすべてに、観察という名前をつけることはできる。

 

 監視という名前をつけることもできる。

 

 検証という名前をつけることもできる。

 

 けれど、名前をつけたからといって、中身まで決まるわけではない。

 

 エリシアはまだ、その違いをうまく言葉にできない。

 

 胸の中に強い興味があるわけではない。

 

 知りたくてたまらないわけでもない。

 

 ルシェリアを救いたいわけでも、慰めたいわけでもない。

 

 ただ、少しだけ思った。

 

 あの人もまた、自分の中の何かに、別の名前をつけているのかもしれない。

 

 祈りではない言葉が、祈りと呼ばれるように。

 

 欠けているだけのものが、聖性と呼ばれるように。

 

 安らぎではないと言い張るものが、いつか別の名前で呼ばれるように。

 

 皇帝は、エリシアを見ている。

 

 なら、エリシアも見てみようと思った。

 

 あの人が、何に名前をつけているのか。

 

 そして。

 

 その名前の下に、何を隠しているのか。

 

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