祖母のレシピは、最後の一ページだけ空白だった。 作:高校ジャージ10年目
通夜と葬儀を終えた後の実家は、まるで深海に沈んだかのように静まりかえっていた。
朝倉湊は、祖母のハルが遺した台所の椅子に深く腰掛けていた。二十四年間、東京のIT企業で合理性と効率だけを追い求めてきた湊にとって、この家を包む湿り気を帯びた空気はひどく重たく感じられた。
湊の目は、テーブルの上に置かれた一冊のノートに注がれていた。
茶色く変色した表紙には、マジックで「献立帳」と書かれている。ページをめくれば、祖母の丸っこい文字が並んでいた。分量、手順、そしてその横に添えられた膨大なメモ。
「田中さん、最近食が細いから野菜は細かく」
「修一くん、部活帰りで腹ペコ。おまけする」
「雨の日は味が薄く感じるから、お醤油ひと回し多め」
それはレシピというより、町の人々との対話を記録した日誌のようだった。
しかし、そのノートの最後の一ページだけが、真っ白なまま残されていた。
湊は指先でその余白をなぞった。祖母が最後に書こうとして書けなかった料理は何だったのか。合理的な思考回路が、その欠落を埋めろと命じていた。
「ハルさんの、あのコロッケがもう一度食べたいわね」
翌朝、遺品整理を手伝いに来た近所の田中さんが、ため息混じりに言った。
「最後の一週間、ハルさんずっと言ってたの。新しい油に変えたから、最高に美味しいコロッケができるよって。結局、私たちは食べ損ねちゃったけれど」
湊はノートをめくり、コロッケのページを探し出した。
そこには「肉じゃがコロッケ」と題して、材料が細かく記されていた。昨晩の残りの肉じゃがを使うこと。ジャガイモはあえて粗く潰すこと。衣は薄く。
だが、肝心の「揚げ時間」と「火加減」の欄だけが、なぜか空白になっていた。
「再現してみます」
湊は短く言った。
料理は得意ではない。しかし、ノートには材料も分量も書いてある。適切な温度と時間を導き出せば、正解に辿り着けるはずだ。それが、祖母がこの世に生きた証を整理することに繋がると、湊は信じていた。
湊の調理は、さながら実験のようだった。
デジタルスケールで肉じゃがの重さを量り、衣の厚さをミリ単位で均一にする。油の温度は百八十度。キッチンタイマーをセットし、まずは三分間揚げてみた。
黄金色のコロッケが皿に並ぶ。
湊は熱いうちに一口食べた。
サクッという快い音が響き、中から甘辛い肉じゃがの風味が広がる。美味しい。文句なしの出来栄えだ。
彼は自信を持って、工務店を営む常連の神田さんにそのコロッケを届けた。神田さんは祖母の葬儀で、誰よりも声を上げて泣いていた男だ。
「神田さん、祖母のコロッケを再現しました。食べてみてください」
神田さんは目を細め、差し出された皿を受け取った。しかし、一口食べた瞬間に、その表情が曇った。
「湊くん、ありがとな。でも、これはハルさんのコロッケじゃない」
「どうしてですか。分量も手順も、ノート通りです」
「味はいい。でも、何かが違うんだ」
神田さんはそれ以上何も言わず、コロッケを置いた。
湊は台所に戻り、再び包丁を握った。
温度を変えた。時間を変えた。パン粉の銘柄を変えた。
十回、二十回と試行錯誤を繰り返すが、納得のいく答えは出ない。
ゴミ箱に溜まっていく失敗作を見つめながら、湊は苛立ちを感じていた。祖母の料理には論理的な正解がないのか。それとも、自分が何か致命的な見落としをしているのか。
「何をそんなに躍起になっているんだ」
背後から声がした。父の恒一だった。
仏壇に供えるための味噌汁を手に、父は湊の惨状を眺めていた。
「ハルさんのコロッケを再現したいんです。でも、どうしても正解がわからない」
「お袋の料理に正解なんてないぞ。あいつはいつも、食うやつの顔しか見てなかったからな」
恒一はそれだけ言うと、無愛想に居間へ去っていった。
湊はふと思い立ち、神田さんの工務店へもう一度向かった。今度は完成品を持っていくのではなく、話を聞きに行くために。
仕事終わりの神田さんは、作業場のベンチで冷えた茶を飲んでいた。
「神田さん、教えてください。祖母が作る時、何か特別なことをしていましたか」
神田さんは少し驚いた顔をしたが、遠い目をして笑った。
「そうだな。ハルさんはいつも、揚げたてのコロッケをすぐに客に出さなかった」
「出さない?」
「ああ。揚げ上がったコロッケをバットに並べて、わざわざ裏の勝手口の風に当ててたんだ。それで、自分も一つ手に取って、冷めるのを待ってから食べていた。俺が『早くしてくれよ』って言うと、ハルさんは決まってこう言ったんだ」
神田さんは、祖母の声を真似るように少し高い声を出した。
『コロッケは、冷めても美味しくないとダメなのよ。だって、みんなこれを家に持ち帰って、家族と食べるんでしょう?』
湊の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。
そうだ。神田さんは独身だが、いつも祖母の店でコロッケを十個買っていた。それは、現場で働く若い衆に配るためだった。
ノートに書かれていたメモが、頭の中で鮮明な像を結ぶ。
「持ち帰る人のための料理」
湊は急いで家に戻った。
今までの自分は、皿の上に乗った「完成品」の瞬間しか見ていなかった。揚げたての、一番美味しいとされる一点だけを追い求めていた。
しかし、祖母が見ていたのは、その先にある時間だった。
店を出て、自転車を漕ぎ、玄関を開け、「ただいま」と言って食卓を囲むまでの、三十分から一時間の空白。
冷めても衣がベチャつかないようにするには。
冷めた時に塩気が角立たないようにするには。
湊は、冷めたコロッケを一口食べてみた。
自分が作ったものは、冷めると衣が硬くなり、肉の脂が不自然に浮いていた。揚げたての熱さで誤魔化していた欠点が、冷めることで露呈していたのだ。
湊は、コンロの前に立った。
今度はタイマーを置かなかった。
油の弾ける音を聞き、色味の変化を凝視する。
そして、揚がったコロッケをバットに並べ、窓を開けた。
夜の冷たい風が入り込み、コロッケの熱をゆっくりと奪っていく。
湊は、時計の針が一周するのを待った。
十分、二十分。
完全に熱が取れた頃、彼はその一つを手に取った。
衣は湿気を吸わず、しっかりと形を保っている。
口に運ぶ。
冷めているからこそ、ジャガイモの甘みが優しく伝わってきた。肉じゃがの出汁が衣の内側に染み込み、時間が経ったからこその一体感が生まれている。
それは、派手な味ではない。
けれど、今日という一日を終えた体に、じわりと染み渡るような、滋味深い味だった。
湊は、気付けば泣いていた。
涙が止まらなかった。
子供の頃、学校から帰るといつも食卓に置かれていたコロッケ。
「おやつに食べなさい」と祖母が笑っていた。
塾へ行く前、忙しく食べる湊のために、祖母はいつも「熱くないからすぐ食べられるよ」と言ってこれを出してくれた。
あの時、自分は当たり前のように食べていたけれど、祖母は湊が火傷をしないように、そして冷めても美味しいように、あの勝手口の風に当てて待っていてくれたのだ。
「なるほどなぁ…ばあちゃん」
言葉にできなかった感謝が、涙となって溢れ出した。
合理的ではない。効率的でもない。
わざわざ冷めるのを待つという、その「無駄」な時間の中にこそ、祖母の愛情のすべてが詰まっていたのだ。
湊は、ふらふらと立ち上がり、仏壇の前へ行った。
そこには、父が供えた味噌汁が置かれている。
よく見ると、味噌汁の椀からは湯気が立っていなかった。
父もまた、知っていたのだ。
「熱いままじゃ、ばあちゃん食べられないもんな」
湊は鼻を啜りながら、自分の作った冷めたコロッケを、味噌汁の横にそっと供えた。
遺影の中のハルは、相変わらず「早く食べなさい」と言いたげな顔で笑っていた。
ノートの最後の一ページは、まだ空白のままだ。
けれど、湊はその余白が恐ろしいものには見えなくなっていた。
そこにはこれから、彼が出会う人々の人生が書き込まれていくはずだ。
祖母がそうしたように。
誰かのために料理を作るということは、その人の「今」ではなく「これから」を想うことなのだと、湊は初めて知った。
夜が明ける頃、湊は台所を片付けた。
道具の一つ一つが、以前よりも手に馴染んでいる気がした。
次は何を作ろうか。
そういえば、神田さんは、次はナポリタンが食べたいと言っていた気がする。
湊は、少しだけ軽くなった足取りで、新しい材料を買いにいく準備を始めた。
外は、澄んだ春の空気が広がっていた。