祖母のレシピは、最後の一ページだけ空白だった。 作:高校ジャージ10年目
朝倉湊が祖母の遺したノートを開くのは、もはや朝の習慣になっていた。
出勤前のコーヒーを飲みながら、使い込まれたページの端をめくる。指先に残る紙の質感が、かつてこの場所で包丁を握っていた祖母の存在を微かに教えてくれる。
コロッケを経て、湊の心には小さな変化が生まれていた。効率や正解といった言葉では割り切れないものが、料理には、あるいは人生には存在するのかもしれない。そんな予感があった。
次のページには、太い文字で「ナポリタン」と書かれていた。
その下に記された一文が、湊の目を引く。
「麺は前日に茹でて、冷蔵庫で一晩寝かせること」
湊は眉を寄せた。パスタというものは、茹でたてが最も美味しいはずだ。アルデンテという言葉があるように、コシこそが命ではないのか。一晩寝かせるなど、パスタの尊厳を奪うような行為に思えた。
「は?わざわざ不味くしてどうするんだ」
独り言が静かな台所に響く。
しかし、あのコロッケの件がある。祖母の「無駄」には、必ず理由がある。
湊は仕事帰りにスーパーへ寄り、一番太いパスタとケチャップ、玉ねぎ、ピーマン、そして赤いウインナーを買った。
その週末、湊は祖母の食堂「ハル屋」のシャッターを半分だけ開けて、掃除をしていた。
そこへ、一人の老人がふらりと現れた。
日に焼けた顔に深い皺が刻まれた、ガッチリとした体格の男だ。
「ハルさん、いるかい。ああ、そうか。もういないんだったな」
男は独り言のように呟き、湊を見た。
「あんたが、お孫さんか」
「はい。朝倉湊です」
「松山だ。昔、ここで毎晩のように油を売ってたタクシーの運転手だよ」
松山は湊の許可も待たずに、馴染みのカウンター席に腰を下ろした。
「ハルさんのナポリタンが急に食べたくなってな。あの、やたらと待たされるやつだ」
湊は、松山の言葉に反応した。
「待たされる、ですか」
「ああ。ハルさんのナポリタンはとにかく遅かった。注文してから三十分、酷い時は一時間近く出てこない。客を待たせて平気な顔をしてやがった」
松山は懐かしそうに目を細めた。
祖母のハルは、手際の良さが自慢だったはずだ。それなのに、なぜナポリタンだけがそれほど時間がかかったのか。
「今日、材料はあるんです。祖母のノート通りに、麺も一晩寝かせてあります。少し時間をいただけるなら、僕が作ってみましょうか」
松山は驚いたように目を見開いた後、豪快に笑った。
「いいぜ。あんたのナポリタンがどれだけ俺を待たせてくれるか、試させてもらおうじゃないか」
湊は調理を開始した。
冷蔵庫から、昨日茹でておいたパスタを取り出す。麺は水分を吸って太くなり、互いにくっつき合って、お世辞にも美味しそうには見えない。
しかし、フライパンにサラダ油を引き、薄切りの玉ねぎとピーマン、斜め切りにしたウインナーを炒め始めると、懐かしい香りが立ち上った。
そこへ麺を投入する。
「…重い」
水分を含んだ麺は、振るう腕に確かな手応えを返してくる。
ケチャップを入れ、あえて強火で焼き付けるように炒める。祖母のノートには「ケチャップの水分を飛ばし、酸味を甘みに変えること」とあった。
ジューという激しい音と共に、オレンジ色の湯気が舞い上がる。
湊は集中していた。松山を待たせないように、最短の手順で、最も効率的に。
十分もかからずに、湊はナポリタンを皿に盛り付けた。
「お待たせしました」
自信を持って差し出した皿を見て、松山は少しだけ寂しそうな顔をした。
「早いな、湊くん。ハルさんの三倍は早い」
松山はフォークを手に取り、麺を口に運んだ。
「…味は、ハルさんのだ。この、もちもちした締まりのない麺。これこそナポリタンだ」
「ありがとうございます」
「でも、やっぱり何かが違う。ハルさんのナポリタンは、もっとこう、腹に溜まるだけじゃない重みがあったんだ」
松山はそう言って、窓の外を見つめた。
「湊くん。あんたは、誰かを待たせたことがあるかい。あるいは、誰かを待ったことは」
松山が唐突に問いかけた。
「いえ。仕事でもプライベートでも、時間は守る方です。人を待たせるのは失礼だと思っていますし、待たされるのも好きではありません」
湊が答えると、松山は自嘲気味に笑った。
「俺もそうだった。タクシー運転手なんてのは、一分一秒を争う仕事だ。客を待たせちゃいけない、渋滞に捕まっちゃいけない。常に時計とにらめっこして生きてきた」
松山はゆっくりと語り始めた。
十数年前、松山の家庭は崩壊の危機に瀕していた。
長年連れ添った妻とは会話がなくなり、家の中は冷え切っていた。一人娘は反抗期のまま家を出て、連絡も途絶えていた。
「仕事が終わっても、帰りたくなかったんだ。玄関を開けても誰もいない。あるいは、いても冷たい沈黙があるだけ。あの頃の俺にとって、家はただの寝床で、孤独を確認するためだけの場所だった」
仕事終わりの深夜、松山はハル屋に逃げ込んだ。
ハルは、松山が店に入ると「おかえり」と言って、ナポリタンを注文せずとも作り始めた。
しかし、そこからが長かった。
「今、野菜を切ってるから待ってね」
「今、麺を炒めてるから待ってね」
ハルはそう言いながら、手を休めて松山の隣に座り、どうでもいい世間話を始めた。
近所の犬が子供を産んだこと。商店街の福引きでタワシが当たったこと。
松山は最初、早くしてくれと思っていた。だが、ハルのとりとめのない話を聞いているうちに、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。
「ハルさんは知ってたんだよ。俺が、今夜も帰りたくないってことを。あの店にいる間だけは、俺は孤独な運転手じゃなく、ただの松山さんでいられた」
ハルは、わざと料理の手を止めていたのだ。
松山が少しでも長く、温かい場所にいられるように。
彼の心が、冷え切った家に戻る覚悟を決めるまでの時間を、料理を遅らせることで稼いでいた。
ナポリタンがようやく出てくる頃には、松山の頑なな心は少しだけ解けていた。
「『待たせるくらいでいいのよ』。一度だけ、ハルさんがそう言ったのを覚えてる。待たせている間は、その人を独りにさせないで済むからってな」
湊は、握っていたトングを置いた。
自分が追い求めていた効率が、いかに浅はかなものだったかを思い知らされる。
都会での生活で、湊は常に「無駄な時間」を削ぎ落としてきた。
レジの行列に苛立ち、電車の数分の遅れに舌打ちし、食事は栄養を摂取するための作業と化していた。
誰かを待つことも、誰かのために時間を止めることも、今の湊には欠落していた。
「松山さん。もう一皿、作らせてください」
「いいのかい。腹はもう膨れてるが」
「今度は、少しお時間をいただきます」
湊は再び台所に立った。
今度は、時計を見なかった。
野菜を切る音をゆっくりと響かせ、松山に話しかけた。
「松山さんは、お孫さんはいるんですか」
「ああ、去年生まれたよ。娘がようやく顔を見せに来てくれてな」
「それは、良かったですね。お名前は」
「…湊くん、あんた、ハルさんに似てきたな」
松山が照れ臭そうに笑う。
湊は、祖母が見ていた景色を少しずつなぞるように、ゆっくりと対話を重ねた。
フライパンの上で、麺とケチャップが混ざり合う。
わざと火を弱め、じっくりと時間をかけて炒める。
会話の合間に生まれる沈黙さえも、今は心地よく感じられた。
それは、相手の人生に耳を傾けるための、贅沢な余白だった。
一時間近くかけて完成した二皿目のナポリタンを、湊はカウンターに置いた。
「お待たせしました」
松山は、その皿をじっと見つめた。
麺の表面は少し焦げ、ケチャップの香りが濃厚に漂っている。
一口食べた松山が、小さく鼻を鳴らした。
「ああ、これだ。この、喉に詰まるような重みだ」
松山の目には、薄っすらと涙が浮かんでいた。
「待たされてる間、俺は自分が大切にされてるんだって、ずっと思ってたんだな。ハルさんは、俺の孤独を、このナポリタンで引き止めてくれてたんだ」
松山は一皿目よりもずっと時間をかけて、最後の一口まで綺麗に平らげた。
「ごちそうさん。…さあ、帰るか。今日は、家で孫の写真を見なきゃいかんからな」
松山は腰を上げ、力強い足取りで店を出て行った。
シャッターを閉めようとする湊に、彼は背中で手を振った。
湊は、一人になった店内でノートを開いた。
ナポリタンのページの隅には、祖母の小さな文字でこう書かれていた。
「急いでる人には、おむすびを。帰りたくない人には、ナポリタンを」
その言葉は、どんなレシピよりも深く、湊の胸に刻まれた。
料理とは、ただ空腹を満たすためのものではない。
その人が抱えている寂しさや、やり場のない時間を、共有するための手段なのだ。
湊は、自分のスマートフォンを取り出した。
電話帳を開き、一つの名前で指を止める。
父、恒一。
いつも無口で、何を考えているのかわからない父。
仏壇に毎日味噌汁を供え、自分とはほとんど言葉を交わさないまま、それぞれの部屋に引きこもる夜。
湊は、父を待ったことがあっただろうか。
あるいは、父が湊を待っていたことは。
「…今夜は、ナポリタンにしよう」
湊は誰に聞かせるでもなく呟いた。
仕事から帰ってくる父のために、わざと時間をかけて、ゆっくりと、待たせるくらいの心持ちで作ってみようと思った。
父がリビングに入ってきた時、まだ料理が完成していなくてもいい。
「今作ってるから、座って待ってて」
その一言を言うために、湊は再び野菜を切り始めた。
外はすっかり日が落ちて、街灯が優しく灯り始めている。
湊は、まだ空白が続くノートの先を思い、静かな高揚感を感じていた。
一ページを埋めるたびに、自分の中に新しい感情が芽生えていく。
それは、合理性という殻を破って溢れ出した、不器用で温かい人間としての体温だった。
湊は、ナポリタンの焦げ付いたフライパンを洗いながら、自分が少しだけ「待つ」という行為を愛せるようになっていることに気づいた。
空白の一ページへ辿り着くまでの道のりは、まだ長い。
けれど、その空白を埋めるために必要なのは、急ぐことではなく、立ち止まることなのだと、今の湊には分かっていた。
湊は、父が帰る足音を待った。
ただ時間は、とても豊かで穏やかなものだった。
ナポリタンにパルメザンチーズ一つ丸々使って食べるのが夢でした。