祖母のレシピは、最後の一ページだけ空白だった。   作:高校ジャージ10年目

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第三話「唐揚げは、心の味をしている」

 

 朝倉湊は、黄金色の油がパチパチとはぜる音を聞きながら、額の汗を拭った。

 

 「ハル屋」の厨房は、揚げ物の熱気で満ちている。目の前には、三つのボウル。それぞれに異なる下味がつけられた鶏肉が並んでいた。

 

 一つは、おろしにんにくを効かせた醤油ベース。

 

 一つは、生姜の香りを立たせた清涼感のある味。

 

 そしてもう一つは、シンプルに塩と胡椒、隠し味に少しの酒だけを加えたもの。

 

 祖母の遺したノートの「唐揚げ」のページには、驚くほど多くのバリエーションが記されていた。

 

「元気がない時はにんにく多め」

 

「食欲がない時は生姜を立たせる」

 

「考え事をしている時は、雑味のない塩」

 

 湊は、その羅列を眺めて溜息をついた。合理性を重んじる彼にとって、唐揚げとは「鶏肉を一定の味付けで揚げたもの」という単一の正解があるべき料理だった。しかし、祖母のレシピには正解が多すぎた。

 

 どれが本当の「ハルさんの唐揚げ」なのか。その答えを探そうとする湊の耳に、店の入り口が開く音が届いた。

 

「懐かしい匂いだな。まだ、開いてますか」

 

 入ってきたのは、三十歳手前ほどの、くたびれたスーツを着た男性だった。眼鏡の奥の目は優しげだが、その双眸には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。

 

「準備中ですが、唐揚げの試作中なんです。よければ、食べていきませんか」

 

 湊が声をかけると、男性は少し驚いたあと、深々と頭を下げてカウンターに座った。

 

「ありがとうございます。私は近所の小学校で教師をしている、内田といいます。昔、高校生の頃にここの唐揚げに救われていたんですよ」

 

 内田は、運ばれてきた三種類の唐揚げを、一つずつゆっくりと口に運んだ。

 

「どうですか。どれが、あなたの記憶にある味ですか」

 

 湊の問いに、内田は困ったように笑った。

 

「…全部です。でも、全部違う気もします」

 

「どういうことでしょうか」

 

 内田は、箸を置いて遠い目をした。

 

「高校時代、私は野球部で、仲間たちと毎日ここに来ていました。レギュラー争いに負けて腐っていた日は、ガツンとにんにくの効いたやつを出された。テスト前でピリピリしていた時は、不思議と生姜の香りが強い、さっぱりしたやつが出てきた。失恋して泣きそうだった日は…味の薄い、けれど温かい塩味だった」

 

 内田の話を聞きながら、湊は混乱していた。

 

「祖母は、あなたたちが注文する前に味を決めていたんですか」

 

「注文なんてさせてもらえませんでしたよ。ハルさんは私たちの顔を見るなり、『今日はこれにしな』って、勝手に皿を出してくるんです。まるで、私たちの心の色が見えているみたいに」

 

 内田は、にんにく味の唐揚げをもう一つ頬張った。

 

「今思えば、あれは料理を食べていたんじゃない。自分たちを『見てもらっている』という安心感を食べていたんだと思います」

 

 湊は、自分の手元にある三つのボウルを見つめた。

 

 自分は、ノートにある分量を正確に守り、温度計で油の温度を測り、タイマーで時間を管理した。味は確かに美味しい。しかし、それは「誰にでも美味しい」平均点の味でしかない。

 

 内田の顔を見て、彼がいま何を求めているのか、湊には全くわからなかった。

 

「内田さんは、今日、どの味が一番美味しいと感じますか」

 

 問いかけながら、湊は内田の顔を凝視した。仕事で疲れているならにんにくか。それとも、教師という立場上、生姜でリフレッシュしたいのか。

 

 内田は少し考えてから、ぽつりと答えた。

 

「…今日は、どれも少し、今の自分には強すぎるかもしれません」

 

 その言葉に、湊は衝撃を受けた。

 

 完璧に再現したはずの三種類のレシピ。そのどれもが、目の前の男には届いていない。

 

「内田さん、少しだけ、待っていただけますか」

 

 湊は、冷蔵庫から新しい鶏肉を取り出した。

 

 ノートをめくる。端の方に、殴り書きで記されたメモがあった。

 

「言葉にならない日は、出汁の味」

 

 それは、醤油も生姜もにんにくも使わない、昆布と鰹の出汁に一晩漬け込む特別なレシピだった。手間がかかるため、祖母も滅多に作らなかったものだ。

 

 湊は、出汁のストックを温め、急いで肉を浸した。本来なら一晩置くべきだが、今の彼にできる精一杯の工夫を凝らす。真空パックの技術を応用し、短時間で味を染み込ませる。

 

 十五分後。

 

 薄い衣を纏い、白っぽく揚がった唐揚げを皿に乗せた。

 

「これを、食べてみてください」

 

 内田は不思議そうな顔で、その白い唐揚げを口にした。

 

 一口。二口。

 

 内田の動きが止まった。

 

「…ああ。これだ。今日は、これでした」

 

 内田の眼鏡が、微かに曇った。

 

「最近、新任の先生の指導や、保護者の方への対応で、自分の言葉が誰にも届いていないような気がしていたんです。何を食べても味がしなくて、ただお腹を満たすだけの毎日で」

 

 内田は、出汁の滲み出す唐揚げを、慈しむように噛み締めた。

 

「この味は、何も押し付けてこない。ただ、『ここにいていいよ』と言ってくれているような気がします。ハルさん、よく見ていたんだな。私が、言葉に疲れていることを」

 

 湊は、カウンターの向こう側で立ち尽くしていた。

 

 料理は再現できても、人を見ることはできない。

 

 自分は、祖母の技術を追っているつもりだったが、実際に祖母がしていたのは「診断」に近かった。

 

 目の前の人間が、今日という一日をどう生き、どんな傷を負い、どんな喜びを抱えて店に来たのか。それを読み取ることこそが、祖母のレシピの真髄だったのだ。

 

「内田さん、教師の仕事は大変ですか」

 

 湊が訊ねると、内田は少し照れたように笑った。

 

「大変ですよ。でも、今日のこの唐揚げで、明日も教室に行けそうです。私も、生徒たちの『言葉にならない声』を聞けるようになりたいものです。ハルさんのように」

 

 内田は代金を払い、晴れやかな顔で店を出て行った。

 

 一人残された厨房で、湊は再びノートを開いた。

 

 唐揚げのページ。そこには、数え切れないほどの修正跡と、書き足されたメモがあった。

 

「正解を探すな。相手を探せ」

 

 祖母の筆跡が、湊の心に突き刺さる。

 

 合理的であることは、間違いを犯さないことではない。

 

 相手にとっての最善を、その都度、必死に考え抜くこと。それが祖母の言う「合理性」だったのかもしれない。

 

 湊は、自分の不甲斐なさに鼻の奥が熱くなるのを感じた。

 

 自分は今まで、どれだけ多くの人の「顔」を見落としてきただろう。

 

 職場の同僚、取引先の担当者、そして。

 

 湊は、仏壇のある居間へ向かった。

 

 父の恒一が、仕事から戻ってテレビを眺めていた。相変わらずの無表情。

 

「…親父。唐揚げ、食うか」

 

 恒一は、少しだけ驚いたように息子を見た。

 

「揚げ物か。夜遅くに重いのは勘弁だぞ」

 

「わかってる。出汁で味付けした、軽いやつだ」

 

 湊は、父の顔をじっと見た。

 

 目の下に刻まれたクマ。少しだけ丸くなった背中。

 

 この男もまた、言葉にできない何かを抱えながら、毎日この家に帰ってきている。

 

 湊は厨房に戻り、再び火をつけた。

 

 今度の唐揚げは、内田に出したものとも、ノートの記述とも少しだけ変えてみた。

 

 父が好きな、少しだけ濃いめの出汁。そして、噛む力が弱くなってきた彼のために、肉をいつもより小さく切った。

 

「…おい」

 

 食卓に出された唐揚げを一口食べ、恒一が呟いた。

 

「なんだ」

 

「お袋の味とは違うな」

 

 恒一はそう言ったが、箸を止めることはなかった。

 

「そして、お前。あいつに似てきたな。人の顔をジロジロ見やがって」

 

 恒一の言葉はぶっきらぼうだったが、その声には、かつてない温もりが混じっていた。

 

 湊は、皿を洗うふりをして背を向けた。

 

 涙が出るのを隠すためだった。

 

 料理は再現できても、人を見ることはまだできない。

 

 けれど、見ようとすること。知ろうとすること。

 

 その第一歩を、湊はやっと踏み出した。

 

 唐揚げに正解が多すぎるのは、世界に人の人生が溢れているからだ。

 

 一人の人生に、一つの味。

 

 祖母が遺した空白のレシピに辿り着くためには、もっと多くの人の顔を見なければならない。

 

 湊は、濡れた手を拭き、ノートに一筆書き加えた。

 

「父さんには、小さめの出汁唐揚げ。お疲れ様、を込めて」

 

 夜の静寂の中、油の匂いが消えた台所で、湊は少しだけ大人になったような気がした。

 

 

 

 明日は、誰がこの店にやってくるだろう。

 

 どんな顔をして、どんな物語を運んでくるだろう。

 

 湊は、次のページをめくるのが、少しだけ怖く、そして楽しみになっていた。

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