祖母のレシピは、最後の一ページだけ空白だった。   作:高校ジャージ10年目

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第四話「結局カレーは二日目からが美味しい」

 雨は、すべてを過去に押し流そうとするかのように、容赦なく実家の屋根を叩いていた。

 

 朝倉湊は、薄暗い台所で一冊のノートを開いていた。亡き祖母、ハルが遺した献立帳。そこには、どこの家庭でも見かけるような、ありふれた文字が躍っていた。

 

「カレーライス」

 

 材料は、豚肉、玉ねぎ、にんじん、じゃがいも。市販のルー。隠し味にウスターソースとケチャップ。

 

 どこをどう読んでも、特別な料理には見えなかった。ただ、ページの余白に書かれたメモだけが、湊の目を引いた。

 

「恒一には、あまり辛くしないこと。湊には、にんじんをすり潰して隠すこと。二日目が一番美味しいから、大きな鍋でたくさん作る」

 

 湊はその文字を指先でなぞった。合理的で効率を重視する今の自分なら、わざわざ大きな鍋で作り置きをする理由を、単なる「手間の削減」と片付けていただろう。しかし、これまでの経験が、彼の思考に別の視点を与えていた。

 

「雨か」

 

 背後から、低く掠れた声がした。父の恒一だった。

 

 仕事から戻ったばかりの父は、濡れた上着を椅子にかけ、力なく腰を下ろした。仏壇に味噌汁を供えるのが日課の父だが、今日はその気力さえ削り取られているように見えた。

 

「父さん、今日の夕飯はカレーにしようと思うんだけど」

 

 湊が切り出すと、恒一は一瞬だけ、苦虫を噛み潰したような顔をした。

 

「カレーか。お節介な料理だな」

 

「お節介?」

 

「ああ、お袋はいつもそうだった。頼んでもいないのに、重たい鍋を抱えてやってくるんだ」

 

 恒一は窓の外の雨を見つめたまま、吐き捨てるように言った。その声には、拒絶というよりは、何かを無理やり抑え込んでいるような歪みがあった。

 

 湊は、父の言葉の裏側を探るように、静かに調理を始めた。

 

 玉ねぎを薄く切り、飴色になるまで炒める。ノートの指示通り、自分の分のにんじんはすり下ろして鍋に入れた。

 

 ふと、記憶の蓋が開く。

 

 あれは湊が小学校に上がったばかりの頃だった。母が突然、書き置き一つを残して家を出て行った。

 

 理由も、行き先も分からなかった。家の中からは色彩が消え、ただ湿った沈黙だけが部屋の隅々に溜まっていった。

 

 父はそれまで以上に仕事に没頭し、夜遅くに帰宅しては、暗い居間で一人、酒を煽っていた。幼かった湊は、父に声をかけることさえ怖かった。

 

 そんな時、決まって玄関のチャイムを鳴らしたのは、祖母のハルだった。

 

 彼女は「重いから手伝って」と湊を呼び、ずっしりと中身の詰まった銀色の大きな鍋を台所に運び込んだ。

 

 中身はいつも、カレーだった。

 

 

 

 

「お節介だったんだよ」

 

 恒一が、独り言のように繰り返した。

 

「あの頃、俺は自分が情けなくて仕方がなかった。妻に出て行かれ、子供一人まともに笑わせることもできない。お袋がカレーを持ってくるたびに、俺の無能さを突きつけられているような気がして、反発ばかりしていた」

 

 湊は手を止めて、父の背中を見つめた。

 

「でも、父さんは食べていたよね。あのカレー」

 

「…食べなきゃ、明日が来ないからな」

 

 恒一の声が、雨音に混じって震えた。

 

「お袋は何も言わなかった。『大変だね』とも『頑張れ』とも言わない。ただ、『二日目のほうが美味しくなるから、ゆっくり食べなさい』とだけ言って帰っていく。俺は、その言葉が嫌いだった。今日を生きるだけで精一杯なのに、明日なんて来るはずがないと思っていたからだ」

 

 湊は、鍋に水を注ぎ、火を強めた。

 

 沸騰する泡の音が、時計の針の音をかき消していく。

 

 祖母がなぜ、カレーという料理を選んだのか。そしてなぜ、あえて「二日目が美味しい」と言い残したのか。

 

 その答えが、煮込まれていく具材の匂いと共に、湊の胸に浮かんできた。

 

 カレーは、一度にたくさん作らなければ美味しくならない。

 

 そして、一晩寝かせることで、角が取れて味が馴染んでいく。

 

 それは、絶望の淵にいた父に対して、「明日も、明後日も、あなたの食事はここにある」という無言の約束だったのではないか。

 

「明日が来る」ことを強制するのではなく、「明日になれば、今より少しだけ良くなる」という希望を、味覚を通じて伝えようとしていたのではないか。

 

 湊は、出来上がったばかりのカレーを皿に盛った。

 

 しかし、それを父の前には出さなかった。

 

「父さん。このカレー、食べるのは明日にしよう」

 

 恒一が怪訝そうな顔で湊を見た。

 

「今日は、これを少しだけ味見するだけでいい。一晩置いたほうが、きっと美味しいから」

 

 湊は小さな小皿に一口分だけカレーを盛り、父の前に置いた。

 

 恒一は無言でスプーンを取り、それを口に運んだ。

 

「…まだ、若いな。味が尖っている」

 

「そうだね。でも、明日の夜には、もっと優しくなってるはずだ」

 

 湊は自分も一口食べ、微笑んだ。

 

 二人はそれ以上言葉を交わさなかった。ただ、台所に漂うスパイスの香りが、かつての殺風景だった家の中を、少しずつ温かい色で塗り替えていくのを感じていた。

 

 翌日の夜。雨は上がり、澄んだ月が空に浮かんでいた。

 

 湊は、一晩寝かせたカレーを温め直した。

 

 鍋の底を木べらでなぞると、昨日よりも重みが増しているのが分かった。具材の形は崩れ、すべてが溶け合って、深い褐色へと変化している。

 

 夕飯のテーブルに、並んで座る父と息子。

 

 恒一は、昨日と同じ場所に座り、差し出されたカレーをじっと見つめた。

 

 湯気と共に立ち上がる香りは、昨日よりもずっとまろやかで、どこか懐かしい。

 

 恒一は大きく一口、カレーを頬張った。

 

 咀嚼するたびに、父の喉が小さく動く。

 

「…美味いな」

 

 ぽつりと漏らしたその声は、驚くほど穏やかだった。

 

「ああ。本当に、昨日よりずっと美味い」

 

 湊も頷いた。

 

 恒一は黙々と食べ続けた。一匙ごとに、父の肩から余計な力が抜けていくのが分かった。

 

 最後の一口を飲み込んだ後、恒一は空になった皿を見つめ、ふっと息を吐いた。

 

「お袋が言っていた通りだ」

 

「え?」

 

「二日目になると、にんじんが溶けて見えなくなる。お前がにんじん嫌いだったから、あいつはいつも、二日目に一番美味しくなるように計算して作っていたんだな」

 

 恒一はそう言うと、顔を上げた。

 

 その口角が、微かに、けれど確かな曲線を描いていた。

 

 湊が生まれてから、一度も見たことがなかった、父の本当の笑顔だった。

 

「湊」

 

 恒一が、湊の目をまっすぐに見つめて言った。

 

「俺は、お前に何もしてやれなかった。あの頃、俺を救ってくれたのはお袋のカレーで、俺は自分のことだけで精一杯だった」

 

「そんなことないよ。父さんが毎日、仕事に行ってくれていたから、僕は大学まで行けたんだ」

 

「それは、親としての最低限の義務だ。でも、心までは育ててやれなかった。…すまなかったな」

 

 不器用な謝罪だった。けれど、その言葉はカレーのスパイスよりも深く、湊の心の奥底に染み渡った。

 

 湊は首を振った。

 

「謝らないで。僕も、父さんがどんな思いでいたか、今日まで知ろうとしなかったから」

 

 湊は、空になった父の皿を受け取り、立ち上がった。

 

「まだ、おかわりあるよ。大きな鍋で作ったから」

 

「ああ、もらおうか」

 

 恒一は、照れ隠しのように湯呑みの茶を啜り、再び微笑んだ。

 

 湊は、洗い物をしながら、心の中で祖母に語りかけた。

 

 ばあちゃん。カレーは、二日目が本番なんだね。

 

 それは味が良くなるだけじゃない。

 

 最悪な一日を乗り越えた後の、「明日の自分」への贈り物だったんだ。

 

 合理的だとか効率的だとか、そんな物差しでは測れない時間が、この鍋の中には流れていた。

 

 湊は、ノートのカレーのページに、小さな文字で追記をした。

 

「カレーは、家族の明日を信じるための料理。父さんが初めて笑った。二日目の味は、優しさの味」

 

 居間からは、テレビの音が静かに流れている。

 

 父が味噌汁を供えるだけでなく、自分と向かい合って食事を楽しみ、笑う。

 

 そんな当たり前の光景が、これほどまでに尊いものだとは知らなかった。

 

 

 

 一品ごとに、自分と父の間の溝は埋まり、冷え切っていた家族の輪郭が、温かな熱を帯びて再生していく。

 

「いただきます」と「ごちそうさま」の間に流れる、穏やかな時間。

 

 それこそが、祖母がこのノートを通じて、自分に一番伝えたかったことなのかもしれない。

 

 湊は窓を開けた。

 

 雨上がりの夜風が、カレーの香りを乗せて、どこまでも遠くへ運ばれていく。

 

 明日は、どんな料理を作ろうか。

 

 どんな人の人生を、その一皿で知ることになるのだろう。

 

 湊の心は、洗い流された空のように、清々しく晴れ渡っていた。

 

 

 湊はノートを閉じ、大切に抱えながら、父が待つ居間へと戻っていった。

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