祖母のレシピは、最後の一ページだけ空白だった。   作:高校ジャージ10年目

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第五話「卵焼きには、ひとの数だけ味がある」

「ハル屋」の台所に、心地の良い音が響いていた。

 

コンロの上で熱された卵焼き器に、黄色い液を流し込む。ジュー、という威勢のいい音と共に、甘い香りが湯気に乗って立ち上がった。

 

朝倉湊は、手首を慎重に返して卵の膜を巻いていく。

 

祖母のハルが遺した献立帳、五ページ目。そこには「卵焼き」とだけ題された項目があった。

 

「卵三個。砂糖大さじ二。塩ひとつまみ。火加減は強めで一気に。迷うと形が崩れる」

 

湊は、その指示通りに手を動かしていた。IT企業で培った「マニュアルを正確に実行する」という能力は、今の彼にとって最大の武器だった。

 

しかし、焼き上がった卵焼きを皿に乗せて眺めると、どこか違和感があった。形は完璧だ。焼き色も均一。けれど、それはまるでサンプル品のように冷たく、表情がないように見えた。

 

「湊、入ってるかー?」

 

店の入り口から、快活な声がした。

 

入ってきたのは、湊の幼なじみである陽介だった。地元の工務店で働き、今は神田さんの下で修業に励んでいる。日焼けした顔に白い歯をのぞかせて笑う陽介は、この町を一度も離れたことがない男特有の、大地に根を張ったような明るさを持っていた。

 

「陽介か。どうしたんだ」

 

「親方から聞いたんだよ。湊がばあちゃんのレシピを再現してるって。俺も一つ、味見させろよ」

 

陽介は勝手知ったる様子でカウンターに座った。

 

湊は少し迷ったが、たった今焼き上がったばかりの卵焼きを、一切れ差し出した。

 

陽介はそれを一口で頬張る。

 

「…うん、甘いな。これぞハルさんの卵焼きだ。湊が子供の頃、こればっかりねだってただろ」

 

「ああ。僕はこれしか認めなかったから」

 

湊は、自分が幼い頃にこの甘い卵焼きをどれほど愛していたかを思い出した。祖母はいつも、湊のために砂糖をたっぷり入れた、お菓子のような卵焼きを焼いてくれた。

 

「でもさ」

 

陽介が、二切れ目に箸を伸ばしながら言った。

 

「俺には、いつも出汁巻きだったんだぜ。しょっぱくて、じゅわっと汁が出るやつ」

 

湊は、箸を止めた。

 

「出汁巻き? 陽介にも、これを出してたんじゃないのか」

 

「違うよ。俺が遊びに行くと、ハルさんは決まって『陽介くんはこっちだね』って、出汁の効いた塩味のやつを焼いてくれたんだ。俺の親父が大の酒飲みで、俺も子供の頃から塩辛いもんが好きだったのを知ってたからだろうな」

 

湊は、頭の中の計算式が狂うような感覚を覚えた。

 

祖母のレシピ帳には、甘い卵焼きの配合しか書かれていない。それなのに、陽介には別のものを出していた。

 

「…平等じゃなかったのか」

 

「平等? 何言ってんだよ。ハルさんはいつも言ってたぜ。『同じ卵でも、食べる人が違えば正解は変わるんだよ』ってな」

 

湊は、陽介が帰った後も、一人で台所に立ち尽くしていた。

 

合理的であること。それは、一つの最適解を導き出し、それを誰に対しても公平に適用することだと思っていた。

 

しかし、祖母の考え方はその対極にあった。

 

湊には湊の、陽介には陽介の。その時、その場所で、その人が求めている味を提供すること。それはマニュアル化など到底不可能な、極めて非効率で、けれど究極に贅沢な「個別対応」だった。

 

湊は、もう一度卵を割った。

 

今度は砂糖を入れず、出汁と塩を手に取った。

 

陽介の言葉を思い出しながら、出汁をたっぷりと含ませた液を作る。液が緩い分、巻くのは格段に難しくなった。

 

形が崩れ、何度も失敗した。

 

それでも湊は、フライパンの熱と向き合い続けた。

 

自分の中にある「正解」という名の壁を、一つずつ壊していくような作業だった。

 

「レシピ通りであることが、正解ではない」

 

その事実に辿り着いた時、湊の視界は以前よりもずっと鮮やかに開けていた。

 

「湊、まだやってるのか」

 

居間から、父の恒一が姿を現した。

 

手には、いつものように仏壇から下げた味噌汁の椀を持っている。

 

「父さん。父さんの卵焼きは、どんな味だった?」

 

湊の問いに、恒一は少し意外そうな顔をして、遠い昔を思い出すように視線を彷徨わせた。

 

「俺か。俺は…胡椒の効いた、少し変わったやつだったな。仕事で疲れて帰ってくると、お袋はいつもピリッとした卵焼きを出してくれた。酒の肴にもなるようにってな」

 

恒一の言葉に、湊は小さく笑った。

 

甘い味、塩味、そして胡椒味。

 

同じ「朝倉ハル」という人間が作る料理でありながら、食べる相手によって、その形は千変万化していたのだ。

 

祖母にとってのレシピとは、固定されたルールではなく、対話を始めるための「取っ掛かり」に過ぎなかった。

 

「父さん、今から焼くから、食べてみてよ」

 

湊は、父のために少しだけ胡椒を効かせた卵を焼き始めた。

 

今までの「完璧な形」へのこだわりは、もう捨てていた。

 

多少形がいびつでもいい。焼き色が濃くなっても構わない。

 

目の前にいる父が、一口食べて「ああ、今日を終えられる」と感じてくれるかどうか。それだけを、指先に込めた。

 

「いただきます」

 

恒一が、湊の作った卵焼きを口にする。

 

ピリッとした刺激が舌を突き、その後に卵の優しい甘みが追いかけてくる。

 

「…不器用な味だが、悪くない」

 

恒一はそう言って、残りの一切れを大切そうに食べた。

 

それは、褒め言葉としては物足りないものだったかもしれないが、湊にとってはどんな賞賛よりも誇らしく感じられた。

 

「レシピは、毎回違っていいんだね」

 

湊が呟くと、恒一は静かに頷いた。

 

「お袋は、料理を『物』だとは思っていなかったんだろう。あいつにとっては、料理は『手紙』のようなものだったんだ」

 

湊は、その夜、献立帳に新しい言葉を書き加えた。

 

「卵焼き。正解は、食べる人の数だけある。自分勝手に完璧を目指すな。相手の心の温度を測れ」

 

湊は、自分が抱えていた「正解への強迫観念」が、少しずつ溶けていくのを感じていた。

 

以前の自分なら、レシピ通りに作れない自分を責めていただろう。

 

けれど今は、レシピをはみ出すことの中にこそ、本当の豊かさがあるのだと思える。

 

 

 

祖母のハルが、なぜ最期のページを空白にしたのか。

 

その理由が、霧が晴れるようにゆっくりと見え始めていた。

 

それは、決して書き忘れたわけでも、書けなかったわけでもない。

 

「その時のあなたにしか作れない料理を、自分で見つけなさい」

 

そんな祖母の、いたずらっぽい声が聞こえたような気がした。

 

湊は、窓の外に広がる町の灯りを見つめた。

 

そこには、陽介がいて、神田さんがいて、学校の内田先生がいて、名前も知らない多くの人々が暮らしている。

 

彼らには、彼らだけの「卵焼きの味」があるはずだ。

 

その一つ一つを知ることは、なんて果てしなく、そしてなんて素晴らしいことだろう。

 

合理的ではない。けれど、これほどまでに人間らしい営みが、他にあるだろうか。

 

湊は、冷えてきた台所で、自分自身の手をじっと見つめた。

 

この手は、まだ何も掴めていない。

 

けれど、次に包丁を握る時、自分はきっと昨日よりも優しくなれる。

 

「ごちそうさま。明日は、何を作るんだ」

 

恒一が、席を立ちながら言った。

 

「まだ決めてないよ。明日、誰が来るかを見てから決める」

 

湊の答えに、恒一は初めて、声を出して短く笑った。

 

「ハルそっくりだな」

 

その言葉は、湊にとって最高のご褒美だった。

 

湊は、静かにノートを閉じた。

 

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