絵とバレーボール。この関係に名前はない。   作:an-ryuka

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1.

兵庫の春は、海の匂いより先に土埃の匂いがする。

 

稲荷崎高校の三階、二年一組の教室にも、グラウンドから巻き上がった乾いた匂いが窓の隙間を抜けて入りこんでいた。黒板には数学教師の角張った字が残り、昼休みのざわめきは机の脚を引く音、購買のパン袋を開ける音、誰かが笑いすぎて咳き込む声に紛れて、ゆるく散っていく。

 

その中で、青砥千景だけがずっと下を向いていた。

 

眠っているのではない。

 

食べているのでもない。

 

彼女の右手は、昼休みの終わりを知らせる予鈴が鳴る寸前まで、紙の上を走っていた。

 

しゃっ、しゃっ、と鉛筆が削る音。

 

机の上には弁当箱も教科書もなく、あるのは擦り切れたスケッチブックと、短くなった鉛筆が三本。千景はいつも、何かを見ていた。見ているくせに、人と目を合わせることはほとんどない。風景、窓枠、廊下を走る男子の膝、髪を結び直す女子の指、先生のチョークの粉、空席の椅子。

 

世界の全部を、紙に移すみたいに。

 

「青砥さん、また描いとる」

 

誰かが小さく笑う。

 

「変わっとるよな」

 

その言葉に悪意は薄かった。けれど、親しみもない。千景はそういう視線に慣れていた。変なやつ。絵ばっかり描いとるやつ。話しかけても返事が遅いやつ。ノートよりスケッチブックの方が大事そうなやつ。

 

そう思われることは、彼女にとってたいした問題ではなかった。

 

問題は、線が思ったところへ行かないことだけだった。

 

「なあ」

 

背中の後ろから、声が降ってきた。

 

千景の手が止まる。

 

「それ、バレーやろ」

 

前の席に座る千景のスケッチブックは、後ろの席からならよく見えた。授業中でさえ、机の端に隠すでもなく開かれている。本人は見られていることを気にしていないのか、気づいていないのか、どちらともつかない。

 

千景は、ゆっくり振り向いた。

 

宮侑が頬杖をついていた。

 

金に近い明るい髪。染めた色が春の日差しを拾って、やけに目立つ。目元は吊り気味で、笑っていなくても人を挑発しているように見えた。制服の襟は少し崩れ、肩幅は同じ机に座る男子たちよりも広い。バレー部の有名人。女子が廊下で声をひそめる名前。試合の日は体育館の空気ごと変えてしまう、あの宮侑。

 

千景は彼の顔を一秒見て、すぐにスケッチブックへ視線を戻した。

 

「うん」

 

「誰描いとん」

 

「顔は描いてない」

 

「見たらわかるやん。これ、たぶん銀やろ。で、こっち角名。ここの腕、北さんっぽい」

 

侑の指が、紙の上に落ちた。

 

触れる寸前で、千景の鉛筆がその指を止める。

 

こつん。

 

「触らないで」

 

声は静かだった。

 

怒っているというより、刃物の置き場所を教えるような響きだった。

 

侑は一瞬だけ目を丸くして、それから口の端を上げた。

 

「すんません」

 

千景はまた紙を見る。

 

体育館の中を描いた絵だった。ネットの白い帯、床に伸びた影、跳ぶ人間の重心。顔はない。けれど、誰なのかはわかる。背中の角度、腕の振り、指先のばらつき。人物というより、動きそのものを捕まえている。

 

侑はしばらく黙ってそれを見ていた。

 

「……こいつやるやん」

 

ぼそっと落ちた声に、千景の眉がわずかに動く。

 

「今、何か言った?」

 

「いや。うまいな思て」

 

「ありがとう」

 

返事は短い。

 

それで会話は終わるはずだった。

 

侑は終わらせなかった。

 

「いつ描いたん」

 

「昨日。体育館、開いてたから」

 

「見に来とったん?」

 

「うん」

 

「バレー好きなん?」

 

千景は少し考えた。

 

好き、という言葉は便利すぎる。何でもその箱に入れられる。けれど彼女にとって、バレーは好きか嫌いかではなかった。ボールが上がる一瞬、人間の背骨が弓のようにしなる。床を蹴る足裏、空中で止まったように見える肩、落ちる汗。全部、線になる。

 

「描きたい」

 

侑が黙った。

 

それから、ふっと笑った。

 

「変な答えやな」

 

「よく言われる」

 

「俺のことも描いたらええやん」

 

千景の鉛筆が止まった。

 

今度は、ちゃんと侑を見た。

 

「いいの?」

 

「ええよ。俺、かっこええし」

 

隣の席の男子が吹き出した。前の方で女子が振り返る。侑は気にせず、背もたれに体重を預ける。

 

千景は笑わなかった。

 

ただ、少しだけ目を細めた。

 

「顔も?」

 

「顔も」

 

「確認取ったから描くね」

 

「なんや、許可制なん?」

 

「本人に確認しない限り、顔は描かない」

 

「律儀やな」

 

「顔はその人のものだから」

 

侑はその言葉を、からかわなかった。

 

いつもなら、何か言い返したかもしれない。真面目か、とか、めんどくさ、とか。けれど千景の横顔は、冗談を受け取る場所を持っていないように見えた。紙の上のものに対してだけ、ひどく誠実だった。

 

予鈴が鳴る。

 

教室がばたつき、先生が入ってくる。千景はスケッチブックを閉じる。侑はその表紙を見た。角が丸まり、鉛筆の粉で黒ずみ、何度も開かれた背表紙は少し裂けている。

 

大事にされている。

 

それだけは、見ればわかった。

 

放課後。

 

体育館には、ワックスの匂いと汗の匂いが濃く溜まっていた。ボールが床を叩く音が、腹の奥まで響く。きゅっ、きゅっとシューズが鳴り、掛け声が天井へ跳ね返る。

 

千景は壁際に立っていた。

 

邪魔にならない位置。誰の通り道にもならない、けれどコート全体が見える場所。膝の上にスケッチブックを置き、立ったまま描いている。視線は忙しないのに、体はほとんど動かない。

 

侑はサーブ練習の列に並びながら、ちらりとそちらを見た。

 

千景はすでに描いていた。

 

自分ではない。

 

角名のブロックの指先、治の踏み込み、銀島の肩。誰の顔もない。けれど全員がそこにいる。

 

「ツム、集中せえや」

 

治が横から言った。

 

侑は舌打ちする。

 

「しとるわ」

 

「今、壁見とったやろ」

 

「壁ちゃう」

 

「ほな何」

 

「絵ぇ描く変なやつ」

 

治は壁際へ目を向けた。

 

「青砥?」

 

「知っとん?」

 

「同じ学年やし。いっつも描いとる子やろ」

 

「俺のこと描いてええって言うた」

 

「ふうん」

 

治の声は平坦だった。

 

「なんやその顔」

 

「別に」

 

「腹立つ言い方すな」

 

「サーブ、順番来とるで」

 

侑はボールを受け取った。

 

手のひらに革の感触が馴染む。深く息を吸う。体育館の空気が肺に入る。視界の端に、千景がいた。鉛筆を構え、こちらを見ている。

 

描かれている。

 

そう思った瞬間、侑の背中に妙な熱が走った。

 

いつものファンの視線とは違った。きゃあきゃあと名前を呼ぶ目でも、勝手に期待して勝手に騒ぐ目でもない。千景は侑を見ているようで、侑を通してもっと別のものを見ていた。

 

跳ぶ前の静けさ。

 

力が生まれる場所。

 

バレーそのもの。

 

侑はボールを上げた。

 

高く。

 

体育館の照明が、白い球の縁を光らせる。

 

助走、踏み込み、跳躍。

 

腕を振り抜いた瞬間、空気が裂けた。

 

ばちん、と音が鳴る。

 

ボールは相手コートの隅に落ち、床を跳ねた。

 

「ナイッサー!」

 

声が飛ぶ。

 

侑は着地して、すぐ壁際を見た。

 

千景は描いていた。

 

今の一瞬を逃がさないように、鉛筆が紙を削っている。目がわずかに見開かれていた。口元は結ばれているのに、息だけが浅い。楽しいとも嬉しいとも違う、何かに撃たれた人間の顔だった。

 

侑の胸が、妙にすいた。

 

練習後、体育館の外は夕方の匂いがした。土と汗と、どこかの家の夕飯の出汁の匂い。部員たちは着替えに向かい、マネージャーがモップを片づけている。

 

千景は体育館の脇の階段に座り、まだ描いていた。

 

侑はタオルを首にかけたまま近づく。

 

「見せて」

 

千景は顔を上げた。

 

「汗、落ちる」

 

「落とさん」

 

「ほんとに?」

 

「たぶん」

 

「信用できない」

 

「ひどない?」

 

千景は少しだけスケッチブックを傾けた。

 

侑は覗き込む。

 

そこにいたのは、顔のない自分だった。

 

けれど、間違いなく宮侑だった。

 

跳ぶ直前の背中。肩甲骨の開き。指先からボールが離れる寸前の、あの独特の傲慢さ。線だけなのに、うるさいくらい自分だった。

 

侑は黙る。

 

千景はその沈黙を否定と受け取ったのか、鉛筆を持つ指に力を込めた。

 

「変だった?」

 

「ちゃう」

 

侑は目を離せなかった。

 

「俺、こんな顔しとるんや」

 

「顔は描いてない」

 

「せやけど、顔見えるわ」

 

千景の目が、少しだけ揺れた。

 

それは彼女にとって、たぶん一番近い褒め言葉だった。

 

侑は階段の一段下に腰を下ろした。汗の匂いが自分でもわかる。千景は少し身を引いたが、逃げるほどではない。

 

「なあ、青砥」

 

「何」

 

「今度、ちゃんと俺描いてや」

 

「描いてる」

 

「顔も。試合中の俺」

 

千景は夕日の差す体育館を見た。

 

そこにはもう、誰も跳んでいない。ネットだけが静かに張られている。けれど彼女の目には、まださっきの侑が残っているようだった。

 

「わかった」

 

短い返事。

 

侑は満足げに笑った。

 

「ええやん」

 

その日から、宮侑は青砥千景に話しかけるようになった。

 

「何描いとん」

 

「窓」

 

「窓て」

 

「光が曲がってる」

 

「曲がっとるんはお前の感性やろ」

 

「それも描けたらいいね」

 

「真顔で言うなや」

 

会話は長くない。

 

千景は必要な分しか返さない。侑は勝手に喋る。けれど不思議と、それで成り立った。

 

千景のスケッチブックには、少しずつ侑が増えていった。

 

授業中にペンを回す指。

 

昼休みに治と言い合う横顔。

 

体育館でトスを上げる手。

 

ファンに囲まれているときの、作った笑顔。

 

そして、ある日の放課後。

 

体育館前で、数人の女子が練習の邪魔になる場所に集まっていた。侑の名前を呼び、スマホを構え、きゃあきゃあと浮ついた声を上げる。部員たちの空気が少しずつ尖っていく。

 

侑が足を止めた。

 

「邪魔や」

 

声は低かった。

 

女子たちが笑う。

 

「ちょっとだけやん、侑くん」

 

「撮らんといて言うたやろ」

 

「えー、怖い」

 

その瞬間、侑の表情が変わった。

 

「怖いで済むなら最初からすんなや。ここ遊び場ちゃうねん。俺ら練習しとんねん。見たいならルール守れ。守れへんなら帰れ」

 

体育館の空気が、しん、とした。

 

千景は壁際で、その顔を見ていた。

 

怒り。

 

苛立ち。

 

それでも、バレーを守るために前へ出る迷いのなさ。

 

胸の奥が、強く鳴った。

 

彼女は夢中で描いた。

 

線が追いつかない。顔を描く許可はもう得ている。だから描ける。眉間の皺、噛みしめた顎、吐き捨てる口の形。侑が侑であることが、紙の上に焼きついていく。

 

その絵は、千景のお気に入りになった。

 

何度も見返した。

 

何度も指でなぞった。

 

そして、そのページが誰かの手で破られる未来を、まだ誰も知らなかった。

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