絵とバレーボール。この関係に名前はない。   作:an-ryuka

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宮侑のスマホには、季節より先に青砥千景の絵が届いた。

 

春の絵。

 

夏の絵。

 

秋の絵。

 

冬の絵。

 

そこに言葉は少ない。

 

『今日の空』

 

添えられているのは、夕焼けをそのまま描いたようでいて、よく見るとバレーの軌道が混ざった絵。

 

『眠い』

 

そう送られてきた翌朝には、紙の端に伏せた猫のような赤い線が描かれている。

 

『音駒』

 

その一言だけで送られてくる絵には、誰の顔もない。けれど、黒尾の背中も、研磨の指も、夜久の低い姿勢も、山本の真っ直ぐな熱も、全部がいた。

 

そして時々、金色。

 

侑はそれを見るたびに、腹の奥が熱くなった。

 

「またニヤついとる」

 

治が横から言う。

 

侑はスマホを伏せる。

 

「ニヤついてへん」

 

「もう隠す気もないやろ」

 

「隠す必要ある?」

 

「開き直ったら終わりやで」

 

「お前に終わりとか言われたないわ」

 

治は呆れたように味噌汁を飲んだ。

 

卒業が近づくにつれて、学校の空気は少しずつ薄くなっていった。

 

授業は終わりに向かい、廊下には進路の話が増える。部活を引退した三年たちは、どこか手持ち無沙汰で、けれど何かが終わることを認めきれずに体育館へ顔を出した。

 

侑は、バレーをやめる気など一秒もなかった。

 

次へ行く。

 

もっと強い場所へ。

 

もっと高い場所へ。

 

その道の途中に、千景がいることがもう当たり前になっていた。

 

ある夜、侑は東京へ行く予定を千景に伝えた。

 

『卒業前に一回行く』

 

返事はすぐだった。

 

『アトリエ?』

 

侑は笑った。

 

『お前に会いに行くんや』

 

少し間が空く。

 

それから返ってきた。

 

『じゃあアトリエ』

 

「同じ意味やと思っとるやろ、こいつ」

 

侑は声に出して笑った。

 

東京は、まだ冬の終わりの匂いがした。

 

駅前の風は冷たく、コンビニの肉まんの湯気が白く立っている。侑が改札を出ると、千景はいつものように壁際で待っていた。黒いコート。灰色のマフラー。肩から下げた鞄には、今日もスケッチブックが入っている。

 

「ツム」

 

「おう」

 

それだけで、侑の肩から力が抜けた。

 

千景は侑の手を見た。

 

侑は何も言わずに差し出す。

 

千景はそれを握った。

 

もう、人混みだからという言い訳はしなかった。

 

アトリエへ向かう道で、千景はぽつりと言った。

 

「卒業したら、ツムは大阪?」

 

「たぶんな。しばらくはそっち」

 

「バレー?」

 

「バレー」

 

「私は東京」

 

「絵?」

 

「絵」

 

短い会話。

 

けれど、その中に二人の未来が並んでいた。

 

侑は握った手に少し力を込める。

 

「遠いやん」

 

「今も遠い」

 

「せやけど」

 

「絵は送る」

 

「絵以外も送れ言うたやろ」

 

「努力してる」

 

「眠い、しか送ってこん日あるけど」

 

「眠いのは事実」

 

侑は笑った。

 

千景もほんの少しだけ口元を緩めた。

 

アトリエに入ると、そこには新しい絵が増えていた。

 

音駒の絵。

 

稲荷崎の絵。

 

知らない体育館の絵。

 

そして、侑の絵。

 

侑はもう、自分の絵を見分けられるようになっていた。

 

顔がなくてもわかる。

 

金色の線の角度。

 

ボールへ向かう指の形。

 

誰かを跳ばせる時の、傲慢なほど明るい色。

 

「これ、俺やろ」

 

「うん」

 

「こっちも俺」

 

「うん」

 

「これも?」

 

「それは治くん」

 

「なんでやねん」

 

千景は真顔で言った。

 

「食べ物の匂いがする線だから」

 

「線から匂いすんな」

 

「する」

 

侑は笑いながら、その絵を見た。

 

確かに、言われてみれば治だった。自分より少し低い熱。けれど芯のところに、よく似た強さがある。

 

「治に見せたろかな」

 

「まだだめ」

 

「なんで」

 

「完成してない」

 

「完成したらええん?」

 

「うん。治くんなら、たぶん大事にする」

 

侑は千景を見る。

 

彼女の中で、誰に見せるか、誰に渡すかは明確に線引きされている。絵はただの物ではない。自分の内側を削って出したものだ。だから、渡す相手を選ぶ。

 

その中に自分が入っていることが、侑は何度でも嬉しかった。

 

「千景」

 

「何」

 

「卒業したら、籍入れへん?」

 

千景の筆が止まった。

 

アトリエの空気が、しん、と沈む。

 

外では車が通り過ぎ、遠くで犬が吠えた。乾いた絵の具と、侑のコートに残った冬の匂いが混ざっている。

 

千景はゆっくり振り向いた。

 

「籍」

 

「結婚」

 

「うん、意味はわかる」

 

「ならええやん」

 

「式は?」

 

「せんでええやろ。お前、人多いん苦手やし。俺も見世物みたいなん嫌や」

 

千景は少し考えた。

 

「指輪は、絵の具つく」

 

「外せばええ」

 

「なくしそう」

 

「ほな、なくさんやつ考える」

 

「苗字は?」

 

「どっちでもええ。お前の絵の名前、変えたないならそのままでええし」

 

千景は侑を見ていた。

 

侑は、ふざけていなかった。

 

顔は少し赤い。

 

けれど目はまっすぐだった。

 

「なんで?」

 

千景が聞く。

 

侑は眉を寄せた。

 

「なんでって」

 

「理由」

 

侑は少し困った顔をした。

 

言葉にするのは、バレーより難しい。

 

でも、逃げる気はなかった。

 

「俺、これからずっとバレーする。たぶん、腹立つくらい忙しくなるし、遠征もあるし、ファンも増えるかもしれん」

 

「うん」

 

「お前も絵描くやろ。寝んと描くし、飯忘れるし、急にどっか行くし」

 

「うん」

 

「お互い、自分の大事なもんは絶対譲らんやろ」

 

「譲らない」

 

「せやから」

 

侑は千景の手を取った。

 

絵の具で少し冷えた指。

 

何度も描いてきた手。

 

「ちゃんと、俺らの場所も作っときたい」

 

千景の目が揺れた。

 

侑は続ける。

 

「お前は俺の絵描く。俺はお前の絵、見る。バレーする。絵描く。たぶん、それしかできへん。でも、それを一番近くでやりたい」

 

千景は黙った。

 

長く黙った。

 

侑は待った。

 

急かすことだけはしなかった。

 

やがて、千景は小さく頷いた。

 

「いいよ」

 

侑の息が止まる。

 

「ほんまに?」

 

「うん」

 

「軽ない?」

 

「軽くない」

 

千景は侑の手を握り返した。

 

「ツムは、私の絵を雑に扱わないから」

 

侑は何度も瞬きをした。

 

その理由が、千景らしすぎて、胸がいっぱいになった。

 

「それ、プロポーズの返事としては独特すぎるやろ」

 

「だめ?」

 

「だめちゃう」

 

侑は笑った。

 

どうしようもなく嬉しくて、千景を抱き寄せた。

 

千景は少しだけ驚いたあと、侑の背中に手を回した。

 

「卒業したら」

 

「おう」

 

「紙、描くね」

 

「婚姻届は描く紙ちゃう。書く紙や」

 

「でも紙」

 

「まあ、紙やけど」

 

千景は侑の肩に顔を埋めたまま、静かに言った。

 

「白い紙、好き」

 

卒業式の日、稲荷崎の体育館にはいつもと違う匂いがした。

 

花。

 

暖房。

 

新しいスーツ。

 

涙をこらえる生徒のハンカチ。

 

侑は卒業証書を受け取り、壇上から降りた。体育館の壁際を、反射的に見てしまう。

 

そこに千景はいない。

 

けれど、もう空っぽではなかった。

 

ポケットの中のスマホには、朝届いた絵がある。

 

白い紙に、金色の線が一本だけ走っている絵。

 

『卒業』

 

それだけ。

 

侑は式が終わると、すぐ千景に電話した。

 

「卒業した」

 

『うん。おめでとう』

 

「そっちは?」

 

『私も終わった』

 

「泣いた?」

 

『描いてた』

 

「式中に?」

 

『終わってから』

 

「ならええわ」

 

電話の向こうで、千景が少し笑った気がした。

 

数日後。

 

二人は役所の前に立っていた。

 

侑は黒いジャケットを着ていたが、どこか落ち着かない。千景は白いシャツに紺のコート。手にはクリアファイル。中には、きちんと記入された婚姻届が入っている。

 

「ほんまに式せんでええんやな」

 

「うん」

 

「写真は?」

 

「あとで絵にする」

 

「写真の代わりに?」

 

「うん」

 

「お前らしいわ」

 

窓口へ向かう足取りは、試合前より緊張した。

 

紙を出す。

 

確認される。

 

待つ。

 

受理される。

 

それだけ。

 

それだけなのに、侑は手のひらに汗をかいていた。

 

千景は隣で静かだった。

 

けれど、ファイルを持つ指先が少し震えているのを侑は見逃さなかった。

 

「千景」

 

「何」

 

「手」

 

侑が差し出すと、千景は握った。

 

窓口の人が書類を確認している間、二人はずっと手を繋いでいた。

 

やがて、淡々とした声が言った。

 

「受理いたしました」

 

その瞬間、侑は思わず息を吐いた。

 

千景は小さく瞬きをした。

 

「終わり?」

 

「始まりやろ」

 

侑が言う。

 

千景は侑を見て、ゆっくり頷いた。

 

「そっか」

 

役所を出ると、春の風が吹いていた。

 

桜はまだ満開ではない。枝の先に、淡い色が少しだけ開いている。道路の向こうから、パン屋の焼きたての匂いが流れてきた。

 

侑は千景の手を握ったまま歩き出す。

 

「宮千景になるん?」

 

「画家の名前は青砥千景のまま」

 

「普段は?」

 

「どっちでもいい」

 

「ほな、俺だけ宮千景って呼んでええ?」

 

千景は少し考えた。

 

「たまになら」

 

「たまにかい」

 

「呼ばれ慣れてない」

 

「これから慣れろや」

 

千景は侑の横顔を見た。

 

春の光が、彼の髪に金色を混ぜている。

 

「ツム」

 

「何」

 

「描きたい」

 

侑は笑った。

 

「今日くらい、好きなだけ描け」

 

その日の夜、千景は婚姻届を出した日の絵を描いた。

 

白い紙。

 

金色の線。

 

薄い桜色。

 

そして、二本の手。

 

顔はない。

 

名前もない。

 

けれど、誰が見てもそれは、何かを誓った絵だった。

 

侑はその絵を見て、しばらく黙った。

 

「これ、俺ら?」

 

「うん」

 

「ええな」

 

「いる?」

 

「いる」

 

「原画はだめ」

 

「わかっとる」

 

千景は少し考えてから、小さな複製を一枚作った。

 

侑はそれをスマホケースの内側に入れた。

 

金色の待ち受けは、そのまま。

 

白い紙の絵は、手の中に。

 

翌朝、侑は治に電話した。

 

「籍入れた」

 

沈黙。

 

それから、治の低い声。

 

『……は?』

 

「籍入れた」

 

『なんで事後報告やねん』

 

「式してへんし」

 

『そういう問題ちゃうやろ』

 

侑はにやりと笑った。

 

「俺、妻一筋なんで」

 

電話の向こうで、治が深く深くため息をついた。

 

『ほんま、めちゃくちゃやな、お前ら』

 

侑は窓の外を見た。

 

アトリエでは、千景がもう次の絵を描いている。朝の光の中、彼女の指先が白い紙の上を走る。

 

侑はその背中を見ながら、静かに答えた。

 

「せやろ」

 

その声は、誇らしげだった。

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