絵とバレーボール。この関係に名前はない。 作:an-ryuka
青砥千景のスケッチブックに、宮侑は増えていった。
最初は一ページの端だった。
授業中、シャーペンを指で回しているところ。頬杖をつきながら教師に当てられ、面倒くさそうに立ち上がるところ。昼休みに宮治と購買パンを奪い合っているところ。
そのうち、見開きになった。
体育館の床を蹴る足。
高く上がった手。
トスを上げる瞬間の首筋。
跳ぶ前の、ほんの一拍だけ静まり返る背中。
千景は侑の顔を描くようになったが、それでも絵の中心にあるのは顔ではなかった。目でも、口でも、整った輪郭でもない。彼女が描きたかったのは、宮侑という人間の中で燃えているものだった。
「青砥」
昼休み。
後ろから呼ばれ、千景はスケッチブックを閉じた。
「何」
「閉じるん早ない?」
「見せるとは言ってない」
「俺のこと描いとるんやろ」
「今日は描いてない」
「ほな何」
千景は少し迷ってから、またスケッチブックを開いた。
そこには、校舎裏の銀杏の木が描かれていた。
ただの木ではない。
枝の伸び方、葉の重なり、風が抜けたあとの空白。見ていると、ざわ、と紙の中から音がするようだった。
侑は眉を寄せた。
「……木やん」
「木だよ」
「俺ちゃうんか」
「毎日、侑くんだけ描くわけじゃない」
「なんや。つまらん」
千景は鉛筆を持ったまま、じっと侑を見た。
「描かれたいの?」
「別に」
「そう」
「いや、まあ、描きたいなら描いてもええけど」
「どっち?」
侑はむっとした顔をした。
教室の外では女子たちが笑っている。廊下からは、誰かが「侑くん今日もかっこよかった」と言う声が聞こえた。侑はそちらを一瞬だけ見て、すぐ千景へ視線を戻す。
「描いてええって言うとるやん」
「じゃあ描く」
千景はまた紙へ向き直った。
侑はしばらくその後頭部を見ていた。
黒髪は肩の少し下まで伸びていて、いつも低い位置で適当に結ばれている。前髪は自分で切ったのか、少し不揃いだった。制服の袖には薄く鉛筆の粉がついている。指先は、爪の間まで黒い。
派手さはない。
けれど、侑はもう知っていた。
千景が紙を見る時だけ、目の奥に青い火みたいなものが灯ることを。
「なあ」
「何」
「なんで俺のこと、侑くんって呼ぶん」
鉛筆の音が止まった。
「宮くんだと、治くんと混ざるから」
「ツムでええやん」
「本人に許可を取ってない」
侑は思わず笑った。
「今取れや」
「ツムって呼んでいい?」
「ええよ」
「わかった、ツム」
その呼び方は、変に平坦だった。
特別な響きも、照れもない。ただ、許可された名前を正しく置いただけ。
それなのに侑は、胸の奥が少しむずがゆくなった。
「……変な感じするわ」
「自分で言ったのに」
「ちゃうねん。お前が言うと変やねん」
「戻す?」
「戻さんでええ」
千景は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。
侑も、それ以上は言わなかった。
それからの日々は、少しだけ形を変えた。
侑は練習中、壁際に千景がいることを探すようになった。いない日は、なぜか体育館の空気が薄く感じた。いる日は、やけにサーブが走った。
千景は相変わらず、バレー部だけを描いたわけではなかった。
陸上部のスタート前の肩。
弓道部の引き絞る指。
野球部の泥だらけの膝。
吹奏楽部の息を吸う横顔。
美術室の石膏像。
放課後の空き教室。
生徒のほとんどが、知らないうちに一度は千景の紙の中にいた。けれど、侑だけはそれを知っていた。自分が、何度も描かれていることも。
「お前、俺の絵、どれが一番うまく描けたと思う?」
ある日の練習終わり、侑はタオルで汗を拭きながら聞いた。
千景は体育館の隅で、膝の上にスケッチブックを広げていた。
「うまい、とは違うけど」
「なんや」
「好きなのはある」
「見せて」
千景は少しだけ黙った。
それから、一冊目ではなく、二冊目のスケッチブックを取り出した。表紙は紺色で、角がもう潰れている。
ぱらぱら、と紙がめくられる。
侑の横顔。
侑の手。
侑の背中。
侑の怒鳴る顔。
そこで、千景の手が止まった。
あの日の絵だった。
体育館前で、勝手に写真を撮ろうとした女子たちに怒った時の侑。
紙の中の侑は、荒かった。線が強く、ところどころ紙が凹んでいる。眉間に深い皺があり、口は開き、声が聞こえそうだった。怒りの絵なのに、ただ怖いだけではない。守るものがある人間の顔だった。
侑は息を止めた。
「……これ、俺?」
「うん」
「めっちゃ怒っとるやん」
「怒ってた」
「こんなん好きなん?」
「うん」
千景は迷わず頷いた。
「バレーを大事にしてる顔だったから」
侑の喉が、変に詰まった。
褒められているのだとわかる。
けれど、かっこいいと言われるより、すごいと言われるより、ずっと奥の方を触られた感じがした。
「……お前、ほんま変やな」
「知ってる」
「でもそれ、悪口ちゃうからな」
「うん」
千景はまた絵を見下ろした。
その目が、侑ではなく紙の中の侑を見ていることに、侑は少しだけ腹が立った。
自分を見ろ、と思った。
思った瞬間、自分でそれを笑いたくなった。
何を考えとんねん、俺は。
「青砥」
「千景でいいよ」
侑は固まった。
千景は何でもない顔でページを閉じる。
「宮が二人いるから、私も名字だとちょっと距離がある気がする」
「……千景」
「うん」
返事はまた、淡々としていた。
侑は耳の奥が熱くなるのを感じた。
「ほな、俺もツムでええから」
「さっき許可もらった」
「せやったな」
二人の間に沈黙が落ちた。
体育館ではボールかごを動かす音がしている。外からは夕方の鳥の声。床には汗とワックスの匂いが残っていた。
その静けさを、侑は嫌いではなかった。
けれど、その静けさは長く続かなかった。
変化は、目に見えないところから染み出していた。
廊下で千景を見る視線が増えた。
女子たちの声が、彼女の後ろで止まるようになった。
「最近、宮くんと仲いいよね」
「何話してるんやろ」
「あの子、ずっと絵描いてるだけやん」
「侑くん、ああいう変な子がええんかな」
千景は聞こえていないふりをした。
実際、どうでもよかった。
侑に話しかけられることも、周囲に見られることも、彼女の中では絵を描くことより下にあった。
けれど、紙だけは違った。
その日の放課後、千景は美術室へ寄ったあと、教室に戻った。
机の横にかけていた鞄が、少しずれていた。
嫌な予感がした。
彼女はゆっくり近づき、鞄を開けた。
スケッチブックがない。
息が止まる。
美術室に置いたか。体育館に忘れたか。いや、昼休みにはここに入れた。確かに入れた。紺色の表紙の、二冊目。
千景は教室を見回した。
窓際の後ろ。
掃除用具入れのそば。
ゴミ箱の横。
そこに、紙の切れ端が落ちていた。
紺色の表紙。
千景はしゃがんだ。
指が震えて、うまく拾えなかった。
ゴミ箱の中に、スケッチブックが入っていた。
表紙は折られ、ページは何枚も破られていた。真ん中から雑に引き裂かれたもの。ぐしゃぐしゃに丸められたもの。鉛筆の線の上から、赤いペンでぐちゃぐちゃに塗られたもの。
侑の絵があった。
怒鳴っている侑。
彼女が一番気に入っていた絵。
顔の半分が破れていた。
千景は音を立てずに、それを拾った。
胸の中が、真っ白になる。
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
ただ、何かがぷつんと切れた。
「あ、見つけたん?」
教室の入り口で、女子の声がした。
三人いた。
名前は知っている。侑のファンだ。廊下でよく見かける。練習を覗きにくる。侑が笑うと、自分に向けられたものでもないのに騒ぐ。
そのうちの一人が、口元だけで笑った。
「ごめんねえ、落ちてたから」
千景は何も言わなかった。
「でもさ、勝手に侑くん描くのってどうなん?」
「気持ち悪いよね」
「侑くんも優しいから話しかけてるだけやろ」
声が遠くなる。
千景は破れた紙を見ていた。
侑の目の部分だけが、床に落ちていた。
それを拾った瞬間、廊下の向こうから足音がした。
「千景?」
侑だった。
練習前なのか、ジャージ姿で、タオルを肩にかけている。治も少し後ろにいた。侑は教室の空気を見て、すぐ眉を寄せた。
「何しとん」
女子たちが一斉に黙った。
千景は立ち上がった。
手には破れたページ。
侑の顔が、そこでやっと変わった。
「それ……」
侑が近づこうとした。
千景は一歩下がった。
「来ないで」
声が、驚くほど冷たく出た。
侑の足が止まる。
「千景、俺ちゃう。俺、そんなん――」
「わかってる」
千景は言った。
「ツムが破ったんじゃないのは、わかってる」
侑の表情が少し緩んだ。
その瞬間が、千景には耐えられなかった。
わかっている。
侑は悪くない。
破ったのは侑ではない。
それでも、この絵を描くきっかけは侑だった。この絵を見られた理由も、侑と話していたからだった。侑のそばに寄ったことで、紙が傷ついた。
彼女の中で一番大事なものが、踏まれた。
その怒りを向ける場所が、もうわからなかった。
「でも、もういい」
侑の顔が強張る。
「何が」
千景は破れたページを胸に抱いた。
「一生、話しかけないで」
教室の空気が凍った。
侑は、言葉の意味を理解できないみたいに千景を見ていた。
「……は?」
「私に話しかけないで。見ないで。関わらないで」
「なんでやねん」
侑の声が荒くなる。
「俺、関係ないやろ」
「関係あるよ」
千景の声は震えなかった。
震えなかったことが、自分でも嫌だった。
「ツムがいると、こうなる」
侑の顔から、血の気が引いた。
治が何か言いかけたが、止まった。
女子たちは気まずそうに視線を逸らしている。誰も謝らない。誰も笑わない。ただ、取り返しのつかないものが床に散らばっていた。
侑は唇を噛んだ。
「……俺が悪いんか」
千景は答えなかった。
答えれば、嘘になる。
答えなければ、もっとひどいことになる。
それでも彼女は、何も言えなかった。
侑は拳を握りしめる。
「勝手に決めんなや」
その声に、千景の胸が痛んだ。
「俺のこと描く言うたん、お前やろ。見せてくれたん、お前やろ。俺は、別に――」
言葉が止まる。
侑自身も、自分が何を言いたいのかわからないようだった。
千景は破れたスケッチブックを鞄に入れた。
拾えるだけ拾った。
床に落ちた小さな欠片まで、全部。
そして侑を見ないまま、教室を出た。
廊下には夕日が差していた。
窓ガラスが橙色に染まり、床に長い影が伸びている。いつもの校舎。いつもの放課後。けれど、もう何もかも違って見えた。
「千景!」
後ろから侑の声がした。
千景は止まらなかった。
「待てや!」
止まらなかった。
階段を降りる。
靴箱で上履きを脱ぐ。
外へ出る。
春の風が、少し冷たかった。
その日の夜、千景は破れたページを机の上に並べた。
母親はリビングで電話をしていた。父親は仕事部屋で、額装の業者と何か話している。青砥家では、絵は生活の中心にあった。千景の描いたものは、いつの間にか誰かの手を通り、展示され、売られ、印刷物になり、家の収入の一部になっていた。
けれど、破れたこのページだけは売れない。
売らせない。
千景はセロハンテープを出した。
一枚ずつ、繋いでいく。
侑の眉。
侑の口。
侑の肩。
怒鳴っている侑。
バレーを守っている侑。
何度も何度も、指で紙の継ぎ目を押さえた。うまく戻らない。どうしても線がずれる。顔の真ん中に傷が残る。
それでも捨てられなかった。
夜が深くなっても、千景は机の前にいた。
母親が部屋に入ってきたのは、日付が変わる頃だった。
「千景」
千景は振り向かなかった。
母親は机の上を見て、少しだけ息を呑んだ。
「……学校で何かあったの」
「転校したい」
母親は黙った。
千景はようやく顔を上げた。
目は乾いていた。
「ここだと、描けない」
それは、青砥家において一番重い言葉だった。
母親はしばらく千景を見ていた。怒りも、戸惑いも、責める色もない。ただ、娘が壊れない場所を探す大人の顔をしていた。
「東京に知り合いがいるわ」
「どこでもいい」
「音駒高校。美術にも理解があるし、あなたのペースに合わせられると思う」
千景は破れた侑の絵を見た。
「うん」
返事は、それだけだった。
次の日から、千景は学校へ来なくなった。
最初は風邪だと思われた。
次に、家の用事だと言われた。
そして一週間後、二年一組の担任が朝のホームルームで淡々と告げた。
「青砥さんは、ご家庭の事情で転校しました」
教室がざわついた。
侑は、前の席を見た。
そこにはもう、誰も座っていなかった。
机はきれいに拭かれ、落書きも、鉛筆の粉も、紙の匂いも残っていない。
侑はその背中を見慣れていた。
黒髪の結び目。
少し丸まった肩。
授業中でも紙に向かう横顔。
それが、何も言わずに消えていた。
「……なんやねん」
誰にも聞こえない声だった。
治が横から侑を見た。
「ツム」
「俺は悪ないやろ」
治は答えなかった。
侑は空席を睨んだ。
「俺、破ってへん。俺、何もしてへん。せやのに、なんで俺が……」
言葉の最後は、喉に引っかかって消えた。
悪くない。
そう言い切れば言い切るほど、胸の奥がむかついた。
放課後、侑はいつもより強くサーブを打った。
一本目、アウト。
二本目、ネット。
三本目、ラインぎりぎり。
「ツム、荒れとる」
治が言った。
「黙れ」
「青砥のことか」
侑はボールを拾う手を止めた。
体育館の空気が、少しだけ硬くなる。
「ちゃうわ」
「ほな何」
「知らん」
侑はボールを握った。
革が手のひらに食い込む。
「知らんけど、腹立つ」
彼はまた助走を取った。
跳ぶ。
打つ。
音が鳴る。
ばちん、と体育館に響いた。
千景がいない壁際へ、つい目が行った。
誰もいなかった。
侑は舌打ちした。
そこからしばらく、宮侑はひどく苛立っていた。
授業中も、昼休みも、練習中も。けれど不思議なことに、バレーだけは乱れなかった。苛立ちは全部、ボールに乗った。悔しさも、納得できなさも、空いた前の席を見るたびに湧く妙な痛みも、全部。
高く上げて、叩きつける。
繋いで、崩して、決める。
それしかできなかった。
千景がいなくなったことを、誰も大きな事件にはしなかった。
変わった子が転校した。
それだけ。
けれど侑だけは、時々前の席を見た。
そして、そのたびに思い出す。
紙の上の自分。
怒っていた自分。
それを「好き」と言った千景の声。
一生、話しかけないで。
その言葉だけが、体育館の音より大きく、いつまでも耳の奥に残っていた。