絵とバレーボール。この関係に名前はない。   作:an-ryuka

2 / 6
2.

青砥千景のスケッチブックに、宮侑は増えていった。

 

最初は一ページの端だった。

 

授業中、シャーペンを指で回しているところ。頬杖をつきながら教師に当てられ、面倒くさそうに立ち上がるところ。昼休みに宮治と購買パンを奪い合っているところ。

 

そのうち、見開きになった。

 

体育館の床を蹴る足。

 

高く上がった手。

 

トスを上げる瞬間の首筋。

 

跳ぶ前の、ほんの一拍だけ静まり返る背中。

 

千景は侑の顔を描くようになったが、それでも絵の中心にあるのは顔ではなかった。目でも、口でも、整った輪郭でもない。彼女が描きたかったのは、宮侑という人間の中で燃えているものだった。

 

「青砥」

 

昼休み。

 

後ろから呼ばれ、千景はスケッチブックを閉じた。

 

「何」

 

「閉じるん早ない?」

 

「見せるとは言ってない」

 

「俺のこと描いとるんやろ」

 

「今日は描いてない」

 

「ほな何」

 

千景は少し迷ってから、またスケッチブックを開いた。

 

そこには、校舎裏の銀杏の木が描かれていた。

 

ただの木ではない。

 

枝の伸び方、葉の重なり、風が抜けたあとの空白。見ていると、ざわ、と紙の中から音がするようだった。

 

侑は眉を寄せた。

 

「……木やん」

 

「木だよ」

 

「俺ちゃうんか」

 

「毎日、侑くんだけ描くわけじゃない」

 

「なんや。つまらん」

 

千景は鉛筆を持ったまま、じっと侑を見た。

 

「描かれたいの?」

 

「別に」

 

「そう」

 

「いや、まあ、描きたいなら描いてもええけど」

 

「どっち?」

 

侑はむっとした顔をした。

 

教室の外では女子たちが笑っている。廊下からは、誰かが「侑くん今日もかっこよかった」と言う声が聞こえた。侑はそちらを一瞬だけ見て、すぐ千景へ視線を戻す。

 

「描いてええって言うとるやん」

 

「じゃあ描く」

 

千景はまた紙へ向き直った。

 

侑はしばらくその後頭部を見ていた。

 

黒髪は肩の少し下まで伸びていて、いつも低い位置で適当に結ばれている。前髪は自分で切ったのか、少し不揃いだった。制服の袖には薄く鉛筆の粉がついている。指先は、爪の間まで黒い。

 

派手さはない。

 

けれど、侑はもう知っていた。

 

千景が紙を見る時だけ、目の奥に青い火みたいなものが灯ることを。

 

「なあ」

 

「何」

 

「なんで俺のこと、侑くんって呼ぶん」

 

鉛筆の音が止まった。

 

「宮くんだと、治くんと混ざるから」

 

「ツムでええやん」

 

「本人に許可を取ってない」

 

侑は思わず笑った。

 

「今取れや」

 

「ツムって呼んでいい?」

 

「ええよ」

 

「わかった、ツム」

 

その呼び方は、変に平坦だった。

 

特別な響きも、照れもない。ただ、許可された名前を正しく置いただけ。

 

それなのに侑は、胸の奥が少しむずがゆくなった。

 

「……変な感じするわ」

 

「自分で言ったのに」

 

「ちゃうねん。お前が言うと変やねん」

 

「戻す?」

 

「戻さんでええ」

 

千景は首を傾げたが、それ以上は聞かなかった。

 

侑も、それ以上は言わなかった。

 

それからの日々は、少しだけ形を変えた。

 

侑は練習中、壁際に千景がいることを探すようになった。いない日は、なぜか体育館の空気が薄く感じた。いる日は、やけにサーブが走った。

 

千景は相変わらず、バレー部だけを描いたわけではなかった。

 

陸上部のスタート前の肩。

 

弓道部の引き絞る指。

 

野球部の泥だらけの膝。

 

吹奏楽部の息を吸う横顔。

 

美術室の石膏像。

 

放課後の空き教室。

 

生徒のほとんどが、知らないうちに一度は千景の紙の中にいた。けれど、侑だけはそれを知っていた。自分が、何度も描かれていることも。

 

「お前、俺の絵、どれが一番うまく描けたと思う?」

 

ある日の練習終わり、侑はタオルで汗を拭きながら聞いた。

 

千景は体育館の隅で、膝の上にスケッチブックを広げていた。

 

「うまい、とは違うけど」

 

「なんや」

 

「好きなのはある」

 

「見せて」

 

千景は少しだけ黙った。

 

それから、一冊目ではなく、二冊目のスケッチブックを取り出した。表紙は紺色で、角がもう潰れている。

 

ぱらぱら、と紙がめくられる。

 

侑の横顔。

 

侑の手。

 

侑の背中。

 

侑の怒鳴る顔。

 

そこで、千景の手が止まった。

 

あの日の絵だった。

 

体育館前で、勝手に写真を撮ろうとした女子たちに怒った時の侑。

 

紙の中の侑は、荒かった。線が強く、ところどころ紙が凹んでいる。眉間に深い皺があり、口は開き、声が聞こえそうだった。怒りの絵なのに、ただ怖いだけではない。守るものがある人間の顔だった。

 

侑は息を止めた。

 

「……これ、俺?」

 

「うん」

 

「めっちゃ怒っとるやん」

 

「怒ってた」

 

「こんなん好きなん?」

 

「うん」

 

千景は迷わず頷いた。

 

「バレーを大事にしてる顔だったから」

 

侑の喉が、変に詰まった。

 

褒められているのだとわかる。

 

けれど、かっこいいと言われるより、すごいと言われるより、ずっと奥の方を触られた感じがした。

 

「……お前、ほんま変やな」

 

「知ってる」

 

「でもそれ、悪口ちゃうからな」

 

「うん」

 

千景はまた絵を見下ろした。

 

その目が、侑ではなく紙の中の侑を見ていることに、侑は少しだけ腹が立った。

 

自分を見ろ、と思った。

 

思った瞬間、自分でそれを笑いたくなった。

 

何を考えとんねん、俺は。

 

「青砥」

 

「千景でいいよ」

 

侑は固まった。

 

千景は何でもない顔でページを閉じる。

 

「宮が二人いるから、私も名字だとちょっと距離がある気がする」

 

「……千景」

 

「うん」

 

返事はまた、淡々としていた。

 

侑は耳の奥が熱くなるのを感じた。

 

「ほな、俺もツムでええから」

 

「さっき許可もらった」

 

「せやったな」

 

二人の間に沈黙が落ちた。

 

体育館ではボールかごを動かす音がしている。外からは夕方の鳥の声。床には汗とワックスの匂いが残っていた。

 

その静けさを、侑は嫌いではなかった。

 

けれど、その静けさは長く続かなかった。

 

変化は、目に見えないところから染み出していた。

 

廊下で千景を見る視線が増えた。

 

女子たちの声が、彼女の後ろで止まるようになった。

 

「最近、宮くんと仲いいよね」

 

「何話してるんやろ」

 

「あの子、ずっと絵描いてるだけやん」

 

「侑くん、ああいう変な子がええんかな」

 

千景は聞こえていないふりをした。

 

実際、どうでもよかった。

 

侑に話しかけられることも、周囲に見られることも、彼女の中では絵を描くことより下にあった。

 

けれど、紙だけは違った。

 

その日の放課後、千景は美術室へ寄ったあと、教室に戻った。

 

机の横にかけていた鞄が、少しずれていた。

 

嫌な予感がした。

 

彼女はゆっくり近づき、鞄を開けた。

 

スケッチブックがない。

 

息が止まる。

 

美術室に置いたか。体育館に忘れたか。いや、昼休みにはここに入れた。確かに入れた。紺色の表紙の、二冊目。

 

千景は教室を見回した。

 

窓際の後ろ。

 

掃除用具入れのそば。

 

ゴミ箱の横。

 

そこに、紙の切れ端が落ちていた。

 

紺色の表紙。

 

千景はしゃがんだ。

 

指が震えて、うまく拾えなかった。

 

ゴミ箱の中に、スケッチブックが入っていた。

 

表紙は折られ、ページは何枚も破られていた。真ん中から雑に引き裂かれたもの。ぐしゃぐしゃに丸められたもの。鉛筆の線の上から、赤いペンでぐちゃぐちゃに塗られたもの。

 

侑の絵があった。

 

怒鳴っている侑。

 

彼女が一番気に入っていた絵。

 

顔の半分が破れていた。

 

千景は音を立てずに、それを拾った。

 

胸の中が、真っ白になる。

 

怒りではなかった。

 

悲しみでもなかった。

 

ただ、何かがぷつんと切れた。

 

「あ、見つけたん?」

 

教室の入り口で、女子の声がした。

 

三人いた。

 

名前は知っている。侑のファンだ。廊下でよく見かける。練習を覗きにくる。侑が笑うと、自分に向けられたものでもないのに騒ぐ。

 

そのうちの一人が、口元だけで笑った。

 

「ごめんねえ、落ちてたから」

 

千景は何も言わなかった。

 

「でもさ、勝手に侑くん描くのってどうなん?」

 

「気持ち悪いよね」

 

「侑くんも優しいから話しかけてるだけやろ」

 

声が遠くなる。

 

千景は破れた紙を見ていた。

 

侑の目の部分だけが、床に落ちていた。

 

それを拾った瞬間、廊下の向こうから足音がした。

 

「千景?」

 

侑だった。

 

練習前なのか、ジャージ姿で、タオルを肩にかけている。治も少し後ろにいた。侑は教室の空気を見て、すぐ眉を寄せた。

 

「何しとん」

 

女子たちが一斉に黙った。

 

千景は立ち上がった。

 

手には破れたページ。

 

侑の顔が、そこでやっと変わった。

 

「それ……」

 

侑が近づこうとした。

 

千景は一歩下がった。

 

「来ないで」

 

声が、驚くほど冷たく出た。

 

侑の足が止まる。

 

「千景、俺ちゃう。俺、そんなん――」

 

「わかってる」

 

千景は言った。

 

「ツムが破ったんじゃないのは、わかってる」

 

侑の表情が少し緩んだ。

 

その瞬間が、千景には耐えられなかった。

 

わかっている。

 

侑は悪くない。

 

破ったのは侑ではない。

 

それでも、この絵を描くきっかけは侑だった。この絵を見られた理由も、侑と話していたからだった。侑のそばに寄ったことで、紙が傷ついた。

 

彼女の中で一番大事なものが、踏まれた。

 

その怒りを向ける場所が、もうわからなかった。

 

「でも、もういい」

 

侑の顔が強張る。

 

「何が」

 

千景は破れたページを胸に抱いた。

 

「一生、話しかけないで」

 

教室の空気が凍った。

 

侑は、言葉の意味を理解できないみたいに千景を見ていた。

 

「……は?」

 

「私に話しかけないで。見ないで。関わらないで」

 

「なんでやねん」

 

侑の声が荒くなる。

 

「俺、関係ないやろ」

 

「関係あるよ」

 

千景の声は震えなかった。

 

震えなかったことが、自分でも嫌だった。

 

「ツムがいると、こうなる」

 

侑の顔から、血の気が引いた。

 

治が何か言いかけたが、止まった。

 

女子たちは気まずそうに視線を逸らしている。誰も謝らない。誰も笑わない。ただ、取り返しのつかないものが床に散らばっていた。

 

侑は唇を噛んだ。

 

「……俺が悪いんか」

 

千景は答えなかった。

 

答えれば、嘘になる。

 

答えなければ、もっとひどいことになる。

 

それでも彼女は、何も言えなかった。

 

侑は拳を握りしめる。

 

「勝手に決めんなや」

 

その声に、千景の胸が痛んだ。

 

「俺のこと描く言うたん、お前やろ。見せてくれたん、お前やろ。俺は、別に――」

 

言葉が止まる。

 

侑自身も、自分が何を言いたいのかわからないようだった。

 

千景は破れたスケッチブックを鞄に入れた。

 

拾えるだけ拾った。

 

床に落ちた小さな欠片まで、全部。

 

そして侑を見ないまま、教室を出た。

 

廊下には夕日が差していた。

 

窓ガラスが橙色に染まり、床に長い影が伸びている。いつもの校舎。いつもの放課後。けれど、もう何もかも違って見えた。

 

「千景!」

 

後ろから侑の声がした。

 

千景は止まらなかった。

 

「待てや!」

 

止まらなかった。

 

階段を降りる。

 

靴箱で上履きを脱ぐ。

 

外へ出る。

 

春の風が、少し冷たかった。

 

その日の夜、千景は破れたページを机の上に並べた。

 

母親はリビングで電話をしていた。父親は仕事部屋で、額装の業者と何か話している。青砥家では、絵は生活の中心にあった。千景の描いたものは、いつの間にか誰かの手を通り、展示され、売られ、印刷物になり、家の収入の一部になっていた。

 

けれど、破れたこのページだけは売れない。

 

売らせない。

 

千景はセロハンテープを出した。

 

一枚ずつ、繋いでいく。

 

侑の眉。

 

侑の口。

 

侑の肩。

 

怒鳴っている侑。

 

バレーを守っている侑。

 

何度も何度も、指で紙の継ぎ目を押さえた。うまく戻らない。どうしても線がずれる。顔の真ん中に傷が残る。

 

それでも捨てられなかった。

 

夜が深くなっても、千景は机の前にいた。

 

母親が部屋に入ってきたのは、日付が変わる頃だった。

 

「千景」

 

千景は振り向かなかった。

 

母親は机の上を見て、少しだけ息を呑んだ。

 

「……学校で何かあったの」

 

「転校したい」

 

母親は黙った。

 

千景はようやく顔を上げた。

 

目は乾いていた。

 

「ここだと、描けない」

 

それは、青砥家において一番重い言葉だった。

 

母親はしばらく千景を見ていた。怒りも、戸惑いも、責める色もない。ただ、娘が壊れない場所を探す大人の顔をしていた。

 

「東京に知り合いがいるわ」

 

「どこでもいい」

 

「音駒高校。美術にも理解があるし、あなたのペースに合わせられると思う」

 

千景は破れた侑の絵を見た。

 

「うん」

 

返事は、それだけだった。

 

次の日から、千景は学校へ来なくなった。

 

最初は風邪だと思われた。

 

次に、家の用事だと言われた。

 

そして一週間後、二年一組の担任が朝のホームルームで淡々と告げた。

 

「青砥さんは、ご家庭の事情で転校しました」

 

教室がざわついた。

 

侑は、前の席を見た。

 

そこにはもう、誰も座っていなかった。

 

机はきれいに拭かれ、落書きも、鉛筆の粉も、紙の匂いも残っていない。

 

侑はその背中を見慣れていた。

 

黒髪の結び目。

 

少し丸まった肩。

 

授業中でも紙に向かう横顔。

 

それが、何も言わずに消えていた。

 

「……なんやねん」

 

誰にも聞こえない声だった。

 

治が横から侑を見た。

 

「ツム」

 

「俺は悪ないやろ」

 

治は答えなかった。

 

侑は空席を睨んだ。

 

「俺、破ってへん。俺、何もしてへん。せやのに、なんで俺が……」

 

言葉の最後は、喉に引っかかって消えた。

 

悪くない。

 

そう言い切れば言い切るほど、胸の奥がむかついた。

 

放課後、侑はいつもより強くサーブを打った。

 

一本目、アウト。

 

二本目、ネット。

 

三本目、ラインぎりぎり。

 

「ツム、荒れとる」

 

治が言った。

 

「黙れ」

 

「青砥のことか」

 

侑はボールを拾う手を止めた。

 

体育館の空気が、少しだけ硬くなる。

 

「ちゃうわ」

 

「ほな何」

 

「知らん」

 

侑はボールを握った。

 

革が手のひらに食い込む。

 

「知らんけど、腹立つ」

 

彼はまた助走を取った。

 

跳ぶ。

 

打つ。

 

音が鳴る。

 

ばちん、と体育館に響いた。

 

千景がいない壁際へ、つい目が行った。

 

誰もいなかった。

 

侑は舌打ちした。

 

そこからしばらく、宮侑はひどく苛立っていた。

 

授業中も、昼休みも、練習中も。けれど不思議なことに、バレーだけは乱れなかった。苛立ちは全部、ボールに乗った。悔しさも、納得できなさも、空いた前の席を見るたびに湧く妙な痛みも、全部。

 

高く上げて、叩きつける。

 

繋いで、崩して、決める。

 

それしかできなかった。

 

千景がいなくなったことを、誰も大きな事件にはしなかった。

 

変わった子が転校した。

 

それだけ。

 

けれど侑だけは、時々前の席を見た。

 

そして、そのたびに思い出す。

 

紙の上の自分。

 

怒っていた自分。

 

それを「好き」と言った千景の声。

 

一生、話しかけないで。

 

その言葉だけが、体育館の音より大きく、いつまでも耳の奥に残っていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。