絵とバレーボール。この関係に名前はない。   作:an-ryuka

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3.

東京の空は、兵庫より狭かった。

 

青砥千景が最初にそう思ったのは、音駒高校の校門をくぐった朝だった。

 

建物と電線と看板が、空を細かく切っている。春の匂いはある。けれど稲荷崎のように、土埃と田んぼの湿り気が混ざった匂いではない。駅前のパン屋から流れてくる甘いバターの匂い、コンビニの揚げ物の油、朝の電車に残った人いきれ。それらが薄く制服に染みついていた。

 

千景は校門の前で、スケッチブックを抱え直した。

 

紺色の表紙ではない。

 

新しい、黒い表紙の一冊。

 

破れたあのスケッチブックは、持ってこなかった。東京の家の机の一番下、布に包んでしまってある。ページは修復した。傷は残った。セロハンテープの境目で、侑の顔は少しだけ歪んでしまった。

 

それでも捨てられない。

 

捨てたら、あの日の自分までなくなる気がした。

 

「青砥さん?」

 

声をかけられ、千景は顔を上げた。

 

担任になるらしい女性教師が、校門の内側で手を振っている。千景は軽く頭を下げて歩き出した。

 

新しい学校。

 

新しい教室。

 

新しい席。

 

周囲の視線は、どこへ行っても同じだった。

 

転校生。

 

無口。

 

ずっと絵を描いている。

 

変わっている。

 

その程度なら、どうでもいい。

 

ただ、話しかけられる相手だけは選ばなければならない。

 

音駒高校のクラスは、稲荷崎よりも少し温度が低いように感じた。冷たいという意味ではない。騒ぐ人間もいるし、笑い声もある。けれど、誰かが誰かを無理に中心へ押し出す感じが薄い。

 

千景は窓際の席に座り、自己紹介を短く済ませた。

 

「青砥千景です。兵庫から来ました。よろしくお願いします」

 

それだけ。

 

拍手が起きる。

 

誰かが「関西弁じゃないんだ」と小さく言った。

 

千景は席に戻り、すぐスケッチブックを開いた。

 

一時間目の授業が始まる前、黒板の端に残ったチョークの粉を描いた。二時間目には、窓の外を横切る猫を描いた。三時間目には、前の席の男子が消しゴムのカスを丸める指を描いた。

 

昼休みになる頃には、クラスの何人かが遠巻きに彼女を見ていた。

 

「めっちゃ描くじゃん」

 

「美術部?」

 

「話しかけていいのかな」

 

千景は聞こえていた。

 

けれど、聞こえないふりをするのは得意だった。

 

その日の放課後、彼女は美術室へ行った。

 

油絵の具と木製の棚の匂い。

 

埃をかぶった石膏像。

 

乾きかけのキャンバス。

 

そこだけは、少し呼吸がしやすかった。

 

美術部の顧問は千景の提出した絵を見て、何度か瞬きをした。

 

「……青砥さん、これは前の学校で描いたもの?」

 

「はい」

 

「人物画もある?」

 

「あります。でも出しません」

 

「どうして?」

 

千景はスケッチブックの端を撫でた。

 

「出すために描いたものじゃないので」

 

顧問は少し困ったように笑ったが、無理には聞かなかった。

 

「じゃあ、あなたのペースでいいわ。作品を提出してくれれば、毎日来なくても大丈夫」

 

「ありがとうございます」

 

それで、美術部への所属は決まった。

 

千景にとっては、それで十分だった。

 

誰かと一緒に描く必要はない。

 

描く場所と、提出先があればいい。

 

数日後。

 

千景は音駒の体育館を見つけた。

 

正確には、音を見つけた。

 

ばしん、というスパイクの音。

 

きゅ、と床を噛むシューズの音。

 

誰かの短い掛け声。

 

帰ろうとしていた足が、勝手に止まった。

 

バレー。

 

胸の奥が、少しだけ軋んだ。

 

稲荷崎の体育館を思い出す。ワックスの匂い。夕方の光。壁際に座っていた自分。跳ぶ侑。怒鳴る侑。破れた紙。

 

千景はスケッチブックを抱え、体育館の入口から少し離れた場所に立った。

 

扉は閉まっている。

 

中は見えない。

 

音だけが漏れてくる。

 

繋ぐ音だった。

 

稲荷崎のバレーは、刃物みたいだった。

 

研ぎ澄まされ、叩きつけ、切り裂く。侑のトスは美しくて、腹が立つほど傲慢で、見るものを黙らせる力があった。

 

音駒のバレーは違う。

 

まだ見えていないのに、わかる。

 

落とさない。

 

切らさない。

 

誰かの失敗を、次の誰かが拾う。強い一撃よりも、糸のように続く気配がある。壁の向こうから響くその音に、千景の指がうずいた。

 

描きたい。

 

けれど、見えない。

 

翌日、千景は体育館の窓の位置を確認した。

 

高すぎる。

 

その翌日、体育館裏のフェンスから覗けないか試した。

 

見えない。

 

さらに翌日、渡り廊下から角度を探した。

 

人影だけなら見えた。

 

「何してんの」

 

背後から声がして、千景は振り向いた。

 

猫背気味の男子が立っていた。

 

肩まで伸びた金に近い髪の内側に、黒い地毛が見える。眠たげな目。小柄で、制服の着方もどこか力が抜けている。片手にはゲーム機。もう片方の手はポケットに入っていた。

 

孤爪研磨。

 

名前はクラスの誰かが話していたから知っていた。

 

バレー部のセッター。

 

千景は隠すのをやめた。

 

「バレーを見ようとしてる」

 

研磨は瞬きをした。

 

「なんで」

 

「描きたいから」

 

「……ふうん」

 

研磨はそれだけ言って、少し首を傾けた。

 

普通なら、ここで笑う。変なの、と言う。何を描くの、と聞く。

 

けれど研磨は、聞かなかった。

 

その代わり、ゲーム機の画面へ視線を落としたまま言った。

 

「マネージャー、やれば」

 

千景は眉を寄せた。

 

「やらない」

 

返事は早かった。

 

研磨が顔を上げる。

 

「まだ何も説明してない」

 

「絵を描く時間が減る」

 

「でも中で見られる」

 

千景は黙った。

 

その言葉は、強かった。

 

中で見られる。

 

近くで、音駒のバレーを。

 

研磨は眠そうな声で続ける。

 

「今、マネージャー足りてない。ずっとじゃなくてもいいと思う。忙しい時だけとか」

 

「得点係はしない」

 

「たぶん頼まれたら断ればいい」

 

「ドリンクとタオルくらいなら、描く合間にできる」

 

「それでも助かると思う」

 

千景は考えた。

 

マネージャー。

 

それは絵の外側にあるものだった。

 

けれど、体育館の中に入れる。

 

練習が見られる。

 

もしかしたら、合宿にも行ける。

 

他校のバレーも見られる。

 

その瞬間、千景の中で天秤が傾いた。

 

「合宿ってある?」

 

「ある」

 

「他の高校も来る?」

 

「来る」

 

「じゃあ、条件付きでやる」

 

研磨は少しだけ目を細めた。

 

たぶん、それが彼なりの笑いだった。

 

「黒尾に言っとく」

 

翌日、千景は体育館へ連れていかれた。

 

扉を開けた瞬間、湿った熱気がぶつかってくる。

 

汗。

 

ワックス。

 

ゴム底。

 

薄く残るスポーツドリンクの甘い匂い。

 

懐かしいのに、知らない匂いだった。

 

「連れてきた」

 

研磨がそう言うと、背の高い男子が振り向いた。

 

黒尾鉄朗。

 

音駒の主将。

 

黒髪は寝癖のように跳ねていて、目つきは少し鋭い。けれど笑うと、相手の懐に勝手に入ってくるような軽さがあった。

 

「あー、噂の転校生?」

 

千景は一歩下がった。

 

黒尾の後ろ、体育館の入口付近に女子が数人いたからだ。

 

見学なのか、ただ覗きに来たのかはわからない。けれど千景はその視線に反射的に体を硬くした。

 

黒尾はそれに気づいた。

 

「……あ、悪い。こっち来る?」

 

彼は入口から少し離れた場所へ移動した。距離を取る動きが自然だった。

 

千景はほんの少しだけ警戒を緩めた。

 

「青砥千景です。絵を描く時間を優先します。得点係は基本しません。ドリンクとタオルは準備できます。練習中に描きます。合宿に行けるなら、忙しい日は手伝います」

 

黒尾は数秒黙った。

 

それから、肩を揺らして笑った。

 

「条件の出し方、面接よりはっきりしてんな」

 

「無理なら帰ります」

 

「いや、助かるよ。マジで。うちは人手ほしいし。描いてていいから、できる範囲で頼むわ」

 

千景は頷いた。

 

「よろしくお願いします」

 

「こちらこそ。あ、俺のこと描くならかっこよく頼むな」

 

千景は黒尾を見た。

 

「顔を描くなら許可を取ります」

 

「え、今ので許可になる?」

 

「なります」

 

「じゃあ頼むわ」

 

軽い会話。

 

それなのに、千景の指先は冷えていた。

 

黒尾にはファンがいる。

 

そういう人には近づかない方がいい。

 

距離を間違えると、紙が破れる。

 

千景は黒尾から一歩分、意識して離れた。

 

研磨がそれを見ていた。

 

何も言わなかった。

 

その日から、千景は音駒バレー部の「マネージャーもどき」になった。

 

練習前にドリンクを作る。

 

タオルを畳む。

 

床に落ちたボールを端へ寄せる。

 

誰かが怪我をしたら救急箱を取る。

 

それ以外の時間は、壁際に座って描く。

 

「青砥さん、タオルありがと!」

 

「そこ置いといて」

 

「うん!」

 

「青砥、ドリンク濃いめってできる?」

 

「水筒に名前書いて」

 

「業務連絡が的確!」

 

部員たちは最初こそ戸惑ったが、すぐ慣れた。

 

千景が手渡しをしないことにも、ずっとベンチにいないことにも、練習の途中で急に鉛筆を走らせることにも。

 

彼女は笑顔を振りまかない。

 

大声で応援もしない。

 

けれど、必要なものはいつの間にか準備されている。

 

それだけで、十分ありがたがられた。

 

「青砥ってさ」

 

ある日、練習後に夜久衛輔がタオルを受け取りながら言った。

 

「はい」

 

「なんでバレー描くの?」

 

千景は床に座り、膝の上のスケッチブックを閉じた。

 

「落ちないから」

 

夜久が首を傾げる。

 

「ボール?」

 

「うん。音駒は、特に」

 

彼女は体育館を見た。

 

片づけ中の部員たち。ネットを外す手。ボールを数える声。床を拭くモップの跡。

 

「誰かが落としそうになったものを、別の誰かが拾う。拾ったものを、次へ渡す。強い線じゃなくて、途切れない線」

 

夜久は少し驚いたように目を開いた。

 

「……へえ」

 

「だから描きたい」

 

「そっか」

 

夜久は笑った。

 

「なんか、うちっぽいな」

 

千景はその言葉を、紙の端に小さく書き留めた。

 

うちっぽい。

 

その夜、千景は家で大きな紙を広げた。

 

音駒のバレーを、そのまま人物画にするのは違う気がした。

 

だから、半分だけ抽象画にした。

 

赤い線。

 

黒い面。

 

細く絡む銀色。

 

落ちそうで落ちない白い球。

 

人の形はかろうじて残した。けれど顔はない。誰か一人の絵ではなく、繋いでいる全員の絵だった。

 

描いている間、窓の外で車が通る音がした。

 

母親が仕事部屋で電話をしている声も聞こえた。

 

「ええ、原画は本人の手元に置きたいそうなので。複製権の扱いだけ確認していただければ」

 

千景は聞き流した。

 

自分にとって大事なのは、原画がそこにあることだった。

 

紙に残った絵の具の厚み。

 

筆の跡。

 

自分がその時、何を見ていたか。

 

それが手元にあれば、あとのことは大人が好きにすればいい。

 

数週間後。

 

美術室の前に、人だかりができていた。

 

千景は通りかかって、足を止める。

 

掲示板に、受賞者一覧が貼られていた。

 

青砥千景。

 

県の高校美術展、特選。

 

作品名は『接続』。

 

音駒のバレーを描いた、あの赤と黒の絵だった。

 

「え、これ青砥さん?」

 

「バレー部のマネの?」

 

「すごくない?」

 

「特選って一番上のやつ?」

 

「絵うまいとは思ってたけど、ガチじゃん」

 

千景は掲示板を見て、少しだけ瞬きをした。

 

賞は、嫌いではない。

 

けれど、嬉しいかと言われるとよくわからない。

 

描きたかったものが描けたかどうかの方が、大事だった。

 

放課後、体育館に行くと、空気がいつもと違った。

 

部員たちが一斉にこちらを見る。

 

「青砥」

 

黒尾がにやにやしていた。

 

千景は一歩下がる。

 

「何ですか」

 

「お前、すごいやつだったんだな」

 

「何が」

 

「美術展。特選」

 

「ああ」

 

「反応うっす」

 

山本猛虎が横から飛び出してきた。

 

「青砥さん! すごいっす! 俺、芸術とか全然わかんねえけど、すごいのはわかるっす!」

 

「ありがとう」

 

「しかもバレーの絵なんすよね!?」

 

「音駒の絵」

 

その瞬間、体育館が少し静かになった。

 

黒尾の笑みも、研磨のゲームを見る手も、夜久のタオルを畳む動きも、ほんの少し止まった。

 

「……うち?」

 

黒尾が聞いた。

 

千景は頷いた。

 

「繋ぐバレーを描いた」

 

誰もすぐには茶化さなかった。

 

彼女がいつも壁際で何を見ていたのか。

 

何を紙に移していたのか。

 

その一部が、初めて彼らに伝わったようだった。

 

研磨がぽつりと言った。

 

「見たい」

 

千景は少し考えた。

 

「原画は家」

 

「じゃあ写真」

 

「ある」

 

スマホを出し、画面を見せる。

 

赤と黒の抽象画。

 

音駒の色。

 

線が絡み、ほどけ、また繋がる。中央の白い球は、落ちていない。ぎりぎりで、誰かの手に届く。

 

黒尾は画面を覗き込んで、しばらく黙った。

 

「……俺ら、こんなかっこいい?」

 

「私にはそう見えた」

 

夜久が照れたように頭を掻く。

 

山本は目を潤ませている。

 

研磨は画面をじっと見て、短く言った。

 

「これ、好き」

 

千景はスマホをしまった。

 

胸の奥が、少しだけ温かくなった。

 

音駒の人たちは、踏み込んでこない。

 

聞かれたくないことを、無理に聞かない。

 

なぜ転校してきたのか。

 

前の学校で何があったのか。

 

なぜ黒尾のファンがいると逃げるのか。

 

なぜ誰かを描く前に、必ず許可を取るのか。

 

誰も、今のところ聞かなかった。

 

それがありがたかった。

 

けれど時々、千景は音駒以外の絵を描いた。

 

赤と黒ではない。

 

白と金。

 

強すぎる線。

 

空中で止まったみたいな背中。

 

傲慢なほど美しい指先。

 

描いていると、研磨が横を通る。

 

彼は一度だけ、そのページをちらりと見た。

 

「それ、どこの?」

 

千景はスケッチブックを閉じた。

 

「秘密」

 

研磨はそれ以上聞かなかった。

 

ただ、少しだけ目を細めた。

 

「ふうん」

 

その声には、わかっていないようで、少しだけわかっている響きがあった。

 

季節が進み、インターハイのポスターが発表された日。

 

音駒の体育館に、黒尾が一枚の紙を持って入ってきた。

 

「おーい、これ見たか」

 

そこには、バレーボールを中心にした抽象画が刷られていた。

 

赤。

 

黒。

 

白。

 

金。

 

強烈な跳躍と、繋がる線。

 

大会名の文字の下に、小さく作者名が入っている。

 

青砥千景。

 

山本が叫んだ。

 

「青砥さん!? これ青砥さんの絵っすか!?」

 

千景はドリンクのボトルを並べながら、顔を上げた。

 

「ああ、それ」

 

「ああ、それ、じゃないっすよ!」

 

黒尾がポスターと千景を見比べる。

 

「お前、インハイのポスター描いたの?」

 

「描いた絵が使われただけ。親が間に入った」

 

「いや、それを世間では描いたって言うんだよ」

 

「原画は家にあるから」

 

「基準そこ?」

 

千景は頷いた。

 

「そこ」

 

研磨はポスターをじっと見ていた。

 

赤と黒の線の奥に、別の色がある。

 

金に近い、鋭い線。

 

音駒だけではない。

 

どこか別のバレーも混ざっている。

 

研磨は何も言わなかった。

 

その頃、兵庫の体育館でも、同じポスターが貼られていた。

 

稲荷崎高校バレー部の部室前。

 

宮侑は、通り過ぎようとして足を止めた。

 

赤と黒。

 

白い球。

 

そして、金色の線。

 

顔はない。

 

人の形も曖昧だ。

 

それでも侑には、わかった。

 

この線を知っている。

 

この見方を知っている。

 

バレーを、ただの競技ではなく、呼吸や熱や怒りごと紙に閉じ込める描き方。

 

侑はポスターの下にある小さな名前を見た。

 

青砥千景。

 

息が、変なところで止まった。

 

「……なんや」

 

背後で治が立ち止まる。

 

「ツム?」

 

侑はポスターを睨んだまま動かなかった。

 

転校した。

 

消えた。

 

一生、話しかけるなと言った。

 

それなのに。

 

まだ、描いていた。

 

バレーを。

 

もしかしたら、自分を。

 

侑の手が、無意識に拳になる。

 

胸の奥に、苛立ちとも安堵ともつかないものが湧いた。

 

治はポスターを見て、侑の顔を見た。

 

「青砥って、あの青砥?」

 

侑は答えなかった。

 

けれど、その沈黙だけで十分だった。

 

治は小さく息を吐く。

 

「……まだ引きずっとるんか」

 

「ちゃう」

 

「ほな何」

 

「知らん」

 

侑はようやくポスターから目を離した。

 

けれど数歩歩いて、また振り返る。

 

金色の線が、紙の中で跳んでいた。

 

誰よりも高く。

 

誰よりも鮮やかに。

 

侑は舌打ちして、体育館へ向かった。

 

その日のサーブは、やけに鋭かった。

 

壁際に千景はいない。

 

それでも侑は、どこかで見られている気がしていた。

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