絵とバレーボール。この関係に名前はない。 作:an-ryuka
東京の空は、兵庫より狭かった。
青砥千景が最初にそう思ったのは、音駒高校の校門をくぐった朝だった。
建物と電線と看板が、空を細かく切っている。春の匂いはある。けれど稲荷崎のように、土埃と田んぼの湿り気が混ざった匂いではない。駅前のパン屋から流れてくる甘いバターの匂い、コンビニの揚げ物の油、朝の電車に残った人いきれ。それらが薄く制服に染みついていた。
千景は校門の前で、スケッチブックを抱え直した。
紺色の表紙ではない。
新しい、黒い表紙の一冊。
破れたあのスケッチブックは、持ってこなかった。東京の家の机の一番下、布に包んでしまってある。ページは修復した。傷は残った。セロハンテープの境目で、侑の顔は少しだけ歪んでしまった。
それでも捨てられない。
捨てたら、あの日の自分までなくなる気がした。
「青砥さん?」
声をかけられ、千景は顔を上げた。
担任になるらしい女性教師が、校門の内側で手を振っている。千景は軽く頭を下げて歩き出した。
新しい学校。
新しい教室。
新しい席。
周囲の視線は、どこへ行っても同じだった。
転校生。
無口。
ずっと絵を描いている。
変わっている。
その程度なら、どうでもいい。
ただ、話しかけられる相手だけは選ばなければならない。
音駒高校のクラスは、稲荷崎よりも少し温度が低いように感じた。冷たいという意味ではない。騒ぐ人間もいるし、笑い声もある。けれど、誰かが誰かを無理に中心へ押し出す感じが薄い。
千景は窓際の席に座り、自己紹介を短く済ませた。
「青砥千景です。兵庫から来ました。よろしくお願いします」
それだけ。
拍手が起きる。
誰かが「関西弁じゃないんだ」と小さく言った。
千景は席に戻り、すぐスケッチブックを開いた。
一時間目の授業が始まる前、黒板の端に残ったチョークの粉を描いた。二時間目には、窓の外を横切る猫を描いた。三時間目には、前の席の男子が消しゴムのカスを丸める指を描いた。
昼休みになる頃には、クラスの何人かが遠巻きに彼女を見ていた。
「めっちゃ描くじゃん」
「美術部?」
「話しかけていいのかな」
千景は聞こえていた。
けれど、聞こえないふりをするのは得意だった。
その日の放課後、彼女は美術室へ行った。
油絵の具と木製の棚の匂い。
埃をかぶった石膏像。
乾きかけのキャンバス。
そこだけは、少し呼吸がしやすかった。
美術部の顧問は千景の提出した絵を見て、何度か瞬きをした。
「……青砥さん、これは前の学校で描いたもの?」
「はい」
「人物画もある?」
「あります。でも出しません」
「どうして?」
千景はスケッチブックの端を撫でた。
「出すために描いたものじゃないので」
顧問は少し困ったように笑ったが、無理には聞かなかった。
「じゃあ、あなたのペースでいいわ。作品を提出してくれれば、毎日来なくても大丈夫」
「ありがとうございます」
それで、美術部への所属は決まった。
千景にとっては、それで十分だった。
誰かと一緒に描く必要はない。
描く場所と、提出先があればいい。
数日後。
千景は音駒の体育館を見つけた。
正確には、音を見つけた。
ばしん、というスパイクの音。
きゅ、と床を噛むシューズの音。
誰かの短い掛け声。
帰ろうとしていた足が、勝手に止まった。
バレー。
胸の奥が、少しだけ軋んだ。
稲荷崎の体育館を思い出す。ワックスの匂い。夕方の光。壁際に座っていた自分。跳ぶ侑。怒鳴る侑。破れた紙。
千景はスケッチブックを抱え、体育館の入口から少し離れた場所に立った。
扉は閉まっている。
中は見えない。
音だけが漏れてくる。
繋ぐ音だった。
稲荷崎のバレーは、刃物みたいだった。
研ぎ澄まされ、叩きつけ、切り裂く。侑のトスは美しくて、腹が立つほど傲慢で、見るものを黙らせる力があった。
音駒のバレーは違う。
まだ見えていないのに、わかる。
落とさない。
切らさない。
誰かの失敗を、次の誰かが拾う。強い一撃よりも、糸のように続く気配がある。壁の向こうから響くその音に、千景の指がうずいた。
描きたい。
けれど、見えない。
翌日、千景は体育館の窓の位置を確認した。
高すぎる。
その翌日、体育館裏のフェンスから覗けないか試した。
見えない。
さらに翌日、渡り廊下から角度を探した。
人影だけなら見えた。
「何してんの」
背後から声がして、千景は振り向いた。
猫背気味の男子が立っていた。
肩まで伸びた金に近い髪の内側に、黒い地毛が見える。眠たげな目。小柄で、制服の着方もどこか力が抜けている。片手にはゲーム機。もう片方の手はポケットに入っていた。
孤爪研磨。
名前はクラスの誰かが話していたから知っていた。
バレー部のセッター。
千景は隠すのをやめた。
「バレーを見ようとしてる」
研磨は瞬きをした。
「なんで」
「描きたいから」
「……ふうん」
研磨はそれだけ言って、少し首を傾けた。
普通なら、ここで笑う。変なの、と言う。何を描くの、と聞く。
けれど研磨は、聞かなかった。
その代わり、ゲーム機の画面へ視線を落としたまま言った。
「マネージャー、やれば」
千景は眉を寄せた。
「やらない」
返事は早かった。
研磨が顔を上げる。
「まだ何も説明してない」
「絵を描く時間が減る」
「でも中で見られる」
千景は黙った。
その言葉は、強かった。
中で見られる。
近くで、音駒のバレーを。
研磨は眠そうな声で続ける。
「今、マネージャー足りてない。ずっとじゃなくてもいいと思う。忙しい時だけとか」
「得点係はしない」
「たぶん頼まれたら断ればいい」
「ドリンクとタオルくらいなら、描く合間にできる」
「それでも助かると思う」
千景は考えた。
マネージャー。
それは絵の外側にあるものだった。
けれど、体育館の中に入れる。
練習が見られる。
もしかしたら、合宿にも行ける。
他校のバレーも見られる。
その瞬間、千景の中で天秤が傾いた。
「合宿ってある?」
「ある」
「他の高校も来る?」
「来る」
「じゃあ、条件付きでやる」
研磨は少しだけ目を細めた。
たぶん、それが彼なりの笑いだった。
「黒尾に言っとく」
翌日、千景は体育館へ連れていかれた。
扉を開けた瞬間、湿った熱気がぶつかってくる。
汗。
ワックス。
ゴム底。
薄く残るスポーツドリンクの甘い匂い。
懐かしいのに、知らない匂いだった。
「連れてきた」
研磨がそう言うと、背の高い男子が振り向いた。
黒尾鉄朗。
音駒の主将。
黒髪は寝癖のように跳ねていて、目つきは少し鋭い。けれど笑うと、相手の懐に勝手に入ってくるような軽さがあった。
「あー、噂の転校生?」
千景は一歩下がった。
黒尾の後ろ、体育館の入口付近に女子が数人いたからだ。
見学なのか、ただ覗きに来たのかはわからない。けれど千景はその視線に反射的に体を硬くした。
黒尾はそれに気づいた。
「……あ、悪い。こっち来る?」
彼は入口から少し離れた場所へ移動した。距離を取る動きが自然だった。
千景はほんの少しだけ警戒を緩めた。
「青砥千景です。絵を描く時間を優先します。得点係は基本しません。ドリンクとタオルは準備できます。練習中に描きます。合宿に行けるなら、忙しい日は手伝います」
黒尾は数秒黙った。
それから、肩を揺らして笑った。
「条件の出し方、面接よりはっきりしてんな」
「無理なら帰ります」
「いや、助かるよ。マジで。うちは人手ほしいし。描いてていいから、できる範囲で頼むわ」
千景は頷いた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。あ、俺のこと描くならかっこよく頼むな」
千景は黒尾を見た。
「顔を描くなら許可を取ります」
「え、今ので許可になる?」
「なります」
「じゃあ頼むわ」
軽い会話。
それなのに、千景の指先は冷えていた。
黒尾にはファンがいる。
そういう人には近づかない方がいい。
距離を間違えると、紙が破れる。
千景は黒尾から一歩分、意識して離れた。
研磨がそれを見ていた。
何も言わなかった。
その日から、千景は音駒バレー部の「マネージャーもどき」になった。
練習前にドリンクを作る。
タオルを畳む。
床に落ちたボールを端へ寄せる。
誰かが怪我をしたら救急箱を取る。
それ以外の時間は、壁際に座って描く。
「青砥さん、タオルありがと!」
「そこ置いといて」
「うん!」
「青砥、ドリンク濃いめってできる?」
「水筒に名前書いて」
「業務連絡が的確!」
部員たちは最初こそ戸惑ったが、すぐ慣れた。
千景が手渡しをしないことにも、ずっとベンチにいないことにも、練習の途中で急に鉛筆を走らせることにも。
彼女は笑顔を振りまかない。
大声で応援もしない。
けれど、必要なものはいつの間にか準備されている。
それだけで、十分ありがたがられた。
「青砥ってさ」
ある日、練習後に夜久衛輔がタオルを受け取りながら言った。
「はい」
「なんでバレー描くの?」
千景は床に座り、膝の上のスケッチブックを閉じた。
「落ちないから」
夜久が首を傾げる。
「ボール?」
「うん。音駒は、特に」
彼女は体育館を見た。
片づけ中の部員たち。ネットを外す手。ボールを数える声。床を拭くモップの跡。
「誰かが落としそうになったものを、別の誰かが拾う。拾ったものを、次へ渡す。強い線じゃなくて、途切れない線」
夜久は少し驚いたように目を開いた。
「……へえ」
「だから描きたい」
「そっか」
夜久は笑った。
「なんか、うちっぽいな」
千景はその言葉を、紙の端に小さく書き留めた。
うちっぽい。
その夜、千景は家で大きな紙を広げた。
音駒のバレーを、そのまま人物画にするのは違う気がした。
だから、半分だけ抽象画にした。
赤い線。
黒い面。
細く絡む銀色。
落ちそうで落ちない白い球。
人の形はかろうじて残した。けれど顔はない。誰か一人の絵ではなく、繋いでいる全員の絵だった。
描いている間、窓の外で車が通る音がした。
母親が仕事部屋で電話をしている声も聞こえた。
「ええ、原画は本人の手元に置きたいそうなので。複製権の扱いだけ確認していただければ」
千景は聞き流した。
自分にとって大事なのは、原画がそこにあることだった。
紙に残った絵の具の厚み。
筆の跡。
自分がその時、何を見ていたか。
それが手元にあれば、あとのことは大人が好きにすればいい。
数週間後。
美術室の前に、人だかりができていた。
千景は通りかかって、足を止める。
掲示板に、受賞者一覧が貼られていた。
青砥千景。
県の高校美術展、特選。
作品名は『接続』。
音駒のバレーを描いた、あの赤と黒の絵だった。
「え、これ青砥さん?」
「バレー部のマネの?」
「すごくない?」
「特選って一番上のやつ?」
「絵うまいとは思ってたけど、ガチじゃん」
千景は掲示板を見て、少しだけ瞬きをした。
賞は、嫌いではない。
けれど、嬉しいかと言われるとよくわからない。
描きたかったものが描けたかどうかの方が、大事だった。
放課後、体育館に行くと、空気がいつもと違った。
部員たちが一斉にこちらを見る。
「青砥」
黒尾がにやにやしていた。
千景は一歩下がる。
「何ですか」
「お前、すごいやつだったんだな」
「何が」
「美術展。特選」
「ああ」
「反応うっす」
山本猛虎が横から飛び出してきた。
「青砥さん! すごいっす! 俺、芸術とか全然わかんねえけど、すごいのはわかるっす!」
「ありがとう」
「しかもバレーの絵なんすよね!?」
「音駒の絵」
その瞬間、体育館が少し静かになった。
黒尾の笑みも、研磨のゲームを見る手も、夜久のタオルを畳む動きも、ほんの少し止まった。
「……うち?」
黒尾が聞いた。
千景は頷いた。
「繋ぐバレーを描いた」
誰もすぐには茶化さなかった。
彼女がいつも壁際で何を見ていたのか。
何を紙に移していたのか。
その一部が、初めて彼らに伝わったようだった。
研磨がぽつりと言った。
「見たい」
千景は少し考えた。
「原画は家」
「じゃあ写真」
「ある」
スマホを出し、画面を見せる。
赤と黒の抽象画。
音駒の色。
線が絡み、ほどけ、また繋がる。中央の白い球は、落ちていない。ぎりぎりで、誰かの手に届く。
黒尾は画面を覗き込んで、しばらく黙った。
「……俺ら、こんなかっこいい?」
「私にはそう見えた」
夜久が照れたように頭を掻く。
山本は目を潤ませている。
研磨は画面をじっと見て、短く言った。
「これ、好き」
千景はスマホをしまった。
胸の奥が、少しだけ温かくなった。
音駒の人たちは、踏み込んでこない。
聞かれたくないことを、無理に聞かない。
なぜ転校してきたのか。
前の学校で何があったのか。
なぜ黒尾のファンがいると逃げるのか。
なぜ誰かを描く前に、必ず許可を取るのか。
誰も、今のところ聞かなかった。
それがありがたかった。
けれど時々、千景は音駒以外の絵を描いた。
赤と黒ではない。
白と金。
強すぎる線。
空中で止まったみたいな背中。
傲慢なほど美しい指先。
描いていると、研磨が横を通る。
彼は一度だけ、そのページをちらりと見た。
「それ、どこの?」
千景はスケッチブックを閉じた。
「秘密」
研磨はそれ以上聞かなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
「ふうん」
その声には、わかっていないようで、少しだけわかっている響きがあった。
季節が進み、インターハイのポスターが発表された日。
音駒の体育館に、黒尾が一枚の紙を持って入ってきた。
「おーい、これ見たか」
そこには、バレーボールを中心にした抽象画が刷られていた。
赤。
黒。
白。
金。
強烈な跳躍と、繋がる線。
大会名の文字の下に、小さく作者名が入っている。
青砥千景。
山本が叫んだ。
「青砥さん!? これ青砥さんの絵っすか!?」
千景はドリンクのボトルを並べながら、顔を上げた。
「ああ、それ」
「ああ、それ、じゃないっすよ!」
黒尾がポスターと千景を見比べる。
「お前、インハイのポスター描いたの?」
「描いた絵が使われただけ。親が間に入った」
「いや、それを世間では描いたって言うんだよ」
「原画は家にあるから」
「基準そこ?」
千景は頷いた。
「そこ」
研磨はポスターをじっと見ていた。
赤と黒の線の奥に、別の色がある。
金に近い、鋭い線。
音駒だけではない。
どこか別のバレーも混ざっている。
研磨は何も言わなかった。
その頃、兵庫の体育館でも、同じポスターが貼られていた。
稲荷崎高校バレー部の部室前。
宮侑は、通り過ぎようとして足を止めた。
赤と黒。
白い球。
そして、金色の線。
顔はない。
人の形も曖昧だ。
それでも侑には、わかった。
この線を知っている。
この見方を知っている。
バレーを、ただの競技ではなく、呼吸や熱や怒りごと紙に閉じ込める描き方。
侑はポスターの下にある小さな名前を見た。
青砥千景。
息が、変なところで止まった。
「……なんや」
背後で治が立ち止まる。
「ツム?」
侑はポスターを睨んだまま動かなかった。
転校した。
消えた。
一生、話しかけるなと言った。
それなのに。
まだ、描いていた。
バレーを。
もしかしたら、自分を。
侑の手が、無意識に拳になる。
胸の奥に、苛立ちとも安堵ともつかないものが湧いた。
治はポスターを見て、侑の顔を見た。
「青砥って、あの青砥?」
侑は答えなかった。
けれど、その沈黙だけで十分だった。
治は小さく息を吐く。
「……まだ引きずっとるんか」
「ちゃう」
「ほな何」
「知らん」
侑はようやくポスターから目を離した。
けれど数歩歩いて、また振り返る。
金色の線が、紙の中で跳んでいた。
誰よりも高く。
誰よりも鮮やかに。
侑は舌打ちして、体育館へ向かった。
その日のサーブは、やけに鋭かった。
壁際に千景はいない。
それでも侑は、どこかで見られている気がしていた。