絵とバレーボール。この関係に名前はない。   作:an-ryuka

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4.

インターハイの会場は、紙と汗と熱気の匂いがした。

 

入口付近には大会ポスターが何枚も貼られていた。白い球を中心に、赤と黒の線が絡み、金色の光が斜めに走る。遠くから見ればただの抽象画に近い。けれど、バレーを知っている人間なら、その絵の中に跳躍と衝突と執念があることに気づく。

 

青砥千景は、そのポスターの前を素通りした。

 

「青砥さん! 青砥さんのポスター、めっちゃ貼ってあります!」

 

山本猛虎が興奮気味に振り返る。

 

千景は両手にドリンクの入ったケースを抱えたまま、首を傾げた。

 

「知ってる」

 

「反応が作者のそれじゃない!」

 

「原画は家にあるから」

 

「またそれ!」

 

黒尾鉄朗が隣で笑った。彼はスポーツバッグを肩に担ぎ、いつものように少し猫背気味に歩いている。黒髪は試合前でも相変わらず跳ねていて、緊張を隠すように口元だけが軽い。

 

「お前さ、もうちょい誇っていいんじゃねえの」

 

「誇る?」

 

「大会ポスターだぞ。全国のバレー部員が見るやつ」

 

千景は立ち止まり、壁に貼られた自分の絵を見た。

 

印刷された絵は、やはり少し違う。

 

紙の凹凸がない。

 

絵の具の厚みがない。

 

乾く前に筆を入れ直した部分も、画面越しに見るように平らになっている。

 

けれど、金色の線だけは残っていた。

 

跳ぶ人。

 

強く、鋭く、傲慢なくらい美しい軌道。

 

千景はその線から目を逸らした。

 

「使われてるなら、それでいい」

 

黒尾は少しだけ目を細めた。

 

彼は千景が、時々こうやって壁を作ることを知っている。問いかければ答える。けれど、答えたくない場所には近づかせない。転校してきた理由も、前の学校も、誰を描いていたのかも。

 

音駒の部員たちは、そこを無理にこじ開けなかった。

 

それが音駒だった。

 

「青砥」

 

研磨が後ろから声をかけた。

 

「そろそろ行くよ。アップ始まる」

 

「うん」

 

千景はケースを持ち直した。

 

今日は、描くよりも先にやることがある。

 

音駒が出る試合では、マネージャー業に専念する。ドリンクを並べ、タオルを用意し、必要なものを必要な場所へ置く。得点係はしない。声を張り上げる応援もしない。それでも音駒の面々は、千景がそこにいることをもう当然のように受け入れていた。

 

コートに入ると、会場の音が一気に近くなった。

 

笛。

 

靴音。

 

歓声。

 

ボールが弾かれる乾いた音。

 

空調の風が高い天井を流れ、床には薄くワックスの匂いが残っている。観客席からはペットボトルの茶の匂い、制汗剤、誰かの甘い香水が混じって降りてきた。

 

千景はベンチ横に荷物を置いた。

 

「タオル、ここ。ドリンクは名前順。テーピングは救急袋の内側」

 

「助かる」

 

夜久が短く礼を言う。

 

「試合中、描かないの?」

 

「音駒の試合中は見落とせないから」

 

「それ、マネージャーとして?」

 

千景は少し考えた。

 

「絵を描く人間として」

 

夜久は笑った。

 

「どっちでも頼もしいわ」

 

試合が始まる。

 

音駒は、落とさない。

 

派手な一撃で会場を黙らせるチームではない。拾う。繋ぐ。相手の呼吸を読み、次の一手を削っていく。ボールが床に落ちる前に、誰かの腕が差し込まれる。そのたびに、千景の頭の中では線が生まれた。

 

描きたい。

 

でも今は描かない。

 

彼女は爪が手のひらに食い込むほど、ボールを見続けた。

 

休憩に入った瞬間、堰を切ったようにスケッチブックを開く。

 

しゃっ、しゃっ、しゃっ。

 

鉛筆が紙を削る。

 

汗を拭く黒尾の首筋。

 

息を吐く夜久の肩。

 

視線を落としたまま、次の展開を考えている研磨の指。

 

山本の膝。

 

リエーフの長い腕。

 

顔は必要な分だけ。許可を得た相手だけ。

 

コートの熱が、紙に流れ込む。

 

「青砥さん、休憩中まで働いてるみたいっすね」

 

山本が覗き込もうとして、黒尾に首根っこを掴まれた。

 

「邪魔すんな」

 

「見たいっす!」

 

「あとでな」

 

千景は描きながら言う。

 

「見せられるものなら見せる」

 

「見せられないものもあるんすか!?」

 

「ある」

 

「気になる!」

 

「虎、うるさい」

 

研磨の一言で、山本はすぐ黙った。

 

千景は小さく息を吐く。

 

その時だった。

 

視線を感じた。

 

観客席ではない。

 

コートの反対側、通路の奥。

 

白と赤のジャージ。

 

稲荷崎。

 

千景の手が、一瞬だけ止まった。

 

宮侑がいた。

 

彼は遠くから、こちらを見ていた。

 

会場の音が薄くなる。

 

あの日の教室が、胸の底でかすかに鳴った。

 

破れた紙。

 

赤いペンの跡。

 

「一生、話しかけないで」

 

自分の声。

 

千景はすぐに目を戻した。

 

描きかけの研磨の手に、線を足す。

 

動揺は鉛筆に出る。線がわずかに荒れた。彼女はそれを消さず、上から別の線を重ねた。

 

侑はしばらく動かなかった。

 

遠くからでもわかる。

 

千景は変わっていなかった。

 

試合の合間に、当然のように描いている。髪は少し伸び、制服ではなく音駒のジャージを羽織っていた。ベンチのそばにいる。ドリンクを並べ、タオルを渡さず置き、またスケッチブックへ戻る。

 

なんや、変わってへんやん。

 

侑の胸に、息が戻った。

 

それが安心なのか、腹立たしさなのか、自分でもわからない。

 

「ツム」

 

横から治の声がした。

 

「見すぎや」

 

「見てへん」

 

「目ぇ固定されとるで」

 

「うるさい」

 

治も音駒のベンチを見る。

 

黒尾が何か言い、千景が短く返している。距離は近くない。馴れ合っている感じでもない。それでも、そこにいることを許されている空気があった。

 

治は微妙な顔をした。

 

「……あれ、青砥やんな」

 

侑は答えない。

 

「音駒のマネージャーしとるんや」

 

「知らん」

 

「知らん顔ちゃうけどな」

 

侑は舌打ちした。

 

「試合前やぞ。集中せえや」

 

「それ、俺の台詞やろ」

 

侑はコートへ戻った。

 

バレーに影響は出さない。

 

出してたまるか。

 

彼はボールを受け取り、指先で回す。観客の声も、ポスターの金色の線も、音駒のベンチにいる千景も、全部まとめて腹の奥に沈めた。

 

そして、跳ぶ。

 

宮侑のバレーは、以前より鋭くなっていた。

 

千景はそれを見てしまった。

 

音駒の試合が終わり、次の試合まで少し時間が空いた。彼女は本来なら荷物の確認をするはずだった。けれど、稲荷崎の試合が始まった瞬間、足が止まった。

 

見ないつもりだった。

 

描かないつもりだった。

 

でも、無理だった。

 

侑のトスは、相変わらず美しかった。

 

いや、前よりも研がれている。

 

誰かを従わせるのではなく、相手の限界を引きずり出すようなトス。乱暴で、繊細で、勝手で、正確。嫌になるほど宮侑だった。

 

千景はベンチの端に座り、スケッチブックを開いた。

 

音駒のページではない。

 

別の紙。

 

許可は、昔に取った。

 

まだ有効なのかどうかは、わからない。

 

それでも手は止まらなかった。

 

金色の線。

 

白い指。

 

叫ぶ口。

 

跳ばせる人。

 

一枚、また一枚。

 

彼女は顔を描かないつもりでいて、気づけば横顔を描いていた。

 

「青砥」

 

研磨の声で我に返る。

 

千景はスケッチブックを閉じた。

 

「何」

 

「それ、どこの?」

 

「秘密」

 

研磨は少しだけ視線を稲荷崎のコートへ向けた。

 

侑がトスを上げる。

 

スパイクが決まる。

 

会場が沸く。

 

研磨は、何も言わなかった。

 

ただ、いつもよりほんの少し長く千景を見た。

 

インターハイが終わった後、会場の熱は少しずつ冷めていった。

 

勝った者も、負けた者も、荷物をまとめる。テーピングを剥がす音。汗で濡れたタオルを袋へ押し込む音。廊下では他校の選手たちがすれ違い、互いに会釈したり、悔しそうに黙り込んだりしている。

 

千景は音駒の荷物を確認していた。

 

ドリンクボトルの数。

 

タオル。

 

救急袋。

 

スケッチブック。

 

すべて揃っている。

 

「青砥さん?」

 

背後から、関西の響きがした。

 

千景の肩が固まる。

 

振り向く前に、誰かわかった。

 

宮治。

 

侑と同じ顔をしているのに、目の温度が違う。侑よりも静かで、声の置き方が少し低い。稲荷崎のジャージを着て、片手にスポーツバッグを持っている。

 

治は距離を取って立っていた。

 

「久しぶり」

 

千景は何も言わなかった。

 

彼の後ろに、稲荷崎の部員が何人か見えた。さらに遠くには、こちらを気にしている女子の集団もいる。誰のファンかはわからない。けれど、そういう視線の集まりを見るだけで、千景の喉が狭くなった。

 

治はそれに気づいたように眉を下げた。

 

「別に、責めに来たわけやないねん。ただ、ツムが――」

 

「黒尾さん」

 

千景は治の言葉を遮った。

 

声は大きくなかったが、近くにいた黒尾がすぐ反応した。

 

「ん?」

 

千景は黒尾の背後に回った。

 

黒尾は一瞬だけ治を見て、すぐ状況を察した。笑みを浮かべたまま、千景と治の間に自然に立つ。

 

「すみません。うちのマネに何か?」

 

声は軽い。

 

けれど、立ち位置は完全に壁だった。

 

治は少し困った顔をした。

 

「あー……すんません。知り合いやったんで」

 

「知り合い?」

 

黒尾はちらりと後ろを見る。

 

千景は黒尾のジャージの背中を見ていた。

 

「今は、話したくないです」

 

その一言で、黒尾の表情が変わった。

 

にやけた軽さが消え、主将の顔になる。

 

「だそうです」

 

治は小さく息を吐いた。

 

「……わかりました。邪魔してすんません」

 

「いえ」

 

治は一歩下がった。

 

けれど去る前に、千景の方へ少しだけ視線を向けた。

 

「元気そうでよかった」

 

千景は答えなかった。

 

治はそれ以上踏み込まず、稲荷崎の方へ戻っていった。

 

黒尾はしばらくその背中を見送ってから、低い声で言った。

 

「大丈夫か」

 

「うん」

 

「知り合い?」

 

「前の学校の人」

 

「それ以上は?」

 

「今は言わない」

 

「了解」

 

黒尾はそれだけで引いた。

 

千景は少しだけ息を吸った。

 

汗と制汗剤と、床に残るワックスの匂い。

 

大丈夫。

 

紙は破れていない。

 

ここでは誰も、無理に触らない。

 

稲荷崎の控え場所へ戻った治は、侑にすぐ睨まれた。

 

「なんで行ったんや」

 

声が低い。

 

治はバッグを置いた。

 

「興味本位」

 

「は?」

 

「あと、お前が一生うじうじしとるから」

 

侑の眉間に皺が寄る。

 

「俺、行け言うてへん」

 

「言われんでも行くわ」

 

「余計なことすんなや」

 

治も少し目を細めた。

 

「ほな自分で行けや」

 

侑は黙った。

 

治はその沈黙に、思ったより腹が立った。

 

「お前、ずっと見とったやろ。試合中はともかく、終わってからも音駒の方ばっかり。話したいんちゃうんか」

 

「ちゃう」

 

「ほな何」

 

「知らん」

 

「またそれか」

 

侑はタオルを握りしめた。

 

「一生話しかけんな言われたんや」

 

治の顔が少しだけ変わった。

 

その言葉が、侑の中でまだ生きていることを初めて知った顔だった。

 

侑は吐き捨てるように続ける。

 

「俺が行ったら、また嫌がるやろ。お前が行ってどうすんねん。何かあったらどう責任取るんや」

 

「責任て」

 

「俺のせいで、また何かされたら――」

 

言いかけて、侑は口を閉じた。

 

治はそこで、ようやくわかった。

 

侑は怒っているのではない。

 

怖がっている。

 

青砥千景に拒絶されることも。

 

自分のせいで彼女がまた傷つくことも。

 

それを認めたくなくて、全部を怒りに変えている。

 

治はため息をついた。

 

「……お前、ほんまめんどくさいな」

 

「黙れ」

 

「青砥さん、黒尾の後ろに隠れたわ」

 

侑の顔が歪んだ。

 

「言わんでええ」

 

「でも元気そうやった。絵も描いとった。たぶん、バレーもまだ好きや」

 

侑は顔を背けた。

 

「俺のことは、もう描かんやろ」

 

治は答えなかった。

 

侑は壁に貼られた大会ポスターを見る。

 

金色の線。

 

跳ぶ人。

 

自分かもしれない。

 

自分ではないかもしれない。

 

それでも侑は、その線から目を離せなかった。

 

「あいつ、誰描いとるんやろ」

 

ぽつりと落ちた声に、治は何も言わない。

 

言えば、喧嘩になる。

 

言わなくても、たぶん喧嘩になる。

 

結局その日から、侑と治は少しだけ口をきかなくなった。

 

完全な喧嘩ではない。

 

必要な会話はする。

 

練習もする。

 

飯も食う。

 

けれど、青砥千景の話だけは、二人の間に置きっぱなしの刃物みたいになった。

 

侑は相変わらずバレーに全部を流し込んだ。

 

苛立ちも、後悔も、安堵も、わからない感情も。

 

ボールを上げる。

 

誰かを跳ばせる。

 

勝つ。

 

それだけなら、間違えない。

 

けれど試合会場で音駒のジャージを見つけるたび、侑の目は勝手に探してしまう。

 

壁際。

 

ベンチの端。

 

スケッチブックを開く細い指。

 

そして千景もまた、描いていた。

 

音駒のバレーを。

 

他校のバレーを。

 

そして時々、誰にも見せないページに、金色の線を足した。

 

それはもう、ただの記憶ではなかった。

 

忘れようとしても紙の上に出てくる、厄介な熱だった。

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