絵とバレーボール。この関係に名前はない。 作:an-ryuka
インターハイの会場は、紙と汗と熱気の匂いがした。
入口付近には大会ポスターが何枚も貼られていた。白い球を中心に、赤と黒の線が絡み、金色の光が斜めに走る。遠くから見ればただの抽象画に近い。けれど、バレーを知っている人間なら、その絵の中に跳躍と衝突と執念があることに気づく。
青砥千景は、そのポスターの前を素通りした。
「青砥さん! 青砥さんのポスター、めっちゃ貼ってあります!」
山本猛虎が興奮気味に振り返る。
千景は両手にドリンクの入ったケースを抱えたまま、首を傾げた。
「知ってる」
「反応が作者のそれじゃない!」
「原画は家にあるから」
「またそれ!」
黒尾鉄朗が隣で笑った。彼はスポーツバッグを肩に担ぎ、いつものように少し猫背気味に歩いている。黒髪は試合前でも相変わらず跳ねていて、緊張を隠すように口元だけが軽い。
「お前さ、もうちょい誇っていいんじゃねえの」
「誇る?」
「大会ポスターだぞ。全国のバレー部員が見るやつ」
千景は立ち止まり、壁に貼られた自分の絵を見た。
印刷された絵は、やはり少し違う。
紙の凹凸がない。
絵の具の厚みがない。
乾く前に筆を入れ直した部分も、画面越しに見るように平らになっている。
けれど、金色の線だけは残っていた。
跳ぶ人。
強く、鋭く、傲慢なくらい美しい軌道。
千景はその線から目を逸らした。
「使われてるなら、それでいい」
黒尾は少しだけ目を細めた。
彼は千景が、時々こうやって壁を作ることを知っている。問いかければ答える。けれど、答えたくない場所には近づかせない。転校してきた理由も、前の学校も、誰を描いていたのかも。
音駒の部員たちは、そこを無理にこじ開けなかった。
それが音駒だった。
「青砥」
研磨が後ろから声をかけた。
「そろそろ行くよ。アップ始まる」
「うん」
千景はケースを持ち直した。
今日は、描くよりも先にやることがある。
音駒が出る試合では、マネージャー業に専念する。ドリンクを並べ、タオルを用意し、必要なものを必要な場所へ置く。得点係はしない。声を張り上げる応援もしない。それでも音駒の面々は、千景がそこにいることをもう当然のように受け入れていた。
コートに入ると、会場の音が一気に近くなった。
笛。
靴音。
歓声。
ボールが弾かれる乾いた音。
空調の風が高い天井を流れ、床には薄くワックスの匂いが残っている。観客席からはペットボトルの茶の匂い、制汗剤、誰かの甘い香水が混じって降りてきた。
千景はベンチ横に荷物を置いた。
「タオル、ここ。ドリンクは名前順。テーピングは救急袋の内側」
「助かる」
夜久が短く礼を言う。
「試合中、描かないの?」
「音駒の試合中は見落とせないから」
「それ、マネージャーとして?」
千景は少し考えた。
「絵を描く人間として」
夜久は笑った。
「どっちでも頼もしいわ」
試合が始まる。
音駒は、落とさない。
派手な一撃で会場を黙らせるチームではない。拾う。繋ぐ。相手の呼吸を読み、次の一手を削っていく。ボールが床に落ちる前に、誰かの腕が差し込まれる。そのたびに、千景の頭の中では線が生まれた。
描きたい。
でも今は描かない。
彼女は爪が手のひらに食い込むほど、ボールを見続けた。
休憩に入った瞬間、堰を切ったようにスケッチブックを開く。
しゃっ、しゃっ、しゃっ。
鉛筆が紙を削る。
汗を拭く黒尾の首筋。
息を吐く夜久の肩。
視線を落としたまま、次の展開を考えている研磨の指。
山本の膝。
リエーフの長い腕。
顔は必要な分だけ。許可を得た相手だけ。
コートの熱が、紙に流れ込む。
「青砥さん、休憩中まで働いてるみたいっすね」
山本が覗き込もうとして、黒尾に首根っこを掴まれた。
「邪魔すんな」
「見たいっす!」
「あとでな」
千景は描きながら言う。
「見せられるものなら見せる」
「見せられないものもあるんすか!?」
「ある」
「気になる!」
「虎、うるさい」
研磨の一言で、山本はすぐ黙った。
千景は小さく息を吐く。
その時だった。
視線を感じた。
観客席ではない。
コートの反対側、通路の奥。
白と赤のジャージ。
稲荷崎。
千景の手が、一瞬だけ止まった。
宮侑がいた。
彼は遠くから、こちらを見ていた。
会場の音が薄くなる。
あの日の教室が、胸の底でかすかに鳴った。
破れた紙。
赤いペンの跡。
「一生、話しかけないで」
自分の声。
千景はすぐに目を戻した。
描きかけの研磨の手に、線を足す。
動揺は鉛筆に出る。線がわずかに荒れた。彼女はそれを消さず、上から別の線を重ねた。
侑はしばらく動かなかった。
遠くからでもわかる。
千景は変わっていなかった。
試合の合間に、当然のように描いている。髪は少し伸び、制服ではなく音駒のジャージを羽織っていた。ベンチのそばにいる。ドリンクを並べ、タオルを渡さず置き、またスケッチブックへ戻る。
なんや、変わってへんやん。
侑の胸に、息が戻った。
それが安心なのか、腹立たしさなのか、自分でもわからない。
「ツム」
横から治の声がした。
「見すぎや」
「見てへん」
「目ぇ固定されとるで」
「うるさい」
治も音駒のベンチを見る。
黒尾が何か言い、千景が短く返している。距離は近くない。馴れ合っている感じでもない。それでも、そこにいることを許されている空気があった。
治は微妙な顔をした。
「……あれ、青砥やんな」
侑は答えない。
「音駒のマネージャーしとるんや」
「知らん」
「知らん顔ちゃうけどな」
侑は舌打ちした。
「試合前やぞ。集中せえや」
「それ、俺の台詞やろ」
侑はコートへ戻った。
バレーに影響は出さない。
出してたまるか。
彼はボールを受け取り、指先で回す。観客の声も、ポスターの金色の線も、音駒のベンチにいる千景も、全部まとめて腹の奥に沈めた。
そして、跳ぶ。
宮侑のバレーは、以前より鋭くなっていた。
千景はそれを見てしまった。
音駒の試合が終わり、次の試合まで少し時間が空いた。彼女は本来なら荷物の確認をするはずだった。けれど、稲荷崎の試合が始まった瞬間、足が止まった。
見ないつもりだった。
描かないつもりだった。
でも、無理だった。
侑のトスは、相変わらず美しかった。
いや、前よりも研がれている。
誰かを従わせるのではなく、相手の限界を引きずり出すようなトス。乱暴で、繊細で、勝手で、正確。嫌になるほど宮侑だった。
千景はベンチの端に座り、スケッチブックを開いた。
音駒のページではない。
別の紙。
許可は、昔に取った。
まだ有効なのかどうかは、わからない。
それでも手は止まらなかった。
金色の線。
白い指。
叫ぶ口。
跳ばせる人。
一枚、また一枚。
彼女は顔を描かないつもりでいて、気づけば横顔を描いていた。
「青砥」
研磨の声で我に返る。
千景はスケッチブックを閉じた。
「何」
「それ、どこの?」
「秘密」
研磨は少しだけ視線を稲荷崎のコートへ向けた。
侑がトスを上げる。
スパイクが決まる。
会場が沸く。
研磨は、何も言わなかった。
ただ、いつもよりほんの少し長く千景を見た。
インターハイが終わった後、会場の熱は少しずつ冷めていった。
勝った者も、負けた者も、荷物をまとめる。テーピングを剥がす音。汗で濡れたタオルを袋へ押し込む音。廊下では他校の選手たちがすれ違い、互いに会釈したり、悔しそうに黙り込んだりしている。
千景は音駒の荷物を確認していた。
ドリンクボトルの数。
タオル。
救急袋。
スケッチブック。
すべて揃っている。
「青砥さん?」
背後から、関西の響きがした。
千景の肩が固まる。
振り向く前に、誰かわかった。
宮治。
侑と同じ顔をしているのに、目の温度が違う。侑よりも静かで、声の置き方が少し低い。稲荷崎のジャージを着て、片手にスポーツバッグを持っている。
治は距離を取って立っていた。
「久しぶり」
千景は何も言わなかった。
彼の後ろに、稲荷崎の部員が何人か見えた。さらに遠くには、こちらを気にしている女子の集団もいる。誰のファンかはわからない。けれど、そういう視線の集まりを見るだけで、千景の喉が狭くなった。
治はそれに気づいたように眉を下げた。
「別に、責めに来たわけやないねん。ただ、ツムが――」
「黒尾さん」
千景は治の言葉を遮った。
声は大きくなかったが、近くにいた黒尾がすぐ反応した。
「ん?」
千景は黒尾の背後に回った。
黒尾は一瞬だけ治を見て、すぐ状況を察した。笑みを浮かべたまま、千景と治の間に自然に立つ。
「すみません。うちのマネに何か?」
声は軽い。
けれど、立ち位置は完全に壁だった。
治は少し困った顔をした。
「あー……すんません。知り合いやったんで」
「知り合い?」
黒尾はちらりと後ろを見る。
千景は黒尾のジャージの背中を見ていた。
「今は、話したくないです」
その一言で、黒尾の表情が変わった。
にやけた軽さが消え、主将の顔になる。
「だそうです」
治は小さく息を吐いた。
「……わかりました。邪魔してすんません」
「いえ」
治は一歩下がった。
けれど去る前に、千景の方へ少しだけ視線を向けた。
「元気そうでよかった」
千景は答えなかった。
治はそれ以上踏み込まず、稲荷崎の方へ戻っていった。
黒尾はしばらくその背中を見送ってから、低い声で言った。
「大丈夫か」
「うん」
「知り合い?」
「前の学校の人」
「それ以上は?」
「今は言わない」
「了解」
黒尾はそれだけで引いた。
千景は少しだけ息を吸った。
汗と制汗剤と、床に残るワックスの匂い。
大丈夫。
紙は破れていない。
ここでは誰も、無理に触らない。
稲荷崎の控え場所へ戻った治は、侑にすぐ睨まれた。
「なんで行ったんや」
声が低い。
治はバッグを置いた。
「興味本位」
「は?」
「あと、お前が一生うじうじしとるから」
侑の眉間に皺が寄る。
「俺、行け言うてへん」
「言われんでも行くわ」
「余計なことすんなや」
治も少し目を細めた。
「ほな自分で行けや」
侑は黙った。
治はその沈黙に、思ったより腹が立った。
「お前、ずっと見とったやろ。試合中はともかく、終わってからも音駒の方ばっかり。話したいんちゃうんか」
「ちゃう」
「ほな何」
「知らん」
「またそれか」
侑はタオルを握りしめた。
「一生話しかけんな言われたんや」
治の顔が少しだけ変わった。
その言葉が、侑の中でまだ生きていることを初めて知った顔だった。
侑は吐き捨てるように続ける。
「俺が行ったら、また嫌がるやろ。お前が行ってどうすんねん。何かあったらどう責任取るんや」
「責任て」
「俺のせいで、また何かされたら――」
言いかけて、侑は口を閉じた。
治はそこで、ようやくわかった。
侑は怒っているのではない。
怖がっている。
青砥千景に拒絶されることも。
自分のせいで彼女がまた傷つくことも。
それを認めたくなくて、全部を怒りに変えている。
治はため息をついた。
「……お前、ほんまめんどくさいな」
「黙れ」
「青砥さん、黒尾の後ろに隠れたわ」
侑の顔が歪んだ。
「言わんでええ」
「でも元気そうやった。絵も描いとった。たぶん、バレーもまだ好きや」
侑は顔を背けた。
「俺のことは、もう描かんやろ」
治は答えなかった。
侑は壁に貼られた大会ポスターを見る。
金色の線。
跳ぶ人。
自分かもしれない。
自分ではないかもしれない。
それでも侑は、その線から目を離せなかった。
「あいつ、誰描いとるんやろ」
ぽつりと落ちた声に、治は何も言わない。
言えば、喧嘩になる。
言わなくても、たぶん喧嘩になる。
結局その日から、侑と治は少しだけ口をきかなくなった。
完全な喧嘩ではない。
必要な会話はする。
練習もする。
飯も食う。
けれど、青砥千景の話だけは、二人の間に置きっぱなしの刃物みたいになった。
侑は相変わらずバレーに全部を流し込んだ。
苛立ちも、後悔も、安堵も、わからない感情も。
ボールを上げる。
誰かを跳ばせる。
勝つ。
それだけなら、間違えない。
けれど試合会場で音駒のジャージを見つけるたび、侑の目は勝手に探してしまう。
壁際。
ベンチの端。
スケッチブックを開く細い指。
そして千景もまた、描いていた。
音駒のバレーを。
他校のバレーを。
そして時々、誰にも見せないページに、金色の線を足した。
それはもう、ただの記憶ではなかった。
忘れようとしても紙の上に出てくる、厄介な熱だった。