絵とバレーボール。この関係に名前はない。   作:an-ryuka

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5.

インターハイが終わってからも、宮侑は音駒を探す癖が抜けなかった。

 

別に探しているわけではない。

 

そう自分には言い聞かせていた。

 

会場の通路を歩いている時、赤いジャージが視界の端に入る。黒い猫の横断幕が見える。人混みの奥で、音駒の部員らしき背中が揺れる。

 

そのたびに、目が勝手に動く。

 

青砥千景がいるかどうかを、探してしまう。

 

「ツム」

 

隣を歩く治が、呆れた声を出した。

 

「何」

 

「また見とる」

 

「見てへん」

 

「目ぇだけ音駒追いかけとる。怖いで」

 

「黙れや」

 

「そんなんやから気持ち悪がられるんちゃう」

 

侑は治を睨んだ。

 

治は肩をすくめるだけだった。

 

その日は、大会最終日の片づけと各校の撤収が重なって、会場の廊下はやたらと混んでいた。汗の残ったジャージ、湿ったタオル、制汗剤の甘い匂い、売店の焼きそばのソース。負けた悔しさと、終わった安堵が同じ空気の中で混ざっている。

 

侑はスポーツバッグを肩にかけ、人の流れに沿って歩いた。

 

本当なら、もう帰るだけだった。

 

バレーは終わった。

 

今回の大会でやるべきことは全部やった。

 

だから余計なものを見る必要なんてない。

 

そう思った瞬間、視界の奥に黒い髪が見えた。

 

千景だった。

 

彼女は通路の端、非常口に近い壁際に立っていた。音駒のジャージを羽織り、スケッチブックを胸に抱えている。周囲には、同じ学校の部員はいない。

 

代わりに、知らない女子が三人、千景を囲むように立っていた。

 

侑の足が止まった。

 

「ツム?」

 

治の声が遠くなる。

 

女子たちの雰囲気は、稲荷崎で見たものほど刺々しくはなかった。笑顔もある。声も柔らかい。けれど、千景の肩は硬かった。

 

侑には、それだけで十分だった。

 

「ねえ、音駒のマネージャーさんですよね?」

 

「黒尾さんと仲いいんですか?」

 

「付き合ってる人とか、いるんですか?」

 

「もしかして、あなたじゃないですよね?」

 

問い詰めるほどではない。

 

けれど逃げ道を塞ぐように、じわじわと近づいてくる。

 

千景はなるべく穏やかに対応しようとしていた。

 

「違います」

 

「ただの部員とマネージャーです」

 

「私は絵を描いているだけなので」

 

声はいつも通り淡々としている。

 

けれど、指がスケッチブックの角を強く握っていた。

 

黒尾のファン。

 

そう理解した瞬間、千景の喉が狭くなった。

 

別に、この子たちは何もしていない。

 

紙を破ったわけでもない。

 

赤いペンで線を潰したわけでもない。

 

それでも、似ていた。

 

誰かを好きな気持ちを、他人へぶつける目。

 

自分の不安を、相手に確認させようとする声。

 

千景は一歩下がる。

 

背中が壁に当たった。

 

「本当に違うんです」

 

「でも、黒尾さんよく話しかけてますよね?」

 

「マネージャーさんって、やっぱり近いじゃないですか」

 

「嫌とかじゃなくて、確認したいだけで」

 

確認。

 

その言葉が嫌だった。

 

何を確認したいのか。

 

誰に許されたいのか。

 

千景は息を吸う。

 

大丈夫。

 

ここは稲荷崎ではない。

 

スケッチブックは破れていない。

 

音駒の人たちが、きっとそのうち戻ってくる。

 

そう思った時だった。

 

「おい」

 

廊下に、低い声が落ちた。

 

女子たちが振り向く。

 

千景も顔を上げた。

 

宮侑が立っていた。

 

白と赤のジャージ。明るい髪。鋭い目。眉間には深く皺が寄り、口元は怒りを噛み殺すように固い。

 

千景の胸が、どくんと鳴った。

 

侑は千景ではなく、女子たちを見ていた。

 

「何しとん」

 

「え……」

 

「嫌がっとるやろ」

 

声が、通路のざわめきを切った。

 

女子たちが怯えたように身を引く。

 

「い、嫌がらせとかじゃなくて」

 

「確認してただけで」

 

「確認?」

 

侑の目がさらに細くなる。

 

「本人が違う言うてんのに、何をまだ確認すんねん。逃げ道塞いで、寄ってたかって、そんなん質問ちゃうやろ」

 

周囲の人間が振り返り始めた。

 

治が少し離れた場所で頭を抱えている。

 

千景は動けなかった。

 

昔と同じだった。

 

体育館前で、勝手に写真を撮ろうとした女子たちへ怒鳴った時と同じ。侑は自分の人気を喜ぶ顔をしない。バレーの邪魔になるものや、誰かを追い詰めるものに、容赦なく怒る。

 

その怒り方を、千景は知っている。

 

紙に描いた。

 

破られた。

 

それでもまだ、覚えている。

 

「す、すみません」

 

女子の一人が小さく言った。

 

「行こ」

 

三人は足早に去っていく。

 

通路には気まずい沈黙が残った。

 

侑はまだ肩で息をしていた。怒りの熱が抜け切っていないのがわかる。けれど、女子たちが見えなくなると、彼の視線はゆっくり千景へ戻った。

 

二人の間に、数歩分の距離があった。

 

近い。

 

近すぎる。

 

それなのに、あまりにも遠い。

 

千景はスケッチブックを抱え直した。

 

「……」

 

侑は何か言いかけた。

 

けれど、言葉が出てこないようだった。

 

一生、話しかけないで。

 

その言葉が、二人の間にまだ落ちている。

 

千景も何も言えなかった。

 

助けてくれてありがとう。

 

あの時は八つ当たりしてごめん。

 

絵を破ったのがツムじゃないことは、ずっとわかっていた。

 

本当は、また描いていた。

 

全部、言葉にすればよかった。

 

けれど喉の奥で固まって、どれも声にならなかった。

 

侑は、少しだけ唇を動かした。

 

「……怪我、ないんか」

 

千景は頷いた。

 

「ない」

 

それだけ。

 

侑の顔が、ほんの少しだけ緩む。

 

その表情を見た瞬間、千景は逃げた。

 

「青砥」

 

侑が名前を呼んだ。

 

千景は振り返らなかった。

 

足早に通路を抜け、階段を降り、人の少ない廊下へ出る。スケッチブックを抱えた腕に力が入る。息が浅い。胸の奥が熱くて、痛い。

 

逃げた。

 

また逃げた。

 

自分でそう思いながらも、足は止まらなかった。

 

音駒の控え場所に戻ると、研磨が壁にもたれてゲーム機を持っていた。

 

彼は千景を見て、画面を止めた。

 

「大丈夫?」

 

「うん」

 

「顔、白い」

 

「たぶん大丈夫」

 

研磨は少し黙った。

 

「誰かに何かされた?」

 

「黒尾さんのファンに、少し聞かれただけ」

 

「黒尾呼ぶ?」

 

「もう終わった」

 

「そっか」

 

研磨はそれ以上追及しなかった。

 

それがありがたくて、千景は逆に苦しくなった。

 

彼女は荷物の隅に座り込み、スケッチブックを開いた。

 

描かないと、息ができない。

 

鉛筆を握る。

 

さっきの侑を描く。

 

怒鳴る顔。

 

眉間の皺。

 

通路の蛍光灯を受けた髪。

 

女子たちの前に割って入った背中。

 

自分を見た時だけ、少し声が柔らかくなったところ。

 

怪我、ないんか。

 

その一言まで、線にしたかった。

 

しゃっ、しゃっ、しゃっ。

 

鉛筆が走る。

 

周囲では音駒の部員たちが荷物をまとめている。

 

「おい、誰か俺のタオル知らねえ?」

 

「それお前の首にかかってる」

 

「リエーフ、ボトル洗った?」

 

「今からです!」

 

「今からって言った時点で忘れてたな」

 

そんな声が遠くで流れている。

 

千景は描いた。

 

何枚も。

 

侑の背中。

 

侑の手。

 

怒り。

 

優しさ。

 

気まずさ。

 

あの日の体育館前と、今日の通路が重なって、線が震える。

 

それでも止めなかった。

 

夜、宿舎の部屋で、千景はまた描いた。

 

消灯時間を過ぎても、机の小さなライトだけをつけていた。窓の外には東京の夜があり、遠くで車の音がする。部屋には畳の匂いと、洗いたてのジャージの洗剤の匂いが薄く残っていた。

 

スケッチブックの上に、侑がいた。

 

今日の侑。

 

昔の侑。

 

怒っている侑。

 

バレーをしている侑。

 

誰かを守る侑。

 

千景は鉛筆を置いた。

 

胸の中にあるものを、ようやく見た。

 

「あ」

 

小さな声が漏れた。

 

これは。

 

これが、好きというものか。

 

思ったより静かだった。

 

もっと劇的に、世界が変わるのかと思っていた。けれど実際は、ずっとそこにあった色に、やっと名前がついただけだった。

 

宮侑を描きたい。

 

宮侑のバレーを見たい。

 

宮侑に、自分の絵を見てほしい。

 

宮侑に許されたい。

 

宮侑のそばにある熱が、怖くて、眩しくて、どうしようもなく好きだった。

 

千景はスケッチブックを閉じた。

 

何も行動しない。

 

連絡先も知らない。

 

会いに行く勇気もない。

 

ただ、その夜は眠れなかった。

 

一方、稲荷崎の宿舎でも、侑は眠れずにいた。

 

布団に横になっても、目が冴えている。隣では誰かが寝返りを打ち、廊下からは自販機の低い機械音が聞こえた。部屋には汗の抜け切らないジャージと、湿ったタオルの匂いがこもっている。

 

侑は天井を睨んだ。

 

今日の千景が頭から離れなかった。

 

壁際に追い詰められていた姿。

 

自分を見た時の、ほっとしたような、困ったような顔。

 

逃げた背中。

 

何も言われなかった。

 

責められもしなかった。

 

ありがとうとも言われなかった。

 

それなのに、少しだけ許されたような気がした。

 

そんな都合のいい感覚が腹立たしい。

 

「寝られへんの?」

 

治の声がした。

 

侑は返事をしない。

 

「さっきから寝返りうるさいねん」

 

「黙れ」

 

「青砥さんのこと?」

 

侑は布団の中で固まった。

 

治はため息をつく。

 

「わかりやすすぎるやろ」

 

「ちゃう」

 

「何がちゃうん」

 

「俺は別に……」

 

言葉が続かない。

 

好きなのか。

 

会いたいのか。

 

謝りたいのか。

 

許されたいのか。

 

どれも違う気がして、どれも合っている気もする。

 

「俺、悪くないやろ」

 

またその言葉が出た。

 

治はしばらく黙っていた。

 

それから、低く言った。

 

「悪い悪くないだけで済まんこともあるやろ」

 

侑は歯を食いしばった。

 

「ほな、どうせえ言うねん」

 

「知らん。けど、お前がそんだけ気にしとる時点で、もう答え出とるんちゃう」

 

「出てへん」

 

「出しとうないだけや」

 

侑は布団を頭までかぶった。

 

治はそれ以上何も言わなかった。

 

翌朝、治は三年生たちに雑談のように話した。

 

「ツム、昨日からずっとあんな感じですわ」

 

北信介は静かに茶を飲んでいた。

 

「バレーには出しとらんのやろ」

 

「出してへんです。そこだけは腹立つくらいちゃんとしてます」

 

「なら今はええ」

 

尾白アランが苦笑する。

 

「侑にもそういうことあるんやなあ」

 

角名倫太郎はスマホをいじりながら言った。

 

「動画撮っとけばよかった。レアすぎ」

 

治は呆れた顔をする。

 

「笑い事ちゃいますよ。あいつ、青砥さん絡むとほんま面倒くさいんで」

 

北は湯呑みを置いた。

 

「ファンに厳しいんも、その子のことがあったからか」

 

「たぶん。本人は認めへんけど」

 

アランが腕を組む。

 

「脈は?」

 

治は即答した。

 

「なさそうです」

 

角名が少し笑った。

 

「頑張れ、宮」

 

「適当すぎません?」

 

「でもバレーに影響出てないなら、今のところ面白いだけだし」

 

治は頭を抱えた。

 

「ほんま他人事やな」

 

北は穏やかに言った。

 

「侑が自分で気づくしかないやろ。人に言われてわかるやつやない」

 

その頃、侑は一人で体育館の外にいた。

 

ボールを手に、まだ開いていないコートの前で立ち尽くしている。

 

朝の空気は少し冷たい。

 

コンクリートの匂い。

 

遠くの朝食会場から漂う味噌汁の匂い。

 

侑はボールを指先で回しながら、昨日の千景を思い出していた。

 

逃げた背中。

 

でも、嫌悪だけではなかった顔。

 

自分を見て、ほんの一瞬だけ緩んだ目。

 

「あー……くそ」

 

侑はボールを強く抱えた。

 

会いに行く気はない。

 

話しかける気もない。

 

また拒絶されたら、今度こそバレーに出るかもしれない。

 

そんな予感があった。

 

だから侑は、全部をバレーに押し込めた。

 

千景がまだ絵を描いていること。

 

自分を描いているかもしれないこと。

 

もう描いていないかもしれないこと。

 

誰か別の選手を見ているかもしれないこと。

 

それら全部を、トスに変える。

 

サーブに変える。

 

勝ちに変える。

 

そうすれば、少なくとも間違えない。

 

その日から宮侑は、音駒を見つけるたびに一瞬だけ目をやるようになった。

 

千景もまた、稲荷崎を見つけるたびにスケッチブックを開くようになった。

 

二人は話さない。

 

近づかない。

 

けれど、互いの存在だけが、試合会場の熱気の中で妙に鮮明だった。

 

そして季節は進む。

 

夏の終わりを越え、秋を抜け、冬へ。

 

春高が近づく頃には、千景のスケッチブックの中の金色の線は、もう秘密と呼ぶには増えすぎていた。

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