絵とバレーボール。この関係に名前はない。 作:an-ryuka
インターハイが終わってからも、宮侑は音駒を探す癖が抜けなかった。
別に探しているわけではない。
そう自分には言い聞かせていた。
会場の通路を歩いている時、赤いジャージが視界の端に入る。黒い猫の横断幕が見える。人混みの奥で、音駒の部員らしき背中が揺れる。
そのたびに、目が勝手に動く。
青砥千景がいるかどうかを、探してしまう。
「ツム」
隣を歩く治が、呆れた声を出した。
「何」
「また見とる」
「見てへん」
「目ぇだけ音駒追いかけとる。怖いで」
「黙れや」
「そんなんやから気持ち悪がられるんちゃう」
侑は治を睨んだ。
治は肩をすくめるだけだった。
その日は、大会最終日の片づけと各校の撤収が重なって、会場の廊下はやたらと混んでいた。汗の残ったジャージ、湿ったタオル、制汗剤の甘い匂い、売店の焼きそばのソース。負けた悔しさと、終わった安堵が同じ空気の中で混ざっている。
侑はスポーツバッグを肩にかけ、人の流れに沿って歩いた。
本当なら、もう帰るだけだった。
バレーは終わった。
今回の大会でやるべきことは全部やった。
だから余計なものを見る必要なんてない。
そう思った瞬間、視界の奥に黒い髪が見えた。
千景だった。
彼女は通路の端、非常口に近い壁際に立っていた。音駒のジャージを羽織り、スケッチブックを胸に抱えている。周囲には、同じ学校の部員はいない。
代わりに、知らない女子が三人、千景を囲むように立っていた。
侑の足が止まった。
「ツム?」
治の声が遠くなる。
女子たちの雰囲気は、稲荷崎で見たものほど刺々しくはなかった。笑顔もある。声も柔らかい。けれど、千景の肩は硬かった。
侑には、それだけで十分だった。
「ねえ、音駒のマネージャーさんですよね?」
「黒尾さんと仲いいんですか?」
「付き合ってる人とか、いるんですか?」
「もしかして、あなたじゃないですよね?」
問い詰めるほどではない。
けれど逃げ道を塞ぐように、じわじわと近づいてくる。
千景はなるべく穏やかに対応しようとしていた。
「違います」
「ただの部員とマネージャーです」
「私は絵を描いているだけなので」
声はいつも通り淡々としている。
けれど、指がスケッチブックの角を強く握っていた。
黒尾のファン。
そう理解した瞬間、千景の喉が狭くなった。
別に、この子たちは何もしていない。
紙を破ったわけでもない。
赤いペンで線を潰したわけでもない。
それでも、似ていた。
誰かを好きな気持ちを、他人へぶつける目。
自分の不安を、相手に確認させようとする声。
千景は一歩下がる。
背中が壁に当たった。
「本当に違うんです」
「でも、黒尾さんよく話しかけてますよね?」
「マネージャーさんって、やっぱり近いじゃないですか」
「嫌とかじゃなくて、確認したいだけで」
確認。
その言葉が嫌だった。
何を確認したいのか。
誰に許されたいのか。
千景は息を吸う。
大丈夫。
ここは稲荷崎ではない。
スケッチブックは破れていない。
音駒の人たちが、きっとそのうち戻ってくる。
そう思った時だった。
「おい」
廊下に、低い声が落ちた。
女子たちが振り向く。
千景も顔を上げた。
宮侑が立っていた。
白と赤のジャージ。明るい髪。鋭い目。眉間には深く皺が寄り、口元は怒りを噛み殺すように固い。
千景の胸が、どくんと鳴った。
侑は千景ではなく、女子たちを見ていた。
「何しとん」
「え……」
「嫌がっとるやろ」
声が、通路のざわめきを切った。
女子たちが怯えたように身を引く。
「い、嫌がらせとかじゃなくて」
「確認してただけで」
「確認?」
侑の目がさらに細くなる。
「本人が違う言うてんのに、何をまだ確認すんねん。逃げ道塞いで、寄ってたかって、そんなん質問ちゃうやろ」
周囲の人間が振り返り始めた。
治が少し離れた場所で頭を抱えている。
千景は動けなかった。
昔と同じだった。
体育館前で、勝手に写真を撮ろうとした女子たちへ怒鳴った時と同じ。侑は自分の人気を喜ぶ顔をしない。バレーの邪魔になるものや、誰かを追い詰めるものに、容赦なく怒る。
その怒り方を、千景は知っている。
紙に描いた。
破られた。
それでもまだ、覚えている。
「す、すみません」
女子の一人が小さく言った。
「行こ」
三人は足早に去っていく。
通路には気まずい沈黙が残った。
侑はまだ肩で息をしていた。怒りの熱が抜け切っていないのがわかる。けれど、女子たちが見えなくなると、彼の視線はゆっくり千景へ戻った。
二人の間に、数歩分の距離があった。
近い。
近すぎる。
それなのに、あまりにも遠い。
千景はスケッチブックを抱え直した。
「……」
侑は何か言いかけた。
けれど、言葉が出てこないようだった。
一生、話しかけないで。
その言葉が、二人の間にまだ落ちている。
千景も何も言えなかった。
助けてくれてありがとう。
あの時は八つ当たりしてごめん。
絵を破ったのがツムじゃないことは、ずっとわかっていた。
本当は、また描いていた。
全部、言葉にすればよかった。
けれど喉の奥で固まって、どれも声にならなかった。
侑は、少しだけ唇を動かした。
「……怪我、ないんか」
千景は頷いた。
「ない」
それだけ。
侑の顔が、ほんの少しだけ緩む。
その表情を見た瞬間、千景は逃げた。
「青砥」
侑が名前を呼んだ。
千景は振り返らなかった。
足早に通路を抜け、階段を降り、人の少ない廊下へ出る。スケッチブックを抱えた腕に力が入る。息が浅い。胸の奥が熱くて、痛い。
逃げた。
また逃げた。
自分でそう思いながらも、足は止まらなかった。
音駒の控え場所に戻ると、研磨が壁にもたれてゲーム機を持っていた。
彼は千景を見て、画面を止めた。
「大丈夫?」
「うん」
「顔、白い」
「たぶん大丈夫」
研磨は少し黙った。
「誰かに何かされた?」
「黒尾さんのファンに、少し聞かれただけ」
「黒尾呼ぶ?」
「もう終わった」
「そっか」
研磨はそれ以上追及しなかった。
それがありがたくて、千景は逆に苦しくなった。
彼女は荷物の隅に座り込み、スケッチブックを開いた。
描かないと、息ができない。
鉛筆を握る。
さっきの侑を描く。
怒鳴る顔。
眉間の皺。
通路の蛍光灯を受けた髪。
女子たちの前に割って入った背中。
自分を見た時だけ、少し声が柔らかくなったところ。
怪我、ないんか。
その一言まで、線にしたかった。
しゃっ、しゃっ、しゃっ。
鉛筆が走る。
周囲では音駒の部員たちが荷物をまとめている。
「おい、誰か俺のタオル知らねえ?」
「それお前の首にかかってる」
「リエーフ、ボトル洗った?」
「今からです!」
「今からって言った時点で忘れてたな」
そんな声が遠くで流れている。
千景は描いた。
何枚も。
侑の背中。
侑の手。
怒り。
優しさ。
気まずさ。
あの日の体育館前と、今日の通路が重なって、線が震える。
それでも止めなかった。
夜、宿舎の部屋で、千景はまた描いた。
消灯時間を過ぎても、机の小さなライトだけをつけていた。窓の外には東京の夜があり、遠くで車の音がする。部屋には畳の匂いと、洗いたてのジャージの洗剤の匂いが薄く残っていた。
スケッチブックの上に、侑がいた。
今日の侑。
昔の侑。
怒っている侑。
バレーをしている侑。
誰かを守る侑。
千景は鉛筆を置いた。
胸の中にあるものを、ようやく見た。
「あ」
小さな声が漏れた。
これは。
これが、好きというものか。
思ったより静かだった。
もっと劇的に、世界が変わるのかと思っていた。けれど実際は、ずっとそこにあった色に、やっと名前がついただけだった。
宮侑を描きたい。
宮侑のバレーを見たい。
宮侑に、自分の絵を見てほしい。
宮侑に許されたい。
宮侑のそばにある熱が、怖くて、眩しくて、どうしようもなく好きだった。
千景はスケッチブックを閉じた。
何も行動しない。
連絡先も知らない。
会いに行く勇気もない。
ただ、その夜は眠れなかった。
一方、稲荷崎の宿舎でも、侑は眠れずにいた。
布団に横になっても、目が冴えている。隣では誰かが寝返りを打ち、廊下からは自販機の低い機械音が聞こえた。部屋には汗の抜け切らないジャージと、湿ったタオルの匂いがこもっている。
侑は天井を睨んだ。
今日の千景が頭から離れなかった。
壁際に追い詰められていた姿。
自分を見た時の、ほっとしたような、困ったような顔。
逃げた背中。
何も言われなかった。
責められもしなかった。
ありがとうとも言われなかった。
それなのに、少しだけ許されたような気がした。
そんな都合のいい感覚が腹立たしい。
「寝られへんの?」
治の声がした。
侑は返事をしない。
「さっきから寝返りうるさいねん」
「黙れ」
「青砥さんのこと?」
侑は布団の中で固まった。
治はため息をつく。
「わかりやすすぎるやろ」
「ちゃう」
「何がちゃうん」
「俺は別に……」
言葉が続かない。
好きなのか。
会いたいのか。
謝りたいのか。
許されたいのか。
どれも違う気がして、どれも合っている気もする。
「俺、悪くないやろ」
またその言葉が出た。
治はしばらく黙っていた。
それから、低く言った。
「悪い悪くないだけで済まんこともあるやろ」
侑は歯を食いしばった。
「ほな、どうせえ言うねん」
「知らん。けど、お前がそんだけ気にしとる時点で、もう答え出とるんちゃう」
「出てへん」
「出しとうないだけや」
侑は布団を頭までかぶった。
治はそれ以上何も言わなかった。
翌朝、治は三年生たちに雑談のように話した。
「ツム、昨日からずっとあんな感じですわ」
北信介は静かに茶を飲んでいた。
「バレーには出しとらんのやろ」
「出してへんです。そこだけは腹立つくらいちゃんとしてます」
「なら今はええ」
尾白アランが苦笑する。
「侑にもそういうことあるんやなあ」
角名倫太郎はスマホをいじりながら言った。
「動画撮っとけばよかった。レアすぎ」
治は呆れた顔をする。
「笑い事ちゃいますよ。あいつ、青砥さん絡むとほんま面倒くさいんで」
北は湯呑みを置いた。
「ファンに厳しいんも、その子のことがあったからか」
「たぶん。本人は認めへんけど」
アランが腕を組む。
「脈は?」
治は即答した。
「なさそうです」
角名が少し笑った。
「頑張れ、宮」
「適当すぎません?」
「でもバレーに影響出てないなら、今のところ面白いだけだし」
治は頭を抱えた。
「ほんま他人事やな」
北は穏やかに言った。
「侑が自分で気づくしかないやろ。人に言われてわかるやつやない」
その頃、侑は一人で体育館の外にいた。
ボールを手に、まだ開いていないコートの前で立ち尽くしている。
朝の空気は少し冷たい。
コンクリートの匂い。
遠くの朝食会場から漂う味噌汁の匂い。
侑はボールを指先で回しながら、昨日の千景を思い出していた。
逃げた背中。
でも、嫌悪だけではなかった顔。
自分を見て、ほんの一瞬だけ緩んだ目。
「あー……くそ」
侑はボールを強く抱えた。
会いに行く気はない。
話しかける気もない。
また拒絶されたら、今度こそバレーに出るかもしれない。
そんな予感があった。
だから侑は、全部をバレーに押し込めた。
千景がまだ絵を描いていること。
自分を描いているかもしれないこと。
もう描いていないかもしれないこと。
誰か別の選手を見ているかもしれないこと。
それら全部を、トスに変える。
サーブに変える。
勝ちに変える。
そうすれば、少なくとも間違えない。
その日から宮侑は、音駒を見つけるたびに一瞬だけ目をやるようになった。
千景もまた、稲荷崎を見つけるたびにスケッチブックを開くようになった。
二人は話さない。
近づかない。
けれど、互いの存在だけが、試合会場の熱気の中で妙に鮮明だった。
そして季節は進む。
夏の終わりを越え、秋を抜け、冬へ。
春高が近づく頃には、千景のスケッチブックの中の金色の線は、もう秘密と呼ぶには増えすぎていた。