絵とバレーボール。この関係に名前はない。   作:an-ryuka

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6.

春高の体育館は、冬なのに熱かった。

 

観客席から降ってくる声。

 

床を叩くシューズの音。

 

笛。

 

ボール。

 

汗。

 

空調の乾いた風に混じって、テーピングの薬品じみた匂いと、誰かの握り飯の海苔の匂いが漂っている。

 

青砥千景は音駒のベンチ横に立っていた。

 

赤いジャージの袖を少しまくり、ドリンクボトルを並べる。タオルを畳む。救急袋の中身を確認する。指先には、いつものように鉛筆の黒が薄く残っていた。

 

今日は描く日ではない。

 

そう決めていた。

 

音駒の試合では、見落とさない。

 

描くために見るのではなく、音駒の一員として見る。

 

けれど、烏野との試合が始まってすぐ、千景は自分の中で線が暴れ出すのを感じた。

 

猫と烏。

 

落とさない音駒。

 

飛び続ける烏野。

 

繋ぐ線と、突き破る線。

 

特に、烏野の小さな背番号十番が跳ぶたびに、会場の空気が一瞬だけ裏返る。高さではない。勢いでもない。もっと単純な、目を奪われる生命力。黒尾が笑い、研磨が目を細め、夜久が床を蹴る。

 

音駒は繋いだ。

 

何度も。

 

何度も。

 

最後の最後まで、ボールを落とさなかった。

 

それでも、終わりは来た。

 

笛が鳴る。

 

歓声が爆ぜる。

 

スコアが決まる。

 

音駒は、烏野に敗れた。

 

千景はしばらく動けなかった。

 

負けたという事実よりも、終わったということの方が重かった。

 

コートの中で、黒尾が息を吐いている。夜久は悔しそうに唇を噛み、山本は泣きそうな顔をしている。リエーフは何か言いたげに口を開けたまま固まっていた。

 

研磨だけが、静かだった。

 

けれど千景にはわかった。

 

研磨の肩が、ほんの少しだけ落ちている。

 

彼も、終わりを感じている。

 

千景はタオルを持って近づいた。

 

手渡しはしない。

 

いつも通り、ベンチの端に置く。

 

「タオル、ここ」

 

黒尾がそれを見て、少し笑った。

 

「最後まで青砥だな」

 

「最後じゃない」

 

千景は言った。

 

黒尾が目を上げる。

 

「絵には残る」

 

その言葉に、黒尾は一瞬だけ黙った。

 

それから、汗で濡れた前髪をかき上げて笑った。

 

「それ、結構救われるわ」

 

千景は何も返せなかった。

 

音駒の選手たちは整列し、頭を下げ、コートを出た。

 

その後の千景は、淡々と動いた。

 

ボトルを回収する。

 

タオルを袋に入れる。

 

荷物をまとめる。

 

誰かが泣いていても、誰かが笑っていても、彼女は必要なものを必要な場所へ戻した。

 

そうしないと、指がスケッチブックを探してしまう。

 

描きたくてたまらない。

 

音駒の最後のボールを。

 

黒尾の笑った顔を。

 

研磨がほんの少しだけ悔しそうに目を伏せた瞬間を。

 

全部。

 

控え室に戻ってから、ようやく千景はスケッチブックを開いた。

 

しゃっ。

 

線が走る。

 

誰も止めなかった。

 

山本は鼻をすすりながら、それを見ていた。

 

「青砥さん」

 

「何」

 

「俺、かっこよかったっすか」

 

千景は描く手を止めずに答えた。

 

「うん」

 

山本の顔がくしゃりと歪む。

 

「なら、よかったっす」

 

黒尾は壁にもたれ、そんな二人を見ていた。

 

「俺は?」

 

「描いてる」

 

「お、主将特権」

 

「違う。最後の顔がよかったから」

 

「言い方が画家なんだよな」

 

研磨は床に座り、ゲーム機を膝の上に置いたまま千景を見ていた。

 

「青砥」

 

「何」

 

「あとで、それ見せて」

 

「見せられるところまでなら」

 

「うん」

 

研磨は短く頷いた。

 

その目はいつも通り眠そうで、けれど少しだけ赤かった。

 

春高の別のコートでは、稲荷崎も烏野に敗れていた。

 

宮侑はコートを出たあと、しばらく何も言わなかった。

 

悔しさはある。

 

腹立たしさもある。

 

けれど、それ以上に、烏野というチームにぶつけられた熱がまだ体の中を走っていた。あの小さい十番。あのセッター。あのしつこさ。あの馬鹿みたいな勢い。

 

負けた。

 

その事実が、喉の奥に苦く残る。

 

「ツム」

 

治が隣に立った。

 

侑はタオルで顔を拭いた。

 

「何」

 

「負けたな」

 

「見たらわかるわ」

 

「せやな」

 

治はそれ以上言わなかった。

 

侑は壁際に貼られた大会ポスターを見た。

 

あの金色の線。

 

青砥千景の名前。

 

春高の会場にも、彼女の絵はあった。

 

インターハイの時と同じではない。けれど、バレーを描く線の癖は変わらない。強さだけではなく、強さに至るまでの呼吸を描く癖。

 

侑は、ふいに音駒のことを思い出した。

 

音駒も、烏野に負けたらしい。

 

青砥は、今どうしているのだろう。

 

泣いているのか。

 

描いているのか。

 

たぶん、描いている。

 

その想像があまりにも自然で、侑は小さく息を吐いた。

 

「何笑っとん」

 

治が言う。

 

「笑ってへん」

 

「口元」

 

「うるさい」

 

治はじっと侑を見た。

 

「青砥さん?」

 

侑は返事をしなかった。

 

それが答えだった。

 

春高が終わったあと、話は妙なところから転がった。

 

負けた者同士。

 

烏野に敗れた者同士。

 

稲荷崎と音駒で練習試合をしようという話が出たらしい。

 

誰が言い出したのか、千景は知らない。

 

黒尾たち三年が抜け、主将も代わった後の音駒に、稲荷崎が来る。

 

その連絡を聞いた時、千景は美術室で筆を洗っていた。

 

水道の水が白く濁り、赤い絵の具が排水口へ流れていく。

 

「青砥さん、聞いた?」

 

美術部の同級生が扉から顔を出す。

 

「何を」

 

「バレー部、関西の強豪と練習試合するんだって。稲荷崎? だっけ」

 

筆を持つ指が止まった。

 

「……そう」

 

「知ってる?」

 

「前の学校」

 

「えっ、そうなの?」

 

千景は筆を洗い直した。

 

「うん」

 

それ以上は言わなかった。

 

同級生も、深く聞かなかった。

 

音駒の人たちは、千景が元稲荷崎生だとは知らない。

 

前の学校が兵庫だったことは知っている。けれど、稲荷崎だとは言っていなかった。言う理由もなかった。聞かれなかったから、答えなかった。

 

体育館に行くと、研磨だけが先にいた。

 

もう三年は引退しているはずなのに、彼はなぜか体育館の隅でスマホを見ていた。

 

「聞いた?」

 

千景は言った。

 

「稲荷崎?」

 

「うん」

 

「聞いた」

 

研磨は顔を上げる。

 

「大丈夫?」

 

千景は少し考えた。

 

「わからない」

 

「そっか」

 

「でも、描きたいとは思う」

 

研磨は小さく笑った。

 

「青砥らしい」

 

「そう?」

 

「うん」

 

千景は体育館の床を見た。

 

ワックスの匂い。

 

少し古い木の匂い。

 

ボールかごのゴムの匂い。

 

ここに稲荷崎が来る。

 

宮侑が来る。

 

そう思うと、胸の奥がざわついた。

 

会いたいのか、逃げたいのか、謝りたいのか、描きたいのか。

 

全部が同じ場所で絡まっている。

 

練習試合の日。

 

稲荷崎は昼前に音駒へ着いた。

 

校門の前にバスが停まり、白と赤のジャージが次々と降りてくる。東京の冬の空気に、関西の声が混じった。

 

「寒っ」

 

「東京も寒いやんけ」

 

「腹減った」

 

「試合前やぞ」

 

宮侑はバスを降り、音駒の校舎を見上げた。

 

ここに千景がいる。

 

そう思うだけで、妙に落ち着かなかった。

 

別に会いに来たわけではない。

 

練習試合だ。

 

バレーをしに来た。

 

それ以上でも以下でもない。

 

そう自分に言い聞かせながら、体育館へ向かう。

 

けれど扉を開けた瞬間、侑の視線は勝手に彼女を探した。

 

いた。

 

壁際。

 

音駒のジャージ。

 

スケッチブック。

 

青砥千景は、膝の上に紙を広げて座っていた。

 

顔を上げる。

 

目が合う。

 

一秒。

 

二秒。

 

千景は先に視線を逸らした。

 

侑も、すぐそっぽを向いた。

 

治はそれを見て、心の底から呆れた。

 

「小学生か」

 

「何が」

 

「何でもない」

 

音駒側の新主将が挨拶に来る。

 

稲荷崎側も主将が応じる。

 

黒尾はいない。

 

三年たちはもう主役ではない。

 

それでも体育館の端には、見学に来た研磨の姿があった。黒尾は来ていない。千景は少しだけほっとしていた。黒尾がいると、また余計な視線を呼ぶ可能性があるから。

 

稲荷崎の面々にとって、音駒のマネージャーが侑の「例の人」だという認識は、すでに共有されていた。

 

本人だけが認めていない。

 

「ほんまにおるやん」

 

角名が小さく呟く。

 

「撮るなよ」

 

治が先に釘を刺す。

 

「撮らないって。面白いけど」

 

「面白がるな」

 

侑は二人を睨んだ。

 

「何の話しとんねん」

 

治と角名は同時に黙った。

 

それが余計に腹立たしかった。

 

練習試合が始まる。

 

音駒は代が変わっても音駒だった。

 

拾う。

 

繋ぐ。

 

粘る。

 

稲荷崎は稲荷崎だった。

 

攻める。

 

揺さぶる。

 

叩き込む。

 

侑のトスは、やはり美しかった。

 

千景はマネージャー業をしながら、隙を見て描いた。

 

ドリンクを並べる。

 

タオルを置く。

 

ボールを拾う。

 

鉛筆を走らせる。

 

侑は気づいていた。

 

千景が描いている。

 

自分を描いているかもしれない。

 

そう思うだけで、指先の感覚が少し冴える。

 

トスが走る。

 

治が打つ。

 

角名が笑う。

 

音駒のレシーブが食らいつく。

 

「しつこいなあ、ほんま」

 

侑が笑った。

 

それを、千景は描いた。

 

試合が終わる頃には、体育館の空気は汗と熱で重くなっていた。

 

互いに挨拶をし、片づけが始まる。

 

音駒の一年がボールを数え、稲荷崎の部員がネットを外す。関西弁と東京の声が混ざる中、千景は壁際でスケッチブックを閉じた。

 

結局、話していない。

 

侑も近づいてこなかった。

 

それでいいはずだった。

 

けれど、胸の奥に小さな棘が残った。

 

片づけが終わり、そろそろ解散という空気になった時だった。

 

治が動いた。

 

侑の肩を掴み、ぐい、と押す。

 

「行け」

 

「は?」

 

「うじうじするくらいなら告白でもして玉砕せえ」

 

体育館の空気が、一瞬で止まった。

 

音駒の数人が振り返る。

 

稲荷崎の数人も、あ、言うた、という顔をした。

 

侑は耳まで赤くなった。

 

「お前、何言うとんねん!」

 

「事実やろ」

 

「ちゃうわ!」

 

音駒の一年が、ぽかんとして言った。

 

「一目惚れですか?」

 

侑の顔がさらに赤くなる。

 

「ちゃう言うとるやろ!」

 

別の音駒部員が千景の方をちらりと見た。

 

「あいつ、絵にしか興味ないから難しいと思いますよ」

 

「聞こえてる」

 

千景が静かに言った。

 

音駒部員は「すみません」と小さくなった。

 

侑は完全に固まっていた。

 

告白。

 

玉砕。

 

好き。

 

言葉だけが頭の中で暴れ回る。

 

はあ?

 

何言うとるん?

 

まじで?

 

俺が?

 

青砥を?

 

その瞬間、今まで見ないふりをしていたものが、一気に形を持った。

 

前の席の背中を見ていたこと。

 

スケッチブックを覗きたかったこと。

 

描かれると嬉しかったこと。

 

いなくなって腹が立ったこと。

 

ポスターの名前を見て息が止まったこと。

 

音駒を探してしまうこと。

 

他の誰かを描いているかもしれないと思うと、胸の奥がざわつくこと。

 

全部、同じ場所へ落ちた。

 

好き。

 

侑は真っ赤な顔で、声も出せずに立っていた。

 

治はその顔を見て、逆に少し引いた。

 

「今、自覚したんか」

 

「黙れ」

 

声が裏返っていた。

 

体育館の端で、研磨がその様子を見ていた。

 

彼は千景を見た。

 

千景はスケッチブックを抱えたまま、微妙な顔をしている。逃げたい。でも逃げたらまた同じになる。そんな顔。

 

研磨はゆっくり近づいた。

 

「青砥」

 

「何」

 

「何か、あいつに言うことあるんじゃない?」

 

千景の指が、スケッチブックの角を押さえた。

 

研磨の視線は静かだった。

 

責めていない。

 

急かしてもいない。

 

ただ、知っている目だった。

 

千景が侑を描いていたこと。

 

休憩中、稲荷崎の方を見ていたこと。

 

音駒以外のバレーの中に、ずっと同じ金色の線があったこと。

 

全部、たぶん知っている。

 

千景は小さく息を吸った。

 

許可。

 

宮侑を描く許可は、昔に取った。

 

でもそれは、ずっと前の話だ。

 

破れた紙の前で、彼女は「一生話しかけないで」と言った。

 

インターハイでは、助けてもらったのに逃げた。

 

それでも今日、また描いた。

 

勝手に。

 

何枚も。

 

罪悪感は、ずっと心の隅にあった。

 

千景はスケッチブックを胸に抱き、立ち上がった。

 

足が重い。

 

けれど、進む。

 

なぜか研磨に背中を押されるようにして、侑の前まで連れていかれた。

 

侑はまだ顔が赤い。

 

治は腕を組んでいる。

 

角名は見ていないふりをして見ている。

 

音駒の一年たちは、何が始まるのかと固唾をのんでいる。

 

千景は侑の前に立った。

 

近い。

 

久しぶりに、ちゃんと近い。

 

侑の髪は少し伸びていた。顔つきも大人びた。けれど、目は変わっていない。強くて、わがままで、傷つくことを嫌がる子どもみたいな熱をまだ持っている。

 

千景は視線を上げた。

 

「この前は、庇ってくれてありがとう」

 

侑はぽかんとした。

 

「……この前?」

 

「インターハイのあと。黒尾さんのファンに囲まれてた時」

 

侑は数秒かけて思い出した。

 

「ああ」

 

「あと、逃げてごめん」

 

侑の喉が動いた。

 

何かを言おうとして、言えない。

 

千景はスケッチブックを抱える腕に力を込めた。

 

そして、ずっと言えなかった言葉を置いた。

 

「また描いてもいいですか」

 

体育館が静かになった。

 

侑は、意味がわからないという顔をしていた。

 

お礼を言われたこと。

 

謝られたこと。

 

また描いていいかと聞かれたこと。

 

それらが一度に来て、処理できていない。

 

けれど、一つだけわかった。

 

拒絶されていない。

 

一生話しかけるなと言った彼女が、自分の前に立っている。

 

また描いてもいいかと聞いている。

 

何かが、胸の中でほどけた。

 

侑は視線を逸らし、耳まで赤いまま言った。

 

「……おん」

 

短い返事だった。

 

千景は頷いた。

 

「ありがとう」

 

治が横から小さく肘で侑を突いた。

 

「お前、言うことないんか」

 

侑はぎろりと治を睨む。

 

けれど、千景が帰ろうと一歩下がった瞬間、慌てて口を開いた。

 

「描いたら」

 

千景が止まる。

 

侑は少しだけ声を整えた。

 

「描いたら、また見せてや」

 

千景は瞬きをした。

 

それから、静かに頷く。

 

「わかった」

 

空気が、少しだけ緩む。

 

解散しそうな雰囲気になった。

 

その時、治が焦ったように声を上げた。

 

「いや、どうやって?」

 

侑と千景が、同時に不思議そうな顔をした。

 

治は頭を抱える。

 

「なんで二人ともわからん顔しとんねん」

 

侑が当然のように言いかける。

 

「そんなもん直接――」

 

そこで止まった。

 

同じ高校ではない。

 

前の席でもない。

 

体育館の壁際に行けば会えるわけでもない。

 

侑の顔が固まる。

 

千景も、そこでようやく気づいた。

 

「あ」

 

治は深くため息をついた。

 

「連絡先でも交換したらええんやないか」

 

侑は千景を見る。

 

さっきまでの勢いはどこかへ消え、少しだけ慎重な声になった。

 

「ええか?」

 

千景はスマホを取り出した。

 

「わかった」

 

その瞬間、稲荷崎側から小さくどよめきが起きた。

 

角名がぼそっと言う。

 

「歴史的瞬間」

 

「黙れ」

 

侑が睨む。

 

音駒側では、研磨が静かに画面を見ていた。

 

少しだけ、満足そうだった。

 

連絡先を交換する手順は、二人とも妙にぎこちなかった。

 

近づきすぎないようにする千景。

 

近づきたいのを隠しきれていない侑。

 

スマホの画面に表示された名前を見て、侑は一瞬だけ止まる。

 

青砥千景。

 

昔、前の席にいた名前。

 

消えた名前。

 

ずっと引っかかっていた名前。

 

それが今、自分のスマホの中にある。

 

千景も画面を見た。

 

宮侑。

 

その文字の横に、何もないアイコン。

 

彼女は少しだけ迷って、登録名を変えた。

 

ツム。

 

侑がそれを見て、目を見開いた。

 

「それ」

 

「前に許可取ったから」

 

侑は口元を押さえた。

 

にやけそうになるのを、必死で隠していた。

 

「……せやな」

 

治はその横で、心底疲れた顔をしていた。

 

「なんやねん、こいつら」

 

練習試合の日は、それで終わった。

 

派手な告白もない。

 

抱き合うこともない。

 

好きだという言葉もない。

 

ただ、連絡先が交換された。

 

また描いていいと許された。

 

また見せてほしいと言われた。

 

それだけで、二人には十分すぎた。

 

その夜。

 

千景は家に帰ると、すぐアトリエへ入った。

 

古い木の床。

 

乾いた油絵の具。

 

洗いきれなかった筆の匂い。

 

窓際には、修復した紺色のスケッチブックが布に包まれて置かれている。

 

千景は大きな紙を広げた。

 

今日の侑を描く。

 

鉛筆では足りない。

 

絵の具を出す。

 

金。

 

白。

 

赤。

 

黒。

 

夜から朝にかけて、彼女はほとんど休まず描いた。

 

宮侑の抽象画。

 

本人だとは、知らない人にはわからない。

 

けれど知っている人なら、わかる。

 

強い金色の線。

 

空中でわずかに歪む白。

 

誰かを跳ばせる手。

 

怒りも、照れも、許しも、全部混ぜた色。

 

完成した時、窓の外は薄く明るかった。

 

千景はスマホで写真を撮る。

 

言葉は添えない。

 

ただ、送った。

 

数分後。

 

侑から返事が来た。

 

『おん』

 

それだけだった。

 

千景は画面を見て、少しだけ笑った。

 

侑はその画像を、しばらく見続けた。

 

朝練前のまだ暗い部屋で、布団の中、スマホの光だけが顔を照らしている。

 

自分だ。

 

はっきりとは描かれていない。

 

けれど、間違いなく自分だ。

 

千景が見た宮侑。

 

千景が描いた宮侑。

 

侑は保存した。

 

そして、待ち受けに設定した。

 

治が起きてきて、その画面を見た瞬間、無言で顔をしかめた。

 

「……もう何も言わんわ」

 

侑はスマホを伏せた。

 

「言わんでええ」

 

けれど口元は、隠しきれないほど緩んでいた。

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