絵とバレーボール。この関係に名前はない。 作:an-ryuka
春高の体育館は、冬なのに熱かった。
観客席から降ってくる声。
床を叩くシューズの音。
笛。
ボール。
汗。
空調の乾いた風に混じって、テーピングの薬品じみた匂いと、誰かの握り飯の海苔の匂いが漂っている。
青砥千景は音駒のベンチ横に立っていた。
赤いジャージの袖を少しまくり、ドリンクボトルを並べる。タオルを畳む。救急袋の中身を確認する。指先には、いつものように鉛筆の黒が薄く残っていた。
今日は描く日ではない。
そう決めていた。
音駒の試合では、見落とさない。
描くために見るのではなく、音駒の一員として見る。
けれど、烏野との試合が始まってすぐ、千景は自分の中で線が暴れ出すのを感じた。
猫と烏。
落とさない音駒。
飛び続ける烏野。
繋ぐ線と、突き破る線。
特に、烏野の小さな背番号十番が跳ぶたびに、会場の空気が一瞬だけ裏返る。高さではない。勢いでもない。もっと単純な、目を奪われる生命力。黒尾が笑い、研磨が目を細め、夜久が床を蹴る。
音駒は繋いだ。
何度も。
何度も。
最後の最後まで、ボールを落とさなかった。
それでも、終わりは来た。
笛が鳴る。
歓声が爆ぜる。
スコアが決まる。
音駒は、烏野に敗れた。
千景はしばらく動けなかった。
負けたという事実よりも、終わったということの方が重かった。
コートの中で、黒尾が息を吐いている。夜久は悔しそうに唇を噛み、山本は泣きそうな顔をしている。リエーフは何か言いたげに口を開けたまま固まっていた。
研磨だけが、静かだった。
けれど千景にはわかった。
研磨の肩が、ほんの少しだけ落ちている。
彼も、終わりを感じている。
千景はタオルを持って近づいた。
手渡しはしない。
いつも通り、ベンチの端に置く。
「タオル、ここ」
黒尾がそれを見て、少し笑った。
「最後まで青砥だな」
「最後じゃない」
千景は言った。
黒尾が目を上げる。
「絵には残る」
その言葉に、黒尾は一瞬だけ黙った。
それから、汗で濡れた前髪をかき上げて笑った。
「それ、結構救われるわ」
千景は何も返せなかった。
音駒の選手たちは整列し、頭を下げ、コートを出た。
その後の千景は、淡々と動いた。
ボトルを回収する。
タオルを袋に入れる。
荷物をまとめる。
誰かが泣いていても、誰かが笑っていても、彼女は必要なものを必要な場所へ戻した。
そうしないと、指がスケッチブックを探してしまう。
描きたくてたまらない。
音駒の最後のボールを。
黒尾の笑った顔を。
研磨がほんの少しだけ悔しそうに目を伏せた瞬間を。
全部。
控え室に戻ってから、ようやく千景はスケッチブックを開いた。
しゃっ。
線が走る。
誰も止めなかった。
山本は鼻をすすりながら、それを見ていた。
「青砥さん」
「何」
「俺、かっこよかったっすか」
千景は描く手を止めずに答えた。
「うん」
山本の顔がくしゃりと歪む。
「なら、よかったっす」
黒尾は壁にもたれ、そんな二人を見ていた。
「俺は?」
「描いてる」
「お、主将特権」
「違う。最後の顔がよかったから」
「言い方が画家なんだよな」
研磨は床に座り、ゲーム機を膝の上に置いたまま千景を見ていた。
「青砥」
「何」
「あとで、それ見せて」
「見せられるところまでなら」
「うん」
研磨は短く頷いた。
その目はいつも通り眠そうで、けれど少しだけ赤かった。
春高の別のコートでは、稲荷崎も烏野に敗れていた。
宮侑はコートを出たあと、しばらく何も言わなかった。
悔しさはある。
腹立たしさもある。
けれど、それ以上に、烏野というチームにぶつけられた熱がまだ体の中を走っていた。あの小さい十番。あのセッター。あのしつこさ。あの馬鹿みたいな勢い。
負けた。
その事実が、喉の奥に苦く残る。
「ツム」
治が隣に立った。
侑はタオルで顔を拭いた。
「何」
「負けたな」
「見たらわかるわ」
「せやな」
治はそれ以上言わなかった。
侑は壁際に貼られた大会ポスターを見た。
あの金色の線。
青砥千景の名前。
春高の会場にも、彼女の絵はあった。
インターハイの時と同じではない。けれど、バレーを描く線の癖は変わらない。強さだけではなく、強さに至るまでの呼吸を描く癖。
侑は、ふいに音駒のことを思い出した。
音駒も、烏野に負けたらしい。
青砥は、今どうしているのだろう。
泣いているのか。
描いているのか。
たぶん、描いている。
その想像があまりにも自然で、侑は小さく息を吐いた。
「何笑っとん」
治が言う。
「笑ってへん」
「口元」
「うるさい」
治はじっと侑を見た。
「青砥さん?」
侑は返事をしなかった。
それが答えだった。
春高が終わったあと、話は妙なところから転がった。
負けた者同士。
烏野に敗れた者同士。
稲荷崎と音駒で練習試合をしようという話が出たらしい。
誰が言い出したのか、千景は知らない。
黒尾たち三年が抜け、主将も代わった後の音駒に、稲荷崎が来る。
その連絡を聞いた時、千景は美術室で筆を洗っていた。
水道の水が白く濁り、赤い絵の具が排水口へ流れていく。
「青砥さん、聞いた?」
美術部の同級生が扉から顔を出す。
「何を」
「バレー部、関西の強豪と練習試合するんだって。稲荷崎? だっけ」
筆を持つ指が止まった。
「……そう」
「知ってる?」
「前の学校」
「えっ、そうなの?」
千景は筆を洗い直した。
「うん」
それ以上は言わなかった。
同級生も、深く聞かなかった。
音駒の人たちは、千景が元稲荷崎生だとは知らない。
前の学校が兵庫だったことは知っている。けれど、稲荷崎だとは言っていなかった。言う理由もなかった。聞かれなかったから、答えなかった。
体育館に行くと、研磨だけが先にいた。
もう三年は引退しているはずなのに、彼はなぜか体育館の隅でスマホを見ていた。
「聞いた?」
千景は言った。
「稲荷崎?」
「うん」
「聞いた」
研磨は顔を上げる。
「大丈夫?」
千景は少し考えた。
「わからない」
「そっか」
「でも、描きたいとは思う」
研磨は小さく笑った。
「青砥らしい」
「そう?」
「うん」
千景は体育館の床を見た。
ワックスの匂い。
少し古い木の匂い。
ボールかごのゴムの匂い。
ここに稲荷崎が来る。
宮侑が来る。
そう思うと、胸の奥がざわついた。
会いたいのか、逃げたいのか、謝りたいのか、描きたいのか。
全部が同じ場所で絡まっている。
練習試合の日。
稲荷崎は昼前に音駒へ着いた。
校門の前にバスが停まり、白と赤のジャージが次々と降りてくる。東京の冬の空気に、関西の声が混じった。
「寒っ」
「東京も寒いやんけ」
「腹減った」
「試合前やぞ」
宮侑はバスを降り、音駒の校舎を見上げた。
ここに千景がいる。
そう思うだけで、妙に落ち着かなかった。
別に会いに来たわけではない。
練習試合だ。
バレーをしに来た。
それ以上でも以下でもない。
そう自分に言い聞かせながら、体育館へ向かう。
けれど扉を開けた瞬間、侑の視線は勝手に彼女を探した。
いた。
壁際。
音駒のジャージ。
スケッチブック。
青砥千景は、膝の上に紙を広げて座っていた。
顔を上げる。
目が合う。
一秒。
二秒。
千景は先に視線を逸らした。
侑も、すぐそっぽを向いた。
治はそれを見て、心の底から呆れた。
「小学生か」
「何が」
「何でもない」
音駒側の新主将が挨拶に来る。
稲荷崎側も主将が応じる。
黒尾はいない。
三年たちはもう主役ではない。
それでも体育館の端には、見学に来た研磨の姿があった。黒尾は来ていない。千景は少しだけほっとしていた。黒尾がいると、また余計な視線を呼ぶ可能性があるから。
稲荷崎の面々にとって、音駒のマネージャーが侑の「例の人」だという認識は、すでに共有されていた。
本人だけが認めていない。
「ほんまにおるやん」
角名が小さく呟く。
「撮るなよ」
治が先に釘を刺す。
「撮らないって。面白いけど」
「面白がるな」
侑は二人を睨んだ。
「何の話しとんねん」
治と角名は同時に黙った。
それが余計に腹立たしかった。
練習試合が始まる。
音駒は代が変わっても音駒だった。
拾う。
繋ぐ。
粘る。
稲荷崎は稲荷崎だった。
攻める。
揺さぶる。
叩き込む。
侑のトスは、やはり美しかった。
千景はマネージャー業をしながら、隙を見て描いた。
ドリンクを並べる。
タオルを置く。
ボールを拾う。
鉛筆を走らせる。
侑は気づいていた。
千景が描いている。
自分を描いているかもしれない。
そう思うだけで、指先の感覚が少し冴える。
トスが走る。
治が打つ。
角名が笑う。
音駒のレシーブが食らいつく。
「しつこいなあ、ほんま」
侑が笑った。
それを、千景は描いた。
試合が終わる頃には、体育館の空気は汗と熱で重くなっていた。
互いに挨拶をし、片づけが始まる。
音駒の一年がボールを数え、稲荷崎の部員がネットを外す。関西弁と東京の声が混ざる中、千景は壁際でスケッチブックを閉じた。
結局、話していない。
侑も近づいてこなかった。
それでいいはずだった。
けれど、胸の奥に小さな棘が残った。
片づけが終わり、そろそろ解散という空気になった時だった。
治が動いた。
侑の肩を掴み、ぐい、と押す。
「行け」
「は?」
「うじうじするくらいなら告白でもして玉砕せえ」
体育館の空気が、一瞬で止まった。
音駒の数人が振り返る。
稲荷崎の数人も、あ、言うた、という顔をした。
侑は耳まで赤くなった。
「お前、何言うとんねん!」
「事実やろ」
「ちゃうわ!」
音駒の一年が、ぽかんとして言った。
「一目惚れですか?」
侑の顔がさらに赤くなる。
「ちゃう言うとるやろ!」
別の音駒部員が千景の方をちらりと見た。
「あいつ、絵にしか興味ないから難しいと思いますよ」
「聞こえてる」
千景が静かに言った。
音駒部員は「すみません」と小さくなった。
侑は完全に固まっていた。
告白。
玉砕。
好き。
言葉だけが頭の中で暴れ回る。
はあ?
何言うとるん?
まじで?
俺が?
青砥を?
その瞬間、今まで見ないふりをしていたものが、一気に形を持った。
前の席の背中を見ていたこと。
スケッチブックを覗きたかったこと。
描かれると嬉しかったこと。
いなくなって腹が立ったこと。
ポスターの名前を見て息が止まったこと。
音駒を探してしまうこと。
他の誰かを描いているかもしれないと思うと、胸の奥がざわつくこと。
全部、同じ場所へ落ちた。
好き。
侑は真っ赤な顔で、声も出せずに立っていた。
治はその顔を見て、逆に少し引いた。
「今、自覚したんか」
「黙れ」
声が裏返っていた。
体育館の端で、研磨がその様子を見ていた。
彼は千景を見た。
千景はスケッチブックを抱えたまま、微妙な顔をしている。逃げたい。でも逃げたらまた同じになる。そんな顔。
研磨はゆっくり近づいた。
「青砥」
「何」
「何か、あいつに言うことあるんじゃない?」
千景の指が、スケッチブックの角を押さえた。
研磨の視線は静かだった。
責めていない。
急かしてもいない。
ただ、知っている目だった。
千景が侑を描いていたこと。
休憩中、稲荷崎の方を見ていたこと。
音駒以外のバレーの中に、ずっと同じ金色の線があったこと。
全部、たぶん知っている。
千景は小さく息を吸った。
許可。
宮侑を描く許可は、昔に取った。
でもそれは、ずっと前の話だ。
破れた紙の前で、彼女は「一生話しかけないで」と言った。
インターハイでは、助けてもらったのに逃げた。
それでも今日、また描いた。
勝手に。
何枚も。
罪悪感は、ずっと心の隅にあった。
千景はスケッチブックを胸に抱き、立ち上がった。
足が重い。
けれど、進む。
なぜか研磨に背中を押されるようにして、侑の前まで連れていかれた。
侑はまだ顔が赤い。
治は腕を組んでいる。
角名は見ていないふりをして見ている。
音駒の一年たちは、何が始まるのかと固唾をのんでいる。
千景は侑の前に立った。
近い。
久しぶりに、ちゃんと近い。
侑の髪は少し伸びていた。顔つきも大人びた。けれど、目は変わっていない。強くて、わがままで、傷つくことを嫌がる子どもみたいな熱をまだ持っている。
千景は視線を上げた。
「この前は、庇ってくれてありがとう」
侑はぽかんとした。
「……この前?」
「インターハイのあと。黒尾さんのファンに囲まれてた時」
侑は数秒かけて思い出した。
「ああ」
「あと、逃げてごめん」
侑の喉が動いた。
何かを言おうとして、言えない。
千景はスケッチブックを抱える腕に力を込めた。
そして、ずっと言えなかった言葉を置いた。
「また描いてもいいですか」
体育館が静かになった。
侑は、意味がわからないという顔をしていた。
お礼を言われたこと。
謝られたこと。
また描いていいかと聞かれたこと。
それらが一度に来て、処理できていない。
けれど、一つだけわかった。
拒絶されていない。
一生話しかけるなと言った彼女が、自分の前に立っている。
また描いてもいいかと聞いている。
何かが、胸の中でほどけた。
侑は視線を逸らし、耳まで赤いまま言った。
「……おん」
短い返事だった。
千景は頷いた。
「ありがとう」
治が横から小さく肘で侑を突いた。
「お前、言うことないんか」
侑はぎろりと治を睨む。
けれど、千景が帰ろうと一歩下がった瞬間、慌てて口を開いた。
「描いたら」
千景が止まる。
侑は少しだけ声を整えた。
「描いたら、また見せてや」
千景は瞬きをした。
それから、静かに頷く。
「わかった」
空気が、少しだけ緩む。
解散しそうな雰囲気になった。
その時、治が焦ったように声を上げた。
「いや、どうやって?」
侑と千景が、同時に不思議そうな顔をした。
治は頭を抱える。
「なんで二人ともわからん顔しとんねん」
侑が当然のように言いかける。
「そんなもん直接――」
そこで止まった。
同じ高校ではない。
前の席でもない。
体育館の壁際に行けば会えるわけでもない。
侑の顔が固まる。
千景も、そこでようやく気づいた。
「あ」
治は深くため息をついた。
「連絡先でも交換したらええんやないか」
侑は千景を見る。
さっきまでの勢いはどこかへ消え、少しだけ慎重な声になった。
「ええか?」
千景はスマホを取り出した。
「わかった」
その瞬間、稲荷崎側から小さくどよめきが起きた。
角名がぼそっと言う。
「歴史的瞬間」
「黙れ」
侑が睨む。
音駒側では、研磨が静かに画面を見ていた。
少しだけ、満足そうだった。
連絡先を交換する手順は、二人とも妙にぎこちなかった。
近づきすぎないようにする千景。
近づきたいのを隠しきれていない侑。
スマホの画面に表示された名前を見て、侑は一瞬だけ止まる。
青砥千景。
昔、前の席にいた名前。
消えた名前。
ずっと引っかかっていた名前。
それが今、自分のスマホの中にある。
千景も画面を見た。
宮侑。
その文字の横に、何もないアイコン。
彼女は少しだけ迷って、登録名を変えた。
ツム。
侑がそれを見て、目を見開いた。
「それ」
「前に許可取ったから」
侑は口元を押さえた。
にやけそうになるのを、必死で隠していた。
「……せやな」
治はその横で、心底疲れた顔をしていた。
「なんやねん、こいつら」
練習試合の日は、それで終わった。
派手な告白もない。
抱き合うこともない。
好きだという言葉もない。
ただ、連絡先が交換された。
また描いていいと許された。
また見せてほしいと言われた。
それだけで、二人には十分すぎた。
その夜。
千景は家に帰ると、すぐアトリエへ入った。
古い木の床。
乾いた油絵の具。
洗いきれなかった筆の匂い。
窓際には、修復した紺色のスケッチブックが布に包まれて置かれている。
千景は大きな紙を広げた。
今日の侑を描く。
鉛筆では足りない。
絵の具を出す。
金。
白。
赤。
黒。
夜から朝にかけて、彼女はほとんど休まず描いた。
宮侑の抽象画。
本人だとは、知らない人にはわからない。
けれど知っている人なら、わかる。
強い金色の線。
空中でわずかに歪む白。
誰かを跳ばせる手。
怒りも、照れも、許しも、全部混ぜた色。
完成した時、窓の外は薄く明るかった。
千景はスマホで写真を撮る。
言葉は添えない。
ただ、送った。
数分後。
侑から返事が来た。
『おん』
それだけだった。
千景は画面を見て、少しだけ笑った。
侑はその画像を、しばらく見続けた。
朝練前のまだ暗い部屋で、布団の中、スマホの光だけが顔を照らしている。
自分だ。
はっきりとは描かれていない。
けれど、間違いなく自分だ。
千景が見た宮侑。
千景が描いた宮侑。
侑は保存した。
そして、待ち受けに設定した。
治が起きてきて、その画面を見た瞬間、無言で顔をしかめた。
「……もう何も言わんわ」
侑はスマホを伏せた。
「言わんでええ」
けれど口元は、隠しきれないほど緩んでいた。