絵とバレーボール。この関係に名前はない。   作:an-ryuka

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7.

宮侑と青砥千景のやり取りは、奇妙なほど静かに続いた。

 

朝、侑のスマホに絵が届く。

 

言葉はない。

 

写真だけ。

 

金色の線が斜めに走る抽象画だったり、白い円が宙で止まっているだけの絵だったり、指先だけ妙に生々しく描かれたクロッキーだったりする。

 

侑はそれを開く。

 

じっと見る。

 

保存する。

 

そして、返信する。

 

『おん』

 

それだけ。

 

最初のうち、治はそれを見るたびに顔をしかめた。

 

「お前、それ会話か?」

 

「会話やろ」

 

「どこが?」

 

「絵、送ってくる。俺、見る。返事する」

 

「返事が『おん』だけなんやけど」

 

「ちゃんと返しとる」

 

「ちゃんと、の意味知らんやろ」

 

侑は聞かなかった。

 

彼にとっては、それで十分だった。

 

千景が描く。

 

自分に送る。

 

それはつまり、千景が自分を見ているということだった。

 

会えなくても、話さなくても、東京と兵庫の距離があっても、紙の上に自分がいる。

 

それだけで、妙な優越感があった。

 

一方の千景も、それで満足していた。

 

描いたものを送る。

 

侑が見る。

 

『おん』と返ってくる。

 

それはつまり、描いてもいいという許可が続いているということだった。

 

拒絶されていない。

 

怒られていない。

 

破られない。

 

その安心が、彼女の指を軽くした。

 

音駒の体育館で休憩している時、研磨が千景のスマホ画面をちらりと見た。

 

「また送ったの」

 

「うん」

 

「返事は?」

 

「おん」

 

研磨は瞬きをした。

 

「それでいいんだ」

 

「うん」

 

「変なの」

 

「よく言われる」

 

研磨は少しだけ笑った。

 

「相手も変だから、ちょうどいいかも」

 

千景は否定しなかった。

 

春が近づく頃、侑はバレー関係の用事で東京へ来ることになった。

 

チームの練習参加だとか、合同の強化日程だとか、細かい理由はいくつかあった。けれど侑の頭に最初に浮かんだのは、予定表でも体育館でもなく、東京という文字だった。

 

東京。

 

音駒。

 

千景。

 

用事の合間に、数時間だけ空きがある。

 

侑はスマホを握りしめ、しばらく画面を見ていた。

 

文章を打つ。

 

消す。

 

また打つ。

 

『東京行く』

 

違う。

 

『会えるか』

 

重い気がする。

 

『絵、見に行ってもええか』

 

これならいい。

 

侑は送信した。

 

返事は、数分後に来た。

 

『いいよ』

 

侑はその短い文字を見て、口元を押さえた。

 

にやけるな。

 

無理だった。

 

東京の駅は、人が多すぎた。

 

侑は改札を出てすぐ、眉間に皺を寄せた。電車の熱気、香水、コーヒー、焼きたてのパン、雨上がりのアスファルト。全部の匂いが一度に押し寄せてくる。

 

その中に、千景がいた。

 

壁際に立っている。

 

黒いコート。

 

首元に灰色のマフラー。

 

肩からスケッチブックの入った鞄を下げている。

 

人混みの中でも、彼女はどこか静かだった。周囲の流れと少しだけずれていて、そこだけ時間が薄くなっているように見える。

 

侑が近づくと、千景は顔を上げた。

 

「ツム」

 

名前を呼ばれただけで、侑の胸が跳ねた。

 

「おう」

 

それ以上の言葉が出てこない。

 

久しぶりに会った千景は、少し大人びて見えた。髪は前より伸びて、低く結ばれている。相変わらず指先には絵の具の跡があり、爪の横に青が残っていた。

 

侑はそれを見て、なぜか安心した。

 

「迷わんかった?」

 

「迷った」

 

「迷ったんかい」

 

「でも着いた」

 

「結果論やん」

 

千景は小さく頷いた。

 

「こっち」

 

彼女が歩き出す。

 

侑は隣に並んだ。

 

駅前の通りは、休日の人で混んでいた。店先から甘いクレープの匂いが漂い、どこかで路上ミュージシャンがギターを鳴らしている。信号待ちの人々が、スマホを見たり、紙袋を持ち替えたりしていた。

 

千景は人混みが得意ではないらしく、少しずつ壁側へ寄っていく。

 

侑はそれを見て、何も言わずに自分の位置を変えた。

 

千景を車道側に立たせない。

 

人の流れが強い場所では、さりげなく前に出る。

 

そして、横断歩道を渡る直前、侑は千景の手を取った。

 

千景の指がぴくりと動く。

 

侑も少し固まった。

 

けれど離さなかった。

 

「人、多いし」

 

言い訳みたいに言う。

 

千景は手を見下ろした。

 

侑の手は温かかった。

 

バレーをしている手。

 

何度も描いた手。

 

紙の上では知っていたけれど、実際に繋ぐと、思ったより大きい。

 

「うん」

 

千景はそのまま握り返した。

 

侑は前を向いたまま、耳まで赤くなった。

 

二人は少しだけ東京を歩いた。

 

有名な店に入るでもなく、観光地を巡るでもない。千景がよく画材を買う店に寄り、侑が「筆ってこんな高いんか」と驚き、千景が古い建物の影を見つけて数分立ち止まり、侑が自販機で温かい缶コーヒーを買った。

 

「飲む?」

 

「苦いの苦手」

 

「子どもか」

 

「苦い絵は描ける」

 

「何言うとんねん」

 

千景は真顔だった。

 

侑は笑った。

 

そういう会話が、なぜかひどく楽だった。

 

夕方近く、千景は侑を自宅兼アトリエへ連れていった。

 

住宅街の奥にある、古い二階建ての家だった。

 

玄関を開けると、木の床の匂いと、乾いた油絵の具の匂いが混ざっている。奥からは紙をめくる音と、遠くで鳴るクラシック音楽がかすかに聞こえた。

 

「親は?」

 

「今日はいない。たぶん夜まで帰らない」

 

「そうなん」

 

侑は靴を脱ぎながら、少しだけ緊張した。

 

千景は気づかない。

 

「こっち」

 

二階の奥。

 

扉の前で、千景は一度だけ立ち止まった。

 

「ここ、あまり人を入れない」

 

侑の胸が、じわりと熱くなる。

 

「俺、入ってええん?」

 

「うん」

 

「なんで」

 

千景は少し考えた。

 

「ツムは、バレーが大事でしょ」

 

「おう」

 

「私は絵が大事」

 

「知っとる」

 

「だから、どう扱えばいいかわかると思った」

 

侑は言葉を失った。

 

信頼。

 

それが、彼女の言葉の中にあった。

 

重くて、静かな信頼。

 

侑は真面目な顔で頷いた。

 

「触ってええもんと悪いもん、ちゃんと言え」

 

「うん」

 

扉が開く。

 

そこは、千景の中身そのものみたいな部屋だった。

 

壁一面にキャンバス。

 

床には乾いた絵の具の跡。

 

棚にはスケッチブックが何十冊も並び、筆や鉛筆やパレットナイフが、使われる順番を待つように置かれている。窓際には大きなイーゼル。薄いカーテン越しに夕方の光が入り、部屋全体が淡い金色に沈んでいた。

 

侑は息を呑んだ。

 

「……すご」

 

千景は少しだけ首を傾げる。

 

「散らかってる?」

 

「ちゃう。なんか、すごい」

 

言葉が足りない。

 

けれど、本当にそれしか出なかった。

 

侑はゆっくり部屋を見回した。

 

音駒の赤と黒。

 

烏野の黒と橙。

 

稲荷崎の白と赤。

 

知らない学校の色。

 

風景画。

 

人物画。

 

抽象画。

 

どれも違うのに、全部に千景の線があった。

 

そして、棚の奥。

 

布に包まれた古いスケッチブックがあった。

 

侑は、それから目を離せなかった。

 

千景も気づいた。

 

「あれは」

 

「見てもええ?」

 

千景は少し黙った。

 

長い沈黙ではなかった。

 

けれど、その数秒で侑は、触れてはいけない場所に近づいていることを理解した。

 

「いいよ」

 

千景は布を解いた。

 

紺色の表紙。

 

角が潰れ、背表紙が傷んでいる。

 

侑はすぐにわかった。

 

稲荷崎にいた頃、千景が使っていたスケッチブック。

 

破られたもの。

 

ページを開くと、丁寧に修復された紙が並んでいた。

 

セロハンテープ。

 

補修紙。

 

ずれた線。

 

それでも捨てられなかった絵たち。

 

侑は一枚ずつ見た。

 

体育館の床。

 

治の背中。

 

北の手。

 

角名のブロック。

 

そして、自分。

 

怒鳴っている自分。

 

破れた跡が、顔の真ん中に残っていた。

 

侑の喉が詰まった。

 

「これ、俺?」

 

「うん」

 

千景は隣に立っていた。

 

「当時、かなり気に入ってたの」

 

侑は紙の傷を見つめた。

 

「……破かれても、直したんやな」

 

「うん」

 

「なんで」

 

「捨てられなかった」

 

千景の声は静かだった。

 

「もう自分でもどうしようもなくなっちゃったけど、それでも、描いた時の気持ちは残ってたから」

 

侑はスケッチブックを閉じられなかった。

 

あの日、千景がどれほど傷ついたのか。

 

頭ではわかっていたつもりだった。

 

でも、今、目の前にある紙の傷を見て、初めて腹の底から理解した。

 

自分が破ったわけではない。

 

それでも、関係ないとは言えなかった。

 

千景は小さく息を吸った。

 

「あの時は、八つ当たりしてごめんね」

 

侑の手が止まる。

 

千景は侑を見ていなかった。

 

破れた紙を見ていた。

 

「ツムが破ったんじゃないのは、わかってた。でも、どうしたらいいかわからなくて。大事なものが壊れて、怒る場所を間違えた」

 

侑は唇を噛んだ。

 

言いたいことは山ほどあった。

 

なんで黙って転校したんや。

 

俺はずっと。

 

俺は悪くないって思っとった。

 

でも、言わなかった。

 

言えなかった。

 

代わりに、彼は低く言った。

 

「俺はもう、あんな目には遭わせん」

 

千景は侑を見た。

 

「そう」

 

短い返事。

 

けれど侑には、それが拒絶ではないとわかった。

 

千景はスケッチブックを丁寧に閉じ、布に戻した。

 

部屋の空気が少しだけ変わった。

 

過去が消えたわけではない。

 

紙の傷は残っている。

 

でも、それを二人で見た。

 

それだけで、何かが一歩進んだ気がした。

 

千景は窓の外を見た。

 

「今日はバレーしないの?」

 

侑は目を瞬かせる。

 

「する場所があらへん」

 

「音駒、今日練習してたと思うけど。混ざる?」

 

「お前、マネージャーやないんか」

 

「今日はツムのこと優先した」

 

侑の胸が、また変な音を立てた。

 

嬉しい。

 

はっきりそう思った。

 

それに混じって、少しの優越感と、何かしてやりたい気持ちが湧いた。

 

「バレーしてるとこ、見たいんか」

 

千景は迷わず頷く。

 

「見たい。描きたい」

 

侑は笑った。

 

「なら行くぞ。服これでええか?」

 

「たぶん」

 

「たぶんて」

 

「音駒の人に聞けばいい」

 

二人はアトリエを出た。

 

夕方の東京の空は、薄紫に変わり始めていた。

 

音駒高校の体育館に、千景が宮侑を連れて現れた時、部員たちは全員固まった。

 

「……青砥?」

 

新主将が目を丸くする。

 

「混ぜてほしい」

 

「誰を?」

 

「ツム」

 

侑が片手を上げた。

 

「どうも」

 

体育館がざわついた。

 

「宮侑!?」

 

「稲荷崎の!?」

 

「なんで!?」

 

千景はいつも通りだった。

 

「バレーしてるところを描きたいから」

 

「理由が青砥すぎる!」

 

コーチは少し考えたあと、あっさり許可した。

 

「せっかくだ。いい刺激になるだろう。怪我だけ気をつけろ」

 

侑はにやりと笑った。

 

「おおきに」

 

練習が始まる。

 

侑がコートに入ると、空気が変わった。

 

音駒の繋ぐバレーの中に、稲荷崎の鋭い金色が混ざる。トスが上がるたび、部員たちの目が変わる。いつもより高く跳ぼうとする。いつもより強く打とうとする。

 

千景は壁際に座り、スケッチブックを開いた。

 

ドリンクを作る。

 

タオルを置く。

 

描く。

 

また描く。

 

侑の手。

 

音駒のレシーブ。

 

知らない線同士が絡む瞬間。

 

胸が苦しいほど楽しかった。

 

休憩中、音駒の一年が侑にこっそり聞いた。

 

「あの、青砥さんと付き合ってるんですか?」

 

侑はタオルで汗を拭く手を止めた。

 

千景も、鉛筆を止めた。

 

体育館の音が、不自然に小さくなる。

 

二人は顔を見合わせた。

 

定義したことがなかった。

 

手は繋いだ。

 

アトリエに入れた。

 

絵を送った。

 

描いていいと言った。

 

けれど、付き合うという言葉は一度も使っていない。

 

侑はしばらく黙ったあと、千景に向き直った。

 

「俺、彼氏でええか?」

 

音駒の部員たちが一斉に固まった。

 

千景は少し考えた。

 

「うん。じゃあ、私、彼女か」

 

「せやな」

 

「わかった」

 

「お前ら、まじかよ……」

 

誰かが呟いた。

 

侑は照れ隠しみたいにタオルを首にかけ直した。

 

千景はまた鉛筆を持った。

 

まるで、今ひとつ名前が増えただけみたいに。

 

でも侑だけは見ていた。

 

千景の耳が、ほんの少し赤くなっているのを。

 

それがたまらなく嬉しくて、侑は次のトスを少しだけ高く上げた。

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