絵とバレーボール。この関係に名前はない。 作:an-ryuka
宮侑と青砥千景のやり取りは、奇妙なほど静かに続いた。
朝、侑のスマホに絵が届く。
言葉はない。
写真だけ。
金色の線が斜めに走る抽象画だったり、白い円が宙で止まっているだけの絵だったり、指先だけ妙に生々しく描かれたクロッキーだったりする。
侑はそれを開く。
じっと見る。
保存する。
そして、返信する。
『おん』
それだけ。
最初のうち、治はそれを見るたびに顔をしかめた。
「お前、それ会話か?」
「会話やろ」
「どこが?」
「絵、送ってくる。俺、見る。返事する」
「返事が『おん』だけなんやけど」
「ちゃんと返しとる」
「ちゃんと、の意味知らんやろ」
侑は聞かなかった。
彼にとっては、それで十分だった。
千景が描く。
自分に送る。
それはつまり、千景が自分を見ているということだった。
会えなくても、話さなくても、東京と兵庫の距離があっても、紙の上に自分がいる。
それだけで、妙な優越感があった。
一方の千景も、それで満足していた。
描いたものを送る。
侑が見る。
『おん』と返ってくる。
それはつまり、描いてもいいという許可が続いているということだった。
拒絶されていない。
怒られていない。
破られない。
その安心が、彼女の指を軽くした。
音駒の体育館で休憩している時、研磨が千景のスマホ画面をちらりと見た。
「また送ったの」
「うん」
「返事は?」
「おん」
研磨は瞬きをした。
「それでいいんだ」
「うん」
「変なの」
「よく言われる」
研磨は少しだけ笑った。
「相手も変だから、ちょうどいいかも」
千景は否定しなかった。
春が近づく頃、侑はバレー関係の用事で東京へ来ることになった。
チームの練習参加だとか、合同の強化日程だとか、細かい理由はいくつかあった。けれど侑の頭に最初に浮かんだのは、予定表でも体育館でもなく、東京という文字だった。
東京。
音駒。
千景。
用事の合間に、数時間だけ空きがある。
侑はスマホを握りしめ、しばらく画面を見ていた。
文章を打つ。
消す。
また打つ。
『東京行く』
違う。
『会えるか』
重い気がする。
『絵、見に行ってもええか』
これならいい。
侑は送信した。
返事は、数分後に来た。
『いいよ』
侑はその短い文字を見て、口元を押さえた。
にやけるな。
無理だった。
東京の駅は、人が多すぎた。
侑は改札を出てすぐ、眉間に皺を寄せた。電車の熱気、香水、コーヒー、焼きたてのパン、雨上がりのアスファルト。全部の匂いが一度に押し寄せてくる。
その中に、千景がいた。
壁際に立っている。
黒いコート。
首元に灰色のマフラー。
肩からスケッチブックの入った鞄を下げている。
人混みの中でも、彼女はどこか静かだった。周囲の流れと少しだけずれていて、そこだけ時間が薄くなっているように見える。
侑が近づくと、千景は顔を上げた。
「ツム」
名前を呼ばれただけで、侑の胸が跳ねた。
「おう」
それ以上の言葉が出てこない。
久しぶりに会った千景は、少し大人びて見えた。髪は前より伸びて、低く結ばれている。相変わらず指先には絵の具の跡があり、爪の横に青が残っていた。
侑はそれを見て、なぜか安心した。
「迷わんかった?」
「迷った」
「迷ったんかい」
「でも着いた」
「結果論やん」
千景は小さく頷いた。
「こっち」
彼女が歩き出す。
侑は隣に並んだ。
駅前の通りは、休日の人で混んでいた。店先から甘いクレープの匂いが漂い、どこかで路上ミュージシャンがギターを鳴らしている。信号待ちの人々が、スマホを見たり、紙袋を持ち替えたりしていた。
千景は人混みが得意ではないらしく、少しずつ壁側へ寄っていく。
侑はそれを見て、何も言わずに自分の位置を変えた。
千景を車道側に立たせない。
人の流れが強い場所では、さりげなく前に出る。
そして、横断歩道を渡る直前、侑は千景の手を取った。
千景の指がぴくりと動く。
侑も少し固まった。
けれど離さなかった。
「人、多いし」
言い訳みたいに言う。
千景は手を見下ろした。
侑の手は温かかった。
バレーをしている手。
何度も描いた手。
紙の上では知っていたけれど、実際に繋ぐと、思ったより大きい。
「うん」
千景はそのまま握り返した。
侑は前を向いたまま、耳まで赤くなった。
二人は少しだけ東京を歩いた。
有名な店に入るでもなく、観光地を巡るでもない。千景がよく画材を買う店に寄り、侑が「筆ってこんな高いんか」と驚き、千景が古い建物の影を見つけて数分立ち止まり、侑が自販機で温かい缶コーヒーを買った。
「飲む?」
「苦いの苦手」
「子どもか」
「苦い絵は描ける」
「何言うとんねん」
千景は真顔だった。
侑は笑った。
そういう会話が、なぜかひどく楽だった。
夕方近く、千景は侑を自宅兼アトリエへ連れていった。
住宅街の奥にある、古い二階建ての家だった。
玄関を開けると、木の床の匂いと、乾いた油絵の具の匂いが混ざっている。奥からは紙をめくる音と、遠くで鳴るクラシック音楽がかすかに聞こえた。
「親は?」
「今日はいない。たぶん夜まで帰らない」
「そうなん」
侑は靴を脱ぎながら、少しだけ緊張した。
千景は気づかない。
「こっち」
二階の奥。
扉の前で、千景は一度だけ立ち止まった。
「ここ、あまり人を入れない」
侑の胸が、じわりと熱くなる。
「俺、入ってええん?」
「うん」
「なんで」
千景は少し考えた。
「ツムは、バレーが大事でしょ」
「おう」
「私は絵が大事」
「知っとる」
「だから、どう扱えばいいかわかると思った」
侑は言葉を失った。
信頼。
それが、彼女の言葉の中にあった。
重くて、静かな信頼。
侑は真面目な顔で頷いた。
「触ってええもんと悪いもん、ちゃんと言え」
「うん」
扉が開く。
そこは、千景の中身そのものみたいな部屋だった。
壁一面にキャンバス。
床には乾いた絵の具の跡。
棚にはスケッチブックが何十冊も並び、筆や鉛筆やパレットナイフが、使われる順番を待つように置かれている。窓際には大きなイーゼル。薄いカーテン越しに夕方の光が入り、部屋全体が淡い金色に沈んでいた。
侑は息を呑んだ。
「……すご」
千景は少しだけ首を傾げる。
「散らかってる?」
「ちゃう。なんか、すごい」
言葉が足りない。
けれど、本当にそれしか出なかった。
侑はゆっくり部屋を見回した。
音駒の赤と黒。
烏野の黒と橙。
稲荷崎の白と赤。
知らない学校の色。
風景画。
人物画。
抽象画。
どれも違うのに、全部に千景の線があった。
そして、棚の奥。
布に包まれた古いスケッチブックがあった。
侑は、それから目を離せなかった。
千景も気づいた。
「あれは」
「見てもええ?」
千景は少し黙った。
長い沈黙ではなかった。
けれど、その数秒で侑は、触れてはいけない場所に近づいていることを理解した。
「いいよ」
千景は布を解いた。
紺色の表紙。
角が潰れ、背表紙が傷んでいる。
侑はすぐにわかった。
稲荷崎にいた頃、千景が使っていたスケッチブック。
破られたもの。
ページを開くと、丁寧に修復された紙が並んでいた。
セロハンテープ。
補修紙。
ずれた線。
それでも捨てられなかった絵たち。
侑は一枚ずつ見た。
体育館の床。
治の背中。
北の手。
角名のブロック。
そして、自分。
怒鳴っている自分。
破れた跡が、顔の真ん中に残っていた。
侑の喉が詰まった。
「これ、俺?」
「うん」
千景は隣に立っていた。
「当時、かなり気に入ってたの」
侑は紙の傷を見つめた。
「……破かれても、直したんやな」
「うん」
「なんで」
「捨てられなかった」
千景の声は静かだった。
「もう自分でもどうしようもなくなっちゃったけど、それでも、描いた時の気持ちは残ってたから」
侑はスケッチブックを閉じられなかった。
あの日、千景がどれほど傷ついたのか。
頭ではわかっていたつもりだった。
でも、今、目の前にある紙の傷を見て、初めて腹の底から理解した。
自分が破ったわけではない。
それでも、関係ないとは言えなかった。
千景は小さく息を吸った。
「あの時は、八つ当たりしてごめんね」
侑の手が止まる。
千景は侑を見ていなかった。
破れた紙を見ていた。
「ツムが破ったんじゃないのは、わかってた。でも、どうしたらいいかわからなくて。大事なものが壊れて、怒る場所を間違えた」
侑は唇を噛んだ。
言いたいことは山ほどあった。
なんで黙って転校したんや。
俺はずっと。
俺は悪くないって思っとった。
でも、言わなかった。
言えなかった。
代わりに、彼は低く言った。
「俺はもう、あんな目には遭わせん」
千景は侑を見た。
「そう」
短い返事。
けれど侑には、それが拒絶ではないとわかった。
千景はスケッチブックを丁寧に閉じ、布に戻した。
部屋の空気が少しだけ変わった。
過去が消えたわけではない。
紙の傷は残っている。
でも、それを二人で見た。
それだけで、何かが一歩進んだ気がした。
千景は窓の外を見た。
「今日はバレーしないの?」
侑は目を瞬かせる。
「する場所があらへん」
「音駒、今日練習してたと思うけど。混ざる?」
「お前、マネージャーやないんか」
「今日はツムのこと優先した」
侑の胸が、また変な音を立てた。
嬉しい。
はっきりそう思った。
それに混じって、少しの優越感と、何かしてやりたい気持ちが湧いた。
「バレーしてるとこ、見たいんか」
千景は迷わず頷く。
「見たい。描きたい」
侑は笑った。
「なら行くぞ。服これでええか?」
「たぶん」
「たぶんて」
「音駒の人に聞けばいい」
二人はアトリエを出た。
夕方の東京の空は、薄紫に変わり始めていた。
音駒高校の体育館に、千景が宮侑を連れて現れた時、部員たちは全員固まった。
「……青砥?」
新主将が目を丸くする。
「混ぜてほしい」
「誰を?」
「ツム」
侑が片手を上げた。
「どうも」
体育館がざわついた。
「宮侑!?」
「稲荷崎の!?」
「なんで!?」
千景はいつも通りだった。
「バレーしてるところを描きたいから」
「理由が青砥すぎる!」
コーチは少し考えたあと、あっさり許可した。
「せっかくだ。いい刺激になるだろう。怪我だけ気をつけろ」
侑はにやりと笑った。
「おおきに」
練習が始まる。
侑がコートに入ると、空気が変わった。
音駒の繋ぐバレーの中に、稲荷崎の鋭い金色が混ざる。トスが上がるたび、部員たちの目が変わる。いつもより高く跳ぼうとする。いつもより強く打とうとする。
千景は壁際に座り、スケッチブックを開いた。
ドリンクを作る。
タオルを置く。
描く。
また描く。
侑の手。
音駒のレシーブ。
知らない線同士が絡む瞬間。
胸が苦しいほど楽しかった。
休憩中、音駒の一年が侑にこっそり聞いた。
「あの、青砥さんと付き合ってるんですか?」
侑はタオルで汗を拭く手を止めた。
千景も、鉛筆を止めた。
体育館の音が、不自然に小さくなる。
二人は顔を見合わせた。
定義したことがなかった。
手は繋いだ。
アトリエに入れた。
絵を送った。
描いていいと言った。
けれど、付き合うという言葉は一度も使っていない。
侑はしばらく黙ったあと、千景に向き直った。
「俺、彼氏でええか?」
音駒の部員たちが一斉に固まった。
千景は少し考えた。
「うん。じゃあ、私、彼女か」
「せやな」
「わかった」
「お前ら、まじかよ……」
誰かが呟いた。
侑は照れ隠しみたいにタオルを首にかけ直した。
千景はまた鉛筆を持った。
まるで、今ひとつ名前が増えただけみたいに。
でも侑だけは見ていた。
千景の耳が、ほんの少し赤くなっているのを。
それがたまらなく嬉しくて、侑は次のトスを少しだけ高く上げた。