絵とバレーボール。この関係に名前はない。   作:an-ryuka

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8.

「彼氏」

 

音駒の体育館で、その言葉はしばらく宙に浮いていた。

 

宮侑は汗を拭きながら、何でもない顔をしようとして失敗していた。耳が赤い。首まで赤い。なのに口元だけは勝手に緩む。

 

青砥千景はスケッチブックに視線を落としていた。

 

けれど、鉛筆は動いていない。

 

「青砥さん」

 

音駒の一年が恐る恐る声をかける。

 

「はい」

 

「今ので、ほんとに付き合ったんですか?」

 

千景は少し考えた。

 

「たぶん」

 

「たぶん!?」

 

侑が横から口を挟む。

 

「付き合ったやろ」

 

「うん。ツムが彼氏でいいかって聞いたから」

 

「せや」

 

「私がうんって言ったから」

 

「せや」

 

「じゃあ付き合った」

 

「なんで確認作業みたいになっとんねん」

 

侑が呆れたように言うと、体育館の隅で研磨がぼそっと呟いた。

 

「ふたりとも、だいたい同じくらい変」

 

その言葉に、何人かが笑った。

 

練習はその後も続いた。

 

侑が入ることで、音駒の空気は少しずつ熱を帯びた。普段なら拾って繋ぐところに、強引に火をつけるようなトスが混ざる。音駒の選手たちは戸惑いながらも跳び、拾い、また跳んだ。

 

千景は壁際に座り、今度こそ鉛筆を走らせた。

 

彼氏。

 

彼女。

 

その言葉は、自分たちに似合うのかよくわからない。

 

けれど侑が跳ぶたび、彼女の中にある線は今までより少し近くなった。紙の中の宮侑は、遠い選手でも、過去の人でも、勝手に描いている罪悪感の対象でもない。

 

描いていい人。

 

見ていい人。

 

名前のついた人。

 

練習が終わる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。

 

体育館には汗とワックス、スポーツドリンクの甘い匂いが残っている。音駒の部員たちはぐったりしながら片づけを始め、侑は満足げに肩を回した。

 

「ええな、音駒」

 

「急に何」

 

千景がボールかごの横でタオルを畳みながら言う。

 

「しつこい。腹立つくらい繋ぐ」

 

「褒めてる?」

 

「褒めとる」

 

近くにいた音駒の一年が「ありがとうございます」と微妙な顔で頭を下げた。

 

侑は千景の手元を見た。

 

「描けたん?」

 

「うん」

 

「見せて」

 

千景はスケッチブックを抱え込んだ。

 

「あとで」

 

「なんでや」

 

「まだ途中」

 

「俺の彼女、焦らすやん」

 

千景の手が止まった。

 

音駒の何人かが一斉に侑を見た。

 

千景はゆっくり顔を上げる。

 

「今の、ちょっと恥ずかしい」

 

侑の方が固まった。

 

「……お前が照れるんか」

 

「うん」

 

「そういう顔すんなや」

 

「どういう顔?」

 

「知らん」

 

侑はそっぽを向いた。

 

首が赤い。

 

千景はその横顔を見て、紙に描き足したくなった。

 

片づけが終わり、校門の外へ出た時、夜風は少し冷たかった。

 

侑は駅へ向かう道でスマホを確認した。

 

「俺、ホテル戻るわ」

 

そう言った瞬間、千景は足を止めた。

 

侑も止まる。

 

街灯の下、ふたりの影が歩道に細長く伸びている。近くの自販機が低く唸り、コンビニから揚げ物の油の匂いが流れてきた。

 

「泊まっていけば?」

 

千景は、いつもの調子で言った。

 

侑は完全に固まった。

 

「……意味わかっとる?」

 

「ホテルまで戻るの、大変そうだから」

 

「それだけで男泊めるんか」

 

「ツムだから」

 

その一言は、侑の胸にまっすぐ落ちた。

 

嬉しい。

 

けれど、それだけでは済まない。

 

侑は千景を見た。

 

「親は?」

 

「今日はいない。明日の朝帰るかも」

 

「なおさらやろ」

 

千景は少し考えた。

 

「嫌ならいい」

 

「嫌とは言ってへん」

 

「じゃあ?」

 

侑は片手で顔を覆った。

 

「お前、ほんま……」

 

千景はじっと待っている。

 

急かさない。

 

怖がっているわけでもない。

 

ただ、侑がどうしたいのかを見ている。

 

侑は深く息を吐いた。

 

「俺は、泊まりたい」

 

「うん」

 

「でも、ちゃんと考えろや。今日、付き合ったばっかやぞ」

 

「そうだね」

 

「そうだね、やなくて」

 

「ツムがそうしたいなら、私はいい」

 

侑はもう一度、顔を覆った。

 

勝てない。

 

バレー以外で、こんなに勝てない相手がいるとは思わなかった。

 

「……ほな、行く」

 

「うん」

 

その夜、千景の家は静かだった。

 

玄関を閉めると、外の音が遠くなる。アトリエからは乾いた絵の具と木の匂いが漂っていた。リビングには誰もいない。キッチンの照明だけが小さく点いている。

 

千景は侑にタオルと部屋着を渡した。

 

「大きさ合うかわからない」

 

「誰のや」

 

「父の」

 

「借ります」

 

侑は妙に律儀に頭を下げた。

 

風呂を借りて出てくると、千景はアトリエにいた。

 

彼女はまだ描いていた。

 

髪をほどき、部屋着に着替え、床に座り込んでいる。白い紙の上には、今日の体育館があった。音駒の赤、稲荷崎の金、夜の体育館の黒。中央には、はっきり人物とはわからない形で、侑のトスが描かれていた。

 

侑は扉の前で立ち止まった。

 

「まだ描くん」

 

「今じゃないと消える」

 

「何が」

 

「今日の感じ」

 

千景は振り向かずに言った。

 

侑は近づいて、彼女の隣に座った。

 

少し距離を空けて。

 

「俺、ここおって邪魔ちゃう?」

 

「邪魔じゃない」

 

「ほんま?」

 

「うん。見てていい」

 

侑は黙って、千景の横顔を見た。

 

筆を持つ指。

 

絵の具のついた手首。

 

集中すると少しだけ唇を結ぶ癖。

 

彼女が絵を描く時、侑はいつも少し置いていかれる。けれど今夜は、その置いていかれる感じさえ悪くなかった。千景の世界の入口に、自分だけが座らせてもらっている気がした。

 

「千景」

 

「何」

 

「俺、今日、めっちゃ嬉しかった」

 

筆が止まった。

 

「何が?」

 

「お前が、俺をアトリエに入れてくれたこと。音駒より俺を優先したって言うたこと。彼氏でええって言うたこと」

 

千景はゆっくり侑を見た。

 

「うん」

 

「おん、ちゃうわ。うん、でもない」

 

侑は少し笑った。

 

けれどすぐ真面目な顔になる。

 

「俺、たぶんずっと、お前にまた描いてほしかった」

 

千景の目が揺れた。

 

「描いてたよ」

 

「知っとる。今は知っとる。でも、知らんかった時も、たぶんそう思っとった」

 

侑は膝の上で手を握った。

 

「前の席におらんくなってから、ずっと腹立っとった。俺は悪ないって思っとったし、今でも破ったやつらは許せへん。でも、お前が描かんようになるんが一番嫌やったんかもしれん」

 

千景は何も言わない。

 

侑は続けた。

 

「今日、また描いてええかって聞かれて、めっちゃ嬉しかった」

 

静かな告白だった。

 

好き、という言葉ではない。

 

けれど千景には、それが侑らしい精一杯の線に見えた。

 

千景は筆を置いた。

 

そして、絵の具のついていない方の手で、侑の手に触れた。

 

「私は、ツムがバレーしてるところを見るのが好き」

 

侑の指がぴくりと動く。

 

「うん」

 

「怒ってるところも、笑ってるところも、悔しそうなところも描きたい」

 

「うん」

 

「たぶん、ツムのことが好き」

 

侑は息を止めた。

 

千景は淡々と言ったくせに、目だけは少し震えていた。

 

侑はその手を握り返した。

 

「たぶん、ちゃうやろ」

 

「じゃあ、好き」

 

侑は笑った。

 

どうしようもなく嬉しそうに。

 

「俺も好きや」

 

その言葉が落ちたあと、アトリエはひどく静かになった。

 

外を車が一台通り過ぎる。

 

遠くで犬が吠える。

 

絵の具と石鹸と、侑の髪に残ったシャンプーの匂いが混ざっている。

 

侑はゆっくり千景に近づいた。

 

急かさないように。

 

逃げ道を塞がないように。

 

「触ってええ?」

 

千景は頷いた。

 

「うん」

 

その夜のことを、千景は誰にも話さなかった。

 

侑も誰にも言わなかった。

 

ただ、ふたりの間にあった距離が、少しずつほどけていった。手を繋ぐ。額を寄せる。笑う。息をひそめる。名前を呼ぶ。

 

初めてのことばかりで、うまくいかないこともあった。

 

ぶつかって、止まって、笑って、また確かめる。

 

大切なものを乱暴に扱わないように、互いに少しずつ覚えていく夜だった。

 

千景は途中で何度も侑の顔を見た。

 

侑はそのたびに照れたように眉を寄せる。

 

「見すぎや」

 

「描きたい」

 

「今は描くな」

 

「あとで描く」

 

「ほんまブレへんな」

 

侑は呆れながらも、千景を抱き寄せた。

 

幸せというものがあるなら、たぶんこういう形をしている。

 

千景はそう思った。

 

深夜を過ぎても、千景は眠らなかった。

 

侑は明日も予定がある。

 

だから先に寝かせようとした。

 

けれど千景は、ベッドを抜け出し、アトリエに戻った。

 

今の感情が消える前に描かなければならなかった。

 

体は疲れている。

 

指も重い。

 

それでも筆を取る。

 

赤ではない。

 

金でもない。

 

白と、淡い青と、柔らかい黒。

 

バレーの絵ではなかった。

 

恋の絵とも少し違った。

 

何かを初めて大切に触れた夜の絵。

 

夜明け前、侑は目を覚ました。

 

隣に千景がいない。

 

一瞬、心臓が嫌な跳ね方をした。

 

けれどアトリエの方から、かすかな筆の音が聞こえた。

 

侑は起き上がり、扉の隙間から中を見た。

 

千景はまだ描いていた。

 

床に座り、半分倒れそうになりながら、紙の上へ色を置いている。

 

「……寝ろや」

 

侑は小さく呟いた。

 

けれど止めなかった。

 

それが千景なのだと、もうわかっていた。

 

朝、侑はランニングに出た。

 

知らない街の朝は、湿ったアスファルトと焼きたてのパンの匂いがした。息を吐くと白くなり、足音が住宅街に小さく響く。

 

走りながら、侑は何度も思い出した。

 

千景の声。

 

好き、と言った時の目。

 

自分をアトリエに入れてくれたこと。

 

自分の手を握り返したこと。

 

胸の奥が熱い。

 

けれど、足取りは軽かった。

 

戻ると、アトリエの扉が開いていた。

 

侑は中を覗き、ぎょっとした。

 

千景が床に倒れていた。

 

「千景!」

 

慌てて駆け寄る。

 

けれど、すぐに気づいた。

 

寝ている。

 

完成した絵の横で、筆を握ったまま眠っている。

 

侑はその場に膝をつき、深く息を吐いた。

 

「ほんま、心臓に悪いわ」

 

千景の顔には、疲れが濃く出ていた。

 

それでもどこか満足そうだった。

 

侑は完成した絵を見る。

 

胸が詰まった。

 

何を描いたのか、言葉では説明できない。

 

けれど、自分たちの夜がそこにあった。

 

音ではなく、形でもなく、色で。

 

侑はそっと千景の手から筆を抜き、近くに置いた。

 

それから彼女を抱き上げる。

 

軽い。

 

けれど、その腕の中にあるものは重かった。

 

絵にすべてを載せて生きている人間。

 

自分が大事にすると決めた人間。

 

侑は千景をベッドへ運び、布団をかけた。

 

そして、その隣に潜り込む。

 

千景が眠ったまま、少しだけ侑の方へ寄った。

 

侑は彼女を抱きしめる。

 

「大事にしよ」

 

誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。

 

窓の外では朝の光が少しずつ広がっていた。

 

千景は眠り続け、侑もその温かさに引かれるように目を閉じた。二度寝の浅い眠りの中で、彼は金色ではない、新しい色の夢を見た。

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