絵とバレーボール。この関係に名前はない。 作:an-ryuka
「彼氏」
音駒の体育館で、その言葉はしばらく宙に浮いていた。
宮侑は汗を拭きながら、何でもない顔をしようとして失敗していた。耳が赤い。首まで赤い。なのに口元だけは勝手に緩む。
青砥千景はスケッチブックに視線を落としていた。
けれど、鉛筆は動いていない。
「青砥さん」
音駒の一年が恐る恐る声をかける。
「はい」
「今ので、ほんとに付き合ったんですか?」
千景は少し考えた。
「たぶん」
「たぶん!?」
侑が横から口を挟む。
「付き合ったやろ」
「うん。ツムが彼氏でいいかって聞いたから」
「せや」
「私がうんって言ったから」
「せや」
「じゃあ付き合った」
「なんで確認作業みたいになっとんねん」
侑が呆れたように言うと、体育館の隅で研磨がぼそっと呟いた。
「ふたりとも、だいたい同じくらい変」
その言葉に、何人かが笑った。
練習はその後も続いた。
侑が入ることで、音駒の空気は少しずつ熱を帯びた。普段なら拾って繋ぐところに、強引に火をつけるようなトスが混ざる。音駒の選手たちは戸惑いながらも跳び、拾い、また跳んだ。
千景は壁際に座り、今度こそ鉛筆を走らせた。
彼氏。
彼女。
その言葉は、自分たちに似合うのかよくわからない。
けれど侑が跳ぶたび、彼女の中にある線は今までより少し近くなった。紙の中の宮侑は、遠い選手でも、過去の人でも、勝手に描いている罪悪感の対象でもない。
描いていい人。
見ていい人。
名前のついた人。
練習が終わる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。
体育館には汗とワックス、スポーツドリンクの甘い匂いが残っている。音駒の部員たちはぐったりしながら片づけを始め、侑は満足げに肩を回した。
「ええな、音駒」
「急に何」
千景がボールかごの横でタオルを畳みながら言う。
「しつこい。腹立つくらい繋ぐ」
「褒めてる?」
「褒めとる」
近くにいた音駒の一年が「ありがとうございます」と微妙な顔で頭を下げた。
侑は千景の手元を見た。
「描けたん?」
「うん」
「見せて」
千景はスケッチブックを抱え込んだ。
「あとで」
「なんでや」
「まだ途中」
「俺の彼女、焦らすやん」
千景の手が止まった。
音駒の何人かが一斉に侑を見た。
千景はゆっくり顔を上げる。
「今の、ちょっと恥ずかしい」
侑の方が固まった。
「……お前が照れるんか」
「うん」
「そういう顔すんなや」
「どういう顔?」
「知らん」
侑はそっぽを向いた。
首が赤い。
千景はその横顔を見て、紙に描き足したくなった。
片づけが終わり、校門の外へ出た時、夜風は少し冷たかった。
侑は駅へ向かう道でスマホを確認した。
「俺、ホテル戻るわ」
そう言った瞬間、千景は足を止めた。
侑も止まる。
街灯の下、ふたりの影が歩道に細長く伸びている。近くの自販機が低く唸り、コンビニから揚げ物の油の匂いが流れてきた。
「泊まっていけば?」
千景は、いつもの調子で言った。
侑は完全に固まった。
「……意味わかっとる?」
「ホテルまで戻るの、大変そうだから」
「それだけで男泊めるんか」
「ツムだから」
その一言は、侑の胸にまっすぐ落ちた。
嬉しい。
けれど、それだけでは済まない。
侑は千景を見た。
「親は?」
「今日はいない。明日の朝帰るかも」
「なおさらやろ」
千景は少し考えた。
「嫌ならいい」
「嫌とは言ってへん」
「じゃあ?」
侑は片手で顔を覆った。
「お前、ほんま……」
千景はじっと待っている。
急かさない。
怖がっているわけでもない。
ただ、侑がどうしたいのかを見ている。
侑は深く息を吐いた。
「俺は、泊まりたい」
「うん」
「でも、ちゃんと考えろや。今日、付き合ったばっかやぞ」
「そうだね」
「そうだね、やなくて」
「ツムがそうしたいなら、私はいい」
侑はもう一度、顔を覆った。
勝てない。
バレー以外で、こんなに勝てない相手がいるとは思わなかった。
「……ほな、行く」
「うん」
その夜、千景の家は静かだった。
玄関を閉めると、外の音が遠くなる。アトリエからは乾いた絵の具と木の匂いが漂っていた。リビングには誰もいない。キッチンの照明だけが小さく点いている。
千景は侑にタオルと部屋着を渡した。
「大きさ合うかわからない」
「誰のや」
「父の」
「借ります」
侑は妙に律儀に頭を下げた。
風呂を借りて出てくると、千景はアトリエにいた。
彼女はまだ描いていた。
髪をほどき、部屋着に着替え、床に座り込んでいる。白い紙の上には、今日の体育館があった。音駒の赤、稲荷崎の金、夜の体育館の黒。中央には、はっきり人物とはわからない形で、侑のトスが描かれていた。
侑は扉の前で立ち止まった。
「まだ描くん」
「今じゃないと消える」
「何が」
「今日の感じ」
千景は振り向かずに言った。
侑は近づいて、彼女の隣に座った。
少し距離を空けて。
「俺、ここおって邪魔ちゃう?」
「邪魔じゃない」
「ほんま?」
「うん。見てていい」
侑は黙って、千景の横顔を見た。
筆を持つ指。
絵の具のついた手首。
集中すると少しだけ唇を結ぶ癖。
彼女が絵を描く時、侑はいつも少し置いていかれる。けれど今夜は、その置いていかれる感じさえ悪くなかった。千景の世界の入口に、自分だけが座らせてもらっている気がした。
「千景」
「何」
「俺、今日、めっちゃ嬉しかった」
筆が止まった。
「何が?」
「お前が、俺をアトリエに入れてくれたこと。音駒より俺を優先したって言うたこと。彼氏でええって言うたこと」
千景はゆっくり侑を見た。
「うん」
「おん、ちゃうわ。うん、でもない」
侑は少し笑った。
けれどすぐ真面目な顔になる。
「俺、たぶんずっと、お前にまた描いてほしかった」
千景の目が揺れた。
「描いてたよ」
「知っとる。今は知っとる。でも、知らんかった時も、たぶんそう思っとった」
侑は膝の上で手を握った。
「前の席におらんくなってから、ずっと腹立っとった。俺は悪ないって思っとったし、今でも破ったやつらは許せへん。でも、お前が描かんようになるんが一番嫌やったんかもしれん」
千景は何も言わない。
侑は続けた。
「今日、また描いてええかって聞かれて、めっちゃ嬉しかった」
静かな告白だった。
好き、という言葉ではない。
けれど千景には、それが侑らしい精一杯の線に見えた。
千景は筆を置いた。
そして、絵の具のついていない方の手で、侑の手に触れた。
「私は、ツムがバレーしてるところを見るのが好き」
侑の指がぴくりと動く。
「うん」
「怒ってるところも、笑ってるところも、悔しそうなところも描きたい」
「うん」
「たぶん、ツムのことが好き」
侑は息を止めた。
千景は淡々と言ったくせに、目だけは少し震えていた。
侑はその手を握り返した。
「たぶん、ちゃうやろ」
「じゃあ、好き」
侑は笑った。
どうしようもなく嬉しそうに。
「俺も好きや」
その言葉が落ちたあと、アトリエはひどく静かになった。
外を車が一台通り過ぎる。
遠くで犬が吠える。
絵の具と石鹸と、侑の髪に残ったシャンプーの匂いが混ざっている。
侑はゆっくり千景に近づいた。
急かさないように。
逃げ道を塞がないように。
「触ってええ?」
千景は頷いた。
「うん」
その夜のことを、千景は誰にも話さなかった。
侑も誰にも言わなかった。
ただ、ふたりの間にあった距離が、少しずつほどけていった。手を繋ぐ。額を寄せる。笑う。息をひそめる。名前を呼ぶ。
初めてのことばかりで、うまくいかないこともあった。
ぶつかって、止まって、笑って、また確かめる。
大切なものを乱暴に扱わないように、互いに少しずつ覚えていく夜だった。
千景は途中で何度も侑の顔を見た。
侑はそのたびに照れたように眉を寄せる。
「見すぎや」
「描きたい」
「今は描くな」
「あとで描く」
「ほんまブレへんな」
侑は呆れながらも、千景を抱き寄せた。
幸せというものがあるなら、たぶんこういう形をしている。
千景はそう思った。
深夜を過ぎても、千景は眠らなかった。
侑は明日も予定がある。
だから先に寝かせようとした。
けれど千景は、ベッドを抜け出し、アトリエに戻った。
今の感情が消える前に描かなければならなかった。
体は疲れている。
指も重い。
それでも筆を取る。
赤ではない。
金でもない。
白と、淡い青と、柔らかい黒。
バレーの絵ではなかった。
恋の絵とも少し違った。
何かを初めて大切に触れた夜の絵。
夜明け前、侑は目を覚ました。
隣に千景がいない。
一瞬、心臓が嫌な跳ね方をした。
けれどアトリエの方から、かすかな筆の音が聞こえた。
侑は起き上がり、扉の隙間から中を見た。
千景はまだ描いていた。
床に座り、半分倒れそうになりながら、紙の上へ色を置いている。
「……寝ろや」
侑は小さく呟いた。
けれど止めなかった。
それが千景なのだと、もうわかっていた。
朝、侑はランニングに出た。
知らない街の朝は、湿ったアスファルトと焼きたてのパンの匂いがした。息を吐くと白くなり、足音が住宅街に小さく響く。
走りながら、侑は何度も思い出した。
千景の声。
好き、と言った時の目。
自分をアトリエに入れてくれたこと。
自分の手を握り返したこと。
胸の奥が熱い。
けれど、足取りは軽かった。
戻ると、アトリエの扉が開いていた。
侑は中を覗き、ぎょっとした。
千景が床に倒れていた。
「千景!」
慌てて駆け寄る。
けれど、すぐに気づいた。
寝ている。
完成した絵の横で、筆を握ったまま眠っている。
侑はその場に膝をつき、深く息を吐いた。
「ほんま、心臓に悪いわ」
千景の顔には、疲れが濃く出ていた。
それでもどこか満足そうだった。
侑は完成した絵を見る。
胸が詰まった。
何を描いたのか、言葉では説明できない。
けれど、自分たちの夜がそこにあった。
音ではなく、形でもなく、色で。
侑はそっと千景の手から筆を抜き、近くに置いた。
それから彼女を抱き上げる。
軽い。
けれど、その腕の中にあるものは重かった。
絵にすべてを載せて生きている人間。
自分が大事にすると決めた人間。
侑は千景をベッドへ運び、布団をかけた。
そして、その隣に潜り込む。
千景が眠ったまま、少しだけ侑の方へ寄った。
侑は彼女を抱きしめる。
「大事にしよ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
窓の外では朝の光が少しずつ広がっていた。
千景は眠り続け、侑もその温かさに引かれるように目を閉じた。二度寝の浅い眠りの中で、彼は金色ではない、新しい色の夢を見た。