絵とバレーボール。この関係に名前はない。 作:an-ryuka
玄関の開く音で、宮侑は目を覚ました。
最初に感じたのは、知らない家の匂いだった。乾いた絵の具、木の床、洗剤、それから隣で眠る千景の髪の匂い。朝の光はカーテンの隙間から細く入り、部屋の中を淡く白くしていた。
千景はまだ眠っている。
昨夜、というより今朝まで絵を描いていたせいで、完全に電池が切れていた。侑の腕の中で丸くなり、呼吸は深い。普段の無表情に近い顔からは、少しだけ力が抜けている。
侑は起こさないように、そっと腕を抜いた。
廊下から、誰かが歩く音がする。
親。
その可能性に気づいた瞬間、侑の背筋が伸びた。
「……あかん」
髪は寝癖、服は借り物、しかも彼女の家で朝。
どう考えても、第一印象としては最悪寄りだった。
侑は慌てて立ち上がり、借りていた部屋着を整えた。鏡がどこにあるかもわからないまま、手ぐしで髪を直す。直らない。諦めた。
廊下に出ると、階段の下に女性が立っていた。
千景の母親だと、すぐにわかった。
顔立ちが似ている。静かな目、感情を大きく表に出さない口元。ただし千景よりずっと柔らかい雰囲気があり、肩にかけたストールからは薄く白檀のような香りがした。片手には紙袋、もう片方には額装業者のものらしい薄い封筒。
侑は反射的に頭を下げた。
「おはようございます。宮侑です。昨日は、その、泊めてもろて……」
言いながら、自分でも言葉の選び方が下手すぎると思った。
母親は侑をじっと見た。
怒られる。
そう覚悟した。
けれど彼女は、少しだけ目を細めた。
「あぁ、君か」
侑は顔を上げる。
「え?」
「千景がずいぶん描いていた子でしょう」
侑は固まった。
母親は靴を脱ぎ、自然な足取りで二階へ向かう。
「千景は?」
「寝てます。朝まで描いとって」
「でしょうね」
慣れている声だった。
アトリエの扉は開いたままだった。
母親は中を覗き、床に置かれた完成した絵を見た。昨日の夜、千景が眠る寸前まで描いていた絵。淡い青と白と柔らかい黒。そこに金がほんの少しだけ溶けている。
母親はしばらく黙った。
侑も、何も言えなかった。
その絵が何を意味するのか、正確にはわからない。けれど、自分たちの夜と朝がそこにあることだけはわかる。千景が言葉にしなかったもの。言葉にできなかったもの。全部、絵の中に置いてあった。
母親は静かに言った。
「これ、持っていっていい?」
背後から、かすれた声がした。
「……三日くらい置いといて」
千景が廊下に立っていた。
髪はほどけ、目は半分しか開いていない。寝起きの顔のまま、壁に手をついている。
侑が慌てて寄る。
「起きんでええやろ。寝とけ」
「今、取られそうだった」
「取られそうって」
母親は笑った。
「わかったわ。三日置く。じゃあ、ここら辺は先に持っていくわね」
「うぃ」
侑はそのやり取りを、ぽかんと見ていた。
「持っていくって、どこにですか」
母親が振り返る。
「ギャラリーと、複製用の撮影。それから契約先への確認ね」
「契約……?」
千景は眠そうに目をこすった。
「たまに、絵を使ってもらう」
「たまにちゃうやろ」
侑の声が思わず大きくなった。
千景は首を傾げる。
「そう?」
母親は封筒を机に置いた。
「この子、原画が手元にあれば大抵のことに興味がないの。ポスターも装画も展示も、細かい話は私たちがしているわ」
侑はアトリエを見回した。
壁に立てかけられた大量のキャンバス。
棚に積まれたスケッチブック。
額装された作品。
大会ポスターに使われたような絵。
知らない誰かが買ったのだろう作品の控え。
今さら、理解が追いついてきた。
千景はただ絵がうまい人間ではない。
絵で、もう世界と繋がっている。
職業にできている。
稼いでいる。
それを本人だけが、あまりにも平然と扱っている。
「千景、お前……すごいやつやったんやな」
侑が呟くと、千景は少し考えた。
「ツムもすごいでしょ」
「今その返しするんか」
「バレー、仕事にするんでしょ」
侑は言葉に詰まった。
まだ高校生で、未来は決まっているようで決まっていない。それでも、自分がバレーから離れる未来は見えなかった。
千景はあたりまえみたいに続ける。
「私は絵。ツムはバレー。たぶん、同じ」
その言葉は、侑の胸に深く落ちた。
同じ。
誰かにそう言われたかったのかもしれない。
自分の中にある執着も、負けず嫌いも、バレーのためなら何でも削れる感覚も。千景には、説明しなくても少しだけ通じている。
母親はそんな二人を見て、穏やかに言った。
「今後ともよろしくね、宮くん」
侑は姿勢を正した。
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
千景はその横で、まだ半分眠っていた。
「母さん、ごはん」
「はいはい。宮くんも食べるでしょう?」
「いただきます」
朝食の席で、侑はさらに青砥家の異様さを知った。
食卓には焼き魚と味噌汁、卵焼きが並んでいる。普通の朝食だった。けれど会話の内容が普通ではない。
「昨日の青い絵、三日後に撮影でいい?」
「いい」
「前に描いた音駒の連作、追加で二点ほしいって」
「今は無理。ツム描く」
侑は味噌汁を吹き出しかけた。
母親は平然と頷く。
「じゃあ来月にするわ」
「うん」
「インターハイ関係の人からも、また連絡来ているわよ」
「原画戻ってくる?」
「それはもちろん」
「ならいい」
侑は箸を持ったまま千景を見た。
「お前、ほんまに基準そこなんやな」
「そこ大事」
「大事なんはわかるけど」
千景は卵焼きを口に運びながら言う。
「原画がないと、描いた時のこと忘れる」
侑は黙った。
その言葉だけは、軽く聞けなかった。
破れたスケッチブック。
修復された紙。
忘れないために、手元に置くもの。
侑は少しだけ声を落とした。
「ほな、俺も忘れられへんな」
千景が顔を上げる。
「うん」
短い返事。
でも、その目はまっすぐ侑を見ていた。
侑は耳が熱くなるのを感じて、味噌汁を飲んだ。
昼前、侑は予定のために家を出ることになった。
玄関で靴を履く間、千景は隣に立っていた。見送りというより、ただそこにいるだけの顔をしている。
「また送る」
「絵?」
「うん」
「絵以外も送ってええんやで」
千景は少し考えた。
「何を?」
「今日何食ったとか、眠いとか、そういうん」
「必要?」
「必要」
侑が即答すると、千景は目を瞬かせた。
「わかった。努力する」
「努力いるんか」
「いる」
侑は笑った。
そして、少し迷ってから手を伸ばした。
千景の指に触れる。
千景は自然に握り返した。
昨日より、少しだけ迷いがない。
それだけで、侑は胸がいっぱいになった。
「また来る」
「うん」
「次は俺んとこも来いや」
「兵庫?」
「おう」
千景は一瞬だけ黙った。
稲荷崎。
破れた紙。
前の席。
消えるように転校した日。
侑はその沈黙に気づき、握る手に力を入れすぎないようにした。
「無理せんでええ。でも、いつか」
千景は侑を見た。
「うん。いつか」
その返事で十分だった。
侑は玄関を出た。
冬の空気が頬に触れる。振り返ると、千景がまだそこに立っている。
彼女は手を振らない。
侑も、少しだけ顎を上げるだけにした。
それで通じる気がした。
駅へ向かう道で、侑のスマホが震えた。
千景からだった。
写真ではない。
文字。
『眠い』
侑は道の真ん中で吹き出した。
すぐに返信する。
『寝ろ』
数秒後。
『絵を見てから寝る』
侑は笑いながら、画面を見つめた。
もう待ち受けは、金色の抽象画から変えていない。
けれど今朝見た青い絵も、いつか送られてくるかもしれない。
その時はまた保存する。
たぶん、ずっと。
侑はスマホをポケットにしまい、東京の冷たい風の中を歩き出した。胸の奥には、バレーとは違う熱があった。けれどそれは、バレーを邪魔するものではなかった。
むしろ、もっと高く跳べる気がした。