絵とバレーボール。この関係に名前はない。   作:an-ryuka

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9.

玄関の開く音で、宮侑は目を覚ました。

 

最初に感じたのは、知らない家の匂いだった。乾いた絵の具、木の床、洗剤、それから隣で眠る千景の髪の匂い。朝の光はカーテンの隙間から細く入り、部屋の中を淡く白くしていた。

 

千景はまだ眠っている。

 

昨夜、というより今朝まで絵を描いていたせいで、完全に電池が切れていた。侑の腕の中で丸くなり、呼吸は深い。普段の無表情に近い顔からは、少しだけ力が抜けている。

 

侑は起こさないように、そっと腕を抜いた。

 

廊下から、誰かが歩く音がする。

 

親。

 

その可能性に気づいた瞬間、侑の背筋が伸びた。

 

「……あかん」

 

髪は寝癖、服は借り物、しかも彼女の家で朝。

 

どう考えても、第一印象としては最悪寄りだった。

 

侑は慌てて立ち上がり、借りていた部屋着を整えた。鏡がどこにあるかもわからないまま、手ぐしで髪を直す。直らない。諦めた。

 

廊下に出ると、階段の下に女性が立っていた。

 

千景の母親だと、すぐにわかった。

 

顔立ちが似ている。静かな目、感情を大きく表に出さない口元。ただし千景よりずっと柔らかい雰囲気があり、肩にかけたストールからは薄く白檀のような香りがした。片手には紙袋、もう片方には額装業者のものらしい薄い封筒。

 

侑は反射的に頭を下げた。

 

「おはようございます。宮侑です。昨日は、その、泊めてもろて……」

 

言いながら、自分でも言葉の選び方が下手すぎると思った。

 

母親は侑をじっと見た。

 

怒られる。

 

そう覚悟した。

 

けれど彼女は、少しだけ目を細めた。

 

「あぁ、君か」

 

侑は顔を上げる。

 

「え?」

 

「千景がずいぶん描いていた子でしょう」

 

侑は固まった。

 

母親は靴を脱ぎ、自然な足取りで二階へ向かう。

 

「千景は?」

 

「寝てます。朝まで描いとって」

 

「でしょうね」

 

慣れている声だった。

 

アトリエの扉は開いたままだった。

 

母親は中を覗き、床に置かれた完成した絵を見た。昨日の夜、千景が眠る寸前まで描いていた絵。淡い青と白と柔らかい黒。そこに金がほんの少しだけ溶けている。

 

母親はしばらく黙った。

 

侑も、何も言えなかった。

 

その絵が何を意味するのか、正確にはわからない。けれど、自分たちの夜と朝がそこにあることだけはわかる。千景が言葉にしなかったもの。言葉にできなかったもの。全部、絵の中に置いてあった。

 

母親は静かに言った。

 

「これ、持っていっていい?」

 

背後から、かすれた声がした。

 

「……三日くらい置いといて」

 

千景が廊下に立っていた。

 

髪はほどけ、目は半分しか開いていない。寝起きの顔のまま、壁に手をついている。

 

侑が慌てて寄る。

 

「起きんでええやろ。寝とけ」

 

「今、取られそうだった」

 

「取られそうって」

 

母親は笑った。

 

「わかったわ。三日置く。じゃあ、ここら辺は先に持っていくわね」

 

「うぃ」

 

侑はそのやり取りを、ぽかんと見ていた。

 

「持っていくって、どこにですか」

 

母親が振り返る。

 

「ギャラリーと、複製用の撮影。それから契約先への確認ね」

 

「契約……?」

 

千景は眠そうに目をこすった。

 

「たまに、絵を使ってもらう」

 

「たまにちゃうやろ」

 

侑の声が思わず大きくなった。

 

千景は首を傾げる。

 

「そう?」

 

母親は封筒を机に置いた。

 

「この子、原画が手元にあれば大抵のことに興味がないの。ポスターも装画も展示も、細かい話は私たちがしているわ」

 

侑はアトリエを見回した。

 

壁に立てかけられた大量のキャンバス。

 

棚に積まれたスケッチブック。

 

額装された作品。

 

大会ポスターに使われたような絵。

 

知らない誰かが買ったのだろう作品の控え。

 

今さら、理解が追いついてきた。

 

千景はただ絵がうまい人間ではない。

 

絵で、もう世界と繋がっている。

 

職業にできている。

 

稼いでいる。

 

それを本人だけが、あまりにも平然と扱っている。

 

「千景、お前……すごいやつやったんやな」

 

侑が呟くと、千景は少し考えた。

 

「ツムもすごいでしょ」

 

「今その返しするんか」

 

「バレー、仕事にするんでしょ」

 

侑は言葉に詰まった。

 

まだ高校生で、未来は決まっているようで決まっていない。それでも、自分がバレーから離れる未来は見えなかった。

 

千景はあたりまえみたいに続ける。

 

「私は絵。ツムはバレー。たぶん、同じ」

 

その言葉は、侑の胸に深く落ちた。

 

同じ。

 

誰かにそう言われたかったのかもしれない。

 

自分の中にある執着も、負けず嫌いも、バレーのためなら何でも削れる感覚も。千景には、説明しなくても少しだけ通じている。

 

母親はそんな二人を見て、穏やかに言った。

 

「今後ともよろしくね、宮くん」

 

侑は姿勢を正した。

 

「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」

 

千景はその横で、まだ半分眠っていた。

 

「母さん、ごはん」

 

「はいはい。宮くんも食べるでしょう?」

 

「いただきます」

 

朝食の席で、侑はさらに青砥家の異様さを知った。

 

食卓には焼き魚と味噌汁、卵焼きが並んでいる。普通の朝食だった。けれど会話の内容が普通ではない。

 

「昨日の青い絵、三日後に撮影でいい?」

 

「いい」

 

「前に描いた音駒の連作、追加で二点ほしいって」

 

「今は無理。ツム描く」

 

侑は味噌汁を吹き出しかけた。

 

母親は平然と頷く。

 

「じゃあ来月にするわ」

 

「うん」

 

「インターハイ関係の人からも、また連絡来ているわよ」

 

「原画戻ってくる?」

 

「それはもちろん」

 

「ならいい」

 

侑は箸を持ったまま千景を見た。

 

「お前、ほんまに基準そこなんやな」

 

「そこ大事」

 

「大事なんはわかるけど」

 

千景は卵焼きを口に運びながら言う。

 

「原画がないと、描いた時のこと忘れる」

 

侑は黙った。

 

その言葉だけは、軽く聞けなかった。

 

破れたスケッチブック。

 

修復された紙。

 

忘れないために、手元に置くもの。

 

侑は少しだけ声を落とした。

 

「ほな、俺も忘れられへんな」

 

千景が顔を上げる。

 

「うん」

 

短い返事。

 

でも、その目はまっすぐ侑を見ていた。

 

侑は耳が熱くなるのを感じて、味噌汁を飲んだ。

 

昼前、侑は予定のために家を出ることになった。

 

玄関で靴を履く間、千景は隣に立っていた。見送りというより、ただそこにいるだけの顔をしている。

 

「また送る」

 

「絵?」

 

「うん」

 

「絵以外も送ってええんやで」

 

千景は少し考えた。

 

「何を?」

 

「今日何食ったとか、眠いとか、そういうん」

 

「必要?」

 

「必要」

 

侑が即答すると、千景は目を瞬かせた。

 

「わかった。努力する」

 

「努力いるんか」

 

「いる」

 

侑は笑った。

 

そして、少し迷ってから手を伸ばした。

 

千景の指に触れる。

 

千景は自然に握り返した。

 

昨日より、少しだけ迷いがない。

 

それだけで、侑は胸がいっぱいになった。

 

「また来る」

 

「うん」

 

「次は俺んとこも来いや」

 

「兵庫?」

 

「おう」

 

千景は一瞬だけ黙った。

 

稲荷崎。

 

破れた紙。

 

前の席。

 

消えるように転校した日。

 

侑はその沈黙に気づき、握る手に力を入れすぎないようにした。

 

「無理せんでええ。でも、いつか」

 

千景は侑を見た。

 

「うん。いつか」

 

その返事で十分だった。

 

侑は玄関を出た。

 

冬の空気が頬に触れる。振り返ると、千景がまだそこに立っている。

 

彼女は手を振らない。

 

侑も、少しだけ顎を上げるだけにした。

 

それで通じる気がした。

 

駅へ向かう道で、侑のスマホが震えた。

 

千景からだった。

 

写真ではない。

 

文字。

 

『眠い』

 

侑は道の真ん中で吹き出した。

 

すぐに返信する。

 

『寝ろ』

 

数秒後。

 

『絵を見てから寝る』

 

侑は笑いながら、画面を見つめた。

 

もう待ち受けは、金色の抽象画から変えていない。

 

けれど今朝見た青い絵も、いつか送られてくるかもしれない。

 

その時はまた保存する。

 

たぶん、ずっと。

 

侑はスマホをポケットにしまい、東京の冷たい風の中を歩き出した。胸の奥には、バレーとは違う熱があった。けれどそれは、バレーを邪魔するものではなかった。

 

むしろ、もっと高く跳べる気がした。

 

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