■喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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一話:喰べられ続ける、歓びを

【悪夢の世界】

 

 石畳の隙間から、血がゆっくりと染み込んでいく。

 私の血か、彼女の血か、もう区別がつかない。どちらも温かく、どちらも腐ったような鉄の匂いがした。

 

 古狩人は私の足元で、ゆっくりと体を溶かしていた。黒いコートが瓦礫にへばりつき、ベルトの金具が最後に小さく鳴った。彼女は痛みではなく、安堵の表情を浮かべていた。それが何より胸を抉る。

 

「……ああ、やっと死ねる」

 

 掠れた、けれどどこか嬉しそうな声。彼女は細い指で私のブーツの先を軽く叩いた。まるで「よくやった」と褒めるように。

 

「みんな、久しぶりに会えるね。遅くなってしまったが、一緒にご飯を食べよう。あの時の約束を」

 

 その言葉が、肺の奥に沈む。深海のように重い。暗くて、冷たくて、どこまでも落ちていく罪悪感。

 

 息ができない。家族を殺して生き残った私が、こんなにも簡単に「死」を与える側になっていることが許せなかった。

 

 彼女は私だ。私が未来でこうなるのだとしたら、私は結局、誰一人救えずに、ただ殺し続けて、それで終わる。

 彼女は最後に、私を見上げた。金色に近い灰色の瞳が、優しく細められる。

 

「貴方に力を託すよ。好きに使って」

 

 視線の先には、私の右手。

 血と肉片にまみれたノコギリ鉈が、ずしりと重かった。刃は彼女の骨を砕いた感触を、まだ覚えている。

 古狩人が消える。

 ……私はまた、誰かを殺した。

 今日も、生きてしまった。

 

【現実:私室】

 

 目が覚めた。

 カーテンの隙間から、夏の朝の光が容赦なく流れ込んでくる。

 

 眩しい。世界が幸せそうに輝いているのが、目に焼ける。鳥の声も、遠くの車の音も、近所の誰かの笑い声も、全部が私を拒絶しているように感じる。

「生きている」ことが、こんなにもまぶしくて、こんなにも痛いなんて。

 私はベッドの上でゆっくりと体を起こした。

 左腕の再生痕が、まだ少し熱を持っている。昨夜、悪夢の中で斬られた場所だ。現実ではもう傷は消えているのに、痛みと記憶だけが残る。

 

「……学校、行かなきゃ」

 

 声に出して呟くと、なんだか滑稽だった。家族を失って、不死身になって、毎晩誰かを殺して血の意思を集める。

 

 それでも私は制服に袖を通し、教科書を鞄に詰めて、平凡な高校生を演じ続ける。

 鏡に映る自分の顔は、相変わらず感情が薄い。

 死にたいのに死ねない。

 殺したくないのに、殺してしまう。

 私はただ、あの日に帰りたいだけなのに。

 

「いきたくないなぁ」

 

 深海の底のような罪悪感を抱えたまま、私は今日も、眩しすぎる朝の世界へ足を踏み出した。

 手にはノコギリ鉈の重さが残っている気がした。

 

 私はベッドから降り、クローゼットの前に立った。制服のブラウスとスカートを手に取りながら、ふと自分の左腕に目を落とす。

 事故の日の大火傷が、まだくっきりと残っている。肩から肘にかけて、溶けたような赤紫の痕が這い上がり、指先まで歪に広がっている。皮膚は硬く、引きつり、触れるだけで記憶が蘇る——炎の音、家族の叫び声、鉄と肉が焼ける匂い。

 

 私は長袖のブラウスを着込んだ。

 夏の朝だというのに。袖口を指先まで伸ばし、ボタンを一つずつ留める。痕を隠すための儀式。誰にも見せたくない。この醜い生き残りの証を。

 

 鏡の中の私は、相変わらず表情が薄い。

 死にたい顔をしているのに、死ねない体。

 心の奥底では、もう雨が降り始めていた。

 私の内面世界である灰色の街。そこに冷たい雨が静かに、しかし容赦なく叩きつけている。水位がゆっくりと上がっていく。

 膝まで、腰まで、胸まで。やがて全てが深海に沈む。

 事故以来、ずっとこうだ。挫折するたび、孤独を感じるたび、雨は降り続く。

 

 あの交通事故で家族を失ってから、私は毎晩、悪夢の世界へ落ちるようになった。獣のような妖怪、上位の狩人、名も知らぬ異形たちを、ノコギリ鉈で切り刻み、殺し続けた。

 

 現実でも同じだった。

 妖怪たちは私の匂いを嗅ぎつけてやってくる。最初は、ただ喰われているだけだった。家族を殺して一人で生き残ったこの身を、理不尽な存在に全部全部食い散らかしてほしかった。なのに、私は不死身に変わってしまった。

 

 傷は再生し、痛みだけが残るだけで、喰われ続けても死なない。弱い妖怪など時間の無駄だと気づいた私は、悪夢で得た力を使って、妖怪を狩り始めた。

 殺せば殺すほど強くなる。強くなるほど、人間性が削れていく。段々と強い相手と殺しあっている時だけが私を罪悪から救ってくれるような気分になった。

 

「……はぁ」

 

 小さく息を吐くと、部屋の外から聞こえる蝉の声が、耳に突き刺さる。カーテンを開けると、夏の太陽が容赦なく差し込んできた。

 世界は眩しすぎる。

 空は青く、風は温かく、近所の家の庭では花が咲き誇り、誰かの笑い声が響いている。

 すべてが、幸せそうに輝いている。

 

 その光が、私の目に焼ける。心は真っ暗な深海の底に沈んだまま。雨は止まない。水は冷たく、重く、私の肺を締め付ける。

 家族の笑顔が、波の底に揺らめいては消える。

 

「ごめんね」

「生きていて」

「お前だけでも」

 

 そんな言葉が、泡のように浮かんでは弾ける。私は鞄を肩にかけ、ノコギリ鉈の感触を胸の奥にしまい込んだ。

 今日も学校へ行かなければならない。制服を着て、授業を受け、友達のフリをして、普通の高校生を演じる。

 

 外は苦しいほど暑くて眩しい。だけど私の心は、ずっと水没したまま。誰も知らない深海で、ただ一人、罪の重さに沈み続けている。

 玄関のドアを開けると、夏の熱気が一気に押し寄せてきた。私は目を細め、ゆっくりと一歩を踏み出した。

 今日も、生きてしまうのだろう。

 この、救いようのない歓びを、背負いながら。

 

【通学】

 

 外に出た瞬間、夏の熱気が肌にまとわりついた。

 私は小さく息を吐く。

 

「……暑い」

 

 夏は嫌いだ。この季節になると、記憶の中の家族が、妄想の中で私を責め立てる。

 

「お前だけ生き残って」

「なんで私たちを置いて」

「比名子、酷いよ」

 

 そんな言葉を、絶対に言わない優しい人たちが、勝手に歪んでいく。

 やめて。

 私の大切な家族を、汚さないで。

 私の罪悪感が、家族の記憶まで黒く染めていく。事故の炎の中で溶けたように、優しかった笑顔がねじ曲がっていく。助けてあげられなかった私が、生きていること自体が、家族を穢している気がしてならない。

 

 道を歩く。

 朝の住宅街は、幸せそうに輝いていた。友達同士で笑いながら登校する女子たち、母親と手を繋いで歩く幼い子供、道端で自転車を倒して笑い合う少年たち。

 平和な世界が続いている。笑顔が溢れている。大切な人が生きているのが、当たり前だと思える世界。

 

 あの血生臭い悪夢の世界とは、違う。

 ここでは人は、人のまま生きていられる。

 私はその輪の外にいる。

 空虚だった。胸の奥で雨が降り続き、世界はゆっくりと水没していく。高層ビルが海の底に沈み、家族の声が泡になって消えていく。

 空はまぶしく輝き、海面はキラキラと光を反射している。でも私には、それが真っ暗な闇にしか見えない。

 あの暗闇の中に飛び込んで、この存在ごと沈めてしまいたかった。

 

 全部、終わりにしたかった。海辺の道に差し掛かったとき、ふらりと足が水面に近づいた。波の音が、家族の最後の叫びのように聞こえる。

 その瞬間——

 

「っ」

 

 柔らかい手に、腕を掴まれた。振り向くと、そこにいたのは青い髪と青い瞳の少女だった。白いワンピースが、夏の光の中でまぶしすぎるほどに純白に見える。

 

「あの」

「……危ないですよ、そんなふうに水面ばかり見ていては」

 

 私は淡々と答えた。

 

「……すみません。でも大丈夫ですよ、落ちることはないです」

「そうですか? 私はてっきり身投げでもしようとしているのかと」

「そんな風に見えました? さすが、妖怪ですね。人の心は手に取るようにわかる、とか」

 

 少女が、はっきりと驚いた顔をした。青い瞳が大きく見開かれる。その表情が、なぜか胸の奥の深海を少しだけざわめかせた。

 

「わかりますよ、そういうの。私を食べたい妖怪は最近は多いですから。貴方を殺すのは後で。今は学校があるので失礼します」

 

 私は掴まれた腕を静かに振りほどき、一礼をした後に歩き出そうとした。

 

「……貴方の身に一体何が」

 

 背中に、ショックを受けたような声が突き刺さる。私は振り返らずに、ただ一言だけ残した。

 

「特に、何も」

 

 心の中では、雨が激しくなっていた。

 家族の記憶がまた、歪に笑う。

 お前は生き残った罰として、永遠にこの夏を味わえ——と。

 眩しい世界を背に、私は学校へと向かった。後ろで、美しい人魚がまだ私を見つめている気配がした。


 その視線が、優しさであることも、呪いであることも、すでに知っていた。私はただ、深海の底で、静かに沈み続けていた。

 

【学校】

 

 教室の窓際、自分の席に腰を下ろすと、制服の長袖が腕の火傷痕を隠してくれる。椅子に座った瞬間、背もたれに体を預けると、深海の圧力がゆっくりと肩にのしかかってきた。

 

「やっほー、比名子! おはよー!」

 

 勢いよく駆け寄ってきた赤い髪が、視界の端で跳ねる。社美胡だ。
彼女は私の机に両手をつき、身を乗り出して笑顔を向けてくる。金色の瞳が、朝の光を浴びてきらめいていた。

 

「今日は一緒に学校に行けなくてごめんね!」

「……ううん、大丈夫だよ。最近調子悪いよね。大丈夫?」

「うん、へーきへーき! 全然平気!」

 

 美胡はそう言って、明るく笑い飛ばした。
彼女は妖狐だ。土地神のクラスにまで至った強大な存在でありながら、本来は人を喰らう妖怪。

 

 それなのに、人と同じ価値観で生き、人に寄り添っている。騙すのでもなく、誑かすのでもなく、ただ自然に輪の中に入っていく。その姿勢を、私は密かに尊敬していた。

 

 人外でありながら、人でいられる。

 私には、到底真似できないことだった。美胡はすぐに他のクラスメイトに声をかけ、楽しそうに輪に加わっていく。笑い声が教室に広がる。私はただ、席に座ったまま、静かにそれを見ていた。

 

 その瞬間、私の世界は音を失った。光が遠のき、冷たい水が教室の床からゆっくりと溢れ出す。机も、椅子も、笑う友人たちも、すべてが深海に沈んでいく

 

 胸の奥で重い圧力が、私を押し潰す。息が苦しい。私はただ、表面だけを保って、頷いたり、微笑んだりする。

 

【放課後】

「一緒に帰ろうー!」

 

 美胡が鞄を肩にかけ、駆け寄ってきた。

 

「うん、良いよ」

「あっ、やばっ。今日呼び出されてたんだった!? ちょっと待ってて!」

「ふふ、待ってるね」

 

 美胡は慌てて職員室の方へ小走りに去っていった。私は一人、校舎を出て、なんとなく足を動かし始めた。

 歩く。一歩、また一歩。
地面を踏む感触が遠い。
蝉の声がうるさく、夏の陽射しが容赦なく肌を焼く。
道は自然と海の方へ続いていた。

 海風が頰を撫でる。
波の音が近づく。

 コツン。

 小さな石を踏んだ音がした。

 目の前に、青い髪を夏風になびかせた少女が立っていた。白いワンピースの裾が、潮風に軽く揺れている。青い瞳が、私をまっすぐ捉える。

 

「また会えましたね」

 

 私は無言で右手を胸元に寄せた。

 内側——悪夢の世界から、ずしりと重い感触を引きずり出す。

 指が柄を握る。血の記憶が蘇る。

 ノコギリ鉈が、現実の空間にその刃を現した。刃の歯が、陽光を鈍く反射する。私はゆっくりと一歩を踏み出し、鉈を軽く構えた。

 体重を後ろ足に預け、いつでも振り下ろせる位置に。

 

「また会えましたね、比名子」

 

 人魚の声は穏やかで、まるで再会の喜びを伝えるかのようだった。 

 

「……人魚さん。貴方は私を食べ切れるかな。できないなら狩らせてもらうね」

 

 私は静かにそう告げ、左足を一歩前に出した。
膝を軽く曲げ、重心を低く落とす。

 

 ノコギリ鉈の刃をわずかに傾け、切っ先を彼女の首筋に向ける。風が、刃と私の長袖の間を通り抜ける。

 

 深海の底で、雨が激しく叩きつけていた。

 

 家族の歪んだ記憶が、私を責め立てる中、私はただ、目の前の「優しさ」を狩るための動きだけに集中した。

人間に擬態した人魚の青い瞳が、わずかに揺れた。

 私は次の動作を待つように、静かに息を吐いた。

 夏の陽射しが、血を欲する刃を照らしている。

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