喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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10話:悪夢の世界・破

 

 血の匂いに導かれるように、私たちは悪夢の臓物たる路地を突き進んだ。道中、物陰から躍り出る歪んだ影たちを、私は機械的に処理していく。

 

 ノコギリ鉈が肉を裂き、骨を砕く手応えが、私の右腕を通じて冷徹に脳へと伝わる。一度引き金を引いて見せた私に対して、汐莉さんと美胡ちゃんは、もう余計な言葉を発しなかった。

 

 ただ、私の足跡をなぞるように、それぞれの異形としての力を振るい、私の背後を固めている。だが、この世界が私たちを容易く解放してくれるはずもなかった。

 唐突に、頭上の空間が爆ぜる。

 

「――来るわ!」

 

 美胡ちゃんの鋭い警告と同時に、灰色の天蓋を引き裂いて、それは「降ってきた」。

 轟音とともにアスファルトを爆砕し、土煙の向こうから姿を現したのは、日常の倫理を遥かに超越した巨大な獣だった。

 

 複数の肢は異常に肥大化し、その全身は犠牲者たちの未練と怨嗟が固まったような、悍ましい黒い毛並みに覆われている。獣が咆哮を上げると、周囲の空間そのものがビリビリと震え、大気が濁った。

 

「大きいですね……! 攻撃範囲が広く、視認性も悪そうな相手」

 

 汐莉さんが青い髪をなびかせ、地を蹴る。

 

「比名子に触らせるもんですか……っ!」

 

 美胡ちゃんもまた、金色の瞳に敵意を滾らせて跳躍した。私たちは驚きに息を呑みながらも、すでに身体は最適化された戦いのステップを踏んでいた。

 

 獣の巨躯から繰り出される、暴風のような質量攻撃。それを紙一重で回避しながら、三方向から同時に刃と爪、そして法を叩き込んでいく。

 

 私はノコギリ鉈を長大に変形させ、獣の分厚い皮膚を削り取るように斬りつけた。汐莉さんの放つ冷徹な一撃が獣の肉を凍らせ、美胡ちゃんの烈火のごとき爪がそれを砕く。

 

 確実に、相手の体力を削っている手応えはあった。しかし、敵の巨躯から放たれる一振りの一撃はあまりにも重く、まともに喰らえば不老不死の肉体であっても一瞬で肉塊に変えられかねない。

 

 攻防の最中、私は獣の突出した左腕に、強烈な一撃を叩き込んだ。ノコギリ鉈の刃が骨を断つ鈍い音が響き、獣の巨大な左腕がボロ雑巾のように自重で垂れ下がる。

 その瞬間、世界の法則が切り替わるのを感じた。

 

「……動きが鈍った?」

 

 美胡ちゃんが声を上げる。腕を破壊された獣は、先ほどまでの凶暴な連続攻撃をピタリと止め、苦悶の声を上げながら、傷口から黒い霧を噴き出させていた。それは肉体を「再生」させようとする拒絶の動き。だが、その修復が行われている間、獣の攻撃頻度は目に見えて落ち、その巨躯は格好の標的へと成り下がった。

 

「腕」

 

 私は短く叫んだ。

 

「腕を壊せば、攻撃力が大幅に落ちる! 再生している間は、動きが限定される!」

「そういうことなら、話は早いですね!」

汐莉さんが歓喜に満ちた声を上げ、凍てつく波導を獣のもう片方の腕へと集中させる。

 

「逃がさない、木端微塵に拘束してあげる!」

 

 美胡ちゃんが鎖を伸ばし、獣の動きをさらに縛り付けた。

 ここからは、冷徹な作業だった。

 私たちは明確な殺意のもとに役割を分担し、積極的に獣の腕を狙って攻撃を集中させた。一本の腕を破壊し、再生のために隙を晒した獣の、さらに別の部位を破壊する。

 

 ハメ技のように繰り返される破壊の連鎖の中で、かつて神話の眷属のようだった巨獣は、ただの哀れな肉の塊へと貶められていった。そして、最期の時が訪れる。

 

 私が手繰り出した散弾銃の至近距離での一撃が、獣の眉間を正確に撃ち抜いた。内側から爆散した獣は、断末魔の悲鳴をあげることも許されず、黒い塵となって悪夢の虚空へと霧散していった。

 

 静寂が戻る。いや、まだ終わっていない。霧散した獣の残滓の向こう側、路地の最奥に、それは鎮座していた。

 

『移設型バリスタ』。

 

 正面を禍々しい鉄の装甲で固めた、この階層の主。けれど、獣という最大の盾を失ったそれは、今やただの無防備な機械仕掛けの塊に過ぎなかった。

 

 私は背後に回り込み、ノコギリ鉈をその動力部へと深く、深く突き立て、抉るように回転させた。

 バキ、という、世界の骨組みが折れるような音が響いた。その瞬間から、周囲の景色が急速に変質し始める。

 

 強固だったコンクリートの壁が、水に濡れた絵の具のように滲み、輪郭がぼやけていく。灰色の空が内側からひび割れ、現実の光がその隙間から漏れ出してきた。

 

 悪夢の世界が崩壊し、私たちを元の場所へと吐き出し始めたのだ。不意に浮遊感が襲い、私は意識の輪郭を手放した。

 

 

「……はぁ」

 

 浅い呼吸とともに、視界が跳ね起きる。鼻腔を満たしていた鉄と硝煙の匂いは消え去り、代わりに嗅ぎ慣れた、少し古びた畳と木材の匂いが漂っていた。

 

 そこは、私の家のリビングだった。

 現実世界の、私の部屋。

 カーテンの隙間から、まだ薄暗い早朝の淡い光が差し込んでいる。デジタル時計の数字は、私たちが悪夢へ旅立った時間から、ほとんど進んでいないことを示していた。

 

「帰って……これた?」

 

 床に座り込んだまま、美胡ちゃんが自分の両手を見つめ、それからすぐに私を見た。その瞳には、先ほどまでの戦闘の興奮ではなく、現実に戻ったことで生々しく蘇った、私への「心配」と「恐怖」が再び溢れそうになっていた。

 

「ええ、無事の帰還です。よかったですね、比名子」

 

 私のすぐ隣、ソファに腰掛けた汐莉さんが、何事もなかったかのように微笑む。彼女の青い髪は、現実の光を浴びて、どこか非現実的なほど美しく輝いていた。

 

 私たちは、私の家に三人でいた。

 悪夢を乗り越えた達成感などそこにはない。ただ、一度壊れて再生した私の身体と、彼女たちの歪んだ愛の残響だけが、狭い部屋の中に重苦しく満ちていた。

 

「それで、比名子。全部話してほしいな。誤魔化さないで、全部」

 

 

美胡ちゃんの声は、私の家の狭いリビングの空気を鋭く震わせた。畳の上に正座した彼女の金色の瞳は、かつてないほど冷たく、そして切実に私を射すくめている。隣のソファに座る汐莉さんも、いつも崩さない陽気な笑みを消し去り、ただ静かに私を見つめていた。

 

 私は二人の視線を受け止めながら、少しだけ困ったように頬を掻いて、それからできるだけ明るいトーンで、ぽつりぽつりと話し始めた。

 

「うんとね……まず、あれは『悪夢の世界』。人のトラウマとか未練が形になっちゃった、時間が狂った別の世界なんだ。美胡ちゃんが言った通り、あの世界では私、死んでも死なないの。どれだけ肉体をバラバラにされても、頭を吹き飛ばされても、気がついたらまた元通り。……あ、でもね、痛いものはちゃんと痛いんだよ? 毎回、息が止まるくらい痛くて、それはちょっと嫌なんだけどね」

 

 私は「参っちゃうよね」とでも言うように、うふふ、と軽く笑ってみせた。

 二人に余計な心配をかけたくなくて、なるべく他愛のない世間話みたいに、朗らかに響くように言葉を選ぶ。

 

「あの世界から現実に戻るには、ルールがあるの。ただ待ってても駄目。あそこにある『手記』に書かれた目標――さっきのバリスタの破壊みたいなミッションを、ちゃんと達成しなきゃいけない。だから私は、あそこに落ちている武器を拾って、使い方を覚えて、敵を殺しながら進むしかなかったの。……うん、もうずっと、ずっとね」

「ずっとって……いつから?」

 

 美胡ちゃんが絞り出すような声で訊ねてくる。拳を握りしめる彼女の指先が、白く強張っていた。

 

「いつからだっけ。ほら、あの家族旅行の帰りに、交通事故があったでしょう? お父さんもお母さんも、みんな死んじゃって、私だけが生き残ったあの時から、かな。あの夜から、私は毎晩、あの悪夢に呼ばれるようになったの。最初はただ逃げ回るだけで何度も殺されてたんだけど、戦い続けてるうちに、悪夢のアイテムを現実にも持ち出せるようになっちゃって。悪夢に逃げたい時に使う拳銃も、あそこで手に入れたものなんだ」

 

 私は懐の拳銃に触れながら、思い出すように目を細めた。家族を失ったあの日に私の時間は止まった。

 

 生き残ってしまったという、胸が潰れそうな罪悪感。

 学術名:サバイバーズ・ギルトという名の底なしの泥濘。そこから逃れる術を、私はあの過酷な夜に見出したのだ。

 

「でもね、悪いことばかりじゃないんだよ。私、気づいちゃったの。悪夢の世界で武器を振り回して、必死に敵を殺し合っている間だけは……胸の奥がすうっとして、辛くて苦しいことを全部忘れられるの。あそこにいる時だけが、私の心が一番落ち着くんだ。だから、私にとっては必要な場所なんだよ」

 

 私は二人の顔を見て、心からの、満面の笑顔を浮かべた。

 

 「だから心配しないで」という意味を込めて、学校で友達に笑いかける時のように、朗らかに、無邪気に。だが、私の言葉が響き渡ったリビングは、ただひたすらに静まり返っていた。

 

 美胡ちゃんは完全にうつむき、唇を血がにじむほど強く噛み締めている。その肩は微かに震えていて、私に向けられた金色の瞳には、言葉にならない絶望と激しい憤怒が綯い交ぜになっていた。

 

 幼馴染としての日常が、私の内側の地獄を何一つ救えていなかったという事実に、彼女は打ちのめされているようだった。

 

 いつもなら都合よく話を先導するはずの汐莉さんも、信じられないほどテンションが低かった。

 ソファの上で身じろぎもせず、ただ幽霊のように青い瞳を曇らせている。

 幸せに喰べる、というのが難しくなったからだろうか? 少女を終わりのない死と再生の戦闘狂へと変え、日常ではなく戦場にしか救いを見出せない怪物にしてしまった。

 

その因果の重さに、彼女の100%の善意は、今や完全に窒息しかけていた。

「……そっ、か」

 

 美胡ちゃんが、地を這うような低い声で呟く。二人の放つ空気は、悪夢の世界の凍てつく夜よりも重く、冷たく、昏かった。

 

 私は差し出した救いの手(笑顔)が、彼女たちの心をさらに深く切り裂いてしまったことを悟り、そっと笑みを収めることしかできなかった。

 

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