「ねえ、本当に、本当にどこも悪くないの……?」
重苦しい沈黙を破ったのは、美胡ちゃんだった。彼女の金色の瞳には、未だに現実と悪夢の境界で立ち尽くしているような、仄暗い怯えがへばりついている。
私がどれだけ「大丈夫だよ」と笑ってみせても、彼女たちの内側に生じた亀裂を埋めることはできなかった。
「悪夢から戻ったばかりです。何が起きているか、この目で確かめなくては」
汐莉さんの声には、いつもの陽気な響きが欠落していた。ただ、冷徹なまでの意志だけがその青い瞳に宿っている。
二人は、私が「本当にちゃんと生きているかどうか」を、その肉体をもって検分すると言い出した。
もちろん、私は嫌だった。傷はすでに完全に塞がっているし、悪夢の残響をこれ以上日常に持ち込みたくはなかったからだ。
美胡ちゃんも、私の嫌がる顔を見て、どこか気が進まない様子で視線を彷徨わせていた。けれど、汐莉さんは違った。
「失礼しますね」
その呟きは、日常の法を軽々と踏みにじる人外の宣告だった。
不意に視界が反転する。気づいた時には、私は畳の上に敷かれた布団へと押し倒されていた。
悪夢の世界で鍛え上げられ、人外化が進んでいる私の肉体。力関係で言えば、今の私は彼女たちと対等に渡り合えるはずだった。
抵抗しようと四肢に力を込める。しかし、上手く力が入らない。私の身体の隅々にまで行き渡っているのは、かつて汐莉さんから与えられた不老不死の血肉。
内側から肉体の主導権を奪われるような、抗えない磁力がそこには働いていた。
有無を言わさぬ手つきで、衣服のボタンが外され、素肌が早朝の冷たい空気に晒されていく。
「あ……」
「静かに。検査ですよ、比名子」
汐莉さんの指先が肌に触れる。けれど、それは純粋な医学的検分などでは決してなかった。
彼女は検査という大義名分にかこつけて、私の身体に自らの質量を押し付けるように、執拗にすり寄ってきた。
まるで、自分の所有物であることを誇示するように、あるいは私の肌に自分の匂いを塗り付けるように、滑らかな肌を滑らせていく。
「ふふ、に美しいですね。傷一つ残っていない」
汐莉さんは恍惚とした表情で、喉の奥で鈴を転がすように笑った。
その指先が、私の鎖骨から胸元へと滑り落ちる。
突如、鋭い痛みが走った。彼女の指先から伸びた細い爪が、私の未だ柔らかな皮膚を意地悪く引っ掻いたのだ。
赤い一本の線が走り、そこからじわりと鮮血が滲み出す。
「あっ、痛い、です……」
「すぐに治るでしょう? 愛おしい私の比名子。その痛みが、あなたが今ここで生きているという何よりの証明です。もっと、私を感じてください」
汐莉さんはその傷口を愛おしそうに眺め、まるでお気に入りの玩具を手に入れた子供のように、無邪気で、それゆえにどこまでも残酷な手付きで私の肉体を弄び続けた。
彼女の善意100%の愛は、私を一つの生き物としてではなく、自分が創り上げた極上の工芸品として愛でるような、歪んだ支配欲へと形を変えていた。
「いい加減に、しなさいよ……!」
爆発したのは、美胡ちゃんだった。
彼女の瞳は完全に怒りで黄金色に燃え上がり、その背後には土地神としての、禍々しい妖狐の影が膨れ上がっていた。
私を玩具のように扱い、その痛みを消費して楽しむ人魚の姿は、彼女の「比名子を長く、穏やかに生かしたい」という願いに対する、これ以上ない冒涜だった。
「比名子をあんたのオモチャにするなァ!!」
怒号とともに、美胡ちゃんの拳が空気を切り裂いた。
神速の一撃。
それは文字通り、暴風となって汐莉さんの横顔を捉えた。
ドゴォン、と、肉体同士が衝突したとは思えない絶大な衝撃音が、狭いリビングに響き渡る。美胡ちゃんの渾身のぶん殴りは、汐莉さんの華奢な身体を容易く吹き飛ばした。
「あら――」
汐莉さんの身体が、窓ガラスに向かって一直線に弾け飛ぶ。
ガシャァン!! と凄まじい音を立てて、厚い窓ガラスが粉々に砕け散った。
日の出の淡い光を浴びて、無数の硝子の破片がキラキラと美しく、同時に恐ろしくきらめく。その中心で、汐莉さんは体勢を崩したまま、開いた窓から外へと放り出された。
我が家は二階建て。危険だ。しかし、彼女は人外だ。落ちていくその瞬間でさえ、汐莉さんは砕け散る硝子の向こう側で、私を見つめながら、どこか楽しげに、歪んだ笑みを浮かべたまま視界から消えていった。
冷たい朝の風が、割れた窓から遠慮なく室内に吹き込んでくる。衣服を乱されたままの私と、激しい呼吸のまま拳を握りしめる美胡ちゃん。
悪夢から帰還した我が家は、すでに日常の形を保ってはいなかった。
「……大丈夫? 比名子。寒くない?」
窓が破られた部屋に、冷たい朝の風が容赦なく吹き込んでくる。美胡ちゃんは激しい呼吸を整えながら、すぐに私の元へと駆け寄ってきた。
彼女の手に握られていたのは、使い古された、けれど清潔なバスタオルだった。
美胡ちゃんはそれを私の肩へと優しくかけ、露出した素肌を包み込むように、いたわるような手付きで衣服の乱れを整えてくれた。
「ごめんね、乱暴にされて怖かったよね。どこか、本当に痛いところはない? 半魚人のやつが引っ掻いた傷、もう完全に塞がってる?」
彼女の金色の瞳は、先ほどまでの獰猛な輝きをすっかり潜め、ただただ私を気遣う優しさに満ちていた。美胡ちゃんは私の手首をそっと握り、脈拍を確かめるように親指で肌をさする。その手は、土地神としての強大な力を秘めているはずなのに、私に触れる時だけは、まるで割れ物を扱うかのように繊細で、温かかった。
「身体だけじゃなくて。心は、その、辛くない? 悪夢であんなに酷い目に遭って、帰ってきたと思ったらこんな騒ぎになって。頭、痛まない? 悲しくなったり、消えたくなったりしてない?」
美胡ちゃんは、私のメンタルについて、まるでもつれた糸を一本ずつ解きほぐすように、一つ一つ丁寧に確認していく。
彼女が捏造した「幼馴染」という優しい嘘の檻。その中に私を閉じ込めておきたいという執着は、今や私の精神の崩壊を食い止めようとする、必死の防衛本能のようでもあった。
私が少しでも表情を曇らせれば、彼女自身が傷ついてしまうのではないかと思えるほど、その問いかけは切実だった。
「私は大丈夫だよ、美胡ちゃん。ありがと――」
言いかけた私の言葉は、ガサリ、という不吉な音によって遮られた。割れた窓のサッシを掴んで、這い上がってくる影があった。逆光の中に浮かび上がったその姿に、美胡ちゃんが息を呑む。
「ただいま戻りました、比名子」
戻ってきた汐莉さんの姿は、凄惨の一言に尽きた。二階からコンクリートの地面へと叩きつけられた衝撃で、その頭部は無惨にも破砕され、本来の形を失っている。
砕けた頭蓋の隙間から、どろりとした赤黒い血が、彼女の美しい青い髪を容赦なく染め上げていた。
身体中に突き刺さった窓ガラスの破片が、朝日に反射して悍ましくきらめいている。
彼女の祝福は、私に与えたものと同じだ。死に怯えることもなく、損壊した肉体はすでに内側から融解し、ぐちぐちと音を立てて再構築を始めていた。
歪んだ頭部が、みるみるうちに元の美しい少女の輪郭へと戻っていく。
「ちょっと! あんた、何考えてんのよ!」
美胡ちゃんが、今度は恐怖ではなく、明確な生活感のある怒りを爆発させて立ち上がった。
「そんな血塗れの姿で上がってこないで! 床が汚れる!」
「おや、手厳しいですね」
頭部の再生を終えた汐莉さんは、何事もなかったかのようにパタパタと衣服についた硝子片を払い落とした。その首を傾げる仕草は、相変わらずどこか浮世離れしていて、陽気ですらある。
「ですが、心配には及びませんよ。私は妖怪ですから。この血も肉も、私の意志一つで跡形もなく霧散させられます。ほら、この通り」
汐莉さんが軽く指を鳴らすと、彼女の衣服や髪にこびりついていた生々しい鮮血が、まるで幻影だったかのように、一瞬で黒い霧となって空気中に消え去っていった。
畳に落ちるはずだった滴さえも、床に触れる前に消滅する。「妖怪なので血は消えるので大丈夫ですー」と、彼女は事も無げに笑ってみせた。
日常の衛生観念など、彼女の超越的な生態の前には何の意味も持たなかった。呆気にとられる美胡ちゃんと、涼しい顔で微笑む汐莉さん。
二人の間に漂う、水と油の、けれどどこか奇妙に噛み合ってしまっている空気。それを見ているうちに、私の胸の奥にこびりついていた悪夢の冷気が、ほんの少しだけ和らいでいくのを感じた。
「ふふっ」
ぐぅ、と、私の頼りないお腹の音が、静まり返った部屋に小さく響いた。
悪夢の中でどれだけ命を擦り減らし、現実でどれだけ身体を弄ばれようとも、私の空腹という「生」の営みは、あまりにも容赦なく主張してくる。古狩人が最後に遺した「一緒に食事をしよう」という言葉が、不意に脳裏をよぎった。
「あ……」
私が気まずそうに自分の体を縮めると、美胡ちゃんと汐莉さんは、同時に動きを止めて私を見た。そして、二人は顔を見合わせ、今度ばかりは小さく息を吐き出した。
「私お腹すいたー! 悪夢であれだけ暴れたんだもん!」
美胡ちゃんが、子供っぽく叫ぶ。それに汐莉さんも同意する。
「そうですね。比名子の血肉を維持するためにも、栄養は不可欠です」
汐莉さんが、嬉しそうに目を輝かせる。
壊された窓から吹き込む朝風の中で、私たちは最終的に、三人で食事をすることになった。
日常はすでにひび割れて、人外たちの狂気と愛に侵食されている。それでも、この食卓を囲む時間だけは、私がまだ人間であるということを、静かに許されているような気がした。