■喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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 割れた窓から吹き込む冷たい朝の風を受けながら、私たちは結局、三人で食事を摂ることになった。とは言っても、すぐに調理に取りかかれたわけではない。

 

 二階の窓から叩きつけられて頭を砕いたばかりの汐莉さんは、血こそ綺麗に消し去ったものの、どこか気怠そうに私のベッドへ潜り込み、我が物顔でゴロゴロと寝返りを打っていた。

 

「比名子の匂いがして落ち着きます」

 

 などと宣う彼女を無理に引き剥がす気力も起きず、私と美胡ちゃんは、ひとまず二人で台所に立つことにした。

 

 悪夢であれだけの死闘を繰り広げたのだ。失われたエネルギーを補填するには、やはり一皿で圧倒的な満足感を得られるものがいいだろう。

 

「ねえ、比名子。カレーなんてどうかな。お肉も野菜もたくさん摂れるし、元気が出るよ!」

「うん、いいね。カレーにしよう」

 

 美胡ちゃんが提案してくれたメニューに、私は小さく頷いた。けれど、冷蔵庫の古い扉を開けた瞬間、私たちは同時に動きを止めることになった。

 棚の中は驚くほど閑散としていた。数日前の残り物と、しなびたネギが一本。冷凍庫の奥を探っても、肝心の肉やカレールーのパッケージは見当たらない。

 

「材料が、全然足りないね……」

 

 美胡ちゃんが困ったように眉をひそめる。

 

「じゃあ、暇そうにベッドを占領しているあの人魚さんに、買い出しの担当になってもらいましょうか」

 

 私がリビングの奥のベッドを指差すと、案の定、汐莉さんは布団からひょっこりと青い頭を覗かせた。

 

「おや、私の出番ですか?」

 

 と、まるで都合の良いゲームのイベントでも発生したかのように、彼女は嬉々としてベッドから這い出てくる。

 

「カレーの材料ですね。お安い御用です。比名子のために、最高級の食材を調達してまいりましょう。……ところで、人間社会の『おかいもの』というのは、具体的にどうすればよいのですか? 欲しいものを掴んで、そのまま店の外へ走ればよいのでしょうか」

「バカか! それは強盗っていうの!」

 

 美胡ちゃんが即座に鋭いツッコミを入れた。彼女の金色の瞳には、本気の不安が浮かんでいる。

 

「やっぱり駄目だ、この人魚、絶対に人間社会のルールを理解してない。お財布を渡したって、お札を破って遊ぶか、レジのお姉さんを丸ごと魅了してタダで奪い取るに決まってるもの。……かと言って、私が今から行くのも、その、比名子をこいつと二人きりにしたくないし……」

 

 美胡ちゃんは私と汐莉さんを交互に見つめながら、ぐるぐると悩んでいる。彼女の私に対する心配と、汐莉さんへの不信感は、もはや日常の些細な買い物にさえ重大なリスクを見出してしまうようだった。

 

「じゃあ、私が汐莉さんと一緒に買い出しに行ってくるよ。美胡ちゃんは、お家で少し休んでて」

 

 私がそう提案すると、美胡ちゃんはまだ心配そうに眉を下げていたけれど、最終的には折れた。

 

「……分かった。比名子、変なことに巻き込まれたらすぐに叫ぶのよ」

 

 そうと言って、私にお財布を預けてくれた。

 

「やりましたね、比名子。二人きりのデートです」

「デートじゃないよ。ただの買い出し」

 

 嬉しそうに私の腕に絡みつこうとする汐莉さんを軽くあしらいながら、私は上着を羽織った。

 

 外に出ると、現実の世界はすっかり夜の帳に包まれていた。

 悪夢の世界は空間軸と時間軸とはズレがあるため、ズレがある。

 

 私たちがどれだけあちらで時間を過ごそうとも変わらないが、こちらの時計は静かに、けれど確実に夜を進めている。

 

 昼間の喧騒が嘘のように静まり返った夜の道を、私たちは並んで歩いていく。街灯の放つ淡いオレンジ色の光が、アスファルトの上に私たちの長い影を落としていた。

 

 悪夢の中の、あの血生臭い鉄の匂いや、耳を聾するようなバリスタの砲撃音。

 それらが全て遠い幻だったかのように、周囲はひっそりと静まり返っている。住宅街の窓から漏れる温かな光や、遠くを走る車の微かな走行音。

 

 それらの一つ一つが、私がまだこの「日常」という世界に繋ぎ止められていることを教えてくれる。

 

「静かですね、比名子」

 

 汐莉さんが、私の歩調に合わせてゆっくりと歩きながら、夜空を見上げて呟いた。彼女の青い髪が、夜風に揺れて微かにきらめく。

 

「うん。本当に静か」

 

 私はポケットの中でお財布を握りしめながら、短く答えた。すぐ隣を歩く彼女は、私の命を永遠に縛り付けた張本人であり、同時に、悪夢の中で私を無条件に守ろうとする異形でもある。

 

 お互いの「断絶」と「執着」がより鮮明になるよう、二人の言葉の応酬(会話)をさらに増やし、心理的な駆け引きや空気感が深く伝わる構成に組み替えました。

## 遠い世界の呼吸

 静かな夜道を、私たちは並んで歩いていた。

 アスファルトを叩く私たちの足音だけが、規則正しく夜の底に響いている。彼女の向ける「今を生きて」という純粋すぎる善意が、どれだけ私を歪ませていようとも、この瞬間だけは、奇妙なほどに穏やかな心地がしていた。

「比名子、寒くはありませんか?」

 半歩先を歩く汐莉さんが、ふと足を止めて振り返る。街灯の光を浴びて、彼女の青い髪が仄暗い夜に溶けるように揺れた。

「大丈夫です。そんなに寒くないですよ」

「そうですか。なら、よかったです。夜風で体調を崩しては大変ですから」

「……汐莉さんは、本当にいつも私の心配ばかりですね」

「当然です。私は比名子が大切ですから」

 汐莉さんは、嬉しそうに目を細めて微笑んだ。

 彼女は優しい。それは間違いないと思う。私が苦しんでいるときはいつだって隣にいてくれるし、体調を崩せば自分のことみたいに心配してくれる。めったに嘘を吐かないし、誰かを理由なく傷付けることも好まない。一般的な意味で言えば、彼女はとても、とても優しい人なのだ。

 でも。たまに、息が止まるほど怖くなる。

「ねえ、汐莉さん」

「はい、なんですか?」

「あの日……私が家族を失って、もう何もかも嫌になったって言ったときのこと、覚えてますか?」

 ふと、胸の奥に澱のように溜まっていた問いが口をついて出た。

 普通の人間なら、この話題を出されただけで顔を曇らせる。「そうだよね、辛かったよね」と、私の痛みを自分の枠に当てはめて分け合おうとする。

 けれど、汐莉さんは違った。彼女はただ、不思議そうに、まっすぐな瞳で私を見つめ返した。

「ええ、よく覚えていますよ」

「あのとき、私、死にたいって言いましたよね。そしたら汐莉さん、なんて言いました?」

「『でも、比名子は生きてますよね?』と、そう言いました」

 記憶をなぞる彼女の discursive な声には、何の躊躇いもなかった。心底不思議そうに、小首を傾げる。

 悪意なんて一欠片もない。嫌がらせでも、皮肉でもない。本気で、心からの言葉としてそれを口にしている。だから、困ってしまうのだ。

「……うん。生きてる。生きてるけど、そういうことじゃなくて」

「違うのですか? 私は、比名子が今こうしてここにいて、息をしていることが、何よりも嬉しいんですよ。だからそう言ったのです」

「私は、心が死にそうだったんです。家族が誰もいなくなって、私一人だけが残されて……どうして私だけが生きているんだろうって、それが苦しかったの。分かりますか?」

「うーん……」

 

 汐莉さんは眉をひそめ、真剣に考え込むような素振りを見せた。けれど、その後に続いた言葉は、私の心を綺麗にすり抜けていくものだった。

 

「比名子が苦しんでいるのは悲しいです。でも、ご家族が亡くなったことと、比名子の命がここにあることは、別の問題ではないですか? 理由がどうあれ、比名子はまだ終わっていません」

 

 噛み合わない。どこまでも、噛み合わないのだ。

 私が見ているのは、あの事故の向こう側に置いてきてしまった、もう二度と戻らない「失ったもの」。

 

 汐莉さんが見ているのは、私の胸の内でいまも脈打っている「残ったもの」。

 同じ景色を眺めているはずなのに、全く違う世界の境界線でお互いに叫び合っているような、奇妙な眩暈が頭を支配する。たぶん。この人は、命そのものを信仰している。

 

「汐莉さんは、いいよね」

 

 ぽつりと、羨望とも諦めともつかない言葉が溢れた。

 

「何がですか?」

「生きる理由なんて、探さなくても当たり前に生きていられるから。私はいつも、自分がここにいていい免罪符を探して、泥濘の中で悪夢を見ているのに」

「免罪符、ですか。生きることに、そんな大層な理由が必要ですか?」

「必要ですよ。意味もなくただ息をしているだけなんて、私には耐えられない」

 

 私の言葉に、汐莉さんは少しだけ寂しそうに、でもやっぱり理解できないという風に、私の手をそっと握った。

 彼女の手のひらは、人間と変わらない温度で、けれどどこか現実味がない。

 

「比名子は難しいことを考えすぎます。ただここに存在しているだけで、息をして、ご飯を食べて、眠る。それだけで完璧なんですよ」

「生きるのは当たり前では?」という無垢な顔。

 

「眩しい」

 

 ただ――それでも私は、彼女のことをどこか決定的に壊れていると思ってしまう。

 

「……じゃあ、もし私が、今ここで本当に死のうとしたら、汐莉さんはどうしますか?」

「そんなことを言わないでください」

 

 途端に、彼女の握る手にぎゅっと強い力がこもる。痛いほどだった。

 彼女の瞳の奥にあるのは、私が今どれほど苦しんでいるかという哀れみではない。私という個体がこの世界から「消えること」そのものを、病的なまでに恐れている光だ。

 

「どうして? 私が苦しみから解放されるかもしれないのに、それでも止めるんですか?」

「止めます。絶対に止めます。比名子がどんなに苦しくても、悲しくても、生きていてくれなければ嫌です」

「……私の幸せは、どうでもいいの?」

「比名子が幸せなら、それはとても良いことです。でも、生きていなければ、幸せも不幸せもありません。だから、まずは生きることです。それ以外は些末なことです」

 

 私が幸せかどうか。心が穏やかに満たされているかどうか。そんなことは、彼女の愛の前では二の次なのだ。ただ、八百歳比名子という存在が、この地上に肉体を持って存在しているか。彼女は、そこだけを見つめている。

 私の皮を被った「命」というエネルギーの塊を凝視されているようで、背筋が寒くなった。

 

「理解、できない」

「比名子?」

「なんでもないです。……人魚だから、とか、そういう種族の違いのせいじゃない気がしますね、これは」

「私は、比名子にずっと生きていてほしいだけです。それのどこが変なのですか? 私にとって、これ以上当たり前のことはありません」

 

 一人の存在として、どうしても彼女の輪郭を掴みきれない。私にとって大切なのは「人」であり、彼女にとって大切なのは「命」。

 私は「関係」を愛しているけれど、彼女は「存在」を愛している。

 私たちは物語の結末に至るまで、本当の意味で分かり合えることなんてないのだろう。

 

「……ねえ、汐莉さん」

「はい」

「それでも、生きていてほしい? こんなに歪んで、あなたを拒絶しようとする私でも」

 

 私が尋ねると、汐莉さんは一歩近付き、私の両手を包み込むように握りしめた。その瞳には、狂おしいほどの熱量が宿っていた。

 

「ええ。何があっても、世界のすべてがあなたを否定しても、私は比名子に生きていてほしい。あなたの存在が、ここに在り続けてほしい。それだけが、私の願いです」

 

 理解はできない。納得もできない。けれど、家族を失って、真っ暗な部屋に取り残されて、自分が生きている理由も価値も何もかも分からなくなってしまった私に、そう誰よりも真剣に言ってくれたのは、あの人だけだった。

 

「……わかった。じゃあ、もう少しだけ、歩くね。まだ、息をしてるから」

「はい。どこまでも、一緒に歩きましょう、比名子。幸せになった貴方を喰らうまで」

 

 彼女が世界のすべてを敵に回してでも、私の存在を「大切だ」と言い張ってくれるなら。

 その言葉の歪な温かさくらいは、ほんの少しだけ、信じてみてもいいのかもしれない。

 

 再び前を歩き始めた青い髪を見つめながら、私はそんなふうに、愚かにも思ってしまうのだ。

 

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