■喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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 夕暮れが、世界の境界線を曖昧に溶かしていく。

 海の見える堤防。

 寄せては返す波の音だけが、私たちの間に横たわる沈黙を優しく埋めていた。私は膝を抱え、ただ赤く染まっていく水面を見つめていた。

 隣には、汐莉さんが座っている。

 

「ねえ、汐莉さん」

「なんですか?」

 

 波音に混じる私の声に、汐莉さんはすぐに応じた。

 

「私達って、多分、根本的に違うよね」

「そうですね」

 

 綺麗な青い頭を少しだけ傾げ、彼女はあっさりとそれを認めた。

 

「私は人魚ですし」

「いや、種族とかじゃなくて。物の見方、とか。価値観。生き方……全部」

 

 あまりの直球に思わず苦笑すると、汐莉さんは私の言葉をなぞるように、じっと遠くの海を見つめた。

 

「そうかもしれません。でも、私は比名子を理解していますよ」

「してないよ」

 

 即答だった。私の声には躊躇いなんて一欠片もなかった。

 汐莉さんが珍しく目を丸くして私を見る。私は膝に顎を乗せたまま、言葉を続けた。

 

「汐莉さんは私の気持ちを理解できないし、私は汐莉さんの気持ちを理解できない。お互いに」

「では、聞きましょう。理解する為に対話しましょう」

 

 汐莉さんの声音から、いつもの軽薄な陽気さが消え、真顔になった。

 

「私は未だに理解できません。なぜ家族を失ったら、自分の命の価値まで失うんですか?」

 

 まっすぐな、純粋すぎる問いだった。

 私は少しだけ言葉を失って黙り込んだ。そして、その問いをそのまま彼女に突き返す。

 

「逆に聞くけど。なんで失わないの?」

「家族でしょう?」

 

 本当に意味が分からない、という顔をする彼女に、私は自らに言い聞かせるようにその存在を並べ立てた。

 

「私を育ててくれた人。一緒に笑い合った人。私の帰る場所だった人。私にとって、世界そのものだった人たち。その人達がいなくなったの。なら、世界も壊れるんだよ」

 

 声は、我ながら驚くほど静かだった。叫びも涙も出ない。ただ、決定的な事実だけを並べていく。

 

「でも、比名子は残っていますよ。ここにいます。目の前で生きています。中身も変わらないまま」

「それ。それなんだよ。そう言ってしまえるから、人を理解できない」

 

 人の心を理解できない。

 私は乾いた笑みを漏らした。汐莉さんは心底理解できないといった風に、視線を彷徨わせる。

 

「だって、比名子は生きています。未来があります。また誰かと出会えます。また幸せになれます」

「なれるかもしれない、でしょ」

「同じです」

「違うよ」

 

 困惑を深める汐莉さんを横目に、私は少しだけ、茜色から群青色へと変わりゆく空を見上げた。

 

「ねえ、汐莉さん。もし私が死んだら、悲しい?」

「ええ、とても。とても悲しい」

 

 即答だった。迷いも、計算も、何一つない綺麗な拒絶。

 

「なんで?」

「比名子だからです」

「……じゃあ、私じゃなくても?」

「別にどうでも良いです」

「私以外なら誰でも?」

「はい」

 

 私は、今度は本当に笑ってしまった。

 

「汐莉さんは、私だけの命が好きなんだよ。比名子という個人の命……でも、私は違う」

 

 膝を抱える腕に、少しだけ力を込める。

 

「私が好きなのは人。関係。思い出。時間。……私は、家族という『人の繋がり』が好きだった。だから失って、だからこんなに苦しいの」

 

 汐莉さんは私の言葉を咀嚼するように、静かに波の音を聞いていた。そして、ゆっくりと言葉を紡ぐ。

 

「私は、存在の方が大切です。思い出は消えます。人は変わります。関係は壊れます。……でも、生きていれば、作り直せます。死んだら終わりです。だから私は、あなたに生きていてほしい」

 

 その眩しさに、私は少しだけ目を細めて笑った。

 

「ふふ、汐莉さんは終わりを見てる。私は、失ったものを見てる」

 

 再び、長い沈黙が訪れた。波の音だけが、堤防に打ち付けては消えていく。やがて、汐莉さんが重い口を開いた。

 

「比名子。私は、もう一つ分からないことがあります。あなたはどうして、自分をそんなに軽く扱うんですか?」

 

 不意を突かれて、私は少しだけ驚いて彼女を見た。

 

「家族を大切に思うのは分かります。悲しいのも、苦しいのも貴方の言葉で把握しました。でも……あなた自身は? 比名子自身は、大切じゃないんですか?」

 

 その問いに、私は初めて、本当の沈黙に落ちた。長い、長い沈黙。波の音が、私の体温を少しずつ削っていくような錯覚を覚える。やがて、私は自分の内側から絞り出すように、小さく呟いた。

 

「……分からない。多分……私は家族を失ったんじゃなくて、家族と一緒に、私自身も失っちゃったんだと思う」

 

 汐莉さんの青い瞳が、夕闇の中で大きく揺れた。

 

 ようやく。ほんの少しだけ、彼女は理解したのだ。私が家族を亡くしたという出来事そのものに苦しんでいるのではなく、家族という「私を映してくれていた鏡」をすべて失ったことで、自分という人間の輪郭まで見失ってしまっているということを。

 

 だからこそ、「自分が生きていることが嬉しい」という発想に辿り着けないのだということを。

 

「それでも」

 

 汐莉さんは、静かに、けれど固く呟いた。

 

「私はあなたに、生きていてほしいです」

「知ってる。理由は分からないけど……汐莉さんは、本気だもんね」

「はい。比名子が理解できなくても、私は何百年でも言い続けます。生きていてください」

 

 私は少しだけ、本当に少しだけ笑った。

 それは議論の決着ではなかった。

 本当の意味での理解でも、傷を舐め合うような和解でもない。ただ、人間と人外が、互いに決して同じ場所には立てないと知りながら、それでも相手のいる暗闇を必死に覗き込もうとした瞬間だった。

 

 海辺からの帰り道。

 潮の匂いが満ちた夜の帳を、私たちは並んで歩いていた。波の音は徐々に遠ざかり、代わりにまばらな街灯が私たちの足元を照らし始める。

 

 そんな静寂の中で、私たちは珍しく、その場にいない第三者の話をしていた。

 話題は――社美胡。

 

「ねえ、汐莉さんって、美胡ちゃんのことどう思ってるの?」

 

 ふと思いついた疑問を投げかけてみた。現実に戻ってからの喧嘩の余韻が、冷たい夜風の中で少しだけ気になっていた。

 汐莉さんは歩調を緩め、少しだけ考えるように夜空を見上げる。

 

「難しいですね」

「悪い意味?」

「いえ。強いていうならば羨ましい、ですかね」

 

 私は思いがけない言葉に、パチパチと目を瞬かせた。あの傲慢なほどに自己が確立された人魚が、誰かを「羨ましい」なんて言うとは思わなかったからだ。

 

「比名子が、普通の顔をするので」

「え?」

「私といる時の比名子は、どこか諦めています。私の顔を見るたびに、自分が不老不死という呪いにかかっていることを思い出している。まるで、永遠に終わらない停滞の檻を見つめるように」

 

 ない、と言いかけて、言葉が喉に詰まる。確かに、私は汐莉さんの前にいる時、自分の「死の不在」を強く意識してしまう。

 

「あります」

 

 遮るように、即答だった。

 

「私を見る時の比名子は、死を見ている顔です。あるいは、死ねない自分という絶望を。……でも、美胡を見る時は違う。生きている人の顔です。楽しそうですし、よく笑いますし、くだらない話をします。……何より、明日の話を、当たり前のようにします。それが、少し羨ましい」

 

 私は自嘲気味に、ふっと苦笑を漏らした。ポケットの中で、美胡ちゃんから預かった財布の重みを感じる。

 

「それは、美胡ちゃんが普通の子だからだよ。スイーツ食べて、学校行って、他愛のないお話して。世界の終わりなんて一度も考えたことがないような、普通の、女の子だから」

「私は普通ではないですか?」

「人魚だからね」

「美胡も妖怪ですよ」

 

 真顔で放たれたその一言に、私は耐えきれずに吹き出してしまった。

 

「ふふ、確かに。そうだよね。美胡ちゃんも全然普通じゃなかった」

「ええ、そうです。あの狐も大概、理の枠から外れた存在です」

 

 お互いの顔を見合わせて、私たちは少しだけ声を上げて笑った。悪夢の世界で張り詰めていた緊張の糸が、夜風に溶けていく。

 ひとしきり笑った後、今度は汐莉さんが、探るような、どこか寂しげな視線をこちらに向けた。

 

「比名子は、どう思っているんですか?」

「美胡ちゃんのこと?」

 

 私は歩きながら、ぽっかりと浮かんだ月を見上げた。頭の中に、あの真っ赤な髪と、爛々と輝く金色の瞳が浮かぶ。

 

「太陽、かな。眩しくて、暖かくて、元気。……でも、近すぎると焼けちゃいそう。私のドロドロした罪悪感とか、自己破壊衝動とか、そういう汚いものを全部燃やし尽くしちゃいそうで、時々怖くなるの」

「生きる力が、強いんですね」

「強いよ。私とは真逆。私が沈んでると無理やり引っ張り上げるし、私が死にたいって言ったら、自分の命を削ってでも止めてくる。そういう子」

「お節介です」

 

 汐莉さんが、少しだけ不満そうに口を尖らせる。自分のテリトリーを侵された子供のような表情だった。

 

「そう、お節介。……でもね、たぶん私は、ずっとああいう人に救われてきたんだと思う。家族を亡くして、世界が全部灰色になっちゃった時、あの強烈なまでの熱量がなかったら、私はとっくに精神ごと消えちゃってたかもしれない」

 

 汐莉さんは黙り込んだ。その横顔に、ほんの少しだけ嫉妬の影が混じるのを、私は見逃さなかった。

 

 自分は比名子を守れる。

 

 この不条理な悪夢から救い出すために、何回だって代わりに戦えるし、そのための永遠の命だって与えられる。事実、私の肉体は彼女の血で満たされている。

 

 でも、社美胡は違う。彼女はただ、私の隣にいる。ただ一緒に笑う。その「当たり前」の救い方を、美胡ちゃんは持っている。それは、命を現象として愛する汐莉さんには、どうしても真似できない領域だった。

 

「美胡は……強いですね」

「強いよ。私なんかより、ずっと。生きることに、寸分の疑いも持っていないから」

「私よりも、ですか?」

 

 その問いに、私は少しだけ足を止めて考えた。深海のような人魚と、太陽のような妖狐。

 

「強さの種類が違うかな。汐莉さんは深海で、美胡は太陽。深海は世界をめちゃくちゃに変えちゃう。圧倒的な力で、すべてを従わせる。でも、太陽は毎日、当たり前みたいに昇って、世界を照らす。……どっちも、私には到底真似できないくらい、凄い存在」

 

 汐莉さんはその比喩が気に入ったのか、少しだけ納得したように小さく頷いた。嵐と言われたことが、彼女の人外としての自尊心を少しだけ擽ったのかもしれなかった。そして、私の目を真っ直ぐに見つめ直して、断固とした、どこか艶然とした口調で付け加える。

 

「でも、私は美胡になりたくありません」

「なんで?」

「比名子は太陽を見ると安心します。それは分かります。でも、どれだけ太陽が眩しくても、あなたは最終的に、冷たい海に帰ってくるでしょう?」

 

 私はその言葉の意図に気付き、一瞬だけ身体を固まらせた。

 

「傷つき、摩耗し、世界のすべてに疲れたとき、あなたが身を沈めるのは私の場所です。それで十分です。私はいつでも、底の知れない暗闇であなたを待っていますから」

 

 私は降参したように、深くため息をついて苦笑した。

 

「……相変わらず、重いなあ、汐莉さんは。命が大切なんて言いながら、私を地獄の底に誘ってるじゃない」

「比名子ほどではありませんよ。自ら頭を吹き飛ばす人に言われたくはありませーん」

「それは嘘だよ。私は薄くて軽くて脆い」

「嘘ではありません。あなたのその歪みこそが、私を惹きつけてやまないのですから」

 

 そんな他愛のない、けれど世界の終わりを予感させるような言い合いをしながら、私たちは再び歩き出す。

 

 太陽のように眩しい幼馴染と、海のように全てを飲み込む人魚について。

 私たちは、決して相容れない価値観を抱えながらも、今この瞬間だけは、確かに同じ夜の景色を見つめていた。

 

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