■喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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「ただいま」

 

 と声を出したか、あるいは喉の奥でかすかに呟いただけだったか。鍵を開けて入った我が家には、すでに私の知らない、けれど決定的に馴染んでしまった気配が満ちていた。

 

 私の世界は光の届かない深海の底に沈んでいる。どこまでも冷たくて、暗い、泥濘と静寂。なのに、この狭い台所の中だけは、奇妙なほどに眩しかった。

 

 台所にいた美胡ちゃんが、世界の色彩を強引に明るく塗り替えて、私を白日の下に引きずり出そうとする。そして私を包むのは深海の香りがする人魚。

 

「おかえり、比名子。寂しかったよお。あと半魚人も。ほらほら、遅かったじゃん。早く手ぇ洗ってエプロン着て。今日は三人で晩ご飯作るんだからね!」

 

 真っ赤な髪をポニーテールに結んだ美胡ちゃんが、弾けるような声で出迎えてくれる。その笑顔はいつだってひまわりのようで、私の暗闇を強引にこじ開けてくる。そして、その背後から、一切の足音を立てずに、青い髪の人魚がふわりと影のように滑り込んできた。

 

「ただいま帰りました。寂しかったですか? それはそれは」

「お前には言ってない」

 

 私は苦笑いする。

 

「……ただいま、今、手を洗ってエプロン着るから」

 

 私は淡々とエプロンの紐を結び、まな板に向かった。メニューはなんてことのない肉じゃがと、大根の味噌汁。

 

 トントン、トントン、と包丁がリズミカルに木を叩く。悪夢の世界でノコギリ鉈を振るい、怪物の肉を断ち切るあの手並みで、冷徹に、正確に野菜を刻んでいく。

 

 パキ、と瑞々しく小気味いい音がすぐ横で聞こえた。見ると、汐莉さんがボウルの中のサラダ用きゅうりを一本、悪びれもしない顔でパクパクとつまみ食いしている。

 

「おいこらー! 半魚人!! またつまみ食いして! まだ洗って切る前でしょうが!」

「あら、汐莉さん。そんなに怒らなくとも良いじゃないですか。私は物質としての、素材そのものの命の味を確かめているだけです。水分が凝縮されていて、とても美味しいです」

「言葉を飾ってもダメ! 言い訳しない! ちゃんと完成して、みんなで席についてから食べるの!!」

「おやおや、厳しいですね。比名子、美胡さんが怒っていますよ? 怖いですね」

「……美胡ちゃんの言う通りだよ、汐莉さん。ちゃんと待ってて」

「ふふ、比名子がそう言うなら、少しだけ我慢しましょう」

 

 美胡ちゃんが両手を腰に当て、頬を限界まで膨らませて怒る。その上を、汐莉さんはどこ吹く風といった様子で、楽しそうに私の手元を覗き込んできた。

 

「それにしても……不思議ですね。比名子はどうしてそんなに手際よくお料理ができるのですか?」

「え?」

「あなたが他者の命を咀嚼するために、こうして器用に包丁を扱える理由が、私には少し気になります。以前はもっと、危なっかしかったような気がするのですが」

「……それは、美胡ちゃんに、教わったから」

 

 私の言葉を聞いた瞬間、美胡ちゃんが「ふふん!」と分かりやすく胸を張った。

 

「そうだよ半魚人。よくぞ聞いてくれた。最初の頃の比名子ときたら、本当に見てるこっちの心臓が止まりそうなくらい酷かったんだから!」

「あら、それは、まぁ。どのように酷かったんですか?」

「包丁の持ち方からして、まるで武器か何かみたいに力んじゃってさ。人参を切らせたら、人参じゃなくて自分の指を切り落とすんじゃないかって勢いだし、味付けなんて何を入れていいか分からないからって全部『無』だし。目玉焼きを作らせたはずなのに、なんでかフライパンの上に黒い炭の塊が錬成されてるんだもん!」

「……そこまで酷くはなかったと思う。炭じゃなくて、ちょっと焦げただけ」

「いいや!? 完全に炭だったよ! でもね、私がお手本を隣で見せて、比名子がそれをじっと見つめて真似してさ。何度も何度も、一緒に失敗して、台所をめちゃくちゃにしながら頑張ったんだよね」

 

 美胡ちゃんは楽しそうに、共に過ごした時間の愛おしさを言葉にしていく。それは、彼女が私のために捏造し、けれど確かに私の中に定着している、暖かく眩しい『幼馴染としての記憶』。

 

 世界が灰色に染まったあの日から、私をこの世界に繋ぎ止めてくれた、大切な関係性の証明だった。

 

「……今じゃこんなに上手に大根の面取りまでできるようになっちゃって。あー、私、なんだかお母さんを通り越しておばあちゃんみたいな気分。ちょっと感動しちゃうな」

「……なるほど。それは、とても、とても 羨ましい 経験ですね」

 

 汐莉さんは、静かにそれを聞いていた。唇の両端をひどく綺麗に吊り上げて。いつものように穏やかで、慈悲深く見える笑顔を浮かべて――けれど、その笑顔は、決定的に、酷く冷たかった。

 

 美胡ちゃんがどれだけ明るい言葉の光を投げかけても、汐莉さんの青い瞳の奥にある深い闇は、その光を1ミリも通さずに無へと吸い込んでいく。

 

「比名子」

「……なに、汐莉さん」

「なら、今度は私ともお料理をしましょう。明日も、明後日も、毎日、毎食、私と」

「え……?」

「彼女だけがあなたの過去にその経験を持っているなんて、不公平で、ずるいでしょう?」

 

 私を覗き込む彼女の青い瞳は、病的なまでの熱を帯びて爛々と輝いていた。それはまるで、前の恋人との思い出を、もっと強烈で、決して上書きできないほどの絶対的な愛の質量で塗り潰そうとする人間の執着に、酷く似ていた。

 

 美胡ちゃんが私に与えた日常を、積み重ねた思い出を、愛おしい関係性を。自分という圧倒的な『存在』の嵐で、すべて押し流し、更地にしてしまいたいのだと言わんばかりに。

 

「ちょっと、汐莉さん、何張り合ってるのさ。比名子を困らせないでよ」

「困らせてなどいませんよ、美胡。私はただ、これからの比名子さんの時間を、私の色で染め上げたいと言っているだけです」

「それはあなたのエゴでしょ!」

「ええ、エゴですよ。それが何か? 比名子の為なら手元を誤って指を切り落としても、腕を失っても、私の祝福で何度でも治してあげます」

「お前は何を想定しているんだ」

「痛みを伴う必要すらありません。だから、もっと血の滲むような、私とあなただけの、永遠に終わらないお料理の時間を重ねましょう? 比名子」

 

 命の尊厳も、本人の自由も、他者との思い出の価値も、彼女の愛の前ではすべて些末な問題。ただ、八百歳比名子という個体が、彼女の隣で肉体を持って肉的に存在し、彼女の血で満たされていることだけが、彼女にとっての絶対的な正義なのだ。

 

「……汐莉さんは、本当に重いね。命が大切なんて言いながら、私の過去も関係も全部めちゃくちゃに上塗りするするなんて」

「比名子さんほどではありませんよ。自ら頭を吹き飛ばすお方に言われたくはありません」

「それは嘘。嫌なことがあったら頭を吹き飛ばせばスッキリするから。あれは最も簡単なリラックス方法だよ」

「嘘ではありませんよ、!あなたのその歪みこそが、私を惹きつけてやまないのですから」

「ちょ、ちょっと二人とも! 私を置いて物騒な話で盛り上がらないでよ!」

 

 美胡ちゃんが慌てて私たちの間に割って入る。私は降参したように小さく溜め息をつき、これ以上の言葉の応酬を拒むように、淡々と刻んだ野菜をお鍋の沸騰したお湯の中に投入した。

 ジュウ、と不器用な音がして、湯気が私たちの間に立ち上る。

 

 私の心は今夜も深海のように暗く、冷たい。けれど、この眩しすぎる太陽の光と、全てを飲み込もうとする嵐の、あまりにも歪な執着の温かさだけが、確かに私の冷え切った身体を、ほんの少しだけ生の世界へと繋ぎ止めていた。

 

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