喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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15話:幸福な食卓の余熱と、泥濘の底

 

 三人の食卓は、これ以上ないほど穏やかで、温かかった。

 

 汐莉さんが丁寧に骨を抜いてくれた魚を口に運び、美胡ちゃんが「美味しい? 比名子、もっと食べなよ!」と甲斐甲斐しく大盛りのご飯をよそってくれる。

 

 太陽のような眩しさと、深海のような心地よい暗さが、私の狭い食卓で奇妙な調和を保っていた。

 

 美味しかった。楽しかった。胸の奥がじんわりと温かくなるのを自覚する。けれど、その温もりが肌に染み込めば染み込むほど、私の内側にある罪が、冷たい拒絶反応を起こして疼きだす。

 

 みんなと囲む、温かい食卓。

 それが満ち足りていればいるほど、私の脳裏には、あの悪夢の世界で泥を啜るようにして終わらせた『古狩人』の最期が、鮮明な写実画となって蘇ってくる。

 

 彼女は痛みではなく、安堵の表情を浮かべていた。それが何より胸を抉る。

 

「……ああ、やっと死ねる」

 

 掠れた、けれどどこか嬉しそうな声。彼女は細い指で私のブーツの先を軽く叩いた。まるで「よくやった」と褒めるように。

 

「みんな、久しぶりに会えるね。遅くなっちゃったけど、一緒にご飯を食べよう。あの時の約束を」』

 

 ノコギリ鉈でその肉体を両断したときの、ずしりと重い手応え。内臓をぶちまけ、自らの血の海に沈みながら、彼女は泣くでも喚くでもなく、ただ「救われた」という顔をして笑ったのだ。

 

 あの古狩人は、私だった。

 正確には、戦い続け、殺し続け、血に酔い痴れた末に、誰も自分を終わらせてくれなくなった『私の成れの果て』。

 

 ――私も最後は、あんな風になるのだろうか。

 

 今はこうして、汐莉さんが「幸せに太らせてから食べる」と約束してくれている。美胡ちゃんが「嘘の過去」で私の心を必死に繋ぎ止めてくれている。

 

 二人の歪んだ、けれど本物の感情に甘えながら、私はかろうじて人間の形を保っている。

だけど、悪夢の底でノコギリ鉈を振るうたび、返り血を浴びるたびに、私の人間性は確実に摩耗し、削り取られている。

 

 現実の苦しみを忘れるために、悪夢での殺し合いに愉悦を感じ始めている私は、すでに一歩、あの古狩りの境界線に足を踏み入れている。

 

 もしも、この日常が壊れたら。

 もしも、汐莉さんが私を食べ損ねて、美胡ちゃんの光が私を焼き尽くしてしまったら。

 

 私はただの、血に飢えた、死ねない怪物として、あの古代遺跡を永遠に彷徨うことになる。そしていつか、過去の自分に殺される日を夢見て、ブーツの先を叩くのだ。

 

「……比名子? お箸、止まってるよ?」

 

 美胡ちゃんの心配そうな声に、私はハッと我に返る。隣では、汐莉さんがじっと私の横顔を、値踏みするように、愛おしそうに見つめていた。

 

「ううん、なんでもない。ちょっと、お腹いっぱいになっちゃって」

 

 嘘をついて、微笑んでみせる。心臓の奥が、冷たく冷え切っていく。

 

 死んだら、家族に会えるのかな。

 お父さん、お母さん、お兄ちゃん。私だけを現世に置き去りにして、逝ってしまった大切な人たち。

 

 あの古狩人は、死の間際に「みんなと一緒にご飯を食べよう」と言った。ということは、あの地獄の果てで完全に擦り切れて、精神が崩壊した先でしか、私は家族の元へ還ることを許されないのだろうか。

 

 家族の遺言である『生きろ』を遂行するためには、私は戦い続けなければならない。けれど、戦い続けた先にあるのは、人間性を失った血塗れの獣だ。

 

「おいしいね、美胡ちゃん。……汐莉さん」

 

 私は二人に微笑みかけながら、そっと食卓の下で、自分の細い指先を見つめた。

 この手はいつか、人間の温もりを忘れ、獲物の肉を裂くためだけの鉤爪になる。

 

 いつか訪れる最高のディナーの約束。それだけが、私の濁った血を狂わせないための、唯一の錨だった。

 

 温かい食事の時間が終わり、日常の象徴である後片付けの時間が始まる。

 

 お皿を洗う私の隣で、美胡ちゃんが手際よく水気を拭き取っていく。そんな私たちの背後、私のベッドの上では、汐莉さんが我が物顔で横たわっていた。

 

 枕に肘をつき、手のひらで頬を支えながら、こちらの様子をじっと眺めている。

 その、どこか体幹の軸がぐにゃりと融通の利かない独特のポーズを見て、私はふと『人魚らしいな』と思った。

 

 今の彼女の見た目は純粋な人間の女の子そのものだけれど、所作や体を使う癖の端々に、酷く魚っぽい印象が残っているのだ。寝返りを打つときの滑らかな、けれどどこか硬質な身体のしなり方。ただ横たわっているだけなのに、水の中を漂っているかのような独特の浮遊感。

 

 お皿を洗い流しながら、私は気になっていたことを口にしてみた。

 

「美胡ちゃん」

「ん?」

 

 美胡ちゃんは、いつもの明るい声で振り返る。

 

「二人は妖怪だよね」

「う、うん。そうだよ」

 

 美胡ちゃんの手が一瞬、ピタリと止まった。少し動揺したような、そして場の雰囲気が一気にシリアスなものへと変質したような、独特の緊張感が流れる。彼女の金色の瞳が、怯えるように微かに揺れていた。

 

「……騙しててごめん」

 

 消え入るような声で謝る美胡ちゃんに、私は首を横に振る。

 

「別に? それより妖怪が人間の形になった時って、元の形の癖とかに引き摺られるの?」

「え、いや。どうだろ。なんで?」

 

 予想外の質問だったのか、美胡ちゃんは目を丸くした。私は視線だけで、ベッドの上の汐莉さんを示す。視線に気づいた汐莉さんは、ベッドの上でぱたぱたと、まるで胸鰭を動かすように緩く手を振ってきた。

 

 美胡ちゃんはその姿を見て、すぐに私の意図を察したらしく、あからさまに苛立ちを覚えて「あいつ……」と低く呟いた。

 

「魚みたいだよね。人魚さんだからそうなんだけど。美胡ちゃんも狐さんだから、パッションって感じがする。動きがアクティブ」

「そんな印象だったんだ、私」

 

 美胡ちゃんは苦笑いする。

 

「良い意味だから誤解しないでね」

「そっか、ありがとう。……でも、比名子はいいの? 私みたいのヤツが、近くにいて」

 

 美胡ちゃんの声に、再び重いトーンが混じる。自分が「人喰いの妖狐」であるという事実が、私を怯えさせていないか、本当は不安で仕方がないのだろう。

 

「良いと思うよ」

 

 私は迷わずに答えた。

 

「汐莉さんと過ごして分かったけど、美胡ちゃんは限りなく人間に近い振る舞いをしてる。それも頑張ったり、経験で学んだんだと思う。その人間として共にある姿勢を否定するのは、私はしたくない」

 

 私は、生きるために努力する人を、自分の意志で変わろうとする人を否定するなんて、絶対にしてはいけないと思っている。

 家族を失い、死を望みながらも、遺言に縛られてただ空虚に「生きさせられている」私とは違うのだ。

 

「目的はそれぞれあるんだろうけど、自ら自由に選び、強く進んでいく。それを私は何であろうと尊い、って思う」

「…………」

 

 美胡ちゃんは、完全に言葉を失っていた。真っ直ぐに彼女を見つめ返すと、その金色の瞳がじわじわと潤んでいくのがわかる。

 

「美胡ちゃん?」

「比名子は、優しいね」

 

 震える声と一緒に、美胡ちゃんに勢いよく抱きしめられた。きつく、壊れ物を扱うように繊細にホールドされ、私の頭を何度も何度も、愛おしそうに撫でてくる。美胡ちゃんの体温が、痛いくらいに熱い。

 

 ――と、その温もりの外側から、さらに巨大で冷たい質量が私たち二人を丸ごと抱きしめてきた。

 

 深海をそのまま持ってきたような、圧倒的な神秘の匂い。

 汐莉さんだ。美胡ちゃんが即座に、容赦なく汐莉さんの足を踏みつける。

 

「痛いですよ、美胡」

「お前……空気読めよ」

 

 美胡ちゃんが低い声で威嚇するが、汐莉さんは至って涼しい顔のままだ。

 

「私も比名子を抱きたいです。美胡は比名子の親友なので、私の親友です。ついでに抱いてあげます」

「そういうところ、まじでやめなよ」

 

 美胡ちゃんが、ガチで引いている。さっきまでのシリアスな空気はどこへやら、二人のいつものドタバタ劇が始まってしまう。

 

 美胡ちゃんの熱すぎる抱擁と、汐莉さんの冷たくて重い抱擁。二つの相反する温度に挟まれながら、私はおかしそうに口元を綻ばせた。生きるのが苦痛でたまらない日常の裏側で、この歪な温もりが、胸に痛みを走らせた。

 

 

 

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