三人の食卓は、これ以上ないほど穏やかで、温かかった。
汐莉さんが丁寧に骨を抜いてくれた魚を口に運び、美胡ちゃんが「美味しい? 比名子、もっと食べなよ!」と甲斐甲斐しく大盛りのご飯をよそってくれる。
太陽のような眩しさと、深海のような心地よい暗さが、私の狭い食卓で奇妙な調和を保っていた。
美味しかった。楽しかった。胸の奥がじんわりと温かくなるのを自覚する。けれど、その温もりが肌に染み込めば染み込むほど、私の内側にある罪が、冷たい拒絶反応を起こして疼きだす。
みんなと囲む、温かい食卓。
それが満ち足りていればいるほど、私の脳裏には、あの悪夢の世界で泥を啜るようにして終わらせた『古狩人』の最期が、鮮明な写実画となって蘇ってくる。
彼女は痛みではなく、安堵の表情を浮かべていた。それが何より胸を抉る。
「……ああ、やっと死ねる」
掠れた、けれどどこか嬉しそうな声。彼女は細い指で私のブーツの先を軽く叩いた。まるで「よくやった」と褒めるように。
「みんな、久しぶりに会えるね。遅くなっちゃったけど、一緒にご飯を食べよう。あの時の約束を」』
ノコギリ鉈でその肉体を両断したときの、ずしりと重い手応え。内臓をぶちまけ、自らの血の海に沈みながら、彼女は泣くでも喚くでもなく、ただ「救われた」という顔をして笑ったのだ。
あの古狩人は、私だった。
正確には、戦い続け、殺し続け、血に酔い痴れた末に、誰も自分を終わらせてくれなくなった『私の成れの果て』。
――私も最後は、あんな風になるのだろうか。
今はこうして、汐莉さんが「幸せに太らせてから食べる」と約束してくれている。美胡ちゃんが「嘘の過去」で私の心を必死に繋ぎ止めてくれている。
二人の歪んだ、けれど本物の感情に甘えながら、私はかろうじて人間の形を保っている。
だけど、悪夢の底でノコギリ鉈を振るうたび、返り血を浴びるたびに、私の人間性は確実に摩耗し、削り取られている。
現実の苦しみを忘れるために、悪夢での殺し合いに愉悦を感じ始めている私は、すでに一歩、あの古狩りの境界線に足を踏み入れている。
もしも、この日常が壊れたら。
もしも、汐莉さんが私を食べ損ねて、美胡ちゃんの光が私を焼き尽くしてしまったら。
私はただの、血に飢えた、死ねない怪物として、あの古代遺跡を永遠に彷徨うことになる。そしていつか、過去の自分に殺される日を夢見て、ブーツの先を叩くのだ。
「……比名子? お箸、止まってるよ?」
美胡ちゃんの心配そうな声に、私はハッと我に返る。隣では、汐莉さんがじっと私の横顔を、値踏みするように、愛おしそうに見つめていた。
「ううん、なんでもない。ちょっと、お腹いっぱいになっちゃって」
嘘をついて、微笑んでみせる。心臓の奥が、冷たく冷え切っていく。
死んだら、家族に会えるのかな。
お父さん、お母さん、お兄ちゃん。私だけを現世に置き去りにして、逝ってしまった大切な人たち。
あの古狩人は、死の間際に「みんなと一緒にご飯を食べよう」と言った。ということは、あの地獄の果てで完全に擦り切れて、精神が崩壊した先でしか、私は家族の元へ還ることを許されないのだろうか。
家族の遺言である『生きろ』を遂行するためには、私は戦い続けなければならない。けれど、戦い続けた先にあるのは、人間性を失った血塗れの獣だ。
「おいしいね、美胡ちゃん。……汐莉さん」
私は二人に微笑みかけながら、そっと食卓の下で、自分の細い指先を見つめた。
この手はいつか、人間の温もりを忘れ、獲物の肉を裂くためだけの鉤爪になる。
いつか訪れる最高のディナーの約束。それだけが、私の濁った血を狂わせないための、唯一の錨だった。
温かい食事の時間が終わり、日常の象徴である後片付けの時間が始まる。
お皿を洗う私の隣で、美胡ちゃんが手際よく水気を拭き取っていく。そんな私たちの背後、私のベッドの上では、汐莉さんが我が物顔で横たわっていた。
枕に肘をつき、手のひらで頬を支えながら、こちらの様子をじっと眺めている。
その、どこか体幹の軸がぐにゃりと融通の利かない独特のポーズを見て、私はふと『人魚らしいな』と思った。
今の彼女の見た目は純粋な人間の女の子そのものだけれど、所作や体を使う癖の端々に、酷く魚っぽい印象が残っているのだ。寝返りを打つときの滑らかな、けれどどこか硬質な身体のしなり方。ただ横たわっているだけなのに、水の中を漂っているかのような独特の浮遊感。
お皿を洗い流しながら、私は気になっていたことを口にしてみた。
「美胡ちゃん」
「ん?」
美胡ちゃんは、いつもの明るい声で振り返る。
「二人は妖怪だよね」
「う、うん。そうだよ」
美胡ちゃんの手が一瞬、ピタリと止まった。少し動揺したような、そして場の雰囲気が一気にシリアスなものへと変質したような、独特の緊張感が流れる。彼女の金色の瞳が、怯えるように微かに揺れていた。
「……騙しててごめん」
消え入るような声で謝る美胡ちゃんに、私は首を横に振る。
「別に? それより妖怪が人間の形になった時って、元の形の癖とかに引き摺られるの?」
「え、いや。どうだろ。なんで?」
予想外の質問だったのか、美胡ちゃんは目を丸くした。私は視線だけで、ベッドの上の汐莉さんを示す。視線に気づいた汐莉さんは、ベッドの上でぱたぱたと、まるで胸鰭を動かすように緩く手を振ってきた。
美胡ちゃんはその姿を見て、すぐに私の意図を察したらしく、あからさまに苛立ちを覚えて「あいつ……」と低く呟いた。
「魚みたいだよね。人魚さんだからそうなんだけど。美胡ちゃんも狐さんだから、パッションって感じがする。動きがアクティブ」
「そんな印象だったんだ、私」
美胡ちゃんは苦笑いする。
「良い意味だから誤解しないでね」
「そっか、ありがとう。……でも、比名子はいいの? 私みたいのヤツが、近くにいて」
美胡ちゃんの声に、再び重いトーンが混じる。自分が「人喰いの妖狐」であるという事実が、私を怯えさせていないか、本当は不安で仕方がないのだろう。
「良いと思うよ」
私は迷わずに答えた。
「汐莉さんと過ごして分かったけど、美胡ちゃんは限りなく人間に近い振る舞いをしてる。それも頑張ったり、経験で学んだんだと思う。その人間として共にある姿勢を否定するのは、私はしたくない」
私は、生きるために努力する人を、自分の意志で変わろうとする人を否定するなんて、絶対にしてはいけないと思っている。
家族を失い、死を望みながらも、遺言に縛られてただ空虚に「生きさせられている」私とは違うのだ。
「目的はそれぞれあるんだろうけど、自ら自由に選び、強く進んでいく。それを私は何であろうと尊い、って思う」
「…………」
美胡ちゃんは、完全に言葉を失っていた。真っ直ぐに彼女を見つめ返すと、その金色の瞳がじわじわと潤んでいくのがわかる。
「美胡ちゃん?」
「比名子は、優しいね」
震える声と一緒に、美胡ちゃんに勢いよく抱きしめられた。きつく、壊れ物を扱うように繊細にホールドされ、私の頭を何度も何度も、愛おしそうに撫でてくる。美胡ちゃんの体温が、痛いくらいに熱い。
――と、その温もりの外側から、さらに巨大で冷たい質量が私たち二人を丸ごと抱きしめてきた。
深海をそのまま持ってきたような、圧倒的な神秘の匂い。
汐莉さんだ。美胡ちゃんが即座に、容赦なく汐莉さんの足を踏みつける。
「痛いですよ、美胡」
「お前……空気読めよ」
美胡ちゃんが低い声で威嚇するが、汐莉さんは至って涼しい顔のままだ。
「私も比名子を抱きたいです。美胡は比名子の親友なので、私の親友です。ついでに抱いてあげます」
「そういうところ、まじでやめなよ」
美胡ちゃんが、ガチで引いている。さっきまでのシリアスな空気はどこへやら、二人のいつものドタバタ劇が始まってしまう。
美胡ちゃんの熱すぎる抱擁と、汐莉さんの冷たくて重い抱擁。二つの相反する温度に挟まれながら、私はおかしそうに口元を綻ばせた。生きるのが苦痛でたまらない日常の裏側で、この歪な温もりが、胸に痛みを走らせた。