■喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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16話: 忘却の揺籠

 

 

【悪夢の住人が現実に侵入しました】

 

 突如として、私の脳内にその言葉が直接浮かび上がった。心臓が嫌な跳ね方をする。

 この警告は、敵対者が私の領域に現れた時にのみ発生する悪夢の現象だ。

 

 被侵入された場合は、自分自身が【世界の主】として命を狙われる標的になり、逆にこちらが侵入する時は【世界の主】を殺すべく冷酷に活動することになる。

 

 悪夢の世界の古代遺跡を探索していれば、偶にある程度の、ありふれた現象。

 ――けれど、ここは現実だ。

 まさか悪夢の住人が、この平穏な現実にまで現れるなんて、予想すらしなかった。

 

 現実に侵食してくる悪夢。この世界の現実と悪夢の境界線は、すでに混ざり始めているのかもしれない。私の摩耗していく人間性と、足並みを揃えるように。

 

「汐莉さん、美胡ちゃん、あの」

 

 私の声の異変を察したのだろう。美胡ちゃんが怪訝そうに私を見た。

 

「比名子?」

 

 慌てて状況を伝えようとするけれど、口が上手く回らない。何をどう伝えたら良いのか、私にはわからなかった。だから、私は思考を切り替える。考えるだけ無駄だ。殺される前に、殺せばいい。

 

「ごめんね、少し外に出てくる」

 

 怪訝な顔をする二人に背を向け、私は玄関を飛び出した。夜の帳が降りた住宅街。その静寂を切り裂くように、ガシャ、ガシャ、と重々しい金属音が響き渡る。

 

 アスファルトの向こうから、それは現れた。

異世界に侵入した者特有の、おぞましい不気味な赤いオーラを全身に纏っている。それはもはや人間の形を留めておらず、飢えた獣そのものの異形だった。

 

「空気、読んで」

 

 私は小さく息を吐きながら、日常の衣を脱ぎ捨てるように『ノコギリ鉈』と短銃『エヴェリン』を現実の手に具現化させた。

 

 慣れた手つきで発火ヤスリをノコギリ鉈の刃に擦り付ける。摩擦で爆発的に燃え盛る炎が、夜闇を赤々と照らし、武器の攻撃力を底上げしていく。続けて、銃弾には骨髄の灰を塗布し、一撃の威力を極限まで高めた。

 

「ヒ、ヒ、ヒヒヒ……ッ!」

 

 敵対者は、耳障りな甲高い声を上げて身を震わせる。

 

「このタイミングは狙ったようで気持ち悪いけど、狙えるくらい貴方に力があるなら、私を殺せるよね」

 

 そう、私の目的は理不尽な存在による絶死。望まぬ形で命を終えることこそ本懐。ならばこの不可解な現象なんてどうでも良い。

 必要なのは、狩人としての強さ。

 私を殺せるならそれはそれで良いし、私が返り討ちにできるなら、それはそれで良い。

 

「貴方の力、試させて」

 

 私の言葉に反応したのか、敵対者は四肢をバネのようにしならせ、飛び跳ねるような凄まじい速度で襲いかかってきた。

 引き金を引く。

 骨髄の灰によって威力を増したエヴェリンの銃撃が、強烈な轟音と共に敵対者の肉体を撃ち抜いた。

 

 完璧なタイミングでのパリィ。衝撃に耐えかねた獣の巨体が、大きく体勢を崩して無防備に晒される。

 その隙を、私は見逃さない。

 一歩踏み込み、燃え盛るノコギリ鉈を敵対者の無防備な腹へと深く突き刺した。そして、内臓ごと抉り取るように、一気に真横へと掻っ捌く。

 肉が裂け、骨が砕ける確かな手応え。直後、夜の住宅街に、夥しい量の黒い血がブチまけられた。

 

「あ、は……」

 

 頬に温かい血飛沫を浴びながら、私の口元が自然と歪む。ああ、本当はいけないことなのに。日常を、人間を守らなきゃいけないのに。こんな狂気、分かっているのに。けれど、この命のやり取りをした瞬間だけは、家族を失った悲しみも、生きる苦痛も、全てを忘れて、ただ心地よく血に酔うことができる。

 昏い悦びに身を焦がしながら、私は崩れ落ちる獣を見下ろした。

 

「覚めてきちゃった」

 

 ボタボタとアスファルトを叩く黒い血の音が、やけに大きく耳に響く。

 目の前で崩れ落ちた敵対者の身体から、おぞましい赤いオーラが霧のように霧散していく。それと同時に、異形の獣化が、解けていく。

 

 肉厚な毛皮が萎み、鋭い爪が縮み、現れたのは――見慣れた、赤色の髪だった。

 

「え、は……?」

 

 ノコギリ鉈を握ったまま、私の思考が完全に停止する。

 嘘だ。どうして。

 そこに横たわっていたのは、間違いなく美胡ちゃんだった。

 

 つい数分前まで、私の家で笑いながら、熱すぎるほどの体温で私を抱きしめてくれていた、私のよすが。けれど、胸を深く掻っ捌かれた彼女は、致命傷の痛みに顔を歪めながら、血塗れの手を震わせて私へと伸ばしてきた。

 

 その金色の瞳には、私への敵意なんて一欠片もなくて、ただ、狂おしいほどの情愛だけが濁らずに残っている。

 

「比名子……ごめん。生きて……今、会いに行くね」

 

 ごぷり、と口から溢れた血が、彼女の言葉を途切れさせる。

 

――会いに行く? 今、ここにいるのに?

――生きて? 私を殺しに「侵入」してきたはずなのに?

 

 矛盾だらけの、支離滅裂な言葉。けれど、その最期の瞬間まで、彼女の意識の全てが「八百歳比名子」という存在のためだけに動いていることだけは、痛いほど伝わってきた。

 どこまでも重く、独善的で、歪な、私への想い。

 

「あ、あ、あああ――ッ」

 

 頭の芯が、内側から爆発したようにどうにかなりそうだった処理しきれない感情と狂気が混ざり合い、視界が真っ赤に染まる。

 

 考えたくない。理解したくない。優しい美胡ちゃんが、私を殺そうとした? 違う、これは悪夢の現象だ。

 これは美胡ちゃんじゃない。美胡ちゃんの形をした、私の心を壊すための偽物だ。そうでなきゃ、辻褄が合わない。

 

「別の世界の、美胡ちゃんも、私を愛してくれていた」

 

 私は悲鳴のような咆哮を上げながら、両手でノコギリ鉈をへし折らんばかりに握り直し、そして、振り下ろした。

 ガチ、と骨に当たる鈍い感触。関係ない。美胡ちゃんだろうが、偽物だろうが、もうどうでもいい。

 

 引き絞るような呼吸をしながら、私は狂ったように腕を動かし続けた。

 一度、二度、三度。

 

 ガシャガシャと変形機構を鳴らしながら、肉を断ち、アスファルトを叩き割る音だけが夜の闇に木霊する。

 

「お願い。お願い。お願いだから、消えて……ッ」

 

 返り血が顔中に、目の中に飛び散って視界を塞ぐ。それが美胡ちゃんの体温なのか、それとも悪夢の冷たい血なのかすら、もう分からない。

 

 私はただ、彼女の残滓が、その縋るような手のひらが、完全にこの世界から消滅して何も見えなくなるまで、涙とも血ともつかない液体を流しながら、ノコギリ鉈を振り下ろし続けた。

 

 

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