整理して『15話:幸福な食卓の余熱と、泥濘の底』を追加してあります』を投稿し、16話、17話へ続くようになってます。
血の海の中心で、私は呆然と立ち尽くしていた。
両腕はだらりと垂れ下がり、ノコギリ鉈の先からは、かつて美胡ちゃんだったモノの残滓がボタボタと滴り落ちている。思考は完全に焼き切れ、指一本動かすことすらできない。
その時だった。
背後から、音もなく伸びてきた冷たい手が、私の血塗れの視界を優しく覆った。
拒絶を許さない絶対的な質量。同時に、もう一つの冷徹な手が、私の首を容赦なく締め上げてくる。
「あがっ、あ、あ……」
気管を潰され、肺の空気が強制的に押し出される。
私は生存本能のままに、反射的に首を絞める手を両手で掻き毟った。けれど、その皮膚はあまりにも強靭だった。硬質な「鱗」の感触が指先へと伝わり、私の爪を冷酷に弾き返す。
「異世界の美胡……いや、悪夢の世界の美胡というべきですかね」
耳元で、心地よくて、けれど酷く温度の低い声が鼓膜を揺らす。汐莉さんだ。
「貴方を失った後に、本当にただの獣に成り果てた社美胡。それを……まさか貴方自身の手で狩ることになるとは」
理解が、できない。
異世界? 私を失った後? 何を言っているの?
私はもう、何も考えたくない。
「オリジナルは生きてますし、何も問題ありませんが……今の貴方がこれを覚えているのは、色々と不都合でしょう」
――ガブリ、と。
唐突に、私の耳たぶが強く噛み切られるような、鋭い痛みに襲われた。意識がその激痛へと強制的に集中させられる。その瞬間を見計らったように、汐莉さんの妖艶な、蕩けるような歌声が脳髄へと直接注ぎ込まれた。
「これは夢、悪い夢。全て、最初から存在しない。貴方はただ、夜の道を歩いて、少し転んでしまっただけ」
汐莉さんの吐息が、噛み跡に触れて酷く熱く感じる。
「貴方は何も悪くありません。罪はなく、罰はなく。貴方を苦しめる呼び声は、遥か彼方の空へ」
「う、あ、あ……」
途端に、脳の奥へじわりと濃い霧が広がっていく。
美胡ちゃんを自らの手で解体したあの悍ましい感触が、グラグラと揺らめき、急速に輪郭を失っていく。
それは酷く恐ろしいことのはずなのに、不思議と苦しくなくて、辛くなくて……ただただ、その底なしの安寧にすべてを委ねてしまいたくなる。
だめだ。忘れてはいけない。私はちゃんと、狂気に、罪に向き合わないと――。
抵抗しようと、私は自分の舌を強く噛み切ろうとした。痛みのスパイクで、この甘やかな洗脳を打ち破るために。
「おや。舌を噛み切ろうとするなんて……駄目ですよ、比名子」
ふふ、と愛おしそうに汐莉さんが微笑む気配がした。
「私の比名子。貴方は幸せで、健やかにあるべきだと私、言ったでしょう? この記憶は、今の貴方が背負うにはあまりにも重すぎる。この業は、とうに人の身の器を越えています。だから――私が背負いましょう。呪いと昏い海は広く深い。故にすべてを受け入れます」
私の首を絞めていた汐莉さんの冷たい指先が、割って入るようにして、無理やり口内へと滑り込んできた。
ぬるりと侵入してきたその指は、抵抗しようとする私の舌の動きを、完璧に、そして優しく愛撫するように封じ込める。
「んむ……あ……」
指先から溢れ出す、理の外側の神秘。
息が詰まるほど苦しいのに、それ以上に、ぞっとするほど気持ちがいい。
口内を満たす彼女の味が、脳の防衛ラインを内側からとろとろに溶かしていく。それはあまりにも煽情的で、官能的で、自分が侵されていることへの恐怖さえ、ドロドロとした快楽へと変換されていく。
美胡ちゃんを殺した絶望も、家族への罪悪感も、すべてがどうでもよくなる。汐莉さんの冷たい体温と、口内の熱さだけが、世界のすべてになっていく。
「……そうです、良い子ですね。すべては、ただの悪い夢でした」
甘く、蕩けるような声が最後に聞こえた。
私は心地よい深海の底へと、ゆっくりと堕ちていった。
世界から音が消えていく。
私の頭を支配していた、美胡ちゃんの最期の絶叫も、肉を断つあの悍ましい感触も、すべてが濃藍の海水に浸されたように急速に色褪せていく。
私の口内に深く侵入した汐莉さんの指先は、抵抗を許さない冷徹さで舌の根を抑えつけながら、同時に、信じられないほど甘美な愛撫を繰り返していた。粘膜を優しくなぞり、私の唾液と彼女の神秘の滴が混ざり合う。
息ができない。肺が酸素を求めて引き攣るたびに、彼女の指から溢れる「理の外」の匂いが、直接脳髄を痺れさせていく。
「ん、うぅ……あ、……」
抵抗の意志は、すでにドロドロとした快楽の泥濘に沈んでいた。
私が完全に力を失い、その身体を彼女に預けると、汐莉さんは口内から指をゆっくりと引き抜いた。銀の糸が夜闇に美しくきらめき、私たちの唇の間で切れる。
自由になったはずの私の身体は、けれど、びくりとも動かなかった。汐莉さんの冷たい両腕が、今度は私の背中と腰を、まるで骨ごと圧搾するように強く、深く抱きしめてきたからだ。
「かわいそうな比名子。そんなに震えて。人間の心は、本当に脆くて不便ですね。でも、だからこそ愛おしいと想うのは、外側にいるからなのでしょう」
耳元で囁かれる声は、脳の芯を直接揺らすように甘く、そして恐ろしいほどに煽情的だった。
「理の中にいる彼女なら、この行為を否定するでしょうし。そう思えば特権とも言えますね」
汐莉さんの顔が、私の無防備な首筋へと埋められる。
「はぁ……っ、ん……」
冷たい唇が、私の肌に触れた。
そのまま、獲物の味を確かめるように、ゆっくりと、這いずるように首筋を舐め上げられる。
「比名子。比名子。私の。私だけの」
ゾクゾクとするような悪寒と、それを上回る強烈な熱さが、彼女の舌が通った跡に刻まれていく。それはただの愛撫ではない。私の記憶の、そして感情の「引き出し」を、外側から物理的に弄くり回されているような、奇妙な全能感と喪失感が同時に押し寄せる感覚だった。
美胡ちゃんへの罪悪感が、消えていく。あの赤色の髪が、金色の瞳が、私が振り下ろしたノコギリ鉈の軌道が、消しゴムで擦ったようにぼやけていく。
「だめ、……私は、覚えて、なきゃ……」
かろうじて残った人間の理性が、消えゆく記憶を必死に掴もうとする。美胡ちゃんを忘れてはいけない。あんなに私を愛してくれた人を、私の手で壊した事実を、消してはならない。
「いいえ。覚えていなくていいのです」
汐莉さんの声が、一瞬だけ低く、冷徹な響きを帯びた。
直後――。
「あ、ぐ……っ!?」
首筋に、鋭い痛みが走った。
汐莉さんの人魚としての鋭利な牙が、私の柔らかい肉を深く、容赦なく突き刺したのだ。
ドク、と私の熱い血が彼女の口内へと流れ出すのが、皮膚の境界線を通じて生々しく伝わってくる。
激痛。けれど、その痛みは一瞬で、肉体を駆け巡る圧倒的な快感へと変質した。牙の先から、私の精神を書き換えるための、冷たい麻薬のような「祝福」が直接血管へと注ぎ込まれていく。
「んあああ、っ、あ……!」
背中が弓なりに反り、視界がチカチカと明滅する。頭の奥で、カチリ、と何かのスイッチが切り替わる音がした。
美胡ちゃんの死。その凄惨な光景が、完全に「存在しない何か」へと書き換わっていく。悲しみも、絶望も、頭が狂いそうだった恐怖も、すべてが汐莉さんの牙によって吸い上げられ、代わりに彼女の圧倒的な独占欲と、底なしの愛の質量だけが、空っぽになった私の心に注ぎ込まれていく。
心が、作り変えられていく。
美胡ちゃんを殺したという事実の代わりに、脳裏に定着したのは、「夜道を歩いていて、少し転んで、汐莉さんに助けられた」という、あまりにも都合が良く、歪な偽りの記憶。
「ふふ、いい子。私の可愛い比名子。痛みを忘れて、私だけを見ていればいいのです」
牙が引き抜かれ、今度はその傷口を、いたわるように優しく、けれど執拗に汐莉さんの舌が舐め回す。
傷口が塞がっていく感触が、狂おしいほどに痒く、官能的だった。
彼女の手が、今度は私の両頬を包み込む。
正面から見つめ合わされた汐莉さんの瞳は、深海の底のように暗く、どこまでも濁りのない青だった。
その美しい瞳を見つめているだけで、私の思考は完全に停止し、ただ彼女の言葉を信じる人形のようになっていく。
「もう、何も怖くありませんね? 貴方の罪は、すべて私が食べてあげました。貴方はただ、健やかに、美味しく育てばいいのです。いつか、私が貴方を骨の髄まで愛し尽くす、その日のために」
「……うん。汐莉さん……私は、転んだだけ」
私の口から漏れたのは、自分でも驚くほど、甘えたような、蕩けきった声だった。首筋に残る痛みの余熱と、口内に残る彼女の味が、私の新しい世界のすべて。
美胡ちゃんへの歪んだ友情も、家族への未練も、すべては遠い霧の彼方へ消え去り――私はただ、私を終わらせてくれると約束した、美しき人魚の腕の中で、幸せな馳走としての歓びに身を委ねていた。