カーテンの隙間から差し込む朝の光が、私の瞼を優しく叩いた。
「ん……っ」
ゆっくりと目を開ける。頭の芯が妙にすっきりとしていて、ここ最近ずっと胸の奥に居座っていた、あの泥のように重い気持ちが綺麗に消え去っている。
生きているのが苦痛でたまらなかったはずなのに、今朝は不思議なほど、体が軽くて健康そのものだった。まるで、長年患っていた心の病が奇跡的に完治したかのような、そんな晴れやかな気分。
寝返りを打とうとして、シーツの中で何かが私の肌に ぴったり と触れていることに気づいた。
なめらかで、少しひんやりとした心地よい質感。
「……あれ?」
視線を落とすと、そこには見慣れた青い髪が広がっていた。
汐莉さんだ。
すやすやと規則正しい寝息を立てて眠っている彼女は、信じられないことに、衣服を何一つ身に纏っていなかった。
「な、裸……っ!? なんで!?」
思わず声が出そうになり、慌てて口を両手で押さえる。
昨日、一体何があったのだろう。
頭にモヤがかかったようで、昨夜の記憶がすっぽりと抜け落ちている。何か、すごく怖くて悍ましい夢を見たような名残は微かにあるけれど……確か、それを汐莉さんが優しく 救って くれたような、そんな温かい感覚だけが胸に残っていた。だから、彼女が隣にいることに不思議と嫌な気持ちはしなかった。
コンコン、と小気味よい音を立てて、自室の扉がノックされる。
「比名子。起きてー! あと、ご飯できたけど食べれる?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、いつも通りに明るく、活発で、太陽みたいな美胡ちゃんの声だった。その声を聞いた瞬間、私の心はさらにパッと明るくなる。
「うん、食べれる! 今いくね!」
ベッドから起き上がり、シーツを巻き付けたまま扉を開ける。
そこには、エプロン姿でいつものように世話を焼いてくれる幼馴染の姿があった。その元気な顔を見ているだけで、なんだか理由もなく嬉しくなってしまう。
「ごめんね、美胡ちゃん。私、昨日何が起きたか全然覚えてなくて……。今、どういう状況なのか聞いてもいい?」
記憶の欠落に対して、今の私は不思議なほど焦っていなかった。心が驚くほど軽やかで、世界が優しさに満ちているように感じられるからだ。
私の言葉に、美胡ちゃんは「あー」と少し困ったように眉を下げて、頭を掻いた。
「比名子はさ、昨日外で派手に転んで頭を打っちゃったんだよ。それでさ、そこの半魚人が慌てて助けたんだけど……なんか、あいつの治癒のやり方がエグい感じだったからさ。記憶がちょっと変になってるかも」
「そ、そうなんだ……」
美胡ちゃんの解説に、なるほどと納得する。
記憶がないのは困るけれど、怪我をして混乱していた私を、汐莉さんなりに必死に助けようとしてくれた結果なのだろう。
ベッドの中で全裸で転がっている人魚さんの姿を思い出し、少し頬が緩む。
「困るけど、慌ててやってくれたならしょうがないよね。私を助けようとしてくれた汐莉さんを責めるのも、なんか違うし」
「まあ、比名子がそう言うならいいんだけどさ……。あいつ、どさくさに紛れて絶対変なことしたでしょ」
美胡ちゃんがジト目でベッドの上の青い塊を睨みつける。そんな二人のやり取りを子守唄にするように、汐莉さんはシーツの中で気持ち良さそうに、ぱたぱたと小さく足を揺らしていた。その魚っぽい所作が、今の私には酷く愛おしく思える。
生きることは、本当はこんなにシンプルで、温かいものだったのかもしれない。
世界を包む朝日は暖かく、大好きな親友が作るご飯の匂いが鼻腔をくすぐる。失った過去の傷痕すら忘れてしまうほどの圧倒的な幸福感の中で、私は久しぶりに、心からの笑顔を美胡ちゃんへと向けた。
「……美胡ちゃん?」
急に言葉を詰まらせ、じっと私を見つめてきた美胡ちゃんの顔を覗き込む。
いつもなら私の言葉に小気味よくツッコミを入れてくるはずの彼女が、何かを躊躇うように、あるいは胸の奥の複雑な感情を押し殺すようにして、金色の瞳を僅かに揺らしていた。
その沈黙が少しだけ気になって、私はもう一度、彼女の名前を呼んだ。
「ん、あ。ごめん」
ハッと我に返ったように美胡ちゃんは微笑むと、少しだけトーンを落とした、けれど真剣な声で私の両手をそっと握りしめてきた。
「そんなわけで、比名子の記憶がちゃんと戻るまで、しばらく三人で暮らすことにしたいんだけど……お願いできないかな? 本当はさ、比名子をこういう妖怪関連の面倒事に巻き込むのは、私、絶対に嫌だったんだけど。あいつがやっちゃったことの後始末もあるし、ちょっとね」
「ありがとう、お願いするね。むしろ二人がいてくれた方が心強いよ」
私の素直な返答に、美胡ちゃんはほっと胸を撫で下ろしたような顔をした。そして、握る手にぎゅっと力を込めながら、まるで自分自身に言い聞かせるように、真っ直ぐに私を見つめる。
「うん。……比名子は、私が必ず守るから。何があっても、絶対に」
『守る』――その言葉が美胡ちゃんの口から出た瞬間、私の胸の奥で、ほんの小さな違和感がチクリと跳ねた。
幼馴染が友達を心配して言う「守る」とは、どこかニュアンスが違うような、もっと盲目的で、狂気的なまでの執着が混ざっているような、そんな奇妙な感覚。でも、今の私の頭はすっきりと軽くて、そんな深い邪推をする必要なんてどこにもなかった。
だから、「うん、ありがとう」と笑って受け流す。すると、美胡ちゃんは私の肩越しに、ベッドの上の青い塊へと視線を移した。
その瞬間、彼女の優しい表情が、一瞬で般若のような般若面の怒りへと変貌する。美胡ちゃんが指差した先では、衣服をすべて脱ぎ捨てた汐莉さんが、相変わらずシーツの海で優雅に泳ぐように丸まっていた。
「で。それはそれとして、なんでコイツは比名子と同じベッドで、しかも裸で寝てるわけ? 説明してくれる、比名子?」
「え、あ、それは……」
私は何も言えなかった。昨日、頭を打った私を汐莉さんがどうやって看病(?)してくれたのか、そのプロセスが完全に抜けているのだから弁明のしようがない。
私がしどろもどろになっていると、ベッドの上のシーツがもぞもぞと動き出し、まるで深海から浮上する人魚のように、汐莉さんがゆっくりと身体を起こした。
寝起きのはずなのに、その青い瞳は完全に覚醒している。彼女は一切の羞恥心を感じさせない堂々とした仕草で、シーツを胸元まで引き上げると、あからさまに美胡ちゃんを挑発するような笑みを浮かべた。
「朝から騒々しいですね、美胡。衣服などという不自由な文化に縛られているから、貴方はいつまで経っても『二番手』のままなのです。肌と肌を合わせ、体温を分け合うことこそが、救済の第一歩だとは思いませんか?」
「はあぁぁ!? 寝ぼけたこと言ってんじゃないわよこの半魚人! どさくさに紛れて比名子に変なことしたでしょ! 記憶が変になってるのも絶対アンタ、わざと!」
美胡ちゃんが怒髪天を衝く勢いで詰め寄るが、汐莉さんは枕に肘をつき、相変わらず魚っぽく身体をしならせながら、涼しげな顔で爆弾を投下した。
「ふふ、何を焦っているのですか。そもそも、物語における『幼馴染』というのは、歴史的に見ても負けヒロインの象徴と相場が決まっています。後からやってきた『転校生(あるいは謎の美少女)』に、ヒロインレースで勝てるわけがないじゃないですか。諦めて、私に比名子のすべてを譲ることが賢明ですよ」
「な……っ、な、ななな、何言ってるのよアンタァァァ!!」
その言葉は、美胡ちゃんの何らかの逆鱗に、信じられないほどの精度でクリティカルヒットしたようだった。
美胡ちゃんの顔が真っ赤に染まり、同時に、彼女の背後に一瞬、巨大な狐の尾のような、燃え盛るようなパッションのオーラが揺らめいた気がした。
「ヒロインレースとかマジで意味不明! 私と比名子が重ねてきた時間の長さを舐めないで! 捏造だなんて言わせない! 大体、アンタは比名子を食べるために狙ってるだけでしょ!」
「ええ、美味しくいただくために決まっています。ですが、美胡。貴方の『長く生きてほしい』という願いも、結局は自分の側に縛り付けたいだけの独占欲の表れでしょう? 私と貴方に、本質的な違いはありません。ならば、より比名子を恍惚とさせられる方が勝者です。そしてそれは私です」
「上等じゃない……! 表に出な、生臭半魚人! 今日こそ三枚におろしてやる!」
「おやおや、野蛮ですね。狐の皮を剥いで、マフラーにでもしてあげましょうか」
ドカン、と部屋の空気が爆発したかのような錯覚を覚えるほどの、凄まじい威圧感が二人の間で激突する。
さっきまでシリアスに私を「守る」と言っていた美胡ちゃんはどこへやら、二人は凄まじい剣幕で掴み合いの喧嘩(というか、日常的な大騒ぎ)を始めてしまった。
美胡ちゃんの手が汐莉さんの頬を引っ張り、汐莉さんが美胡ちゃんの髪をなめらかに絡め取る。
「あはは……二人とも、朝から元気だね」
二人の壮絶なる争いを特等席で眺めながら、私は思わずクスクスと笑ってしまった。
記憶がないことへの不安なんて、この賑やかで、私を巡って全力でぶつかり合う二人の熱量の前には、塵のように吹き飛んでしまう。
理由は分からないけれど、私は今、猛烈に愛されている。
二人の激しい感情の嵐に巻き込まれながら、私は新しく始まったこの歪で、けれど最高に心地よい三人の日常を、心の底から満喫していた。