昼休みの屋上。五階分の階段を上ってきたはずなのに、息一つ乱れていない。吹き抜ける風は生温く、私の頬を撫でていく。けれど、その風が本当に冷たいのか温かいのか、今の私には少しだけ判別がつきにくい。
なんだか最近、世界と私の間に一枚、水に濡れた薄いレースのカーテンが挟まっているみたいだ。
すべての色彩が淡く滲み、音が遠く、自分の手足さえも借り物を動かしているようにふわふわと浮き上がっている。悲しいという感情の輪郭も、嬉しいという感覚の棘も、やすりで丸く削り取られてしまったかのように、何もかもが穏やかで、そして酷く希薄だった。
「──というわけなの! 比名子、お願い、私に力を貸して!」
唐突に視界に飛び込んできたのは、燃えるような真っ赤な髪。
目の前で、幼馴染の美胡ちゃんが、私の両手をがっしりと包み込むように握りしめていた。金色の瞳が、眩いほどの熱量で私を真っ直ぐに見つめている。その強い眼差しに射すくめられると、頭の芯がじわりと痺れる。
何のお願いだったっけ。ええと、そう、美胡ちゃんが学校でいくつも掛け持ちしている部活か委員会のどれかで、今週末に合同合宿があるのだ。
そこで急に体調不良の欠員が出たらしくて、そのヘルプとして私についてきてほしい、というお話。
「うん、いいよ。美胡ちゃんが困っているなら、私、どこへでも行くよ」
「本当!? ああもう、やっぱり比名子は私の最高の親友! 大好き!」
勢いよく抱きついてくる美胡ちゃんの身体は、太陽みたいに温かい。ぎゅう、と肋骨が軋むほどの強さで抱きしめられているのに、不思議と痛みは感じなかった。
ただ、その温もりすらも、今の私にとっては他人事の映画を観ているかのように、どこか遠くで心地いいだけ。
美胡ちゃんの私に対する執着が強ければ強いほど、私の心は反比例するように空っぽになっていく気がする。けれど、それでいい。
考えるのは疲れるから。
「おや、随分と安売りをするのですね、狐の神様。比名子の特別な時間を、そんな人間の有象無象が集まる場所に捧げさせるなんて」
美胡ちゃんの背後から、影が伸びるようにして青い髪の少女──汐莉さんが現れた。
音もなく私の隣に並び、美胡ちゃんを小馬鹿にするように深海を思わせる冷ややかな瞳を細める。
汐莉さんが近づくと、空気の温度がすっと下がる。その冷気が、今の私には酷く優しかった。
「なっ……半魚人は黙ってて! これは私と比名子の神聖な約束なの! 余計な邪魔しないでよ!」
「神聖、ですか。笑わせないでほしいものです。ですが、まあ……比名子が行くというのなら、私もついていきましょう。比名子の初めての合宿ですもの、不埒な輩にその綺麗な血肉を汚されては堪りませんから。私がしっかりと、側で管理しなくては」
クスクスと、鈴の転がるような美しい声で笑う汐莉さん。
いつもの、見慣れた二人の言い争い。私はそれを、やっぱり特等席で眺めながら、ただ微笑んでいた。
私のために争ってくれる、私を必要としてくれる。その事実だけで、私の胸の底にぽっかりと空いた黒い空洞は、甘い致死量の幸福感で満たされていく。
過去に何があったかなんて、もうどうでもいい。今、私はこんなにも愛されているのだから。
『ピンポンパンポン──』
その時、タイミングよく校内放送の無機質なチャイムが響き渡った。
『○年○組の社美胡さん。大至急、職員室の教頭先生のところまで来てください。繰り返します、社美胡さん──』
「あちゃー、また呼び出し! ごめんね比名子、話の続きはまた放課後! 半魚人。私がいないからって比名子に変なこと吹き込まないでよ! 絶対だからね!」
美胡ちゃんは嵐のように騒がしく、屋上の重い鉄扉の向こうへと駆けていった。バタン、と大きな音が響き、再び静寂が屋上を支配する。
残されたのは、私と、汐莉さんの二人だけ。
遠ざかる美胡ちゃんの足音を、ぼんやりとした意識の境界線で眺めながら、私はお腹の底から湧き上がってきた、確固たる「確信」を、そのまま言葉にして口に出した。
「汐莉さん、これで大丈夫だよね」
隣に立つ汐莉さんが、長い睫毛を揺らし、わずかに首を傾げる。
「何がですか?」
「美胡ちゃんは太陽。みんなを照らす光。優しい心を持っているから。……汐莉さんがいて、妖怪なら、長い時の一瞬だけ。私が死んでも、きっと誰も傷つかない」
そう、だから全部大丈夫なのだ。
私の思考は、今、とても心地よく澱んでいる。過去のことなんて、思い出そうとすると頭の中に白い霧が立ち込めて、すぐにどうでもよくなってしまう。
名前も、家族の顔も、自分がなぜここにいるのかも、すべてが霞の彼方。今の私は、ただ二人の重すぎる愛に流されるだけの、意志を持たない空っぽの人形。
だから、私がいつか壊れて死んでしまっても。
太陽である美胡ちゃんは、私がいなくなったって、すぐに他のたくさんの人間を照らし続けるだろう。彼女の優しさは世界中に向けられているのだから、私一人を失っても、少し寂しがるだけで平気なはずだ。
そして不老不死である汐莉さんにとっても、人間の私の一生なんて、気の遠くなるような長い人生のほんの一瞬、瞬きをするほどの時間でしかない。通り過ぎていく季節のようなものだ。だから、私がどうなっても、誰の心も壊さない。
完璧な論理だった。ふわふわとした幸福な頭で導き出した、みんなが傷つかずに済む、一番優しい答え。
そう思って、私は同意を求めるように、無邪気な笑顔で汐莉さんを振り返った。
「……貴方は」
汐莉さんの声が、微かに、けれど決定的に震えていた。
いつも余裕に満ちて、私を「幸せにしてから喰べる」と嘯く理の外の怪物が、見たこともないほどショックを受け、激しく動揺したような表情で私を見つめている。
その美しい青い瞳が、痛々しいほどに、細かく波打っていた。静かに、けれど地面を這うような酷く重い足取りで、汐莉さんが私との距離を詰める。
一歩、また一歩。彼女が近づくたびに、世界から音が消えていくような錯覚に囚われる。
「それは、どうでしょう。長い時を過ごしているからこそ、替えが効かない一つのものに執着するものもいます」
汐莉さんの白く冷たい手が、私の頬に触れた。その手は、凍えるように冷たいはずなのに、今の私の鈍い肌には、酷く熱い灼熱のように感じられた。
彼女の瞳の奥に、光の届かない、底なしの深海の暗闇が広がっている。
それは私を優しく包み込み、引きずり込み、同時に、永遠にそこから出さないように閉じ込めてしまおうとするような、息の詰まるほどの、暗く重い執着の光だった。
「私の前で、二度とそんな風に、自分を安い命のように言わないでください、比名子。貴方は、私の──」
「あはは……怒っちゃった?」
私は首を傾げ、ただ力なく、人形のように笑う。
汐莉さんがどうしてそんなに怒っているのかも、その瞳の奥にある、引き裂かれそうな痛みの正体も、今の私の錆びついた脳では上手く咀嚼できない。悲しませるつもりなんてなかったのに、どうしてそんな顔をするんだろう。
けれど、こんなにも重く、暗く、冷たい感情が、世界中で私一人だけに向けられている。
何もかもが嘘っぽくて、現実感の薄い世界の中で。汐莉さんのその手の冷たさと、私を縛りつけようとする視線だけが、微かに私の存在を現実へと繋ぎ止めてくれているような気がした。