凪いだ海は、巨大な鏡だ。
空の青を反射して、どこまでも透き通っている。けれどその鏡の裏側には、光の一切届かない暗い泥濘が広がっていることを、私は知っている。
「貴方は人間です。それで私に勝てると?」
目の前の人魚さんは、凪いだ海のような瞳で私を射抜いた。その声には嘲弄もなく、ただ純然たる事実を確認するような冷徹さがあった。
「私が勝てる程度の妖怪に用はなくて。私が負けるなら食べられるから、それはそれで満足。どっちでも良いの」
言葉が、自分の唇を滑り落ちていく。
そう、どっちでも良いのだ。これはテストだ。不老不死という呪いに縛り付けられた私が、自分を殺し切れる「理不尽」に出会うための、生存確認。私が勝てば生き延び、負ければその存在は誰かの血肉となって消える。
そこに境界線はない。
「私は美味しい匂いがするみたい。だから沢山の妖怪に襲われて、返り討ちにしてきた。私を殺し切れる人が現れるまで、私は前に進むしかないの」
「……なるほど。そういう感じですか。これは骨が折れますね」
「行きます、妖怪さん」
「いらっしゃーい」
汐莉が軽やかに応じる。私は地を蹴った。
淵に沈む
視界が、藍色の闇に塗り潰される。水面から溢れ出した無数の黒い髪は、執念深い蔦のように私の四肢を縛り上げ、一切の抵抗を許さずに「底」へと引き摺り込んだ。
「ごぼっ」
肺の中の空気が、銀色の泡となって指の間をすり抜けていく。それと引き換えに、冷徹な海水が鼻腔の奥を焼き、喉を通り、内臓を冷たく撫でた。
重たい水が、鼓膜を強烈に圧する。
世界から音が消え、ただ「心臓の音」だけが、遠い雷鳴のように体内で響いていた。
冷たくて、苦しくて――そして、狂おしいほどに心地良かった。
死ぬなら、こういう場所が良かったのだ。
運命に抗う戦士のような雄姿も、誰かに見守られる最期も、私には相応しくない。日常の退屈な裂け目から、何の前触れもなく、不条理に、脈絡もなく訪れる死。
それこそが、私の「生きていたい」という本能的な呪縛と、「死にたい」という理性が導き出した願いを、唯一矛盾なく融解させる「解」に思えた。
ああ……ようやく、追いついてくれた。
あの日の事故。ひしゃげた鉄塊とガソリンの匂い。
「生きろ」と、私をこの世に縛り付けた家族の、最後の一瞥。私だけが生き残ってしまったあの瞬間から、私はずっと「生」という名の、陽光の照りつける孤独な陸地で途方に暮れていた。
だが、今は違う。
この水底の暗闇は、あの日の理不尽の続きだ。不可抗力という名の言い訳が、私の心を白く塗り潰していく。
「私のせいじゃない」
「どうしようもなかった」。
そんな卑怯な免罪符を握りしめたまま、眠りに落ちることができる。
肺が潰れ、意識の輪郭が曖昧になる。
重力からも、罪悪感からも、血の繋がった呪いからも解き放たれていく。
私は初めて、本当の意味での「自由」に指先が触れた気がした。
――けれど。
その静寂は、傲慢な輝きによって不躾に壊された。藍色の世界を切り裂いて、銀色の鱗が躍る。
水中に飛び込んできた汐莉が、私を絡め取る呪わしい髪を一片の容赦もなく切り払った。
彼女の腕が、私の腰を強く抱き寄せる。
「……っ!?」
拒絶する間もなかった。
彼女が蹴り出した水流が、私を光の差す方へ、酸素の満ちる方へ、忌々しい現世の方へと強引に押し上げる。
視界が爆ぜるように明るくなり、肺が、鋭利な刃物のような空気を吸い込んだ。
「ごふっ、かはっ……! げほっ……!」
重力に再会した私の体は、コンクリートに無造作に転がされる。頬を打つ砂の感触、濡れた服の重み、そして生きていることを証明する喉の痛み。
すべてが、先ほどまで抱いていた「自由」の残滓を、泥のように汚していく。
「荒っぽくてごめんなさい。でも助かったので良かったということで」
上から降ってきた人魚さんの声は、残酷なほどに明るく、凪いでいた。
私は震える指で拳を握りしめ、自分がまだ、この明るすぎる世界に繋ぎ止められていることを悟った。
海は、何も答えてはくれない。ただ、さざ波の音だけが、私の耳元で嘲笑うように繰り返されていた。
「……ありがとう」
「お礼が言えて偉いですね、よしよし」
人魚さんは子供をあやすように微笑む。だが、その視線の先では、先ほど私を襲った
「磯女」が姿を現していた。汐莉は迷わず片手を妖怪のそれへと変貌させる。爪がキリキリと、獲物を切り刻む準備を始めた。
「下賎な磯女が」
「クソ、なんでこんなところに人魚なんて……!」
「旬を弁えない下等な妖怪は、消えてください」
それは、一方的な蹂躙だった。
死を振りまく異形が、さらなる上位の「理不尽」にズタズタに引き裂かれ、潮騒の中に消滅していく。
ああ、なんて不条理だろう。なんて美しいのだろう。貴方こそが、私がずっと待ち望んでいた絶望だ。
「さて、比名子。邪魔も入ったからこれで――」
汐莉がこちらを振り向いた瞬間、私は手にしたノコギリ鉈で全力の斬撃を見舞った。
けれど。
異形化した汐莉の剛腕が、私の攻撃を容易く弾き飛ばす。そのままの勢いで、振り抜かれた彼女の腕が私の頭部を粉砕した。
意識が、白濁した波の中に消えていく。
【悪夢の世界】
無数の墓石が立ち並ぶ、閉ざされた工房。
ここが私の拠点。眠りにつくたびに訪れる、逃げ場のない戦場。
私は一人、使い慣れたノコギリ鉈を整備する。獣を狩るための血晶石を外し、より広範な「神秘」に対応する万能型へと調整を施す。
金属が擦れ合う音が、静かな空間に響く。
「人魚は獣だと思ったけど、弾かれちゃった。……神秘系が強いのかな。不老不死は獣より、神秘っぽいし」
ため息を吐く。
これ以上、強くなってどうするつもりなのだろう。
「目覚めよう」
私は手に持ったノコギリ鉈を自分の首に当て、迷いなくその刃を引いた。
【現実世界】
瞼を開けると、そこは再び現実の海の近くだった。
「……あ」
横たわった私の体を、人魚の妖怪が抱きしめていた。
彼女は、死体であったはずの私が呼吸を再開するのを、食い入るように見つめていた。その瞳には強い意志と、隠しきれない真剣さが宿っている。
私は、彼女の冷たい頬にそっと触れた。
「なんで、人魚さんはそんな顔をしてるの?」
「私は……貴方に、比名子に……こんなつもりはなくて」
声が震えている。彼女の「善意」が、彼女自身の輪郭を揺らしているようだった。
「そうなの? 私を喰べる為に来たんじゃないの?」
「それは、そうですが……」
「人魚さんも大変なのかな。複雑な事情があるんだろうね。戦うのはやめよう。お互いに本気でない殺し合いは、目的に沿わないから」
海から吹く風が、私たちの間を通り抜けていく。人魚さんは一度大きく深呼吸をして、私に問いかけた。
「……その目的とは?」
「秘密。そうだ、名前を教えてほしいな。人魚さん」
彼女は一瞬、何かに打たれたような顔をしてから、いつもの飄々とした態度を取り繕った。
「近江汐莉です」
「汐莉さん。よろしくね。いつでも本気で喰べようとしてきても、大丈夫だから」
「それなら当分先になりますよ」
「どうして?」
「今の貴方は不味そうです。だから私が幸せにして、美味しくなったら喰らうんです」
「ふふ、最悪だね。その時の貴方と戦えることを期待してる」
家族は、理不尽な死に飲まれた。
私に『生きて』という重い石を抱かせて、彼らは逝ってしまった。だから私には生きる義務がある。でも、その重みに耐えきれない夜は、自分を壊してくれるほどの圧倒的な不条理を期待してしまうのだ。
「汐莉さんは、どれくらい強いのかな」
不死身の体で、悪夢を渡り歩き、皮肉にも強くなりすぎてしまった私。
彼女なら、この終わらない世界を、嵐でかき消してくれるだろうか。砕けた波頭を見つめながら、私はまた、叶わないはずの死を夢見ていた。