■喰べられ続ける、歓びを   作:あばなたらたやた

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20話:血に酔った狩人

 汐莉さんの重苦しい視線さえも、時間の経過とともに、私の頼りない意識の隙間からさらさらと零れ落ちていってしまう。

 

 気がつけば私たちは、週末の合宿に向けた準備を始めることになっていた。

 

 現在、私、美胡ちゃん、そして汐莉さんの三人は、海辺にある私の家で一緒に暮らしている。だから、誰が何をどれだけ持っていくか、荷物の情報を共有するには自宅に集まるのが一番手っ取り早かった。

 

 それに、私の家に突然転がり込んできた汐莉さんの「生活必需品」を買い揃えたり、荷造りしたりする必要もある。けれど、そこである決定的な問題にぶち当たることになった。

 

「荷物? なんですかそれ」

 

 リビングの床にバッグを広げる私と美胡ちゃんを、汐莉さんは不思議そうに見下ろしていた。本気で意味が分からない、というような、どこまでも無垢で傲慢な瞳。

 

「人間下手くそすぎるだろ、お前」

 

 美胡ちゃんが、額に青筋を浮かべんばかりの呆れ顔で吐き捨てる。しかし、汐莉さんは意に介した様子もなく、ふふ、と鼻で笑って綺麗な青い髪をかき上げた。

 

「私は理の外にいる存在なので。そんな、ちまちまとした人間の道具など必要ありません」

「お前はそれで良いかもしれないけど、比名子が迷惑するからやめて。人を学んで」

「なら質問します」

 

 美胡ちゃんの正論を、汐莉さんは冷ややかな、けれどどこか楽しげな挑発で遮った。すっと目を細め、美胡ちゃんを値踏みするように見つめる。

 

「人間ってどうやって生まれるんです? 私は神秘的に突然存在したので知らないんですよね。人間に詳しい、人間を愛していらっしゃる貴方なら、当然ご存知でしょう?」

「……っ」

 

 美胡ちゃんが露骨に嫌そうな顔をして口を噤んだ。元は人間を嬲り殺していた人喰いの妖狐。

 

 僧侶に矯正されて人間らしく振る舞っている美胡ちゃんにとって、その「人体の神秘」を正面から、しかも険悪な同居人に説明するのは蛇拷以外の何物でもないのだろう。

 

 答えたくない様子の美胡ちゃん。二人の間に再びピリついた空気が流れかける。

 私は、どこか他人事のようにその様子を眺めながらも、場を宥めるために優しく教えようと口を開いた。

 

「保健体育の本があるから、それを読んでもらえると嬉しいな。あとは、ネットで調べるとか」

「新しい機械を覚えるの、面倒なんですよね」

 

 汐莉さんは私のスマートフォンを指差して、あからさまに嫌そうな顔をする。現代社会に溶け込む気ゼロの人魚の少女に、私はやんわりと語りかけた。私の声は、自分の耳にもどこか遠くから響いているように聞こえる。

 

「それは必須なものだから、覚えてほしいな」

「……わかりました。比名子の頼みです、受け入れましょう。狐は使えないですね」

 

 あからさまに態度を変えて、私にだけとろけるような笑みを向ける汐莉さん。そして、捨て台詞のように美胡ちゃんを蔑んでみせる。

 

「あ?」

 

 美胡ちゃんがイラッとしたように拳を握りしめ、背後に狐の怪火が灯りそうなほどの殺気を放った。

 私は相変わらずふわふわとした心地のまま、静かに美胡ちゃんの肩にぽん、と手を置く。

 

「……はぁ」

 

 私たち二人の口から、ぴったりと重なるようにして、深い深い溜め息が漏れ出した。

 怒り狂う美胡ちゃんと、涼しい顔で私だけを見つめる汐莉さん。

 この歪で賑やかな日常の温度だけが、私の冷え切った境界線を優しく、泥泥と溶かしていくようだった。

 

「人間の発情期は短い代わりにいつでも起こるんですね。狐は発情期いつなんですか? 比名子を守らなきゃいけないので教えてください」

 

 手渡した保健体育の教科書を細い指先でパラパラとめくりながら、汐莉さんは恐ろしいほど無表情に、とんでもない言葉を厳かに紡ぎ出した。

 

 その涼しげな青い瞳は、純粋な学術的好奇心で輝いているようにも見えるし、美胡ちゃんに対する底意地の悪い煽りを含んでいるようにも見える。

 どちらにせよ、人間的な倫理観が著しく欠如していることだけは確かだった。

 

「殺すぞ、ノンデリ半魚人」

 

 美胡ちゃんの額に本格的な怒脈がピキリと浮かび、いつも街の人々に向けている太陽のような笑顔が、般若の如き凶相へと一瞬で歪む。

 そこからは、いつもの騒がしい日常だった。狐の生態がどうだの人魚の知性がどうだの、人間を喰うだの守るだの、二人の激しい怒号が狭いリビングの空気をビリビリと震わせる。

 

 けれど、その大声も、私を巡ってぶつかり合う熱い視線の交差も、私の耳には次第に遠く、こもった音としてしか届かなくなっていった。まるで、厚い水槽の底から水面の騒ぎを聞いているかのように。

 

 なんだか、急に猛烈な眠気が襲ってきたのだ。頭の中の白い霧が急速に濃くなり、思考の輪郭が甘やかに溶けていく。二人がギャーギャーと騒ぐ声を心地よい子守唄代わりに聞きながら、私は静かにダイニングの椅子に深く身体を預け、ゆっくりと瞼を閉じた。

 

 すとん、と。世界からすべての色彩と音と重力が消え、私は深い深い闇の底へと落ちていく。

 

 ──ゴォォォン……。

 ──ゴォォォン……。

 遠く、頭蓋骨の奥底に響くような、重々しく不吉な鐘の音が聞こえた。

 

 世界が、ぐにゃりと反転する。

 生温いリビングの空気や洗剤の匂いは一瞬で霧散し、代わりに鼻腔を容赦なく突いたのは、鉄錆と煤、そして悍ましい獣の臓物が腐敗した、あの強烈な臭気。

 

 ああ、知っている。

 目覚めたのだ。ここは、悪夢の世界。

 まぶたを持ち上げると、そこは現実の裏側にへばりついた、人間のトラウマや未練が、おどろおどろしい歪な形となって具現化した古代の異界だった。

 

 じっとりとした湿気と、紫がかった夜闇が満ちるその空間で、私の右手には、いつの間にか肌の一部のように馴染んだ『ノコギリ鉈』の武骨で冷たい柄が握られている。

 

 ずっしりとしたその狂気的な質量と、指先に伝わる金属のざらつき。これこそが、現実の私がどうしても得られない、確かな「手応え」を私の掌に与えてくれた。

 暗闇から這い出てくる、毛むくじゃらで異形化した獣を殺し、深海の底で上位者を気取る、あの汐莉さんと同じような肌を震わせる海の軟体生物どもを、ただただ徹底的に解体し、破壊するためだけの存在。

 

それがなんだか、心地よい。

 

「血に酔った狩人さんも、こういう気分だったのかな」

 

 手記からの指示には『市街を占拠する獣を排除せよ』とある。

 

「ガァァァァァッ!!」

 

 煤けた街灯の影から、人間の形を失い、肥大化した四肢を持つ悍ましい獣が、涎を撒き散らしながら躍り出てくる。

 現実の私がそれを見たら、きっと恐怖に身を竦ませ、あるいは現実感の無さにぼんやりと棒立ちになっていただろう。けれど、ここにいる私は違う。

 

 ザシュッ──ッ!!

 

 思考よりも早く、肉体が駆動していた。

ノコギリ鉈を容赦なく振り抜き、獣の硬い毛皮を裂き、肉を深く、骨ごと噛み砕くようにして引き裂く。

 

 生暖かい、どす黒く粘り気のある返り血が、雨のように私の顔や制服に激しく降り注いだ。視界が、べっとりとした鮮血の赤で染まっていく。

 

「あは、あははははっ! すごい、すごいなぁ……!」

 

 喉の奥から、乾いた、けれど抑えきれない悦びの笑いが溢れ出していた。

 どくどくと狂ったように脈打つ心臓。肌にへばりつく、鉄臭く熱い血の感触。骨を断ち切る瞬間の、手のひらを突き抜けて脳まで達する強烈な振動。

 

 ああ。これだ。これこそが、命の音だ。

 私は今、間違いなく生きている。

 

 現実の私は、都合よく記憶を切り刻まれ、ヒロインたちの独占欲にまみれた「偽りの幸福」を喉元まで詰め込まれて、自分が生きているのか死んでいるのかさえ分からない、ふわふわとした、糸の切れたお人形。

 

 けれど、この血生臭い悪夢の中で、誰かの命を貪り、屠り、その存在をすり潰している時だけは、自分の輪郭がはっきりと引き締まり、確かにここに存在しているのだと実感できる。

 

 人間なんて、皮を一枚剥けば、みんな飢えた獣なのだ。

 

 優しさを振りまく美胡ちゃんも、尊大に佇む汐莉さんも、そして──家族を失って一人生き残り、死を希いながらも殺戮の快楽に耽る、この歪んだ私だって何一つ例外じゃない。

 

 現実の世界では、誰の心も壊さないように、賢く、理性ある、啓蒙高き無垢な人間として健気に生きて。

 

 悪夢の世界では、その反動のように、獣のような悍ましい殺戮と破壊を、愉悦の赴くままに执行する。

 

 世界と自分の境界線が、どろどろに溶けて混ざり合っていく。けれど、私の人生は、全くこれで良いのだ。

 

 この薄汚れた幸福と、血塗られた狂気の二面性こそが、今の私を形作る唯一の、かけがえのない真実なのだから。

 

 

 

 

 

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