ぱちり、と。
水底から水面へと、一気に浮上するようにして目が覚めた。
視界に飛び込んできたのは、見慣れた我が家の、少し朝焼けのオレンジ色に染まったリビングの天井。
窓の外からは、夜明けを告げる小鳥たちのさえずりが、どこか遠くの出来事のようにちいさく聞こえてくる。
……すごく、気分が良かった。
いつもなら頭にまとわりついている重い霞が、今朝に限っては信じられないほどにすっきりと晴れ渡っている。身体の隅々の細胞までが、瑞々しい全能感と心地よい熱量で満たされているのが分かった。
ふと自分の身体を動かすと、背中からさらりと、見覚えのある軽いタオルケットが滑り落ちた。
「これは……美胡ちゃんかな」
昨日の夕方、二人の言い争いをBGMにしながらダイニングの椅子に座ったまま眠ってしまった私に、誰かがそっと掛けてくれたのだろう。丁寧に行儀よく整えられたその布の感触に、あの世話焼きで太陽のように優しい美胡ちゃんの顔が浮かぶ。
まだ少し肌寒い朝の空気に包まれながら、私はキッチンへと向かい、手早く朝食の料理を開始した。トントン、とまな板の上で小気味よい音を立てて瑞々しい野菜を刻み、熱したフライパンに卵を落とす。じゅう、と弾ける油の音と香ばしい匂い。
いつも通りの、流れるような手慣れた日常の動作。けれど、それをこなしながらも、私の思考は現実のキッチンにはなかった。
先ほどまで私の魂のすべてを支配していた、あの濃厚な「暗闇の世界」へと狂おしいほどに向いていた。
──あの夢は、一体なんなのだろう。
自分の壊れかけた頭が「悪夢の世界」と表現してはいるものの、思い返すだけで、胸の奥底の空洞がじわりと、狂気的な熱を帯びていく。
暗闇の中でずっしりとしたノコギリ鉈を振るい、獰猛な獣の肉を骨ごと引き裂いて、深海の底で上位者を気取る海の軟体生物どもを徹底的に、跡形もなく破壊する、あの血塗られた行為。
現実の私がいる、どこか嘘っぽくて、目隠しされたような、ふわふわとした世界なんかとは、比べることすらおこがましい。
そこには、脳髄を直接掴んで震わせるほどの強烈な「生の歓び」と、魂が満たされるとてつもない充実感があった。
チーン、とトーストが焼き上がる香ばしい匂いが漂う中、私は包丁を止めて、自分の白い両手を見つめる。
「ああ、本当に私は二人に記憶を弄られてるんだ。悪夢の世界の感覚はあるのに、あの世界で理解した知識は現実に持ってこれない。今も過去も全部がふわふわしている」
当然、そこには血の匂いもしなければ、べっとりと肌にへばりついていた返り血の温もりもない。
綺麗に切り揃えられた爪と、薄い皮膚。けれど、包丁の柄を握る手のひらには、まだあの鉈のざらついた冷たい感触が、まるで消えない烙印のように、幻肢痛となって残っている気がした。
「……二度寝したら、またあの夢に行けるかな」
トーストに黄色いバターを塗り込みながら、ぽつりと、誰に聞かせるでもなく小さな呟きが唇から溢れる。その声は、自分でも驚くほど、熱を帯びて弾んでいた。
もしも許されるなら、学校も、合宿のヘルプも、すべてを放り出して今すぐにでもベッドに潜り込みたい。あの心地よい微睡みを媒介にして、またあの世界へ、私の本性が待つ戦場へと帰りたい。
そして、あの果てしない暗闇の中で、もう一度狂ったように笑いながら、貪欲に、悦びの赴くままに、心の底から満たされるまで──思う存分、狩りがしたい。
──最初の頃は、本当に、死ぬほど怖かった。
暗闇の奥から響き渡るおぞましい咆哮、濡れた石畳をひたひたと濡らす無数の足音、そして闇から突然伸びてくる毛深い異形の爪。怖くて、喉がちぎれるほど泣き叫んで、ただ無様に逃げ回り、煤けた荷車の物陰に息を潜めて隠れていた。けれど、結局は獣に見つかって、筆舌に尽くしがたい激痛と恐怖の中で、何度も、何度も、肉を裂かれ骨を砕かれて無惨に殺された。
死ねばすべてが終わり、この苦痛に満ちた現実(せかい)から解放されるのだと思って、一瞬だけ安心した。けれど、この悪夢の夜は決して覚めてはくれなかった。
血の海の中で再び目を開ければ、そこにはまた、何一つ変わらない陰惨な夜闇の街が広がっている。無限に殺され続ける絶望のループの中で、私はついに、奪われるだけの存在でいることをやめ、戦うという歪な「勇気」を、無理やりにでも振り絞るしかなくなったのだ。
そこからは、死の数だけ、血肉となる経験を強欲に貪り食った。
一度目の死で敵との適切な間合いを覚え、二度目の死で爪が振り下ろされる予備動作を知る。十の死で敵の死角を暴き、百の死で己の恐怖を殺す。一つ一つ、死という最も重苦しく絶対的な対価を支払いながら狩りの技術を磨き、ノコギリ鉈という相棒を得て──そして、かつて私を玩具のように貪り食ったあの化物どもを、今度は私が、冷徹に、そして完璧に殺し返した。
「あの時間が、喪失した私に活力を与えた」
今になって振り返れば、あの地獄のような泥泥とした日々こそが、私が事故に遭って家族を失ってから唯一、自分の意志で前を向いて必死に生きるための「試行錯誤」の時間だったのだと思う。
……まあ、当時は「命を絶対的に奪ってくれる何か」を求めて、現実で破綻して死ぬための努力、のつもりではあったのだけれど。
「楽しかった」
それでも、目の前に立ちはだかる理不尽な難題に対して、脳髄を沸騰させながら苦悩し、どうすればあの爪を掻い潜れるか行動を考え、実践し、また死んで考え、自らの肉体と技術をより鋭利に高めていくあのプロセスは、狂おしいほどに楽しかった。
成功して敵の首を撥ねる瞬間もあれば、一歩届かずに無惨に失敗する時もある。
なぜ失敗したのか? 一瞬の踏み込みが甘かったのか、あるいは欲をかいて手数を増やしすぎたのか。では、先ほど成功した理由は何なのか?
考えて、考えて、錆びついた頭に浮かんだ泥臭いアイデアのすべてを、あの戦場で実験した。あの日々だけは、私の思考は決して澱んでなんていなかった。レースのカーテン越しのような現実とは違い、鮮烈な極彩色に満ちていた。
「殺すのは、楽しい……いいや、違うかな」
ぽつりと小さな呟きを漏らし、淹れたての熱いコーヒーから立ち上る白い湯気を見つめる。
「同じ目的を持った相手と、互いの命を天秤に懸けて全力で競い合うのが、ただ、楽しい……」
敵も私も、生きるために、あるいは目の前の存在を屠るために、今ある手札のすべてを尽くして全力で殺し合う。小細工も妥協も通用しない、一瞬の油断が死へと直結する極限の境界線。
なぜ、あんなにも楽しく、同時に胸が締め付けられるほどに苦しく、脳の芯が焼け付くほどに酔えるのだろう。あの充実感を一度でも知ってしまえば、記憶を切り刻まれた今のふわふわとした幸福な日常が、どれほど退屈で、砂を噛むように味気ないものか分かってしまう。
「戦いこそが、人間の可能性……なんてね」
フフ、と自分の口から出た大層で哲学めいた言葉に、自嘲気味な苦笑が漏れる。
トーストにバターを塗って、これから学校へ行くような普通の女子高生が、朝の静かなキッチンで呟くような台詞じゃない。
これじゃあまるで獣だ。
日常の裏側で血に飢え、戦いの中にしか生の充足を見出せない、本物の狩人みたいじゃないか。