「──比名子、朝だよ。ほら、起きて。遅刻しちゃうよ?」
耳元で優しく響く、少し焦ったような小気味よい声。それから、私の肩を優しく、けれど確実に揺らす温かな手のひらの感触に誘われて、私はゆっくりと重い瞼を持ち上げた。
視界がじんわりと焦点を結んでいく。そこに飛び込んできたのは、心配そうにこちらを覗き込んでいる美胡ちゃんの金色の瞳だった。
朝の澄んだ光をいっぱいに浴びた彼女の真っ赤な髪が、まるで本物の太陽の光を反射しているように眩しくて、思わず目を細める。
どうやら私は、ダイニングの椅子に深く身体を預けたまま、トーストに黄色いバターを塗り込む途中で、またしても意識を深い闇へと飛ばしてしまっていたらしい。
手元を視線で追えば、すっかり冷めて硬くなってしまった一切れの食パンが、虚しくお皿の上に転がっていた。
「もう、料理しながら寝ちゃうなんて危ないよ? 本当に最近の比名子は、どこか遠くに行っちゃいそうなくらいふわふわしてるんだから……。はい、これ私の分のフレンチトースト。半分あげるからちゃんと食べて、目を覚ましてね」
「あはは、ありがと、美胡ちゃん……。いつもごめんね」
私が力なく笑うと、美胡ちゃんは嬉しそうに、けれどどこか切なげに眉を下げた。
そんな風に始まった、いつもの騒がしくて生温い朝の空気は、週末の到来とともに、あっという間に別の場所へと塗り替えられていくことになる。
ガタゴトと規則的な振動を繰り返す電車に揺られ、私たちがやってきたのは、都会の喧騒から遠く離れた、少し寂れた山間にある合宿所だった。
「趣きがありますね」
「合宿所ってこんな感じなんだ」
青々とした深い緑の木々に囲まれた古い木造の建物は、湿った土の匂いを漂わせながら、日常の時間の流れからポツンと取り残されたような静けさを纏って佇んでいる。
美胡ちゃんは到着するなり、掛け持ちしている部活動のミーティングがあるとかで、早々に「また後でね!」と別行動になってしまった。
そのため、残された私と汐莉さんの二人は、まずはこの合宿所の責任者であるオーナーさんへ挨拶に向かうことになった。
「よく来てくれたね、八百歳さん、近江さん。急なヘルプの要請だったのに、本当に申し訳ない。うちは見ての通り人手が足りなくてね、若い二人が来てくれて本当に助かるよ」
宿の帳場で柔和な笑みを浮かべる初老のオーナーさん。そのすぐ後ろの薄暗い影から、一人の女性が衣服の擦れる音もなく、すっと前に進み出てきた。
「はじめまして。ここでパートとして働かせていただいています、千羽あやめと申します。よろしくね、八百歳さん、近江さん」
藍色の落ち着いたエプロンを身に付け、艶のある髪を後ろで一つに綺麗に結んだその女性──あやめさんは、おっとりとした、けれどどこか気品のある大人の笑みを浮かべて、私たちに丁寧に頭を下げた。
その瞬間、私の内側にある、悪夢の世界でのみ研ぎ澄まされた獰猛な直感が、ピきりと微かに、けれど決定的に反応した。
──この人、妖怪だ。
それも、ただの有象無象の怪物ではない。人間の感情や未練、そのコミュニティの隙間に紛れ込む練度が、異常なほどに高い。
完全に人間社会の、それも『穏やかな日常』という精巧な歯車の中に深く溶け込んで生活している。
その人外としての気配の隠し方はあまりにも自然で、恐ろしいほどに綻びがひとつもなかった。
私は驚きを視線に出さないよう努めながら、隣に立つ汐莉さんにそっと意識を向けた。
汐莉さんはいつも通りの、冷徹で美しい無表情のまま、あやめさんをじっと見つめている。理の外にあり、神秘そのものである汐莉さんは、あやめさんが妖怪であること自体には気づいていない──あるいは、気づいていたとしても、自分以外の怪物の存在などどうでもいいと一蹴している様子だった。
どちらかと言えば、あやめさんという女性が醸し出す、どこか哀愁を帯びた「母親のような性質」そのものを、品定めするように気にしているのかもしれない。
「近江さんは、裏手での力仕事や荷物の運搬の方を手伝ってもらえるかしら? 八百歳さんには、私と一緒に館内を回りながら、明日からの合宿に備えた準備や物の配置を覚えてもらいたいのだけど」
「ええ、大丈夫です。私は『喰べる』専門ですから、力仕事の方が得意です」
汐莉さんはオーナーさんと共に、奥の肉体労働の現場へと静かに去っていった。残された私は、あやめさんの少し小さめの後ろ姿に付いて、ひんやりとした広い合宿所の廊下を歩き始める。
リネンの正しい畳み方、大量の食器の効率的な並べ方、お茶を淹れる際の間合い。
あやめさんは一つ一つの家事を、とても丁寧で、それでいて淀みのない洗練された手つきでこなしていく。
その、一切の無駄がないのにどこか温かみのある、生活のプロとしての動きを後ろからぼんやりと眺めているうちに、私の薄暗く濁った脳の奥底で、何かがパチリと弾けた。
「あれ?」
私、この背中を知っている。
この、優しくて、少し小さくて、でも何よりも頼りがいのある、家事を行う後ろ姿。
記憶を無残に切り刻まれ、過去のすべてが白い霧の彼方に消えてしまったはずなのに。
自分の手足が本当にここにあるのかさえ分からないほど現実感が薄いはずなのに。
あやめさんのエプロンの揺れ方、そこから漂う微かな家庭の匂いに、私はどうしても、数年前にあの凄惨な事故で死んだはずの『母親』の幻影を重ねてしまっていた。
「……なこちゃん。八百歳さん?」
ハッと意識がこちらの世界に戻る。いつの間にかあやめさんがパタパタと動かしていた手を止め、振り返って私の顔を覗き込んでいた。
その双眸は、酷く優しく、そして深海とは違う意味で、どこまでも深い。
「ぼーっとして、どうかした? 少し疲れちゃったかしら。無理はしなくていいのよ?」
「あ、何でもないです。ごめんなさい──お母さん」
あ、と気づいた時には、もう遅かった。
自分の唇から、どうしてその単語が飛び出したのか、今の私には理解すらできなかった。だって、いまの私にとって、家族の顔も声も、すべてやすりで削られたように不鮮明で、どうでもいいはずなのに。
「ふふ、お母さん?」
あやめさんは一瞬だけ驚いたように丸い目をさらに丸くした後、愛おしそうにくすぐったそうに、クスクスと肩を揺らして笑った。私は我に返り、急激に熱くなる頬を慌てて両手で押さえる。
「すみません、あやめさんみたいな、まだ綺麗で若い人に……変な言い間違えをしちゃって」
「いいのよ、気にしないで。言い間違えちゃうことは、誰にだってよくあるわよね。それにね──」
そこで、あやめさんは言葉を一度区切った。
雑巾を木製のバケツの水に浸し、きゅっと絞るその細い指先が、ほんの一瞬だけ、不自然なほど硬直する。
「──私にも、お母さんだった時があるから」
立ち上がり、私を見つめ直したあやめさんの表情は、酷く複雑そうだった。
目の前の私を丸ごと包み込むような深い慈愛に満ちているようでもあり、同時に、救いようのない底知れない寂しさと、取り返しのつかない何かを激しく悔恨しているようでもある、そんな歪な表情。
人間のフリをして日常に溶け込んでいるはずの妖怪が、一瞬だけ見せた、その精巧な仮面の綻び。
私はふわふわとした、現実味を欠いた意識の中で、その「複雑な表情」の理由を上手く咀嚼できない。悲しませるつもりなんてなかったのに、なぜ彼女はそんな顔をするのだろう。
けれど、私はあやめさんのエプロンから香る、どこか懐かしい石鹸の匂いに、静かに精神の深いところを侵食されていくのを感じていた。