あやめさんに教えてもらいながら、手早く明日への準備を終えた私は、少し長めの休憩をもらうことになった。
なんだか、喉がひどく渇いている。
ぼんやりとした頭のまま、冷たい飲み物を求めて、合宿所の古い木造の廊下をあてもなく歩き回った。目的の自動販売機を探して、少し奥まった中庭に続く勝手口のあたりまでやってきた、その時。
板張りの床を軋ませないよう、無意識に「狩人」の足取りで歩いていた私の耳に、よく知る二人の声が飛び込んできた。
私は反射的に柱の影に身を潜め、中庭の方へと視線を向ける。そこには、新緑の木漏れ日を浴びながら、対峙する美胡ちゃんと汐莉さんの姿があった。
新緑の隙間から差し込む陽光が、古い中庭の芝生にマダラな影を落としている。
美胡ちゃんは、ふう、と小さく息を吐きながら、隣に立つ汐莉さんを横目で盗み見ていた。
「先ほどから遠目から見ていたんですか?」
「うん、たまたま。楽しそうにあやめさんと話していた」
「そうですか」
「比名子の姿が見えたから」
その時の光景を思い出したのか、美胡ちゃんの唇には自然と、温かな微笑が浮かぶ。
「比名子がなついてる……珍しい」
美胡ちゃんの呟きには、純粋な喜びと安堵が混じっていた。
あの凄惨な事故以来、ずっと心を閉ざし、闇の中で死を希うように生きていた私。記憶を捏造して幼馴染として傍に寄り添い続けても、お互いの心の奥底には、常に誰も触れられない空虚な溝があったように感じる。
「あやめさん、本当に優しい人なんだろうね。比名子、普段は学校でもあんな風に自分から誰かに心を開くことなんてないのに。やっぱり、ちゃんとした大人の女性の温もりって、今の比名子に必要なんだろうね。私たちがどれだけ頑張っても、埋められないところがあるんだから」
「……本気で言っているのですか?」
美胡ちゃんの言葉を、汐莉さんの冷徹極まる声が遮った。その青い瞳には、いつも以上に冷ややかで鋭い光が宿っている。
「おめでたい頭ですね、君は。あれを見て、ただの温もりなどと微笑んでいられるなど。相変わらず、人間の真似事にうつつを抜かすと視野が狭くなるようで」
「なに? 喧嘩売ってるの? 私はただ、比名子が嬉しそうにしてるのが──」
「貴方は本当に何も見えていない。あの人間は、比名子と同じ匂いがするのですよ」
「え……? 同じ匂いって、まさか、あやめさんに何かあるってこと? まさか悪夢関係?」
驚いて声を潜める美胡ちゃんに、汐莉さんは小さく首を振る。
「そんなことはどうでもいいのです。あれが肉塊だろうが異形だろうが、私の知ったことではありません。問題は魂の匂い──大切なものを理不尽に奪われ、そのぽっかりと空いた致命的な喪失を抱えたまま、死ねずに生きている者の匂いです。あやめという女が過去に『お母さんだった』という事実は、彼女もまた、比名子と同じ痛みを経験したことを示している」
だからこそ、汐莉さんは我慢ならなかったのだろう。すっと目を細め、美胡ちゃんを冷酷に射すくめる。
「私は、傷の舐め合いをしてほしくない。比名子を飢えさせ、幸せにし、最後に完璧な状態で喰らうのはこの私です。美胡、貴方が捏造した薄汚れた幸福の日常を、あの偽物の母親が内側から喰い荒らそうとしているのですよ。同じ傷を持つ過去の幻影に比名子が囚われるなど、到底許せるはずがないでしょう」
「……何よ、それ」
美胡ちゃんの喉から、低く、地を這うような獣の威嚇が漏れ出た。
「完璧な状態で喰らう? 相変わらず反吐が出るほど身勝手な理屈ね、半魚人。傷の舐め合いの何が悪いのよ。比名子がその傷のせいでどれだけ苦しんできたか、お前はちっとも分かってない。少しでも心が休まるなら、過去の幻影だろうがなんだろうが、今の比名子にとっては救いになるでしょ」
「救い、ですか。甘いですね」
汐莉んさはあざ笑うように口元を歪めた。
「その『救い』とやらが、比名子の心をさらに脆く砕く毒だとしたら? 偽物の母親にすがりつき、自分の都合のいい夢に逃げ込んだ比名子が、現実の重みに耐えかねて完全に壊れてしまったら、貴方はどう責任を取るのです? ああ、またお得意の記憶捏造で、都合の悪い過去を消してやり直すのですか?」
「お前──っ!!」
「図星でしょう。貴方のやっていることは、ただの現実逃避の引き伸ばしに過ぎなかった。比名子を人間の世界に縛り付けたいがために、彼女の心をツギハギにして、人形のように弄んでいる。あやめという存在は、貴方の作ったその脆い箱庭をひっくり返すだけの劇薬ですよ」
「黙りなよ、人外の化物が……! アンタだって比名子の過去を全部消したくせに」
美胡ちゃんの瞳に、太陽の温もりとは真逆の、昏く鋭い嫉妬の火が灯る。
美胡ちゃんが汐莉さんに対して抱く、どうしても埋められない羨望。それは、汐莉さんのように「妖怪としての本質」を一切隠さず、その異常で重苦しい愛のまま、私の隣に堂々と君臨できていることだというのは、なんとなく理解できていた。
「お前はいいよね、半魚人。比名子の前で何も偽る必要がなくて。そのどす黒い独占欲のままで比名子の傍にいられるんだから。……私は人として支えることはできる。捏造した日常の中で、彼女の傷を覆い隠してあげることはできる。でも、比名子の本当の孤独の深さまでは理解できない」
ギリっと音がした気がした。
「だって私は、人間を愛すると決めて『理の中』に収まろうとしている存在だから。比名子がどれだけ暗闇の底で泣いていても、私は人間のふりをして光を照らすことしかできないのよ……! お前のその剥き出しの執着が、私には羨ましくて、堪らなく憎い」
「……それはこちらの台詞ですよ、美胡」
美胡ちゃんから向けられる嫉妬の視線を正面から浴びながら、汐莉さんの胸中にもまた、どす黒い嫉妬が渦巻いていた。
理の外にいる人魚が、決して手に入れられないもの。
それは、美胡ちゃんのように、人間社会の中で何一つ浮くことなく、自然に、誰からも愛されて生きられるという「日常の適応力」だった。
「貴方のその眩しさが、私には酷く不愉快で、羨ましくて堪らない。私は理の外にあるものだから。どれだけ比名子の傍で生活を共にしても、彼女に『人間の青春や日常』を与えることはできない。学校での思い出も、友達との他愛のない会話も、私には作ってあげられない。比名子を本当の意味で人間の世界に繋ぎ止め、あんな風に儚く笑わせているのは、いつだって貴方の捏造した眩しい光だ。私がどれほど比名子を深海へ引きずり込もうとしても、比名子は貴方の照らす光に未練を残す……!」
汐莉さんの細い指先が、怒りと羨望で僅かに震える。
「その『人間らしさ』の特等席にいる貴方が忌々しい。それなのに、今度はあの偽物の母親までが比名子の『家族の未練』を刺激して、私にも貴方にも触れられない領域に入り込もうとしている。私はそれが我慢ならない。あの女が比名子の心をこれ以上かき乱すなら……私はあの女を、今すぐ海の底へ沈めてしまいたくなるのですよ」
「やれるもんならやってみなよ。ここは私の土地じゃないけど、比名子やその周りの人を を傷つける奴は、例えお前であっても私がこの手で噛み殺してあげるから」
「……本当に、反吐が出るほど不愉快です、美胡。貴方のその、人間を心から愛し、その理の枠に収まろうとする健気な姿が。比名子を人間の世界に繋ぎ止める、その眩しい光が、私にはどうしても手に入らない」
汐莉さんは冷ややかに、けれどどこか酷く艶めいた声で、美胡ちゃんを真っ直ぐに見据えた。新緑の影が、彼女の美しい青い髪に複雑な陰影を落としている。
「ですが、同時に私は、貴方のその忌々しい部分こそが、比名子にとっての『最高の価値』であることも知っています」
「……何が言いたいのよ、半魚人」
美胡ちゃんが金色の瞳を険しく細め、低い声で応じる。汐莉さんは小さく唇の端を釣り上げ、酷く歪んだ、確信に満ちた笑みを浮かべた。
「貴方がその偽りの光で比名子を照らし続け、人間としての生にしがみつかせようとするからこそ、比名子の魂は腐らずに瑞々しさを保っているのです。貴方のその『人間臭い足掻き』があるからこそ、比名子はただの壊れた人形にならず、私が喰べるに値する“至高の存在”であり続けられる。……憎々しいほどに眩しい貴方のその在り方こそが、私の比名子を美味しく育てる、極上の調味料なのですよ」
「……っ」
美胡ちゃんが息を呑み、言葉を失ったように目を見開いた。
自分が比名子を救いたい、長く生きてほしいと願うその必死な善意すらも、汐莉さんにとっては「比名子をより美味しく仕上げるためのスパイス」として、丸ごと肯定し、消費しようとしている。
その傲慢で底知れない人外の論理に、美胡ちゃんの背中に冷や汗が流れるのが、遠目からでも分かった。
「貴方が比名子のために必死に人間を演じる姿は、見ていて本当に滑稽で、そして──愛おしいほどに素晴らしい。だからこそ、あの『千羽あやめ』という、ただ傷を舐め合うだけの不純物は邪魔なのです。私たちの関係を、あんな安っぽい感傷で汚されては堪りません」
汐莉さんの言葉は、美胡ちゃんに対する最大級の侮辱でありながら、同時に、彼女の存在理由をこれ以上ないほど冷徹に肯定するものだった。
お互いを激しく憎み、嫉妬し合いながらも、その憎むべき特質こそが比名子を形作るために不可欠な『良い部分』であると看破している。
中庭に満ちていた爆発寸前の殺気が、どろりとした、より深く昏い執着の沼へと変質していく。
新緑の影で、二人の人外の気配が爆発寸前まで膨れ上がり、中庭の空気が物理的な重さを持って軋み始める。
柱の影で、私はその壮絶な二人の会話を、どこか他人事のように聞き流しながら、じっと自分の胸に手を当てた。
私のために怒り、私のために焦り、お互いが持っていない私のピースを巡って、狂おしいほどに嫉妬し合う二人。
やっぱり私の頭はふわふわと浮き上がっていて、彼女たちの深刻な焦りも、千羽あやめさんが抱える歪みも、上手く恐怖として捉えることができない。
「あはは……本当に、二人とも私に夢中なんだね。嬉しいな。大切に思ってくれる人たちがいる。それだけで心は満たされる」
喉の渇きを忘れたまま、私は新緑の影から、その美しくも泥泥とした言い争いをただじっと見つめていた。
私の心を切り刻んだ二人の愛が、いま、新しい偽物の母親の出現によって、さらに歪に加速していくのを感じながら。
「みんな、仲良くしてほしいな」
乾いた喉のことも忘れて、私はトクトクと脈打つ胸の空洞に手を当てる。
現実感の薄い世界の中で、私を巡る二人の泥泥とした、完璧に噛み合った愛の告白だけが、やっぱり今の私にとって一番の現実だった。