二人の気配が中庭の奥へと消えていくのを見届けてから、私はようやく柱の影から這い出た。
喉の渇きなんて、もうどうでもよくなっていた。頭の中の白い霧は相変わらず色濃く立ち込めているけれど、胸の奥だけは二人の重苦しい愛の余熱でじんわりと温かい。
ふらふらとした足取りで厨房へ戻ると、そこにはすでに、夕食の仕込みを始めているあやめさんの後ろ姿があった。
「あ、八百歳さん。休憩はちゃんと取れたかしら?」
振り返ったあやめさんは、私を見るなり、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。その眼差しに宿る絶対的な包容力に、私の心の尖った部分が、見る見るうちに丸く削られていく。
「はい。あの、あやめさん。私にも、何かお手伝いできることはありますか?」
「そうねえ……じゃあ、このお野菜の皮剥きをお願いしてもいい? 一緒にやりましょう」
「はい」
並んでキッチンに立ち、包丁を握る。
あやめさんは、私が少し危なっかしい手つきでジャガイモの皮を剥いていると、すぐに気づいてトントンと自分の手を止めた。
「ふふ、八百歳さん、そんなに力を入れなくても大丈夫よ。包丁をこう、親指で支えてね……そう、上手。偉いわね」
「あ……」
優しく添えられたあやめさんの手のひらは、驚くほど温かかった。
美胡ちゃんの太陽のような熱さとも、汐莉さんの深海のような冷たさとも違う、ただただ懐かしくて、涙が出そうになるくらいに穏やかな温もり。
「あやめさんの手、すごくあったかいです。お料理の匂いも、なんだか……懐かしい感じがして」
「あら、そう? 毎日こうして厨房にこもっているから、お出汁や石鹸の匂いが染みついちゃっているのかもね。ごめんなさい」
「いいえ。それがすごくいい匂いなんです。私、昔……こういう匂いのする背中を、ずっと後ろから見ていた気がします」
記憶を切り刻まれて、家族の顔も声も思い出せないはずなのに。あやめさんと一緒に並んで野菜を刻んでいると、閉ざされていた心の奥底から、ぽろぽろと忘れていたはずの『母親』の断片が零れ落ちてくる。
「八百歳さん、普段はお家でどんなご飯を食べているの?」
「ええと……最近は、美胡ちゃんと汐莉さんが一緒に住んでいるので、私が作ることが多いです。でも、時々二人が喧嘩をはじめちゃうから、賑やかで……」
「まあ、三人暮らしなの? 賑やかで楽しそうね。でも、八百歳さんばかり頑張っていたら疲れちゃうでしょう?」
「疲れる、のかな……。よく分からなくて。でも、今、あやめさんとこうしているのは、すごく……落ち着きます」
私はじっとあやめさんを見つめた。
現実感が薄くて、自分が生きているのかさえ曖昧な世界の中で、あやめさんの傍にいる時だけは、悪夢の戦場とは違う、別の意味での『確かな生』が私の中に満ちていく。
「比名子ちゃん、そのネギはね、こっちの細い方に切り揃えてもらえるかしら。お味噌汁の薬味にするの」
「はい、これくらいで大丈夫ですか、あやめさん」
「ええ、完璧よ。本当に手際がいいのね。感心しちゃうわ」
トントン、と包丁がまな板を叩く音が、静かな厨房に優しく木霊する。
夕食の仕込みは驚くほど順調に進んでいた。あやめさんと肩を並べて作業をしていると、時間の感覚さえもが、どこか甘やかで穏やかなものに変質していくようだった。
「普段からお料理をしているから、慣れているんですね」
「ええ。この合宿所で働くようになる前からも、ずっとね。……私、昔はもっと大きな台所で、毎日のように誰かのためにご飯を作っていたのよ」
あやめさんは、鍋に火をかけながら遠い目をして微笑んだ。その横顔に、私は吸い寄せられるように言葉を重ねる。
「誰かのため、ですか?」
「そう。私の、とっても大切な子供のためにね」
「子供……。あやめさんのお子さんは、今、どこにいらっしゃるんですか?」
私の問いに、あやめさんは一瞬だけ動きを止め、それからひどく寂しげな、けれど慈愛に満ちた笑みを私に向けた。
「遠いところ。……ううん、本当は、ずっと私のすぐ傍にいるのよ。目には見えなくなっちゃったけれどね。だから、比名子ちゃんを見ていると、どうしてもその子のことを思い出してしまうの。あなた、私の大好きなあの子に、どこか雰囲気が似ているから」
「私に、ですか……?」
あやめさんの細い指先が、私の頬にそっと触れる。その指先から伝わる絶対的な肯定感に、私の頭の中の霞が、心地よく溶けていく。
「ええ。少し影があって、でもとっても優しくて、傷つきやすい綺麗な目。……比名子ちゃん、あなたは本当は、たくさん泣きたいことを我慢しているんじゃないかしら?」
「私……」
あやめさんの言葉が、私の胸の空洞にストンと落ちていく。美胡ちゃんは私の傷を見ないように明るい日常を捏造してくれた。
汐莉さんは私を喰べるために傷ごと愛してくれた。でも、あやめさんは、ただ私の傷そのものを、静かに見つめてくれている。
「私、時々……自分が本当にここにいるのか、分からなくなるんです。私の周りには、私を大好きだって言ってくれる友達や、一緒に暮らしてくれる人がいるのに。なんだか、全部が夢のようで、ふわふわしていて」
「それはね、比名子ちゃん。あなたがそれだけ、心を張り詰めて生きているからよ」
あやめさんは私の手からそっと包丁を預かり、私の両手を自分の温かい手のひらで包み込んでくれた。
「心が壊れてしまわないように、あなたの魂が、あえて感覚を麻痺させているの。頑張って、頑張って、一人で生きようとしてきた証拠よ。偉かったわね、比名子ちゃん」
「あやめ、さん……」
「これからは、私の前ではただの女の子でいいのよ。たくさんお話しして、美味しいものを食べて、辛いときはこうして、私に甘えてちょうだい」
そう言って、あやめさんは私をそっと抱きしめ、私の頭をゆっくりと撫でてくれた。
あの日、家族旅行の帰路で失ってしまった、世界で一番絶対的だったはずの『母親の温もり』。思い出せないはずのその感覚が、あやめさんの胸の中で、確かな質量を持って私の身体に蘇ってくる。
「お姉さん……私、あやめさんの作ったご飯、毎日食べたいです」
「ふふ、可愛いこと言ってくれるのね。いいわよ、これから毎日、比名子ちゃんのためにたくさん美味しいものを作ってあげる。あなたが望むなら、ずっと、ずっと傍にいてあげるからね」
「はい……ありがとうございます、あやめさん」
あやめさんのエプロンから香る、出汁と石鹸の混ざった優しい匂い。
それが、中庭で美胡ちゃんと汐莉さんが激しく拒絶していた「人外の罠」かもしれないなんて、今の私にはもう、どうでもいいことだった。
私はただ、この数年ぶりに手に入れた、甘やかで温かい安息の毛布に、どこまでも深く溺れていきたかった。
自然となついていく私を、あやめさんは困ったような、でもそれ以上に愛おしそうな目で振り返った。
「本当に、素直で可愛い子。……少し、頑張りすぎちゃったのね」
あやめさんが、そっと私の頭に手を置いた。そして、ゆっくりと、慈しむように私の髪を撫でてくれる。
「あ……」
「いいのよ、ここではそんなにしっかりしなくて。たくさん甘えてちょうだい。私はそのためにここにいるんだから」
頭に触れる手のひらの優しさに、私の胸の空洞から、せき止めていた感情がじわじわと溢れ出す。
事故に遭って、家族を失って、ずっと「生きろ」という呪いに縛られてきた。
美胡ちゃんは日常を捏造して支えてくれたけれど、それは私の歪みを覆い隠すための光だった。汐莉さんは安らぎをくれたけれど、それは私を喰べるための冷たい所有欲だった。
こんな風に、ただ純粋に、子供のように誰かに甘えさせてもらうなんて、あの日からずっと、一度だってなかったのだ。
「あやめさん……私、なんだか、ずっと眠っていたみたいです。何が本当で、何が嘘なのか、分からなくなっちゃって……」
「大丈夫よ、比名子ちゃん。あなたの苦しみも、迷いも、全部私が受け止めてあげるからね。だから、何も心配しなくていいのよ」
「……はい、お母さん」
あやめさんの胸にそっと頭を預けると、彼女は私を壊れ物を扱うように優しく抱きしめてくれた。
実はあやめさんは妖怪で、ただの欺瞞の罠かもしれない。
中庭で汐莉さんたちが言っていた通り、同じ傷を持った者同士の、破滅へ向かう傷の舐め合いなのかもしれない。けれど、今の私には、この胸の温もりだけが、何よりも甘やかで抗えない救いに思えてならなかった。