──ズキリ、と。
こめかみの奥を、内側から燃え盛る錆びた太針で思い切り突き刺されたような、凄まじい激痛が走った。
あやめさんと共に過ごした、あの温かで、どこか非現実的なほどに甘やかな空間の余韻。背中越しに覚えた絶対的な安息の記憶に浸りながら、私は厨房を後にして、合宿所のひんやりとした薄暗い廊下に置かれた、少し古びた革張りのソファーに深く身体を預けていた。
けれど、深く呼吸を吸い込み、肺を満たすたびに、頭痛はその質量を増して私の脳を激しく蹂躙していく。
何か、とても大切なことを忘れているような気がする。
薄いレースのカーテンの向こう側に、意図的に隠されてしまった、決して忘れてはいけないはずの私の人生の根幹。それがあやめさんという、あまりにも完璧な「母親の幻影」と深く関わり、その温もりに触れてしまったことで、泥の底から錆びついた錨を無理やり引きずり出すように、今まさに思い出されようとしていた。
思い出さなきゃいけない。でも、思い出してはいけない。
脳内で二つの矛盾した防衛本能が激しく衝突し、パチパチと視界の端が白く明滅する。
私がソファーの上で膝を抱え、小さく身を寄せて頭を強く押さえていると、廊下の向こうからパタパタと、遠慮のない軽快な足音がこちらへ近づいてきた。
「ひーなこ! 疲れました! 頑張りました! だから、たくさん褒めてください!」
いつもの、周囲を凍りつかせるような冷徹な無表情はどこへやら、汐莉さんがまるで大型犬のように、全力で甘えるような声を弾ませて私の隣へと滑り込んできた。
裏手での力仕事を真面目にこなしてきた証拠に、彼女の体操着の袖や膝には泥がべっとりとついている。
そんなことも気にする様子もなく、汐莉さんは私の肩へとぐりぐりと自分の頭を押し付けてきた。
「うん……お疲れ様、汐莉さん。本当に、すごく頑張ってくれたんだね。偉い偉い」
割れそうな頭の痛みを必死に堪えながら、私は努めて優しく、彼女の少しひんやりとした青い髪をゆっくりと撫でた。
「はい、比名子もお疲れ様でした。……ところで、随分とあの人間と仲良くしている様子でしたが。厨房で何をお話ししていたのですか?」
私の手のひらに、まるで愛玩動物のように頬を熱心にすり寄せながら、汐莉さんはスッと細い目をさらに細め、厨房の方向を忌々しげに睨みつけるようにして言った。
その美しい声の端々には、先ほど中庭で美胡ちゃんに対して剥き出しにしていた、どす黒く尖った独占欲のトゲが隠しきれずに混ざっている。
「うん? 人間? ああ……あやめさんは妖怪だよ、汐莉さん。でもね、そうだね……あやめさんと一緒にいると、なんだか少し、すごく懐かしい感じがするの。……お母さんを、思い出すかな。本当なら、今も私の隣に──」
──本当なら、今も。
──あの凄惨な事故さえ、起きなければ。
──どうして私だけが、生き残って──。
「あ、が……っ!? ぁ……っ!」
口にした言葉そのものが、最悪の引き金だった。脳髄が内側から沸騰し、一瞬で蒸発してしまうかのような、筆舌に尽くしがたい激痛が頭蓋骨の裏側を直撃する。
それと同時に、普段は美胡ちゃんの光で蓋をされていた胸の奥の暗い空洞から、どろりとした、悍ましいほどの嫌な気持ちが、息もできないほどの苦しい泥水のような感情が、一気に津波となって全身の血管へと溢れ出してきた。
家族旅行の、楽しかったはずの帰りの車内。
鼓膜を破らんばかりに響き渡った、けたたましい急ブレーキの音。
肉を、骨を、鉄板をごちゃまぜにひしゃげる、あの心臓に悪い鈍い衝撃音。
そして、鼻腔にこびりついて離れない、生々しく鉄臭い、大量の血の匂い。
私以外のすべてが消え去り、私だけが取り残されてしまったという、世界のすべてに拒絶されたような、あの圧倒的な絶望の記憶。
ズキズキ、ズキズキ、ズキズキ、ズキズキ。
「痛い……っ! 痛い、痛い、痛い……ッ!!」
真実に指先が触れ、思い出しそうになるたびに、強固な精神の防衛システムが私の脳そのものを破壊せんとばかりに激しく脈打つ。私はソファーの上でのたうち回り、自分の頭を両手で爪が食い込むほど強く締め付けた。過呼吸を起こし、酸素が上手く肺に届かない。
喉が引き絞られ、視界が急速に、真っ白なノイズで染まっていく。
「比名子。──私の目を見なさい。逃げてはダメです」
パニックに陥り、完全に狂いかけていた私の視界を、汐莉さんの美しい青い髪が、世界のすべてを覆い隠すように遮った。
彼女は私の頭を締め付けていた両手を手荒に、けれど確実に引き剥がすと、躊躇うことなく、その白くひんやりとした長い指を私の口の中へと深く差し込んできた。
「ん……っ、う、あ……っ」
容赦なく舌を強く押し下げられ、喉の奥を突かれるような異物感に、私の目からボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちる。けれど、そのあまりにも強引で、暴力的なまでの現実の刺激によって、引き裂かれ、霧散しかけていた私の意識は、無理やりこのソファーの上へと縫い止められた。
指が作ってくれた口の隙間から、冷たい廊下の空気が、ゴボリと強制的に私の肺へと流れ込んでくる。
「ハァ、あ、は……っ、う、あ……」
「そうです。しっかり呼吸をなさい、比名子。暴れてはダメです。そして、私だけを見て。他の一切を、その視界から排除しなさい」
汐莉さんの端正で完璧な左右対称の顔が、目と鼻の先、触れ合うほどの距離にある。
口内に深く挿入された彼女の指先から、人間のものではない、深海の底で冷たく渦巻く、圧倒的で恐ろしい人魚の神秘が、私の体内に直接脈動となって流れ込んでくるのが分かった。
そして、彼女のどこまでも深く、光の届かない濁りのない青い瞳が、私の怯え、混濁した瞳の奥を、じっと、逃がさないように覗き込んでくる。
その瞳は、恐ろしいほどに蠱惑的で、美しかった。
見つめているだけで、頭を叩き割らんばかりに暴れていたあの激痛が、嘘のように引いていく。代わりに、私の脳髄が甘やかに、どろどろに、ドロリと熔解していくような、抗えない底なしの快感が全身の神経を支配していく。
「貴方は何も知らない。何も失っていない。──何も、最初から背負ってはいない」
汐莉さんの、低く、鼓膜を優しく揺らす深海の歌声のような囁きが、私の脳の皺の一つ一つに、直接消えない刻印として刻み込まれていく。
美胡ちゃんが必死に作り上げた「偽りの幸福」という脆い箱庭の中で、さらに汐莉さんの「忘却と執着の呪い」が、私の歪んだ過去の残滓を、綺麗に、跡形もなく削り取っていく。
私が私のままでいられるように。私がこれ以上苦しまずに、彼女にとって世界で一番最高で、最も美味な獲物のままでいられるように。
「うん……。そうだね、汐莉さん。私は、何も失っていない……。私は、そういう私だった」
口内から、愛おしげにゆっくりと指が抜かれる。
あやめさんの小さくて温かい背中に感じた狂おしいほどの懐かしさも、家族を失った凄惨な事故の記憶も、すべてがシュウシュウと音を立てて白い霧に溶け、彼方へと消え去っていく。
頭痛は、もう完全に消えていた。
私は思考を奪われ、とろけたような、歪な笑顔を浮かべたまま、目の前に佇む私の世界のすべてを支配する美しい人魚に、ただ全精力を預けるようにして、その冷たい胸の中へと深く身を委ねた。